王であるキリストC サムエル下5・1-3 コロサイ1・12-20 ルカ23・35-43 19-11-24
キリストはまことの王様です。 エルサレムは神の聖なる都、信仰の場、イスラエルの中心の都です。神殿は祈りの家、神様と出会う場です。
イエスは町に出て行き、毎日神様を語ります。苦しんでいる人、悲しんでいる人、悩んでいる人に声をかけます。また、病を癒し、悪霊を追い出し、悪霊を追い出す、神様のみ心の業を行います。
イスラエルを巡り歩き、エルサレムに向かいます。そして、異邦人の町、村に行き、語ります。神様の憐れみ、慈しみを語ります。癒しの業を行います。ある時から、弟子たちと一緒にエルサレムに向かって旅を続けます。 人々はイエスの働きを見ている。イエスの思い、行いに神の姿を見ている。この不安なイスラエルの生活に力強い預言者が現れた。イエスこそ王だ。イエスという名をヘブライ語で言うとヨシュアです。ヨシュアによって新しいイスラエルが生まれる。
出エジプト:モーセによってイスラエルはエジプトから脱出した。40年の荒れ野の旅を終えた。
主は、その日、モーセをモアブ山に呼び言われる。下を見なさい。これがあなたたちにわたしが
与える土地、イスラエルです。ここに入る。あなたはわたしのもとに戻りなさい。あなたの後継者ヨ
シュアによってイスラエルに入る。
イエス―ヨシュア―によって力強いイスラエルが生まれる。そんな希望を持った。ある日、熱心な人たちがイエスのエルサレム行きを祝った。イエスはロバに乗ってエルサレムに向かう。人々は喜びの歌を歌う。道に布を敷く。枝を振る。神様がイエスをイスラエルの王とする。しかし、枝の祝日は苦難の日となったのでした。
イエスは捕らえられた。独立をもくろむ、反逆の指導者である。反逆罪でポンティオ・ピラトによって十字架の刑・死刑を宣告された。 鞭で打たれた。皮膚が破れ、背中に真っ赤な血が流れた。十字架を背負いゴルゴタへの道を歩く。皆が十字架を背負って歩くイエスの姿を見る。罵声が飛ぶ。石が投げつけられる。ついに、ゴルゴタの丘でイエスは十字架に釘付けされる。民衆は立って眺める。議員たちは嘲笑う。「お前は神のメシアか。他人は救ったのに自分は救えないのか。」兵士たちは言う。「お前がユダヤ人の王ならば、自分を救ってみろ。」
自分の目の前にいるイエスは血みどろの姿である。力尽きて3度も倒れた。皆から罵声を浴びせられる。石が投げつけられる。議員、兵士が、嘲笑いながら、この男が王だと言う。
この出来事を見て、あなたはイエスを王だと信じますか。3年間一緒に生活をしていた弟子たちは逃げ去ってしまった。
あなたの持っている王の考えを捨てなさいと言われているのではないですか。
神様の心を持つイエスが、神様の力を持つイエスが捨てられた。イエスは苦しみの中にいる。そして、いのちを断たれて死んでいった。 イエスは苦しみに耐える力を持っている。悲しみに耐える力を持っている。天の父に与えられた苦しみ、悲しみを受け取ったのです―すべての人の罪、咎の盃を飲んだのです―。
力がある方が王ですか。イエスはあのような苦難を退けるために力を使わなかった。苦しみながら静けさを失わないで神様のみ心を味わっていたのです。 汚い世界を知っている、醜い世界を知っている、人の弱さ、人の小ささを知っている。人の弱さ、小ささを自分の身に受け取っているのです。苦しみを知っておられる方、人の悲しみを知っておられる方、空腹を知っている方、高いところから飛び降りたら怖い、怖さを知っている方、物がない、貧しさを知っておられる方。その方がまことの王ではないですか。
年間第33主日C マラキ3・19-20a Ⅱテサロニケ3・7-12 ルカ21・5-19 19-11-17
イエスが言われる。神殿が見事な石と装飾で飾られている。あなたがたはそれに見とれている。 しかし、見えるものはすべて時間のうちに壊れて行く。見えるものはそれを造った見えない力のうちに入って行く。すべてのものは消えてゆく。神殿でさえ形が毀れ無に服すのです。その日が来る。
弟子たちがイエスに尋ねる。それはいつ、どの様に起こるのですか。どんな徴があるのですか。 いつ、どのように起こるかは神様しか知らない。死体のある所には、禿鷹が集まるものだ。
このイエスの時代、社会は不安であった。仕事がない。ローマの強い圧力がある。植民地からの解放を求める暴動が起きる。 イエスは言われる。今、不安の時。皆は終末を思っている。しかし、惑わされてはいけない。わたしの名、イエスの名によってあなたがたを救うという者が大勢現れるがついて行ってはいけない。戦争、暴動の事を聞いても脅えてはならない。地震、恐ろしい疫病が起こっても脅えてはならない。
これらの事が起こる前に、人々はあなたがたを迫害し、会堂や牢に引き渡すだろう。わたしの名のためにあなたがたはすべての人に憎まれる。親、兄弟、親族、友人にまでにも裏切られる。
しかし、安心しなさい。その人がどのような反対者であっても、わたしがあなたがたに対抗も反論も出来ないような言葉と知恵を授ける。
今、わたしたちは静かに、ゆっくりと神様を見つめたいと思います。税金が上がる、無駄遣いが起きている。強ければいい。競争を育ている。また、日本のまわりに戦争を起こそうとする力を感じてしまう。電気を使い過ぎていないか。 自分の生活から節制を始めたいと思います。
わたしたちは神様に何を求めているのか。 救いを求めている。まことの平和を求めている。争いのない社会、希望のある明日を求めている。そういうことを求めているのではないか。
