王であるキリストA 17-11-26
洗礼を受けた時、皆さんも神父さんから言われたと思います。洗礼は神様への出発の時。神様の子となる大きな恵みです。神様への道を歩みなさい。生活の中で3つの役割があります。預言職、祭司職、王職です。 今日、王であるキリストを思い巡らします。王職って何だろう。多少ともキリストの道を歩みたいと思いながら、王職を考えたいと思います。
ふと、いちじくの木のたとえを思い出しました。(マタイ21・18-22)イエスは空腹を覚えられました。見ると道端にいちじくの木が見えました。葉が茂っている大きな木です。近寄って実を探しました。実はなっていなかった。イエスはその木に向かって言います。「今から後いつまでも、お前には実がならないように。」「今から後いつまでも、お前から実を食べるものがないように」(マルコ11・14)
大木が育っている。葉が豊かに茂っている。そばに寄ってみると実がない。その木には実が育つようになっている。実を結ぼうとしない。その実は取って食べる人のものです。大いに実を結んでたくさんの人を喜ばせるのです。
イエスは信仰の実に飢えていました。大きな木が自分だけのために育っている。
大きな立派な教会がありました。クリスマスには教会、聖堂がいっぱいになる。バザーがある。ほかにも行事がある。大勢の人たちが集まる。葉が大いに育っている。イエスは言います。実が育っていない。大勢に人たちの信仰はどこにあるのですか。イエスは教会の一人一人に聞きたいのです。貧しい人に心が開いていますか。老人を助けようと、皆が心を止めていますか。病気の人を見舞う、牢獄を訪問する、教会の一員として、そんな大きな役割を感じていますか。
教会に大勢集まる。その時屹度、集められた献金が貧しい人のために寄付されます。
それはあなたがたの教会へ行く動機ですか。
王は知恵があり、力があり、動作が優れていてる、と思っていました。王は人のために世話をするのですよとイエスは言われるのです。大きないちじくの木、人を助けるなんて思ってもいない大きな木。イエスはそんな木はいらないと言います。 立派な教会があります、実は教会には神様がおられるのです。神様は貧しい人、苦しんでいる人、悲しんでいる人をいつも心にかけています。
人々は教会に集まり、ミサに預かる。祈る。キリストを食べる。神様はその人の中に入って目を開きなさい、求めている人のために働いてほしいと言うのです。その人は見ようともしない。その人の中でイエスは閉じ込められているのです。
あなたは何もしないのですか。
いやそんなことはありません。神父さん、司教さんが病気と聞けばすぐ、お花を持って行きます。神父さんが声をかけてくれれば、すぐも飛んでゆきます。
あなたの周りに、求める人がたくさんいる。わたしがその人たちの中にいて求めているのです。
年間第33主日 17-11-19
今日も天の国のたとえが語られます。この社会の様々な出来事の中に天の国への道があります。今日の神様の試練は何か、考えて行きたいと思います。
或る日、主人が僕に自分の財産を預け旅に出かけました。僕の一人には5タラントン、一人には2タラントン、もう一人には1タラントン預けました。このタラントンを使って、思い切り仕事をしておくれ。1タラントンというのは6000デナリオン。1デナリオンは一日分の日当。1日1万円とすると1タラントンは6000万円です。年収300万円とすると20年分の賃金です。僕たちは考えられないような、たくさんのお金を預かったのです。僕たちは働きました。主人が帰る時には、5タラントン預かった僕はほかに5タラントン、2タラントン預かった僕はほかに2タラントン儲けました。主人は喜びました。働いてくれた僕たち、ありがとう。わたしの言葉を忠実に守ってくれた。わたしの思いに忠実であった。主人と一緒に喜んでくれ。 しかし、1タラントン預かった僕は預かった1タラントンを持って来ました。主人は聞きます。どうしたのだ。わたしは預かった1タラントンを出て行って、土に穴を掘り、このお金を隠しておきました。主人は怒りました。お前は怠け者だ。わたしの預けたお金は何も生むことなく、ただ眠っていたのか。その僕は言います。ご主人様。あなたは蒔かない所から刈り取り、篩(ふるい)でかけもしない所からかき集める方だと聞いて、恐ろしくなり、地の中に隠しておいたのです。
お前はわたしの思いを知らない。知ろうともしない。種を蒔こうとしない。篩にかけようとしない。何もしていない。お前はタラントンをほっておいた。このタラントンは死んでいる。この僕を外に放り出せ。そこでお前は泣いて、歯ぎしりするだろう。
主人は神様、この僕はわたしたちではないでしょうか。しかし、わたしたちはこんなに大きなお金を預かっているのですか。タラントンはお金ではありません。生きる神様の力ではないでしょうか。好奇心、熱中する力だと思います。 神様はわたしたちに強く、言われているのだと思います。
あなたたちの体は可能性があります。お金に代えられないほどの可能性があります。
だから、心を決めてやってみたらいい。
この間、テレビの放送で見たのですが、全盲の辻井氏が優秀なピアニスト、天皇、皇后が辻井氏の演奏会に行かれたそうです。片足のない人が人工の足で走る。ジャンプする。体に可能性が与えられた。体が不自由でもできる。腕のない人が泳ぐ。体の不自由な人が熱心に思い求めます。走りたい、泳ぎたい。走れる、泳げる。嬉しいですね。いや、それ以上に走る選手になっている、泳ぐ選手になっている。パラリンピックが始まります。
何気なく付き合いのある人が、ピアノを弾いた。上手だった。あの人は音楽大学を出ていたのよと聞く。そうか、それなら驚くことはないなと思ってしまう。そんな人がいるんだなと思います。教会に油絵を描く人がいると聞きました。日本画を描く人がいるかもしれない。わたしたちはたくさんの力をいただいている。怠けていませんか。ある司教さんは俳句をなさっていると聞きました。
あるお百姓が言いました。豊作だ。穀物を保管する倉庫が足りない。倉庫を建てよう。2つ、3っつ建てよう。神様は言います。その穀物は長い間、倉庫の中で眠ることになる。収穫した穀物は、何のための穀物ですか。あなただけの穀物ですか。神様は言われます。収穫は、豊作は生きるための恵みです。皆に豊かに与えなさい。豊作は皆が豊かに食べる恵みです。 お百姓さん、自分のためでなく隣人のために働いたらいい。力を発揮できている人、隣人を忘れてはいけない。
怠けてはいけない。持っていない人ではなく、試してみようとしないのではないですか。
心と体を動かしてみる。
わたしたちに力が与えられています。主人がまだ帰って来ないと思っていませんか。主人はわたしたちに絶えず、呼びかけています。天の国の喜びを見つめなさい。
もう一度、自分の心と体を見たいと思います。
年間第32主日A 17-11-12
今日も天の国のたとえが語られます。マタイ福音書で天の国のたとえがたくさん語られますが、いつも、困難な出来事が語られているのです。例えば、毒麦のたとえがあります。畑に毒麦が生えていた。あた、からし種のたとえ、パン種のたとえ、善い真珠のたとえ、網が魚でいっぱいになって引き上げるたとえなどがあります。(マタイ13章) わたしたちは、天の国には本当の平安がある。この世を離れ天の国に入ったら本当の平安を味わうことが出来る、そんな様に思っていました。
しかし、天の国で困難な出来事が話される。天の国にはこの世の苦しさがまだ残っているのですか。そんなことを考えて、どうも納得が行かなかったのです。
天の国、「国」をギリシャ語で「バシレイア」と言うそうです。王の支配する所です。天の国は神様のみ心が支配する所なのです。困難な出来事に出会い、受けとめて、神様のみ心に導かれ、神様のみ心の場に入ることが出来る、天の国のたとえは天の国への出発が語られているのではないかと思ったのです。
十人のおとめがそれぞれともし火をもって、花婿を迎えに出て行きます。夜です。どのくらい待つか分からない。油の用意が必要です。花婿がずいぶん遅れました。あまりに遅いのでおとめたちは皆、寝ていました。さあ、迎えに行きなさい。しかし、油の用意していなかったおとめたちはともし火に火がつきません。花婿と一緒に婚宴の席につけません。ともし火の消えてしまった者に主人は言われます。 「はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない。」 扉を開けてもらえなかったのです。
天の国、悪い事が全くないところ。だから、神様の厳しい規律を、掟を守ることが出来ない者が入れない所だと思ってしまいます。
天の国は神様の恵みのあふれるところです。神様に心の扉を開いている人には神様の恵みがどんどん入って来ます。どんどん入って来る恵みで、悪い思いが生まれない。静かな喜びに満たされる。柔らかな温かさが生まれてくる、人とのつながりにすんなりと入って行ける。
十人のおとめたちのうち五人は自分の油を持っていませんでした。この油はもらうことの出来ない油です。この油は自分の力となる、自分を育てる、自分を導く霊の力です。自分を包んでいる力によって歩くのです。自分の中に力がなかった。神様に出会う。喜んで出会う。そこまで行く力がなかったのです。寝て、信仰生活の緊張感がなくなってしまったのでしょうか。
扉をたたく。洗礼を受けたんだぞー!扉を開けてくれー。
あなたは洗礼から始まる道を歩んできましたか。自分のためではなく、助けたい人のために神様に祈りましたか。自分の喜びの道ではなく、隣人が生きる喜びの道を歩きましたか。