考えると、自分が大切にされたい、仲良く暮らしたい、そういうことを求めているように思います。
いイエスは言われるのです。 あなたはそのために何をしてきましたか。どんな荷物を背負いましたか。いや、今、どんな荷物を背負っていますか。
この神殿を見なさい。イスラエルの信仰の歴史、神殿を大切にする思い、神殿を飾りたい思いがここに集まっている。このすばらしい神殿でさえ、時間の中で壊れて行く。あなたたちの大切なものが、もしあれば、それも時間のうちに壊れてなくなってしまう。出来事にこだわりの心を持つのをやめなさい。一つ一つのこだわりから解放され、出来事を大らかに受けとめる。嫌な出来事、苦しい出来事も大らかに受けとめる。 人に対しても、自分に対しても「だめ」だと言わなくなる。
わたしたちは使命感のうちに生きているように思います。使命感に縛られている。自分に厳しさを無意識のうちに求めている。相手のだらしなさを許せない。少し前に、学生運動がありました。正しい社会を作って行こう。テレビ、ラジオ、新聞が毎日報道する。社会に大きな影響を与えた。今の社会は同時よりもよくなっていますか。社会を考える、自分を考えるようになっていますか。社会悪がこんなに増えていると思います。一番怖いのは子供が自分たちで遊べなくなってきたことです。学校に一人で行けなくなって来たことです。
大きな問題がある。しかし、一つ一つを自分の問題として考える。そのために荷物を背負う。
一人で背負っても、富士山を作るのにお前が一握りの土くれになれと言っているに過ぎないじゃないか。そんな悪口を言われそうです。たった一握りの土塊でもいい。土塊になりたいと思います。
教会の煉瓦になる。煉瓦が集まって教会が見えるものになる。煉瓦が働いて、教会が生きる。生きている煉瓦になりたいと思います。
年間第32主日C Ⅱマカバイ7・1-2,9-14 Ⅱテサロニケ2・16-3・5 ルカ20・27-38 19-11-10
人は我儘。自分の思いのうちに生きていたいと思う。地域にはその人たちだけの風習がある。体の不自由な人を苦しめるような考えがまだ残っている。皆をまとめるのは大変です。地域をまとめる、国をまとめる、世界をまとめるのは本当に大変だと思います。皆の自由を制限しなければならない。法律があります。法律はやってはいけないこたが列記されている。そして、やってはいけないことをしたら罰が与えられる。人の中の決まりが法律です。人が歴史を通して法律を作って来た。
法律の文字を逆さまにすると律法になります。おもしろいですね。法律は人が作った規則です。律法は神様が作った決まりです。律法は神様のみ心、だから律法を人が変えることは出来ない。それほど重要な、重さを持った決まりなのです。
サドカイ派の人たちがイエスに尋ねます。 ある夫婦の夫が死んでしまった。子供がいない。そんな時、奥さんは夫の兄弟の一人と結婚しなければならないと律法にはあります。その兄弟と結婚した。しかし、子ができない。その夫が死んでしまった。また兄弟と結婚する。夫は死ぬ。子ができないから、ついには7人の兄弟と結婚した。そして奥さんも死んだ。復活の時、奥さんは誰の妻となるのでしょうか。
サドカイ派:現実的、合理的、世俗的な考えをします。宗教的には保守的です。モーセの律法しか認めない。ファリサイ派のように神様を求めない。天使なんかいない。復活もない。霊もない。摂理についても否定する。
あなたは復活の世界がどういうものが分かっていない。復活の世界、神様の世界だから律法が完全に行われている世界ではないでしょうか。争いのない、平和な世界。すべての出来事が律法のとおり行われている世界ではないでしょうか。
イエスは言われる。復活の世界はこの世の出来事を超える世界です。この世の出来事が律法の通り、律法が完全に行われる世界ではない。復活の世界、天の国の世界には文字で書かれた、文書の律法はない。天の国の者は天使に等しい者であり、神の子となるのです。わたしたちが復活の世界、天の国に入った時、人は、わたしたちはイエスの姿に似る者になるのです。わたしたちのこの肉の体は消え、全く新しいものになります。天の国で新しいいのちに生きます。
この世であっても、天の国であっても神様はお一人です。神様によってこの世に生き、天の国に生きるのです。すべての人は神様によって生きているのです。
すべてのものは神様のみ心のうちにある。すべてのものは神様のうちに生きている。
年間第31主日C 知恵11・22-12・2 Ⅱテサロニケ1・11-2・2 ルカ19・1-10 19-11-3
イエスはエリコに入られた。エリコの町にザアカイという徴税人がいました。ザアカイは徴税人の頭、金持ちです。徴税人はイスラエルの人から税金を取ってローマに納める、イスラエルの人を苦しめる仕事です。仲間を苦しめるの裏切り者と呼ばれている、だから皆の中に入れない。会堂に行けない。祈りを忘れてしまった。ぜいたくな生活に慣れてしまっている。 イエスという人がこの町に来るという。これまでにもいないような力ある預言者だ聞いている。神様を語る。神様の業を行う。救いを語るという。ザカリアはイエスがどんな人か見てみたいと思いました。ザアカイは背が低い。イエスの周りに人がたくさん集まっている。(心の)背が低いからイエスを見ることが出来ない。そうだ、いちじく桑の木に登ろう。イエスはその木の下を通る。イエスはその場所に来た。イエスはいちじく桑を見上げてザアカイに言う。ザアカイ、あなたの登った木はいちじくの木ではない。その木に登っても、いくら高く登っても神様は見えない。急いで降りて来なさい。わたしのもとに来なさい。今日は是非、あなたの家に泊まりたい。 ザアカイはイエスに会った。イエスに呼ばれた。
高校を卒業して、30年、50年経つと自分が何処にいるのかをが見える。仕事は定年を迎え、人生は何なのかを考えるのだと思います。自分に人生論はあったのか。社会に従順に生きて来ただけだったのではないか。ある人は社会の流れに反対して生きた。社会に反対する立場に立った。しかし、それも年を取ると社会に帰って来た。食べなければならないからです。今、自分を見つめて行きたいのです。今、自由に生きる。今、自分の命を見つめる。
自由:「母ちゃん自由っていったい何なんだ。」すると、母ちゃんは僕を捕まえ、ロープで強く縛り始めた。「母ちゃん痛いよ。何するんだよ。」ロープでぐるぐる巻きにされた僕は泣き叫び、母ちゃんに助けを求めました。 その時僕は気づいたのです。そうか、僕はずっと自由だったんだ。
ザアカイ、自由に祈っていいんだよ。祈れないものを一つずつ外してゆこう。ザアカイ、生活の中に安住していて、祈れない生活にしてしまったね。生活を見つめるのではない、いのちを見つめよう。
「完全な幸せ」
王は言った。「完全な幸せを一枚に絵に表現してほしい。わたしが気に入った絵に心からの賞を与えよう。」たくさんの絵が集まった。王は2枚の絵を選んだ。王はじっくり絵に見入った。
一つは湖を囲む自然の絵。青く静かな湖、澄んだ空、白い雲、木々が茂る。遠くに緑の山々がある。この絵は本当に自然の美しさ、静けさを表している。
もう一つの絵は、険しい自然が描かれている。山々は、あるところには草木がない、空は荒れている。豪雨に見回れ、落雷があった様子が描かれている。山からの川は流れが急である。この絵には平和が感じられない。王はじっと見つめる。激しい河の流れの中に一つの岩があり、その岩の割れ目から、木が生まれていた。その木の上に鳥が集まり、巣の中には一羽の鳥が何の恐れもなく、安心した様子で羽を休めている。
王はその絵を選んだ。王は言う。幸せとは雑音、困難、つらい仕事、痛みがない事ではない。どんな困難、苦しい状態にあっても、自分の心に「平和がある事だ」これこそ「完全な平和」ではないか。
純粋の中に不自由がある。
諸聖人 祭日<白> 19-11-1
「すべての人よ、諸聖人の祝日を祝い、主のうちにあって喜べ。神の使いも喜び歌い、救い主イエス・キリストをほめたたえる。」
天に行かれた聖人たちがわたしたちを見ています。歯がゆい思いをもって、わたしたちのために祈っておられると思います。父さんが自分の子供たちを見るように、温かく、厳しく見ています。
父さんの心を受け取っておくれ。まことの喜びを感じておくれ。
[黙示録7・2-4,9-14]
神の僕たちに刻印を押す。刻印を押された者は刻印を押したその名のものになるのです。洗礼は聖霊によって心と体に刻印を押されるのです。その時から洗礼を受けた者は神様のものです。神様の道具です。神様の道を歩むのです。 その日、天使は神様の刻印をもって、神の僕に刻印を押されます。白い衣を身につけ、なつめやしの枝をもった大勢の群衆が、玉座の前に集まって叫んでいる。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊のものである。」
なつめやしは勝利と栄光のしるし。白い衣は小羊の血で洗われたものです。
[Ⅰヨハネ3・1-3]
天の父はわたしたちを愛しておられる。わたしたちを神の子としてくださった。神の子がどうなるかはまだされていません。御子に似たものになるという事を知っています。
御子が清いように自分を清めます。
[マタイ5・1-12a ]
イエスは群衆を見て山に登られた。腰を下ろした。弟子たちが近くに寄って来た。イエスはっ口を開き、教えられた。天の国を語られるのです。天の国への道は:貧しさを背負いなさい。悲しみを悲しみなさい。柔和でありなさい。憐れみ深い者になりなさい。義に飢え渇き、義のために働く。平和ために働くものになる。心の清いになりなさい。
天の国は愛する心を求めている。自然を愛し、人を愛する者は天の国が見える。苦しみを受け取った者に天の国が見える。苦しみを受け取ったものに安らぎの場が与えられる。
諸聖人を思い巡らし、聖人たちを記念し、祝います。 神様は聖人たちを通して、神様のみ心、神様の慈しみ、憐み、神様の愛を現わされました。聖人を讃えることは神様を讃えることです。
神様と出会った。神様の姿を見た。そのみ心を知った。聖霊である神様はその人の中に入られた。神様を語りたい。神様のみ心を行いたい。イエスと共に歩きたい。
ある人が聖なる人に尋ねます。「聖人になるにはどうしたらよいのですか。」その聖なる人は答えられました。「望みなさい。望みさえすればいいのです。」
ある人が畑を熱心に耕している。神様の思いのうちに働いている。しかし、十分に収穫が出来ない。その人は後ろを振り向いてしまった。「あなたは何を求めているのですか。」
体が不自由である。体が丈夫であったら、神様を拝むよ。神様のために働くよ。でも、この体では何も出来ない。「あなたは何を求めているのですか。神様はあなたの心を求めています。心を神様に向けなさい。その時、何をしたらいいか分かる。」
与えなければ、神の道を歩けないのではない。今、ああなたが神様を思い、神様の思いのうちに自然を見る、人を見るのです。自然に感謝する、人に感謝するのです。その時神様が見える。聖人たちが見えます。