信仰のうちに生きる。歩けば歩くほどイエスの心のうちに入って行きます。貧しさが分かる、隣人が見える。愛の重さが分かるように思います。
年間第31主日A 17-11-5
祭司たちよ、あなた方はわたしとどのようにつながっているのか。あなた方はわたしと離れてしまっている。あなたはわたしの名のもとにいない。あなたは道を踏み外している。わたしの言葉を語っていない。わたしのもとに戻りなさい。
わたしはこのマラキの預言を、神様はわたしたち教会にはっきりと言われている、と読んだのです。神様を忘れている、このままの生活を変えずに歩けば、神様は呪いを送ると言われます。呪いとは壊す力です。平安、安心を壊す。友情を壊す。静けさを壊す。他人の幸福を壊す。人を大切にする愛を壊す。造って行く喜びから、壊してゆく喜びに変えて行く。
キリストを知る喜びから、祭司である栄光から呪いの道へと変わって行く。
わたしたちは神様から造られたものです。神様が父さん母さん。人は神の子。わたしたちすべてが兄弟姉妹ではないですか。なぜ兄弟姉妹が争い合うのですか。
しっかりと、心を込めて神様を見つめなさい。神様の示された道を歩みなさいと、今日、神様からお叱りを受けたのです。
律法学者、ファリサイ派の人たちは力強く神様の律法を語ります。尊い世界を、聖なる世界を語ります。律法学者、ファリサイ派の人たちは、綺麗な、上等な衣服を着て装っています。その言葉は上等な洋服です。天の国が輝きで光っています。その服では、上等すぎるその服では荷物を背負うことは出来ません。草取りは出来ません。言葉は服でなく、体です。体が動いて、初めて言葉になるのです。言葉が生きるのです。言葉があなたの体の中に入り、働くのです。
会堂で上席に座ろうとしてはいけません。先生と呼ばれてはいけません。知識があるから人の上に立てるのですか。知識によって人を導くのですか。
父、教師と呼ばれてはいけません。自分のところに来る者と手を取り合いながら、一緒に歩きなさい。神様のみ心が言葉となって耳に入る。その言葉を心で聞くのです。言葉のうちに体が動く。その言葉を行うのです
荷物を背負いなさい。隣人の手助けをしなさい。仕えられる者ではなく、仕える者となりなさい。
高ぶるのではなく、へりくだる者になりなさい。
聖書を読みます。深く、深く読みます。心の目で読みます。聖書が理屈になってはいけません。
言葉が心に入って来る。言葉が心に刻まれる。心が体を動かす。あぁ、そうか。この時、イエス様と心がつながっているのではないでしょうか。イエス様の心に入っている。イエス様の心を行います。
年間第30主日A 17-10-29
わたしたちはよく思います。自分の弱さを克服したい。静かな、重さを持った自分になりたい。強くなりたい。自信を持って歩みたい。今、弱い自分がいる。他人との付き合いで、自然とその相手に気を使ってしまっているのです。強いとは、まず、それなりの生活をしている。物をよく知っている、知識をよく持っている、頭の回転が速い、判断力がある。 強いとは、そういう良い所を持っていて、人の前で堂々と自分を主張できる、そんな重さを持っている。今まで、そのように思っていました。そんな人間になりたいと思っていました。
神様に出会った時、自分を見つめました。そして、神様の思いを知り始め、その時、「強いとは自分の本当は弱い」と知ることだと思ったのです。強い者は、強いと思っているから弱い者の弱い苦しみを見ようとしません。
今日の第一朗読出エジプト記を読みました。
寄留者、寡婦、孤児はすべて苦しめてはならない。寄留者:よそ者です。その土地に慣れていない。その土地に入り込めないでいる。土地の人とつながっていない。大勢ではないから、寄留者の意見を聞かないことになってしまう。寡婦、孤児もよそ者です。
イスラエル、あなたたちはエジプトの国で寄留者であったことを忘れてはならない。不自由な生活であったことを忘れてはならない。 寡婦、孤児が苦しんでわたしに叫ぶならわたしの怒りは燃え上がりあなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる。
自分がその当事者とならなければ、その人たちを知ろうとしないのですか。あなたが出会うすべての出来事は神様からのものです。すべての出来事を受け取りなさい。
ファリサイ派の人々がイエスを試すとして問います。「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
律法とは法律ではありません。法律はやってはいけないことの規則です。その法律を破れば罰則があります。法律は人の作ったもの、人の住む社会を規則によって安定させ、土台を固めるものです。一方、律法とは神様の思い、神様が人を善いものへと導く憐れみです。ちなみに、律法の書とはモーセ5書と言われる文書です。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記です。法律のように規則がかかれているのではありません。人が生きる姿です。人が生きる、一緒に生きる。人が働く、必要なものを得る。生活に平安を求める。喜びを求める。律法の書は人が神様の恵みのうちに生きている姿が書かれているのです。神様のうちに生きる、それが律法です。
わたしたちは律法とは神様から与えられた法律だと思ってきました。律法を守らなかったらやっぱり、罰が与えられるのでしょうか。 いや、罰は与えられません。
律法を守らなかったら、その人の悪い行いが相手の人に及ぶ、苦しみとなって及ぶのです。律法を守らない人が多くなれば、社会に大きな悪い出来事がたくさん起こるのです。社会全体が悪い方に向かって行きます。
イエスはファリサイ派の人たちに、律法は神様からの法律ではない、人を縛る法律ではないとはっきり言われたのです。 律法は愛です。神様を愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい。そのように言われました。 すべてのものは愛によって動くのです。愛はいのちです。すべてのものは愛によって生き生きと生きるのです。 愛によって見る、聞く、愛によって喜ぶのです。
わたしたちは愛を受け取っています。神様からの愛を受け取っています、人の愛を受け取っています。喜びのうちに生きる。愛は人のために働くこと、人のために持っているものを与える続けることです。人を愛する、自然を愛する。人のために損をする、そんなことは出来ません。
もし、わたしは人を愛することは出来ませんとわたしたちが要ったら、神様は悲しむと思います。
あなたは体が不自由な人を見ていないのではないですか。父さん、母さんと緒に生活できない子供たちを見ていないのではないですか。父さんが亡くなって母さんだけが働いている。学校をやめなければならない、そんな子供たちを見ていないのではないですか。社会を法律で見るのではなく、その人たちの心とつながって行きたいのです。その人たちが喜ぶのが見たい。そんな応援が出来ればいい。
ちょっと聞いてみたいと思います。ファリサイ派の人たち、毎日、生活を楽しく送っていますか。
律法の前にしかめ面でなく、微笑みを浮かべて生きていますか。
律法は愛の掟です。律法は今生きておられる神様とつながっている神様からの憐れみです。
神様に感謝する。自然に感謝する。人に感謝する。自然のために働く、人のために働く。
それが神様のみ心、律法の道です。生きる道、愛の道です。
年間第29主日A 17-10-22
正しい事を行う。今、神戸製鋼の不正が大きな問題になっています。また、日産自動車が大量リコールを出しました。日本を背負っている大企業が社会に問題を起こしています。
ずいぶん前、今から50年ぐらい前ですが、日通事件というのがありました。日通の金庫に金の延べ棒が保管されていたのです。秘密の金庫です。会社の役員が特別報酬としてその金の延べ棒を貰っていたと言う事件です。秘密の収入です。その頃、夜学の勉強会に出ていたのですが、5人ぐらいの同じグループに、その会社に勤めていた青年がいたのです。
その青年は悩み、悩んでその会社を辞めました。恥ずかしくてその会社にいられない思いだったようです。 後年、いつだったか忘れましたが、急成長を遂げたリクルートという会社に不正が分かり、リクルート事件として大きく新聞に報道されました。その会社にいることが恥ずかしくて、多くの社員がやめて行きました。
悪い事をする会社にはいたくない。正しい事を、正しいと特に言わなくても、わたしたちは普通に生活したいのです。会社が大きな不正をしたら、その会社を辞めなければならないのでしょうか。
今日の福音、イエスの言葉を聞いてそんなことを思い出したのです。
自分に正直に生きなさい。不正な会社にいる。わたしは不正なことをしていない。今働いている会社が不正をしない、良い会社になればいい。このまま、自分の仕事を大切にしてゆくのです。
わたしたちは信仰生活を送っています。どんな出来事が起こっても、正直に生きることが信仰ですと言われているようです。 まず、自分に正直に生きていますか。例えば、毎日、いろいろな人と出会います。人と出会っても分け隔てをしない心を持ちなさい、その心で人と接すればその人とつながることが出来ます。 上品な人と見すぼらしい人がいる。お金持ちと貧しい人がいる。ついそれなりに対応をしてしまいます。 *自分の心を正直に見るのです。・毎日祈る時間を取っていますか。 ・自分を静かに見つめる時間を持っていますか。 ・助けている施設、人がいますか。