与えなければいけないのか。自然に与える、人に与えるのではない。自然のために働いてしまう。人のために働いてしまうのです。
聖人たちもあなたと同じ弱さを持っています。皆弱い者です。苦しんだ、悲しんだ。だからあなたも歩苦しい時、悲しい時彼らを思いなさい。 霊名の聖人を大切にしなさい。
年間第30主日C シラ35・15b-17,20-22a Ⅱテモテ4・6-8,16-18 ルカ18・9-14 19-10-27
第一朗読シラ書を読みました。 主は裁く方です。いや、神様である主は父さんである主は子の悪いところを見つけて裁く方ではないと思います。神様の前に出ると、神様の前にいる自分は神様の大きさに圧倒される。思わずひれ伏してしまいます。神様によって生きていた自分がいた。神様に包まれていた自分がいた。神様の前で自分を見つめます。自分の小ささを思います、自分の弱さを思います。 あなたは何を考えていますか。あなたは何を行ってきましたか。
主は子を包む愛によってその人を見る。愛がその人を裁いているのです。神様の前に出る。それが裁きになっているのではないでしょうか。
もう一つ、神様は厳しい事を語ります。貧しいから、体が不自由だからと言って特別に恵みが与えられるのではありません。貧しい生活の中でどのような生活を送っているのですかと問われるのです。貧しいから感謝できないのですか。貧しいから気が立って、刺々しくなってしまうのですか。貧しくても、今日みんな一緒にご飯が食べられる。嬉しいね。貧しくてご飯が食べられない人がいた、その人を呼んで一緒に食べようよ。こんな社会を変えてゆこうよ。
体が不自由だから不平を言う。当たり前だと思ってしまう。体が不自由だ、神様の不平等だというお恵みだ。不自由だから自由とは何かを考える。何故わたしだけこんなに不自由なのか。人の手を煩わせないと、食事も出来ない、ベッドから車椅子にも乗れない。自分に不自由さを与えた神様の心を思うのです。お前を愛するから不自由を与えた。わたしに祈る、強く祈る。わたしに求める。強く、強く求める。自由とは何か考える。不自由とは何か考える。自由、不自由どんなでも、人は神様のうちにいる。怒っても、楽しんでも、感謝しても、神様のうちにいる。
貧しいから、体が不自由だから自分のことしか考えていなかった。自由とは感謝すること、隣人を思うことではないかと思うのです。 ますます神様に感謝することが出来るのです。
謙虚になりなさい。今を感謝するのです。そして、人のために祈る、人のために働くのです。人は皆、神様の道具です。自然のため、人のために働く、それが謙虚ではないでしょうか。
ある施設に競輪、競馬から施設への寄付の銅板が飾られていました。えっと思いました。今はテレビでも競馬の宣伝、競艇の宣伝をやっています。あまり悪い事だとは思っていないかも知れませんが、わたしたちの時代はあれは博打だと言って良くないことだとされていました。しかし、やはり、競馬、競輪、競艇にのめり込んではいけないと思いますね。
評論家は言います。競馬、競艇などの日本中央競馬会などが、自分たちの罪滅ぼしのために多額の寄付をしているのだろう。そんなに偉いことではないんだよ。厳しい意見です。
ちょっと待ってほしい、そうかも知れない。しかし、寄付は嬉しい。嬉しいどころではない。寄付があってよかったというところもあるのです。施設にとって何百万の寄付は有り難い。そのお金は正義のお金ではないという。そうですか、それなら先生たち、あなたたちも積極的に寄付をしてほしいのです。障害者の施設はたくさんあります。たくさんある施設が寄付を求めています。
施設がある事は知っているが、あまり関心がない。頭の中でしか考えていない。しかし、競馬、競艇が寄付するのは、後味が悪い。
ファリサイ派の人と同じ考えだなと思うのです。自分たちは正しい事をしている。皆に正し道を歩むように勧めている。収入の10分の1を献げている。週2回断食している。毎日祈っている。礼拝、典礼を大切にしている。律法を守っている。自分の生活には誰にも遜色がない。
徴税人が神殿から遠く離れて、祈っている。ファリサイ派の人はそれを見た。彼らは祈っても無駄だよ。今の職業をやめなさい。徴税人はローマのために働いている。我々からお金をむしり取ってローマに持って行く。我々を裏切っているのだから。
道路工事、等、肉体労働をする人が少ない。介護の仕事は厳しい肉体労働です。外国の人たちが増えているようです。わたしたちがその仕事に積極的に関わらなければいけないのではないですか。わたしたちは言います。わたしたちは考える仕事をしたい。
徴税人は祈っている。熱心に、いや、必死に祈っている。わたしは今の生活は苦しい。会堂に行けない。イスラエルの道、正しい生活をすることが出来ない。神様、この苦しみを受け取ってください。道に迷っているわたしを助けてください。
神様はどこにいますか。神様とどこでつながっていますか。
心の思いでつながるのではないですか。正しい生活、律法による生活ではない。律法による善ではない。心から神様につながる。心で善い事を行うのではないですか。
文字による律法によってファイサイ派の人は正しい人。徴税人は悪い人。
神様は徴税人の心を受け取った。ファリサイ派の人の祈りは神様に届かなかったのです。
心のない祈りだったからです。
わたしたちのまわりにいろいろな出来事が起こっています。出来事はすべて神様のみ心です。
年間第29主日C 出エジプト17・8-13 Ⅱテモテ3・14-4・2 ルカ18・1-8 19-10-20