*キリストを信じている。 ・キリストの何を受け取っているのですか。 ・あなたはキリストの前で生活を送っていますか。 ・キリストのために何が出来ますか。
少し出来ている。これは出来ない。まだ出来ない。本当の自分を静かに見るのです。それが正直です。
信仰とは・神様につながっていることです。 ・自然とつながっていること。 ・人とつながっていることです。神様につながっている。わたしたちは神様から命を注がれて生きているのです。
自然に支えられて生きている。自然のたまものによって生きているのです。
人に支えられて生きている。人の中にいて人を知る、人と一緒に生きるのです。
イエスは言われます。あなたは律法に自分の命を委ねて生活しているのですか。
それとも今も生きておられる神様に命を委ねているのですか。
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
あなたは皇帝のものですか。皇帝とはこの社会の事だと思います。
神様のものですか。
わたしたちは皇帝の世界から出発して神様のもとへ向かって歩いて行くのではないでしょうか。
年間第28主日A 17-10-15
イエスは今日も、天の国のたとえが語られます。天の国で示される喜びをわたしたちがまことの喜びとして受け取ることが出来ればよいと思うのです。この世のいろいろな出来事から解放された時、思うように仕事が出来ない、人との付き合いがうまくゆかない、欲求にすぐに乗ってしまうなど、この世の煩いから解放された時、天の国が見えるように思います。この世の力から解放される。
天の国の有様は、隣人のために損をしていますか。隣人のために働いていますか。
イエスは言われます。天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。自分の息子が結婚する。父さんである王にとっても大きな喜びです。盛大に祝いたい。王にかかわりのある人、皆を招きました。人々は来ない。どうしたのだろうと思いながら、王はまた使いを出した。牛肉を用意しています、肥えた家畜を用意しています。さあ、おいで下さい。しかし、人々はそれを無視し、ある人は畑に出ている、ある人は商売に出ていると言う。ほかの人々は王の使いを捕まえて乱暴し、殺してしまった。
民衆はわたしの呼びかけを聞こうとしていない。自分の事しか考えていない。
王はこれを知り、怒った。軍隊を送って、人殺しを滅ぼし、その町を焼き払った。
そして、王は言われます。町の大通りに出て、出会う人は誰でも、善人も、悪人も招きなさい。
婚宴はいっぱいになった。
イエスはこのたとえをイスラエルの祭司長、民の長老に語られたのです。
イエスは言います。イスラエルは王の言葉を聞こうとしていない。祭司長、長老、あなたたちは神様のみ心のうちにいない。
祭司長、長老は言います。わたしたちは律法のうちに神様と出会っているのです。
律法を選ぶ自由が神様を捨ててしまったのではないですか。
自由とは神様を知る権利です。生きる権利です。隣人を愛する権利です。自然を、人を愛して一緒の生きる権利です。自由は神様から与えられた恵みです。もしこれが守らなければ人の力によって神様を知ることが出来なくなります。生きられなくなります。隣人を愛することが出来なくなります。一緒に生きることが出来なくなるのです。
王は、家来に町の大通りに出て、出会う人、善い人も悪い人も誰でも婚宴に連れて来なさいと言われました。王子の婚宴を祝うのは善い人だけではないのですか。イスラエルの人だけではないのですか。王は力によってそんなことをしたのでしょうか。
でもそうではない。あぁ、そうかと思いだしたのです。イエスが会食の時、いつも、徴税人、罪人が集まり一緒に食事をしました。
イエスの食事が罪人の集まりになっている、イエスは罪人の仲間になったのですかとファリサイ派の人が聞きます。イエスは言います。罪人が神様の整えた食事にあずかっているのです。神様と一緒にいる喜びを知るのです。
王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか。この者は黙っていた。
礼服をつけないと考える悪人であるなら、自分の意見をはっきり言いなさい。あなたの心は何もないのですか。 善くもない、悪くもない、あなたは何なのですか。
神の恵みといつくしみに、
生涯伴われ、
わたしはとこしえに、
神の家に生きる。(詩編23・6)
年間第27主日A 17-10-8
イスラエルはぶどうの国です。太陽の陽射し、水が注がれぶどうが良く育ちます。
肥沃な土地にぶどう園がありました。よく耕され、設備も十分整っています。農夫たちは働いています。農夫たちは一生懸命働いて自分たちの神殿を建てようと思っているのです。
収穫の時が来ました。主人は収穫の時を待っていました。収穫を皆で喜び祝う。主人はぶどう園に、収穫を受け取るために僕を送りました。農夫たちは言います。この収穫はわたしたちの神殿のためのものです。わたしたちの先達は神様のために神殿を建てました。わたしたち、人は自分の家を持ち、そこに住んでいます。それぞれ満足のゆく家に住んでいます。神様は今まで幕屋に置かれていました。神様のために神殿が造られました。見事な石で、また奉献物で飾られた、壮大な神殿が出来上がりました。わたしたちは神殿を良くするため、維持するために働いています。
ぶどう園の収穫はイスラエルの信仰のためのものではないですか。この収穫を渡すわけにはいきません。収穫を受け取るために行った主人の僕たちは、ある者は袋叩きにされ、殺され、ある者は石で打ち殺されました。主人は僕たちに加えられた迫害を悲しみました。
そして、農夫たちにやるせない思いを持ちました。主人は収穫を受け取るためにまた僕を送りました。イスラエルのぶどう園の収穫はまさしく信仰の喜び。まことの信仰のために使う。
しかし、僕たちは以前と同じように袋叩きにされ、殺され、石で打ち殺されました。
主人は、わたしの思いを知ってほしいと息子を送りました。息子は農夫たちに問います。この神殿は何のためのものですか。この見事な石、奉納物は何のためのものですか。神殿を見事にするため、力を尽くしているのですか。神殿で神様と出会う、神様の言葉を聞くのではないですか。この神殿はあなたたちのためにある。この神殿は眠っている。死んでいるのではないですか。
神様の心が神殿を造るのではないですか。
イスラエル、あなたたちはわたしを離れた。主は言われます。わたしはわが子の罪のために孤独になりました。(バルク4・12)あなたたちはまことの神の定めを知らない、神の愛の道を歩んでいない。
息子は言います。この神殿を壊して見よ。三日で建て直して見せる。(ヨハネ2・19)
農夫たちは思いました。息子の相続財産を奪おう。息子の相続財産を奪う。
「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」
息子イエスの神様のうちにある姿、清さ、おおらかさ、深い憐れみ、慈しみを奪うのですか。
イエスは奪われました。
イエスはぶどう園の外で、イスラエルの城外で、十字架の上で、苦しみながら命を奪われたのです。
主は言われました。新しく出発する。ふさわしい実を結ぶ農夫をわたしのぶどう園で働いてもらおう。
年間第26主日A 17-10-1
父さん、母さんを大切にしなさい。父さん、母さんの教えを守りなさい。わたしたちは両親の生き方を、両親の振る舞いを心の目で見て育って来たように思います。青年になると両親の生き方を自分の目で見たいと思うのです。両親から離れるのです。
こんな自分に生まれて来た。苦しい事がある。それを全部背負っている。何か自分に自慢できるような力があったらいい。そんなものは何もない。わたしは目立ちもせず、これからも、静かに普通に生活を送るのか。それは寂しい生活ではありませんか。
もし、体が不自由に生まれたら、途中で事故で体が不自由になったら、こんな苦しい事はもう嫌だと思ってしまいます。自分の苦しみが多すぎる。そんな時、ふと思ってしまいます。主はわたしたちを本当に憐れみの心で包んでおられるのか。主よ、安らぎをお与えください。もしかすると、主は、わたしを見ておられないのではないか。
主は言われます。あなたは主であるわたしを不十分だと思って見ているのではないか。主は完全ではないと思っているのではないか。わたしはあなたに言う。他人と比べて自分を見るのではない。静かに、ゆっくりと自分を見つめなさい。自分の奥の奥を見なさい。自分の能力のなさを思っていないか。あなたの奥には許せない、許したくない隣人がいないか。他人の豊かな生活を、ゆったりとした生活をうらやんでいないか。他人の能力に自分を比べているのではないか。自分の周りの出来事を無意識に、物欲しげに見ているのではないか。
今、あなたの向かってくる出来事をすべて受け入れなさい。そのままのあなた、本当のあなたになりなさい。あなたが自分を生きるために。あなたが自分を超えるために。自分を捨てなければ正しさが見えない。自分が見えない。隣人が見えない。神様が見えない。いや、父さん、母さんが見えていなかったのです。
父さんに二人の息子がいます。息子たちにぶどう園に行って働いてもらいたいと思っています。お金のために働くのではない。人のためにぶどう園で働く。ぶどうを取って集め、足で踏みながら、ぶどうの液を造る。この液がぶどう酒になる。ぶどう園では、わたしたち、イスラエルの人々になくてはならないぶどう酒を作るのです。今、ぶどう園で働いている人と仲間になって、一緒に働くことを学んでほしい。父さんは言います。「子よ、ぶどう園へ行って働きなさい。」
兄さんは言います。「嫌です。」 父さんは兄さんに言うのです。今日、今からぶどう園に行って働きなさい。自分の手の空いた時、いつか働くのではない。今、ぶどう園に行きなさい。子よ、何にも増して働いてほしい。 今からですか。 わたしたちは腹が空いた時、食事をするように、仕事が今、わたしたちを求めている。仕事はお前の中にある必要な出来事なのだよ。時間があるから仕事をするのではない。時間を作って仕事をするのだよ。皆が善いぶどう酒を求めている。
兄さんは父さんの言うことをじっくり考えました。そして、後で考え直して働きに出かけました。
仕事は、人のために働くことは何に増して大切なこと。生活の一部であることを知ったのです。
父さんは弟のところへ行きました。「子よ、今日、今からぶどう園に働きに出かけなさい。」
弟は気持ちよく返事をする。「はい、お父さん。承知しました。」 弟は今やりかけていることが終わっていない。終わらせなかった。ついにはぶどう園に行かなかった。
父さんの子に対する思いは何ですか。父さんの言いつけは一方的に見えてしまう。子供たちは自分たちの思いでいっぱいだったのではないですか。父さんの言いつけは間違っていると思っていませんか。 父さんは子を包んでいる。天の父もわたしたちを包んでいる。自分の思いから抜け出なさい。自分の思いのうちにいたならば、父の心が見えない。自分の必要だと思うことをしていては隣人の必要が見えない。
何のために祈っているのですか。何のために聖書を読んでいるのですか。自分のためですか。
年間第25主日A 17-9-24
聖書の言葉は動いている。それを大切にしながら、み言葉を聞いて行きたいと思います。
今日、イエスは天の国をたとえで語られます。天の国はどんなところかなと思ってみると、柔らかな光に包まれた、微笑みが浮かんでくるのびやかな、ゆったりと出来るところ、天の国は静かなところです、そんなように思っていました。イエスはたとえで、そんなところではありません、天の国は動いていますと語っていると思うのです。天の国は働くうちにある。心で天の国を見なさい。
そしてまた、天の国は神様によってますます喜びが教えられるところだと話されているのです。
極楽と言いう言葉があります。これは屹度、働いて、働いて、寝る時間も惜しまず働き続けた人たちの褒美の楽園だと思います。もう働かなくてもいいよ。ここでゆっくり、のんびり楽しみなさい。おいしい食べ物が有り余るほどあるよ。いくらでも飲める極上の飲み物もそろっているよ。食べながら、飲みながら仲良しと一緒に語り合うことが出来る場だよ。温泉もあります、マッサージも丁寧にしてもらえます。極楽は優しさが恵みとなって注がれる世界です。極楽は食べるものも食べられず、苦しい仕事に追われている人たちの希望のように思います。一方でこんな言葉があります。「極楽願うより地獄作るな。」 極楽に行きたい、行きたいと思うより、この世が地獄となるようなことをするな。
しかし、こんな好い事ばかりの国、感謝の恵みで与えられる褒美は、いつの日にか、もういらない、となってしまいます。
本当の極楽は働くことだと思うのです。心を尽くして働いて、働くことが心の喜びとなったらいい。自分が支える者になっている。皆の心が豊かになる、そのために働くのです。
働く者の希望、天の国は極楽と違います。天の国のたとえはぶどう園です。ある人は天の国に行っても働くのかよと、もう十分働いたよと言いました。
仕事は、人が必要なものを、皆それぞれ作り合うのではないでしょうか。皆が皆のために作って行く。食べ物、着るもの、家、機械、遊ぶもの、皆がよく生きるように工夫して、いろいろな物を作り上げる、それが仕事です。理想は、精一杯仕事をしてみんなが幸せになったらいいのです。
ぶどう園があります。主人は労働者を雇うために出かけます。このぶどう園の主人は一日に5回も出かけます。夜明けに出かける。労働者を集める。9時頃、行ってみると何もしないで立っている。わたしのぶどう園に行きなさい。12時頃、3時頃、5時頃に出かけてみると何もしないで立っている人がいる。なぜ、何もしないで立っているのか。誰も雇ってくれないのです。わたしのぶどう園に行きなさい。6時が仕事の終わりです。主人は皆に賃金を支払う。5時ごろ来た人に1デナリオン、次から次へと1デナリオンずつ支払う。夜明けから働いていた人にも1デナリオン支払います。夜明けから働いていた人は主人に不平を言いました。5時に来た人は1時間しか働いていません。わたしたちはこの暑い中、汗水流して11時間以上、一生懸命働きました。1時間しか働かなかった人と同じ賃金では不公平です。こんなに暑い中、一生懸命働いてくれてありがとう。もっと欲しいのですか。でも、一日1デナリオンの約束、十分ではないですか。わたしの気前の良さをねたむのですか。このぶどう園のよいぶどう酒を多くの人に飲んでもらう。こんな嬉しい事はないではないか。
天の国のぶどう園の出来事です。夜明けから来た人に主人は感謝を伝えた。暑い中精一杯働いてくれてありがとう。夜明けから働いた人は喜んだ。よいぶどう酒を多くの人に飲んでもらうために精一杯働くことが出来た。感謝。神に感謝。 5時頃来た人に主人は思いを伝えた。少しの時間であったけれど、手伝うことが出来てよかったね。迎えに来た息子は言う。お父ちゃん、よかったね。今日、皆で一緒に晩ごはんが食べられる。
体の不自由な人の働く場所があります。賃金のためではなく、人のために働く。その人たちの使う機械が工夫されている。働くのが楽しい。その心があったらいいと思います。
パラリンピックが皆に知られるようになりました。体が不自由な人が競技をする。体の不自由な人たちがオリンピックをする、そんなことは、今まで埒外にされてきていた。金メダル、銀メダル、銅メダルを取るために励む、それ以上に、会衆の前で全力で勝負する、その緊張感、その充実感を味わうのです。
天の国は喜びが教えられるところ。天の国は動いている。新しい心をもって天の国を見つめて行きたいと思います。
年間第24主日A 17-9-17
生きる、一緒に生きる。一緒ということをもう一度考えたらいいと思います。一緒に生活しているから憤る事が生まれる。一緒に生活しているから怒る。
しかし、人は簡単に憤ったらいけない、怒ったらいけない、と言われる。
そんなことはないのです。素直に思いっきり悪い事に憤ったらいい、怒ったらいのです。
大切なのは、何に憤っているのか、何を怒っているのかを考えるのです。出来事が不自然だから、理に適っていない、自分勝手であるから。
ちょっと冷静に考えると、そんな出来事に憤っている、怒っているあなたは何ですか。あなたは一緒に生きている喜びを表現していますか。相手にそれ相応の事をして来ていますか。
何もしないで憤っていたら、怒っていたら子供と同じではないですか。
わたしたちは一緒ということを得に大切にしています。一緒に過ごす、幼稚園から始まっています。小学校、中学校、高校いつも周りは仲間であることを考えながら生きていると思います。一緒にいるのだから憤って当たり前、怒って当たりまえだと思います。でも、子供のように憤ってはいけない、怒ってはいけない。相手に対しておおらかになったらいい。自分に対しておおらかになったらいい。
大いに憤り、大いに怒る。そんなに深い憤り、怒りがあるのですか。それは悲しい事です。憤っている出来事、怒っている出来事に悲しいと思うと同じに、その出来事に何もしていなかった自分に憤って欲しいのです。他人の落ち度に寛容でありたい。おおらかでありたい。平安に出来事を見たいのです。
わたしたちのこの命は自分のために生きる命ではありません。自分のために死ぬ命ではありません。人と一緒に生きる命です。夫婦一緒に生きる、家族一緒に生きる、教会、社会が一緒に生きる命です。そうです、この命は神様からもらった命。神様のうちに生きる命です。そして、人の中で生きる、人のために働く命です。
一緒に生きる、兄弟がわたしに罪を犯しました。何回赦すべきでしょうか。7回でしょうか。先生はすべての人と兄弟になりなさいとおっしゃいました。人と出会う。人と語り合う。その人に語る以上にその人の心を聞く者となる。つながる。仲間となる。友となる。それ以上に兄弟になる。兄弟だったら、その兄弟のために働くのは当たり前です。その人と兄弟の思いでいました。犠牲を払って兄弟になったのに、その兄弟がわたしに罪を犯したのです。
罪は生きる命を殺してしまいます。命を削ってしまいます。
イエスは言われます。7の70倍までも赦しなさい。どこまでも赦しなさい。
その時に、罪について考えなさい。罪とは何ですか。
神様から命を注がれていることを忘れていることではないですか。
神様のみ心を考えないことではないですか。
一緒に生きていることを喜ばない、一緒であるつながりがない。
隣人がいない、人のために働こうとしていない。ありがとうの心を消えかかっている。
わたしたちの周りに罪がたくさんあると思います。人は借金を背負って生きていると言われます。。
神様は、父はわたしたちを愛してくださっている。借金のあるわたしたちを赦してくださっている。
そんな言い方は相応しくないと思います。父さんの前で子供が悪さばかりしている。子供がかわいくて仕方がない。悪い事をしたらちゃんとごめんなさいと謝るんだよ。父さんは子供の悪さを赦し続けている。わたしたちはそれを知った。赦し続けてくださる父さんの温かさがますますわたしたちの心の中に入ってくる。
こんなに赦してもらっているんだよ。なぜあなたは人を赦せないのか。