「気を落とさずに絶えず祈らなければならない。」
一人のやもめがいました。神様、裁いてください。こんな苦しみを与える人を、神様は許すはずがない。正しく裁いてください。やもめは執拗に、必死に、絶えることなく祈り求めます。ついに恵みが与えられた。わたしが受けたこの恵みを、わたしだけのものではなく、隣人のために使います。そして、自分の力によって自分を豊かにしようとしているその人に、恵みの豊かさを教えてください。あなたも神様の力、支えの中に生きているのですと知ったらいい。
あなたは力がある、知識もある、物も持っている。あなたには隣人を支える大きな力がある。人を支える素晴らしさを味わったらいい。自分が支えられて、豊かに生きているように、わたしがあなたを支える力となる。支え合って心が豊かになる。
そのお方は人を支えるために、恵みの尊さを知らせるために、命の大切さを知らせるために、愛の重さを知らせるために、ご自分の命を捨て去りました。神様への献げものとなさいました。
自分が苦しんだのは、いや、苦しみを受ける道を選んだのは、苦しみを逃げてはいけなかったからです。その人たちが生き生きと生きるために、自分たちも愛されている事を知らせるために、あなたたちも神様の命が与えられている事を知らせるために、人の子イエスは十字架の上で苦しみながら命を失う刑が下されたのです。
その夜、捕らえられ、ヘロデの屋敷、ポンティオピラトの屋敷と連れ回されました。そして、ローマの判決。十字架につけよ。ユダヤの信仰の仲間の判決ではない。ユダヤからローマに渡された。仲間から外され、ローマに引き渡されたのです。そして、血が流れるほど、背中を鞭で打たれました。十字架を担いで人々の中を、人々の前を歩かされ、ゴルゴタに着きました。そのお方イエスは十字架の上で苦しみながらいのちを取られました。
気を落とさず絶えず祈られた方は、そうだ、イエス様ではないですか。
詩編を輪読する会がありました。指導神父さんは休憩を取って、有志と一緒に体の不自由な人たちの施設に行きました。一人一人を見舞います。こんにちは、会いに来ました。静かに会話する。ある人は車椅子のおじさん、その人が言います。口ごもりながら言います。その人は全身が動かない。わたしは神様に出会ったと思った。しかし、この病気は治らない。なぜ俺だけがこんなに苦しいのか。癒される恵みは俺には来ないのか。神様はいるのだろう?わたしを見てくれているのか。その神父さんは黙って聞いていた。そして静かに祈り始めた。
「アベ・マリア 恵みに満ちた方。……」
気を落とさずに祈り続けなければならない。
わたしはあなたの友。あなたと深く結ばれたい。あなたはわたしを求めて祈っている。求める、求める、ずっと求めた。わたしの心はあなたのもとに入る。わたしの中に生きなさい。
祈り果てた時、神様が見える。今のわたしが幸い。祈ることが出来た。祈ることを知った。祈り疲れる程、何回も祈った。今、いろいろな人たちに支えられている。特にわたしは支えられている。助けながら食事をする。助けられながら排便する。全部支えられている。感謝。わたしのまわりは感謝でいっぱい。神様の恵が見えた。まわりの人たちが見えた。感謝が生まれた。
年間第28主日C 列王記下5・14-17 Ⅱテモテ2・8-13 ルカ17・11-19 19-10-13
重い皮膚病はつい最近まで特別な病気でした。そのために施設がありました。特別という言い方は良くないと法律が変えられました。その人たちは無残な姿になっています。近寄ろうとも思わない。以前に話しましたが、毎月一度、その施設にミサに行きました。その人たちと仲間になる。一緒にお茶を飲む。話し合いがある。抱き合ったりします。
重い皮膚病の人たちの心、村の人々の心、そしてイエスの心を思い巡らしたいと思います。
イエス様の時代、その人が重い皮膚病を患った時、祭司のところに連れて行かれます。祭司は調査をして、「あなたは汚れている」と言い渡すのです。律法は言います。その人は一人宿営の外に住まわなければならない。(レビ13・45) 社会生活が出来ない。宿営の外に住む、食べ物は親子が用意し、場所を決めて、毎食、持って行くのです。触れてはいけない、病気がうつってはいけない。別な世界にいなさい。人は皆言います。あの人は神様から罰せられているんだと。近寄ってはいけない。
ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎えている。遠くに立って叫んでいる。
父さん、母さんに聞いたのです。イエス様という力のある預言者が、何日、何時ごろ、この村に来られる。その方は病気を癒す力を持っている。悪霊を追い出す力を持っている。
その日、その時が来た。村に入る。集まって待っている。村に入る時、重い皮膚病の人たちは「わたしは汚れている者です」と言いながら歩かなければいけない。それを聞くと、それを見ると、人たちは皆よけて行くのです。
「イエス様、先生、わたしたちを憐れんでください」声を張り上げ、叫ぶ。
イエスは重い皮膚病にかかっている人のところへ行く、その人たちを見つめる。心を見つめる。一人一人の頭に手を置いたと思います。そして言います。「祭司たちのところに行って体を見せなさい」
彼らは祭司のところへ行く途中で、自分の体が清くなったと感じた。癒された。心が弾んだ。喜んで祭司のところへ行く。その中の一人は自分が癒されたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。
「十人皆が清くされたのではなかったか。このサマリア人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」イエスはサマリア人に言われる。「あなたの信仰があなたを救った。」
サマリア人とユダヤ人は対立していたのです。サマリアはユダヤの支配下にはない。サマリア聖書を作成した。我々は我々の神殿を建造する。ゲルジムに神殿を建造した。エルサレムにある神殿に礼拝してはならない。
清くなったサマリア人は、この喜びを感謝を込めて現わしたい。イエスと出会って心と体が清められた。神様と出会った。イエス様と一緒に神様をほめたたえたいと思ったのです。
イエスは言われます。あなたは体を癒された。それ以上に、心が癒された。
サマリア人はサマリアの司祭のもとに向かう。そして社会に復帰する。神様への道を歩きなさい。
ついこの間、葬儀をしました。悲しみのうちに一緒に生きた喜びを思い巡らします。天の国に行かれた。それを信じます。ついこの間、ある方の7回忌の追悼ミサをしました。天の国で生きている。昨日一日、今日、明け方に至るまで、力ある台風が襲いました。台風で苦しんでいる。もうこの家には住めない。こんな苦しみはもう嫌だ。 そうです、全く始めから出発したらいい。
年間第27主日C ハバクク1・2-3、2・1-4 Ⅱテモテ1・6-8,13-14 ルカ17・5-10 19-10-6
使徒たちがイエスに言います。「わたしどもの信仰を増してください」
弟子たちはイエスと一緒に生活している。いつもイエスと共にいる。イエスの話を聞いている。イエスの業を目の前に見ている。イエスと一緒にいることが感動を与える。しかし、イエスと一緒に歩いている、その重さがない。イエスの中に入れない、そんな心持ちがあるように思います。イエスの信仰の道に入りたい。信仰がわたしたちのうちに芽生えますように。本当の信仰の道を歩みたい。
信仰とは、自分の内から外に出て人と接することです。自分の信心を現すのです。信心が深ければ深いほど、あなた自身が大きな信仰の力となります。深い祈りの生活を送りたい。聖書を読みたい。 信仰とは愛の行いです。神様から、あなたには愛する人がいますか、と問われています。隣人をあなた自身のように愛しなさい。これが、わたしからあなたたちに与えている新しい掟です。
その人を大切にする。その人の生きる命を大切にする。その人の求めていることに対応することです。信仰、求めている人に受け入れてもらえること。自慢げに、偉ぶっていては受け入れてもらえない。自分の行いが、その人の負担にならないようになったらいい。その行いが自分の喜びとなったらいい。その行いが損になったらいい。出来ている事を自慢しない。 信仰の道はそんなにも難しいのですか。
なぜ信仰の道を歩むのですか。 あなたが今生きている。今あなたに必要なものは全部与えられているからです。あなたが生きているのは、知らないうちにそれほどまでに支えられているからです。支えられている、今から支えるものになりなさい。
聖書を読む。心で聖書を読んでほしい。わたしは聖書を読んでいるあなたの前にいる。聖書の書き記す出来事の中で、あなたはわたしを囲む人々の中にいる。聖書の中でわたしと出会っている。わたしの心を感じてほしい。わたしの憐れみを心に受け取ってほしい。
ご聖体をいただく。神様がわたしの中に入ってくる。ご聖体をいただけばいただくほど、心と体がイエスのものになってゆく。少しずつ神様のものになってゆく。わたしの心を知ってほしい、わたしの業の思いを知ってほしい。知ってほしい:心と体全体で受け取ってほしい。
信仰の道:自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい。
イエスがそう語られる。それが本当の事でしょう。
神様、からし種の信仰から、出発させててください。
人のために何かをやって行きたいという目標があったらいいと思います。ほんの小さなことでもいい。神様を知った時、イエスの生活の姿を知った時、イエスの道を歩みたいと思った時、神様の道具となったらいい。ずっとよい事を続けて行きたい。
小さいけれど、今日、善い事が出来た。
年間第26主日C アモス6‐1a 、4-7、Ⅰテモテ6・11-16、ルカ16・19-31 19-9-29
イエスはお金持ちと貧しい者ラザロのたとえを語ります。
わたしは神様を信じています。典礼に欠席したことはありません。エルサレムに住んでいます。祈っています。律法を大切にしています。この人はお金持ちです。
この人の屋敷の前にラザロという貧しい青年が横たわっています。全身にできものができ、犬ができものを舐めに来ます。食べる物がない。金持ちの食卓から落ちるものでもいい、食べたい。
このお金持ちはひどい人だと思います。その人は紫の衣、柔らかい麻布を着ている。たびたび宴会を催し小羊、子牛を食卓に盛っている。高級なお酒を飲む、毎日贅沢に遊び暮らしている。この人は特別な金持ちかも知れません。 しかし、わたしたちもちょっとそんな願いを持っているかも知れないと思うのです。見栄えのいい一軒家に住みたい。ちょっと色遣いの気に入った服を着てみたい。
わたしが若い頃、一人でセールス、会社に飛び込んで物を売る、そんな事をしようと思ったことがあります。その時、ちょっとお金がかかりますけれど、コーデロイのスーツを買いました。黄色の下地のしゃれたネクタイです。セールスマンが来た時、服装を見る。品の良い服装に人の良さが見えるのではないかと思ったのです。