おおらかになれないのか。
わたしたちも相手をどこまでも赦すことが出来るような大きな器になれたらいいと思います。
年間第23主日A 17-9-10
神様はわたしたちに聞かれます。毎日祈っていますか。食前、食後祈っていますか。聖書を読んでいますか。ありがとうの生活を送っていますか。神様はもっと言われます。祈る、聖書を読む、それは信心です。もちろん、信心を深めることは大切です。深い信心があってほしい。深く祈ってほしい、深く聖書を読んでほしい。しかし、信心は信仰の出発点です。信心は信仰ではありません。
信仰はつながりです。神様とのつながり。自然とのつながり。そして人とのつながりです。
神様とのつながりは、自然とつながっていること、人とつながっていることです。自然のために働くこと、人のために働くことです。
信心から、信仰へ出発する。外に出て行きなさい。自然と出会いなさい。人と出会いなさい。自然の生き生きとした力を味わいなさい。人と出会って、その人と語り合いなさい。その人の心を聞きなさい。その人とつながり合えればいい。その人と仲間になる、その人と友になる、その人と兄弟姉妹になる。
兄弟姉妹となる。教会の仲間が皆兄弟姉妹となったらいい。近所の人たちと兄弟姉妹となったらいい。もっと大切なのは隣人と兄弟姉妹となったらいいのです。隣人とは助けがなければ生きて行けない人たちです。
何かをしようとして、グループに入って仲間が作られる時、その中にどうも気に障る人がいます、気軽に話せない人がいます。また、反対に自分は話すのが苦手だという人もいます。そんなことが起こります。出会う人と友となる、兄弟姉妹になるのは難しいと思ってしまいます。
こんな意見もあります。犠牲を払って仲間になるようにしか見えない。誰とでも仲間になるなんて気後れしてしまう。兄弟になるのなんか無理だよ、そんなことを言う人もいる。
人は命を貰って生きている。一緒に生きる、人は一人では生きて行けないのです。孤独のうちに生きる命はないのです。神様はいのちを注いで人を造ります。一人一人に命を注ぎます。一緒に生きるように造られるからです。神様は人が生きるように、自然を造られました。
自然に支えられている。食べ物、飲み物、着るもの、建物、家、自動車、油、鉄で造られたもの、木で造られたもの、考えてみればすべてものが、自然からとられるもので造られているのです。
人は孤独ではいけない。人は人の中で生きています。自然の中にある物を人がとって工夫して、加工して食べる物、飲む物、住む家を造っているのです。周りにある物すべてが人の造った物です。人にはもっと大切なもの心があります。心は人として生きるから感じるものです。見えるもの、見えないものを感じます。言葉を感じます、音楽を感じます。人は心を持っています。感じている自分自身の心を思うのです。一人でいたい、何にも感じたくない、と思っていても、今、感じているとは、心が今まで自然の中にいて感じていた、人の中にいて感じていたのです。
兄弟として生きているのに、兄弟があなたに罪を犯した。そんなことがあるかと怒ってはいけない。怒ったら、兄弟のつながりが消えてしまいます。兄弟は何があっても、兄弟ではないですか。
その兄弟の罪を見つめなさい。そして怒りそうだった自分の心を思いなさい。兄弟の心を聞きなさい。聞いて聞いて、その人が語り飽きるまで聞きなさい。罪を犯した兄弟が語り終えた時、すべてを語り終えた時、兄弟の心は空っぽになります。その兄弟はあなたが見えます。神様が見えます。その時、あなたは兄弟を得ました。
兄弟に怒りそうだった自分の心は、罪の入口にいるように思います。犠牲を払って兄弟になっていると思っていませんか。一緒にいるのだから損をするのは当たり前ではありませんか。ましてや兄弟のために助けるのは当たり前のことではありませんか。罪を犯す、罪を犯してしまう、苦しい事です。その人に罪から解放される喜びを与えることの出来る人、その人におおらかさを与えることの出来る人はあなただけです。
神様の喜びは造られたものが皆、生き生きと生きる喜びです。
一緒に生きる喜びが愛です。
神様を心と体で精一杯愛しなさい。
隣人を自分のように愛しなさい。
これが神様から与えられた新しい掟です。
年間第22主日A 17-9-3
今日、神様はわたしたちに、苦しみは何ですかと問われているように思います。苦しみを放り出してはいけない。悲しみを放り出してはいけない。受け止めなさい。苦しみ、悲しみを喜びで包んでいると神様は言っているように思います。
第一朗読エレミヤ書を読みます。 若い預言者エレミヤは嘆きます。わたしは神様から声をかけられた。わたしたちは神様から注がれた命によって生きている。神様は正しく裁かれる方。
本当の喜び、生きる命の喜びを教えてくださる方です。わたしはあなたの僕です。あなたのみ言葉のうちに歩きます。神様はわたしに神の心、神の言葉を語れと命じます。わたしはあなたの言葉を語りました。 わたしが語ると、人々はわたしを笑い者にしました。わたしを嘲りました。わたしは苦しい、わたしは悲しい。 もう主の言葉を語るまいと思っても、主の言葉はわたしの心の中、骨の中で燃え上がります。人々がどんなに嫌っても、わたしは主の言葉を語らずを得ないのです。
わたしは主のために苦しい。いや、そうではないと知ったのです。
わたしは人々のために苦しみを背負っているのだと知ったのです。
パウロの手紙、ロマ書を読みます。 神様は人を神の息吹を注いで、神のいのちに生きるものとしてお造りになりました。エデンの園に住む。エデンは神様の世界。人は自然の世界を楽しみました。しかし、人は自分の自由を求めました。強い人は自然を支配したい。弱い人を自分の奴隷としたい。神様から離れました。神様はわたしたちにいつも呼びかけておられます。わたしのところに戻っておいで。人は罪を知った。わたしたちは神様に願う時、罪を犯し回心の時、供えものを捧げます。自分に一番大切なものを捧げます。わたしたちの願いを叶えてください。わたしたちの罪を赦してください。わたしたちを受け入れてください。神様は言われます。あなた自身が生贄となりなさい。あなたの一番大切なもの、それはあなた自身ではないですか。今のあなたがなくなった時が本当のあなたです。あなたが欲求のうちに求める自分がなくなって、神様の思いのうちに生きる、それが本当のあなたです。 神様、神様の求めるものは何ですか? わたしの求める世界はすべてのものがいのちの喜びに生きている姿です。皆が、喜んで働く、食卓を囲む、祈る、歌う姿です。
人は皆、喜びを求めている。自分の喜びを求めている。神様は言われるのです。あなたは人の喜びの助けとなるのです。喜びを妨げているものを取り除く、それがあなたの仕事です。
人は物を知っている、知識を持っている。様々な経験の知恵を持っている。あなたがたは物を知っている知識によって、様々な経験の知恵によって自分を守っている。自分たちを守っている。
それを全部捨てなさい。知識を捨てなさい。経験の知恵を捨てなさい。
アブラハムは神様と出会った。アブラハムは信仰の父と呼ばれています。神様の言葉のうちに生きる。神様の思いのうちに歩く。 アブラハムが100歳の時、待ちに待った男の子イサクが生まれました。子供が出来なかったサラに神様の大きな恵みが注がれたのです。アブラハムの家に後を継ぐ者が出来ました。 イサクが物心つく時、主なる神はアブラハムに言われました。あなたの大切な独り子イサクを焼き尽くす生贄としてささげなさい。アブラハムは従った。イサクを連れてモリヤの地にある高い山に登りました。イサクがアブラハムの刀によって殺されようとした時、神様は言われました。イサクのいのちを取ってはならない。アブラハムはイサクを得た。アブラハムはこのような儀式に何度も出席していた。しかし、このような苦しみ、悲しみを知らなかった、考えなかった。
アブラハム、今、命の大切さを知りなさい。
モーセ、イスラエルはエジプトから約束の地に入るまで40年荒れ野を歩きました。今までの知識、経験、信仰をすべて捨てるためです。今までの生活を支えていたものをすべて捨てるのです。今まで持っていた力を捨てる。神様の約束の地、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、他の部族も住んでいる土地で彼らと一緒に住むのです。(出エジプト3・8)
イエスは弟子たち打ち明け始められました。エルサレムで神様の栄光が現される。わたしが長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺される。そして、三日目に復活する。
神様の栄光は、すばらしい喜び、苦しみ、悲しみである筈はない。神様の力は絶対です。何ものも神様の力を妨害することは出来ないのではないですか。神様の力のうちに平安がある、平和が保たれる、わたしたちはそう思っている。
ペトロがイエスの言葉を聞いて、イエスをいさめます。イエスを怒るのです。先生何を言うのですか。そんなことがあるはずはない。あってはいけないことです。 イエスは言います。サタン引き下がれ。
あなた方はこの神様からの栄光を見なければいけない。この出来事が神様の栄光である。この出来事を見なければ、この出来事に入らなければ、神様の栄光が分からない。神様の愛が分からない。あなたの知識を捨てなさい。あなたの神様への思いを捨てなさい。すっかり空っぽになってこの出来事を見つめなさい。そして、わたしに従いなさい。