服装に気を使う、食べ物に気を使う、わたしたちの日常の生活ではないかと思うのです。自分の生活がお金持ちの世界に入っていないかそれを考えたいと思います。
お金持ちの生活を送っていると目の前のラザロの生活が見えないのではないかと思います。
ある青年と親しく話すようになりました。その青年には信仰はないのですが、偶然、度々会うのです。何回か会ううちに話をするようになる。その青年は仕事がない。仕事を辞めた。捜している。今まで3,4回仕事をやめ、仕事探し、働いている。しばらくして、青年は言います。バスの運転手になりたいから、免許の講習に行っている。大きな会社に就職したい。ある日、免許を取り、就職できた。しばらくして、また問題が起こったという。人間関係がうまく行かない。年をとって新規採用。上手に出来ない。そしてその会社をやめてしまった。ある時、電話があり、お金を借りたいという。3000円ぐらい。そうか、こっちに来なよ。3000円を貸した。ややあってから、また電話があった。お金を借りたい。いくら。3000円。来なよ。3000円貸した。そして言う。もうお金の貸し借りはやめよう。今度は貸さないよ。だいぶ経ってから、アパートの契約が切れる。継続にお金がかかる。今持っているだけでは、足りないから金を貸してくれ。心を鬼にして、駄目だよ。金はもう貸さない。何言ってんだよ。あんたは神父じゃないか。困っているのに貸さないのか。それから、教会の悪口を言い始めたのです。じゃあな、と言ってしばらくして、話している途中電話を切ったのです。何度か電話があった。悪口を聞いた。 新しい赴任地に来たが、たまに、電話があった。もう電話はしない。今は全く縁が切れた。
ふと、この青年もわたしの目の前にいたラザロではないかと思ったのです。このラザロは悪いラザロに見えました。この青年は自分にとって荷物でしかない。普通に接した。神様の事など話さない。求めても求めても手に入らないから、悪口を言う。言いたい放題怒鳴り散らす。疲れるから行き愛は止めた。もう、あなたはわたしの友達ではない。ラザロの心を見ようとはしなかった。見たくなかった。自分の心の中に入れて、考えようとはしなかった。その者と同じだった。怒り、優しさ、自分の世界。自分の思いの中に生きている。金持ちの世界だったと思うのです。
間に話したと思うのですが、父さん、母さんと一緒に生活出来ない子供たちの施設があります。その施設とかかわりがありました。8月の始め、その子供たちが興津海水浴場で合宿があると聞いて、車でその家まで行きました。鴨川から戻るようになる所です。ナビゲータでは2時間ぐらいとの案内です。道に迷い3時間と少しかかりました。車がその家の前につくと、ちょっと離れた所にいた青年が急に家に入りました。合宿の青年だと思いながら、家に入りました。その青年は高校2年生でした。明るい青年です。海を眺め、青年たちを眺め、夏の日を飲んびり過ごし、お昼を一緒に食べました。 その青年たちの心にある苦しさを知っている。施設の中では自由に生きている。就職する。社会の中で人生が始まる。自分を見つめる。父さん、母さんを見つめる。社会を見つめる。そのような生活を知っていながら、青年たちの事を20数年思いもしなかった。ラザロを見ていなかったんだと思ったのです。 その青年に手紙を書こうと思います。
お金持ちの生活になっていませんか。ラザロが見えていますか。
キリストの言葉に心の耳を傾けていなければ、何も見えない。
まことのいのちは何か考えない。
まことの愛は何か、まことの父、母は何か、
まことのつながりは何か考えない。
年間第25主日C アモス8・4-7 Ⅰテモテ2・1-8 ルカ16・1-13 19-9-22
「不正にまみれた富について忠実でなければ、誰があなたがたに本当に価値のあるものを任せるだろうか。」
不正にまみれた富に忠実になるのですか。神様は正しいものでありなさいと言われているのではないですか。不正を退けなさいと教えられている。第一朗読アモス書はお金を儲けようとしている商人を非難しています。律法によれば新月祭、安息日に商売をしてはいけない。穀物を売りたい、麦を売りつくしたい。早く新月祭、安息日が過ぎ去ればよい。偽りの天秤を使っても、もっと利益を得たい。お金の力で弱い者、貧しいものを安く買い取ろう。 主はこの時言われているではありませんか。「わたしは、彼らの行ったすべての事をいつまでも忘れない。」
不正にまみれた富に忠実になりなさい。イエス様、あなたの教えられることがよく分かりません。
神学生の時、神父さんに質問したことがあります。もう40年ぐらい前の事です。日本は経済大国になっています。しかし、今も、もっと経済的に大きくしようとしている。日本の企業は儲けることを第一にしています。働きなさい、働きなさい。わたしが働いていたころ、もう50年も前になりますが、土曜日も1日の労働でした。残業が1か月50時間ぐらいは当たり前でした。わたしの勤めていた会社は、残業50時間以上の賃金は、その月に支払わない、翌月に回すというものでした。当時は残業は当たり前の社会でした。お酒を飲んで家に帰る。仕事をするのは自分の生活があるからというより、会社のために働いたのです。会社が利益を出す。生活を味わう、生きる喜びを味わう、それは仕事につながらないよ言われてしまいます。それを変えなければいけない。それが第一ではないですか。 神父さんはハンガリーの出身です。神父さんは言われました。言われたことを考えました。日本は経済的に豊かで、国として強い。お金を持っている。東ヨーロッパの国は貧しい。経済力がない、弱い国です。日本の人たちはお金がある。お金のある生活を考え、生活を変えたらいい。豊かさをどこに使っているか考えるのです。そのお金を発展途上国のために使ったらいい。援助を必要としている国のために使ったらいい。助ける者になったらいいのではないですか。 それが行われるようになったら、仕事のやり方も変わってくるのではないですか。会社も労働はわたしのためと命じている。会社員も自分の利益のために働いている。会社のために働いている、それが自分のためになっていると思っている。会社も、人の、労働は人が豊かになるためと言いう余裕がないのではないですか。