自分が生きたいと思う者は人を苦しめているのではないか。イエスのためにいのちを捨てる者はまことのいのちを得る。 あなたの十字架を背負って、わたしと一緒に歩きましょう。
イエスはガリラヤ湖に近い町カファルナウムに住まわれました。そのときから、イエスは宣教を始められました。イエスは毎日、町に行き、通りに出て人々に語りかけます。また、腰を下ろし話をします。人々に語りかけるように、神様の恵み、慈しみを語り、今、生きておられる神様を語るのです。罪を犯している人に特に声をかけます。どうしたのですか。横道にそれたのかな。回心して、もう一度神様のもとに戻りましょう。神様への道を一緒に歩きましょう。神様は必ず、笑顔で迎えてくださる。イエスは病人を癒します。悪霊を追い出します。エルサレムに行くと、特に、神殿の境内で話をされました。 イエスは毎日人と出会うのです。今、生きておられる神様を語らずにはおられないのです。
イエスは弟子たちに聞きます。人々は、人の子のことは何者だと言っているか。人々の心はわたしをどのように受け取っているか尋ねたのです。イエスと出会った人々の思いを弟子たちと一緒に考えたかったのです。 その頃、イスラエルはローマ帝国の植民地でした。イスラエルの人々の間に終末思想が語られていました。世の終わりが来る。この世に希望がない、光がない。神様がこの世が裁かれる、その道に向かっている。力のある人たちが思う存分欲求を満たす生活を送っている。一方、多くの人々は神様を求めて苦しんでいる。
終末の思いが人々に影響しているのでしょうか、弟子たちは言います。イエスの姿を見て人々は皆、大預言者が現れたと言っています。ある人は、イエスに神の掟、律法を厳しく守るよう語る洗礼者ヨハネの姿を見ています。ほかに、終末の時に、神様の言葉を語る預言者エリヤ、エレミヤだと言う人もいます。
人々は、イエスの言葉に心を打たれている。励まされている。目の前で、悪霊を追い出される、イエスは神様の力を持った預言者だと思っています。
イエスが言われる。「それでは、あなた方はわたしを何者だと言うのか。」
あなたにとってわたしは何者ですか。わたしはあなた方と一緒の生活している。一緒に食べる、一緒に働く、一緒に寝る。わたしの姿があなたの生活の中にある。
ペトロが言う。「あなたはメシア、生ける神の子です。」
イエスはペトロに言う。「ペトロ、あなたは幸いだ。あなたのその言葉は天の父のみ心だ。あなたの唇が天の父のみ心をしゃべった。あなたはペトロ。ペトロ、この岩の上にわたしの教会を建てる。あなたに天の国の鍵を授ける。人の罪を赦す力、赦しの秘跡の力を与える。あなたが教会の指導者となりなさい。
天の父のみ心、イエスのみ心のままに、教会が働きますように。
教会はペトロのものですか。
いや、神様のみ心の場です。
イエスはわたしたちに言われます。
自分を虚しくする。自分は本当に小さいもの、本当に弱い者。
あなたは自分では何も出来ないと本当に思っていますか。
あなたは本当に自分を空っぽにする、自分を捨てる心持を持っていますか。
本当にイエスの言葉を受け入れようとしていますか。
どこかで、自分の損得に悩んでいるのではないですか。
この世の人間関係の中にいる。お付き合いの中にいる。自分の立場の中にいる。
愛されている自分を知り、人を愛しなさい。愛する、その人のために働く、どんなことがあっても、その人とつながっていなければいけないのです。
神様は今、生きておられます。わたしたちに向かって、わたしに向かって声をかけておられます。
神様に向かって歩きます。イエスと一緒に歩きます。
年間第20主日A 17-8-20
第一朗読・イザヤ書を読みました。
主は言われます。わたしの思いの内に歩みなさい。わたしの救いが実現する。
主よ、あなたの救は何ですか。 救いは、あなたを縛っているあなたの心を自由にすることです。
あなたは神様と出会っていると思っている。神様を知っていると思っている。
そうでしょうか。
あなたは神様を自分の心で受け止めたと思っているのではないですか。神様を知ったとは、あなたの心と体が神様の憐れみを理解したと思っているのではないですか。
自分をやめて神様の前に座ります。何もないあなたに神様の力が押し寄せて来ます。
神様の霊があなたを覆っていることに気づきます。
自分をやめたら神様が見えた。神様と出会った。それがわたしの救いです。
神様に祈る。聖なる神様の山に登る。あなたを捨てる。あなたをやめる。そのまま目を閉じた。心を神様に向けた。そして、その向ける力をやめた。神様と一緒にいる。その世界を味わった。その世界などと言うのは言い過ぎです。座った時、自分がいなくなって包まれている感じを味わうのです。それも神様の救い。恵みの業を行いなさい。自分を捨てて歩きます。この手が行うことが人のためになったらいい。
神様の思い、契約が自然と心と体に入って来る。神様の道を歩いている。それが救い。
第二朗読を読みました。人は皆、神様から命を注がれて生きています。どんな悪い者でも神様の子です。神様に不従順、罪人。神様、罪人を懲らしめないのですか。
神様は言われます。不従順、その罪が大きければ大きいほど神様はその者に心を止めています。わたしのもとに戻っておいで、わたしのもとに戻っておいでと呼びかけて言われています。
わたしたちみんな、神様のもとに帰り、神様の温かさ、柔らかい光に触れたいと思います。
そして、罪人に出会った時、語り合うことが出来ますように。罪、不従順に閉じ込められている人とつながれればいいと思います。
そんな思いで、今日の福音を読みました。
イエスがどこに行かれようと、人々はイエスの周りに集まります。神様の事を話してください。この子に手をおいて、病を癒してください。
イエスがフェニキア地方に行かれると、一人の女がイエスに向かって叫びました。「主よ、ダビデの子よ。わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています。」
しかし、イエスは何もお答えにならなかった。なぜですか。聞こえなかったのですか。いや、女は叫んでいたのです。 弟子たちが近寄って言います。この女を追い払ってください。
イエスの心は何だったのでしょうか。イエスには女の叫ぶ声が聞こえなかったのです。心に響かなかったのです。女は願いがあった時、あのように言えば、あのように叫べば、聞き入れてもらえると思ったのです。 律法のことをちょっと言いたいのですが、律法の通りすれば、聞き入れられる。律法によって悪は生じない。その様に思っています。しかし、イエスは言います。口から出るものが人を汚す。(マタイ15・10~) 女の人は望みの大きさよりも、律法的に望みを叫んだのです。
その声はイエスの心に届かなかった。何も答えなかった。あなたの声は虚しい。
イエスは弟子たちにも言います。わたしはイスラエルの家のために働く者。イスラエルの失われた羊に神様のみことばを語る者である。
女の人はイエスの言葉を聞いた。イエスの言葉が心に響いた。
女の人はイエスの前にひれ伏した。「主よ、どうかお助け下さい。」
「わたしの子供たちのパンをとって小犬にやってはいけない。あなたはわたしの力だけを求めた。あなたの願いは口先だけのものではないか。」
女はひれ伏して願ったのです。
「主よ、あなたの心をください。どんな小さい心でもわたしにください。」
イエスは夫人を見つめた。そして言われる。
「婦人よ、あなたに信仰を見つけた。あなたの願い通りになるように。」
聖母の被昇天 17-8-15
<黙示録12・1>
「偉大なしるしが天に現れた。一人の女性が太陽の衣を着、月の上に立ち、頭には、12の星をちりばめた冠をかぶっていた。」
天に不思議なしるしが現れた。あっ、見よ。皆に言う。叫んで言う。神様のしるしではないか。清らかな婦人がおられる。太陽の衣を着ておられる。白い、真っ白に輝いた衣。そして、月の上に立ち、頭には12の星をちりばめた冠をかぶっておられる。あの方は、そうだ。マリア様ではないか。わたしたちの主イエスのあ母さんマリア様だ。マリア様を見つめます。神に感謝。
[黙示録11・9a、12・1-6、10ab]
天にある神殿が開かれた。神殿の中に契約の箱があった。契約は約束です。双方に、その約束を大切にしますと言うお互いの信頼のうちにある堅い約束です。神様がわたしたちに与えられた約束は、わたしはあなたたちを愛していますと言うみ言葉です。あなたたちはわたしの愛の内にいる。どのような出来事があったも心を閉じてはならない。あなたはわたしの愛の内にいる。困難を乗り越えなさい。わたしに向かって歩き続けなさい。わたしはあなたと共にいる。
また、天に大きなしるしが現れた。…入祭の祈りを読んでください。女は身ごもっている。子を生む苦しみの内にいる。もう一つのしるしが現れた。火のように赤い大きな竜である。子が生まれたら食べようとしている。女は子を生んだ。子は神のもとに引き上げられた。女は荒れ野に逃げ込んだ。主は言われる。「今や、我々の神の救いの力と支配が現わされた。神のメシアの権威が現れた。」
「Ⅰコリント15・20-27a]
キリストが来られる時に、世の終わりが来ます。
わたしたちはキリストと出会った。キリストに神様のみ心を見た。キリストの内に入ろうと思った。キリストと共に歩くのです。今までの自分を捨てて、新しく生きる。キリストと出会って、新しくなる。今までを終わらせる。新しい世界を造って行くのです。
[ルカ1・39-56]
マリアはエリザベトのもとに出かけました。座化リアの家に入り、エリザベトに挨拶をします。
挨拶:会えた喜びです。一緒に歩いている喜びです。つながりを喜ぶ。
それにもまして、マリアの喜びは、不妊の女と呼ば荒れていたエリザベトが子を身ごもっていると知って、エリザベトを喜び、神様の恵みを喜んだのです。
マリアの挨拶を聞いてエリザベトは聖霊に満たされて言います。あなたの挨拶の声がわたしの心に入りました。わたしのお腹の子も喜んで踊りました。あなたは神様のみ心の内にいます。
マリアは言います。わたしは心も体も主をあがめます。神様を知ったわたしは幸いな者です。
わたしは神様からの偉大な恵みを受けました。主のみ心を思います。主の道を歩みます。
あなたの愛のうちに歩みます。
* * *
今日わたしたちはマリアの被昇天を祝います。マリア様はわたしたちのお母さんです。母さんはわたしたちを大切にしてくださいます。母は子を何にも増して大切にします。子は母さんの愛の内にいます。母さんは言います。わたしは父さん、家族に愛されています。もっと大きく、神様に愛されています。隣人と出会いなさい。隣人と一緒に生きなさい。愛は家族の愛から隣人への愛になるのです。それが神様が与えてくださった愛です。マリア母さんは愛の大きさを話されます。
そして、マリア母さんはエリザベトがヨハネを身ごもってことを話されます。
年間第19主日A 17-8-13
今日の第一朗読、第二朗読、そして福音書は語ります。あなたの命は神様からのもの、神様はあなたを見つめています、信仰のうちに歩みなさい。どのようなことが起こっても、それを受け入れなさい。苦しみの内に、悲しみのうちに神様のみ心を見出しなさいと言われるのです。
第一朗読・列王記を読みました。エリヤは命を狙われ、追われています。ホレブ山に着き、身を隠しています。洞窟の中で夜をすごしました。主がエリヤに声をかけます。そこを出て、主の前に立ちなさい。その時、主が通り過ぎて行かれました。「通り過ぎる」とは主がご自分を示されると言う意味です。 エリヤが立った主の前に、激しい風が起こり、山が裂かれ、岩が砕かれました。しかし、それは神様と出会うまことの「しるし」ではありませんでした。その中に神はおられませんでした。地震が起こりました。その「しるし」の中にも神はおられませんでした。火が起こりました。それも神様のおられる「しるし」ではありませんでした。
神様には自然を動かす力があります。自然の激しい動きの中に神様を見ないのですか。 見ません。力に動かされてはいけない。自然を自由に動かす力を持つ神様のみ心と出会うのです。心を神様のみ心に向けるのです。心を開いて、神様の静かな、ささやくような声を聞き取りなさい。
神様は、神様の道を歩くわたしたち一人一人を見ておられます。わたしたちに心を留めておられます。 この間、テレビを見ていたのですが、ある人が言いました。人生は傷を負うことです。前へ進もうとしたら、善い事をしようとしたら、傷を負わせる出来事が起こります。不愉快なことが次々と起こります。その嫌な出来事を、自分の心持を変えて、来たなと思って受けるのです。自分は小さい、弱いから傷つきたくない、そう思っていました。自分の傷つきたくない心、自分の弱さをじっと見なさいと神様が勧めておられるのです。どんどん傷を受けて、それを越え、どんどん強くなるのです。傷はよいものです。そして、疲れたら休みます。
イエスは祈るために山に登ります。弟子たちは舟に乗って先に出発しました。舟は逆風にさいなまされ、揺れ動いています。山の上でイエスは深く祈っていたのでしょうか。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて、弟子たちのところに行きます。
水の上を歩いてイエスが来られた。それを見て皆、驚きました。ペトロがイエスに言います。水の上を歩いてそちらに行かせてください。イエスは言われます。「来なさい。」ペトロは水の上を歩きました。しかし、強い風に気が付いて、怖くなり、沈みかけました。ペトロは叫びます。「主よ、助けてください。」 イエスはペトロに言います。「信仰の薄い者よ。何故、疑ったのか。」
ペトロはイエスのみことばによって、舟から湖におりました。水の上を歩く、あっ、強い風が吹いてきた。ふと、自分が何をやっているかを考えました。水の上を歩いている。怖くなった。その時沈みかけました。ペトロ、自分の行いを今までのように社会の人々の目で見てはいけない。社会の人々の考えに捉えられてはいけない。 ペトロ、あなたに、今、神様の力が働いたのです。
逆風に舟が揺れ動いていた。弟子たちは舟を守りたい、命を失いたくない、その思いでいっぱいだった様に思います。イエスはその弟子たちにも言われるのです。信仰の薄い者よ、なぜ心配するのか。
どのようなことが起ころうとも、主はわたしたちを見ておられる。わたしたちと共におられます。
信仰の内に歩みたいと思います。
主の変容A 17-8-8
先週、一週間、那須の修道院で黙想をしました。車を運転しながら、道路の上にある温度の標識を見ると21度、23度です。那須は半袖でいると寒いくらいです。蝉が盛んに鳴いています。鳥のさえずりが心地よいのです。野菜サラダがたくさん出ます。サラダがおいしい。修道院は山の中にあるのです。自然の中で生活しています。そんな中で、神様の出来事を思い巡らしました。
イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて、高い山に登られました。ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子は、高い山で神様の出来事と出会ったのだと思います。
イエスの姿が変わりました。イエスの顔が太陽のように輝き、服は光のように白くなったのです。
そして、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合います。目を見張ります。心がついて行けない。これはこの世の出来事ではない。イエスのこの世を超える姿を見た。モーセを見た、エリヤを見た。神様の世界の出来事、イエス、モーセ、エリヤの姿を見たのです
この出来事がわたしたち皆のためであってほしい。ペトロが口をはさみます。仮小屋を三つ建てます。わたしたちのために一緒に住んでください。
神様の力が彼らを襲いました。
そして、声が響きました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け。」
弟子たちは夢の中にいる思いでした。山を下りる時、イエスは命じられました。「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことを誰にも話してはいけない。」
イエスは、以前、弟子たちに問われました。「あなた方はわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えます。「あなたはメシア、キリスト、生ける神の子です。」(マタイ16・13~)
イエスは預言者以上のものですと宣言したのです。預言者は神様のみ心の内に入り、神様の思いのうちに言葉を語ります。わたしたちは神様の思いからこんなに離れている、と知り、神様の思いを語るのです。また、神様から、人々の眠っている心を起き上がらせなさい、目覚めさせなさいと、厳しい言葉を語ります。イエスは預言者以上のもの。イエスの中に神様の姿がある。神様のみ心のまま語る。神様のみ心のまま業を行う。神様のみ心のままに生きている。
あなたは神の子。ペトロはイエスの心の姿、命の姿を見たのです。
今、イエスのご変容の姿を見ました。人の子が死者の中から復活するまで、今見たことを誰にも話してはいけない。人の子は死ぬ。あなた方は人の子の死を見ます。わたしの死を見ます。
その時、わたしは捕らえられ、鞭打うたれ、十字架を背負って、あなた方の前を歩きます。
ついに十字架で命を奪われます。わたしは死にます。そして、わたしは復活します。わたしは天の国に昇ります。復活の命、新しい命であなた方とまた会います。
その出来事は言葉で理解するものではない。起こったその一つ一つが心に入って来て、出来事を知るのです。その出来事があなたを包みます。しかし、その出来事の中にあなたが入って行かなければ、その出来事を知ることは出来ません。 わたしの死を受け入れ、復活を受け入れなさい。あなた方は、今、わたしの復活の姿を見たのです。
ペロはイエスを裏切りました。お前はイエスの仲間ではないか。そう問われて言いました。あんな奴は知らない。呪われて死ねばいい。
イエスの十字架を背負って、歩く姿を見ました。そして逃げてしまった。
イエスの死を知り、復活したイエスに出会った。
ペトロは手紙で証言します。
わたしたちは聖なる山にいた時、神様の世界を見ました。復活されるイエスの姿を見ました。
暗い所に、光のない夜に、明けの明星が昇りました。
力に満ちたイエスが、今、生きておられます。
年間第17主日A 17-7-30
天の国は次のように例えられる。イエスは人々に天の国をたとえで語られます。
天の国は畑に隠された宝に似ている。それを見つけた人は、喜びのあまり、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
天の国について、一言、言いたいと思います。
イエスの語られた天の国は、わたしたちの思っている天の国ではないように思います。わたしたちの思う天の国は、わたしたちの求めている天の国は何ものにも表現しがたい恵みの場ではないかと思うのです。天の国に入ると柔らかい光に包まれる。光が心の中に入って来る。天の国に入ると、すーっと憐みの心が入って来て、心にしみわたる。心が温かくなる。
天の国、ここにいるだけで嬉しい。
イエスの語られる天の国は、この世から始まっていると教えられているように思うのです。
今、あなたの生活に、あなたの周りに天の国の入口がありますと言われているのです。
畑がある。畑の中に宝を見つけた。今自分の持っているもの、今まで貯めておいたものをすっかり売り払ってその畑を買います。宝を得るために畑を買う、宝に行き着くまで畑の道を通る。畑は自分のものになったと思いました。天の国はわたしの目の前にある。
いや、そうではないと思います。自分が畑の方に行く。畑の世界に入って行くのだと思います。天の国に向かって歩くのだと思います。
ある人が言いました。畑は自分自身の心、自分自身の生活だと思いました。自分の中に宝がある。その宝を発見した。その宝が輝くためにその道を歩く。自分のすべてをつぎ込んで宝を輝くものとしたい。ある青年は、もう青年と呼ばれる歳ではないのですが、世界を歩きたいと思った。自分はこの社会に閉じ込められているのではないかと思いました。この自分を囲む世界に閉じ込められている。自分を発見したい。世界の人とで出会いたい。一人で、貧乏の旅に出かけたのです。
ある青年は修道生活をしたいと願っていました。サラリーマンから独立して、今まで、フリーの生活をしてきた。金銭に苦労する生活、人との煩わしさから解放されたい。
彼は教会の神父さんに相談に行きます。 修道士になりたいのですが…。今の生活をやめたい、今の生活をやめたい。
神父さんは言います。修道士になる心持があるのなら、神父になったらどうか。神様に会う、そして、命を生きるのだ。生活を変えるのだ。
その道を歩きたい。その生活をしたい。神様と会いたい。自分の中にそんな宝があったのだ。
自分のすべてをつぎ込んで、その宝を輝くものとしたい。
また、畑を自分の目の前に見ます。自然のために働く、人のために働く、その場、手伝う場がある。その場が畑ではないでしょうか。働くことの大きさを知る。働くことの苦しさ、自分のために働くのではない、隣人のために働く。働いて神の恵みに出会う。
自然の偉大さを知る、自然の雄大さ、自然の不思議を知る。それが宝。神様の不思議が宝となって動いている。宝の中に入って行きたい。
その道がこの世から始まる天の国の出発点です。
商人が良い真珠を捜している。高価な真珠を見つける。持ち物をすべて売り払い、それを買う。真珠を探し求めている商人は、今まで、いくつもの真珠を見て来ている。見て来た真珠、手に取った真珠は十分な輝きがなかった。そして、見つけた。 あった! 真珠の輝きを見つめる。じっと見つめる。真珠の輝きに魅せられました。その真珠にはわたし全部を引き付ける持っている。
その商人は真珠の不思議な力を見たのです。
年間第16主日A 17-7-23
神様、あなたは見えるもの、見えないもの、すべてのものをお造りになりました。み言葉によって、み心をもって造られました。わたしたちを包むこの自然、大地、大空、海は神様のみ心によって造られたのです。すべてのものはあなたにつながっています。すべてのものをあなたは見ておられます。そして、また、この世界を包む天の国があります。
神様は言われます。あなたたちは肉によって生きるのではなく、霊によって生きる者となりなさい。
霊は神様の息吹、神様の命の力ではないでしょうか。
霊によって生きる。わたしたちは、今、生きて、働いておられる神様の息吹を受けて生きるのです。神様の恵みを受けて、神様の力を受けて生きるのです。
霊の力によって神様の姿が現わされるのではないかと思います。知識によって神様を知るのではなく、霊によって神様を心に受けとめるのです。神様は霊によってわたしたちを包み、心に入り、導いてくださる。
イエスは天の国のたとえを話されます。イエスの話される天の国は、何か、煉獄のように思ってしまいます。天の国は神様のみ心にかなった人が行くところではないですか。柔らかい光のうちにある、温かさ、おおらかさ、静かな、生き生きと命の喜びのあるところではないですか。
天の国に入ると安心が心を満たすのはないかと思います。
イエスは言われます。
神様は生きて働いておられます。天の国も生きています。喜びは、楽しみは動いていなければ喜びとならない、楽しみとならない。生きているから喜ぶのです、楽しむのです。
天の国に麦畑があります。天の国の麦畑は皆のために麦を育て、収穫するのです。
―天の国の麦畑に毒麦が見つかりました。毒麦をどうしましょうか。抜いて、集めましょうか。
―いや、毒麦を集める時、麦まで一緒に抜くかも知れない。刈り入れの時、まず、毒麦を集めなさい。束にして焼いてしまおう。
イエスの周りには徴税人、罪人が集まってくる。罪人は、律法を守れない生活をしている。安息日に会堂に行けない。仕事がないから、ローマ人が募集している働き口に行き、賃金を得る。ある人は徴税人になる。
天の国に行くために善い生活を送りなさい。毎日祈れたらいい。毎日隣人の事を考え、少しでもその人のために手助け出来たらいい。時を作って神殿に行き、神様の前に立てたらいい。
―毒麦が見つかった。
―刈り入れの時まで、そのままにしておきなさい。
―何故、毒麦を見つけた時、抜き取ってしまわないのですか。
―刈り入れ時までには、まだ時間がある。毒麦が悔い改めるために、あなた方が働きかけたらいい。
徴税人、罪人、あなたたちにも悔い改めの時が与えられてる。
天の国はからし種に似ている。本当にちっぽけなからし種であっても、そのからし種が育って大きな木となる。その木には空の鳥が来て、巣を作る。
悪い人と言われている人の心の中にもからし種ぐらいの善い心がある。からし種ぐらいであっても善き心を捨てないで、育てなさい。
年間第15主日A 17-7-16
イエスは湖のほとりに座っておられた。大勢の群衆がそばに集まって来た。
イエスは舟に乗られた。群衆を見ながら、たとえを用いて語られた。
ある人が種蒔きに出て行った。種は心を打つ、厳しい神様のみことばでしょうか、心温まる、励まされる言葉でしょうか。目の前にたくさんの畑がある。畑に蒔く。畑といってもよく耕された畑もある、ほっとかれた、野原のような畑もあります。種が蒔かれる。種がよく根付く畑もあれば、少しも根付かない畑もあります。その種蒔きのもとには、種はいくらでもあります。種蒔きが力尽きるまであります。種蒔きは種を蒔き始めました。手に種をつかんで蒔き始めました。道端にも種は蒔かれる。石だらけで土の少ない所にも種は蒔かれる。
そんな石だらけところに種が蒔かれても鳥が来て食べてしまったり、浅い土地に落ちた種は土に根を張っていないから途中で枯れてしまうのではないですか。
イエスは言います。
わたしは皆の心に種をまく。毎日、人の畑、人の心に精一杯種をまく。求めている者の心に種は根付く。 医者を必要としているのは丈夫な人でなく病人である。(マタイ9・9~)
わたしは罪人のための種を蒔くのである。わたしの言葉がその人の心に入った時、種が温かさをもってその人の心に入った時、種は実を結ぶ。百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶ。
弟子たちがイエスに聞きます。わしたちは病人なのですか。
イエスは答える。もっともっと人を愛せればいい。もっと励まされる優しさがあったらいい。人に安心を与えるおおらかさがあったらいい。一緒に歩きたいと思ってもらえる大きさがあったらいい。
人は不十分。人は小さい者、人は弱い者だ。
何故、種を蒔くたとえ話をするのですか。
種を蒔く人の事を考えてほしい。種を受け取る人たちの事を考えてほしい。そして種が何かを考えてほしい。いろいろな畑があると言ったけれど、畑のことも考えてほしい。
自分を見つめる。あなたの畑はどんな畑ですか。
種を蒔く人はイエスだけではない。わたしたちはイエスと出会った。種を知った。種を蒔きたい。喜んで蒔きたい。神様の喜びを語れたらいい。命の喜びを語れたらいい。出会う人皆が喜びの心を持ったらいい。苦しんでいる人が慰められたらいい。悲しんでいる人が微笑みを取り戻したらいい。苦しみ、悲しみを乗り越えられたらいい。種は神様のみ心。聖霊の働き。命の水。
わたしたちはイエスを見ている。イエスを聞いている。イエスに心を向けている。イエスは聞かれます。あなたの畑は耕されていますか。
自分の畑を思いました。土地が種を求めている畑か。石だらけの畑ではないか。
小生、司祭に叙階されて28,9年たちました。木更津教会、館山教会に赴任されました。4ヶ月になります。 引っ越しの荷物の整理が大変でした。木更津、館山教会は忙しい。要領が分からない。自分でやらなくてはいけない。追いかけられるのです。
ふと思いました。イエスはヨルダン川で洗礼を受けた。洗礼を受けて出発とした。
お前は始めから出発しろ。なんだか新人の神父のような気がしているのです。今ようやく落ち着きましたが、長く司祭生活を送っていて、今までそんなに心が騒いでいたのです。
まだまだ、自分の畑をよく耕していない。まわりの出来事が気になっていた。種が蒔かれている。種が根付くように、種が成長するように、イエスを心に素直に受け取るのです。
あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、
見るには見るが、決して認めない。
心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。
心の耳で聞きます。
心の目で見ます。
み言葉を心に刻みます。