「日通」と言いう大きな会社がありました。これももう50年ぐらい前の話ですが。その会社が利益を上げている。重役のボーナスに金の延べ棒が密かに支払われたという新聞記事が出ました。不正に得た利益で金延べ棒がもらえた。その時わたしは5,6回続く講座に出ていました。夜、サラリーマンが勉強するのです。その中の一人がその会社に勤めていた。その人は会社を辞めました。恥ずかしくてその会社に勤めてられないと言いました。
その人は真面目に勤務していた。何も悪い事をしていない。
リクルートという会社が大きな不正を起こした。社会問題になった。多くの社員が会社を辞めた。 あなたはその会社の中にいて、不正な事をしましたか。
少し前の日本は経済でアジアを侵略していると非難がありました。わたしたちは豊かな生活を味わっている。悪いことにかかわっている。でも、何も出来ない。
不正な富でむしろ良い事を行いなさいと教えられたと思うのです。今、働いているところで正直に働くのです。心を込めて仕事をする。喜ぶ仕事ができればいい。仕事を愛する。隣人を愛する。
神様の前に善い事を行って行きたいと思います。
年間第24主日C 出エジプト32・7-11,13-14 Ⅰテモテ1・12-17 ルカ15・1-10 19-9-15
イスラエル、わたしはこの民を選んだ。イスラエル:神を知る者。神を求める者、神に従う者。神のみ心を告げ知らせる者。それなのにイスラエル、今、あなたはかたくなにわたしを見ようとしない。わたしの言葉を聞こうとしない。あなたがたは、まことにイスラエルなのか。
神様はわたしたちに言われます。あなたはキリストに出会ったのではないか。キリストに神様に姿を見たのではないか。キリストこそ神様の姿。キリストは神。そして、キリストに従う約束をした。洗礼を受けた。洗礼の道を歩きなさい。その道は神の国への道。細い、石だらけの道です。荷物を背負って、キリストに従って歩く。まことにキリストの道を歩いていますか。
百匹の羊がいる。そのうちの一匹がいなくなった。九十九匹は皆、優等生。牧者・先生の教えを守る。静かに暮らしている。一匹はその枠のうちにいるのがたまらなく嫌になっている。ついて行けない。一緒にいたくない。九十九匹は一匹を見ようとしない。いなくなっているのも気づかない。仲の良い者どうし付き合っている、仲良く話している。
善い牧者は九十九匹のその心を悲しんでいた。一匹は九十九匹から離れた。九十九匹は一匹を見捨てた。自分たちに合わないものを仲間に入れない。九十九匹は自分たちはまことに優等生だと思っているのか。一匹を見捨ている、それに気づかない。お互い知る者となりなさい。
徴税人、罪人がイエスのところに集まってくる。イエスは徴税人の仲間なのか、罪人の仲間なのか。それどころか、徴税人、罪人と一緒に食事までしている。食事までする深いつながりを持っている。イエスは自分のもとに集まってくる徴税人、罪人を排除しないのです。徴税人、罪人の苦しみ、悲しみ、悩みを聞きます。拒まないで聞きます。一緒に会食をする。彼らも神の国の喜びを味わうのです。もし、イエスを心で受け入れなければその人はイエスから去って行きます。厳しい事を思い、示しているイエスはわたしたちを拒まない。優しさのうちに、柔らかさのうちに、温かさのうちに厳しさを示している。
ある家族の内、一人が、次男の足が不自由でした。不自由なまま生まれた。小さい頃は兄弟、姉妹一緒に遊んだ。誰も、お前は足が悪いから一緒に遊べないとは言わない。そんな事は思いつかない。兄弟だから助け合って過ごす。次男は自分がみんなと違うなど思わない。父さんも母さんもそんなことは指摘しない。小学校に入る。ある時、「びっこ」と呼ばれた。足が動かない事が悪い事だと知った。心に石が投げ込まれたように思った。「母さん、僕はなぜ生まれつきびっこなの。」
「お前の体がびっこ。神様の考えが何かあると思います。」「僕はこんなの嫌だ。皆と一緒の方がいい。」 少年は高校生になった。自分の世界を造っていった。ますます本を読んだ。ますます音楽を聞いた。ますます絵画を見た。自分の世界が大きくなって行く。それを楽しんだ。
ある日、障害の授業を聞いた。障害と言うのは心、体が不自由だという意味です。障害がある。障害がある分不自由です。障害の人たちを応援しなければいけません。社会は障害者に対して配慮しなければなりません。先生のそんな話を聞いた。
ついに青年は自分の持っている不満を神父さんに話したのです。障害者は普通の人に見られていない。弱いものなのですか。神様は人に、僕に障害を与えられた。これは何なのですか。神様はそんな悲しい出来事を造られるのですか。
神父さんは言います。今君は高校生。受験戦争、受験の競争の中にいるんだね。この世の競争だ。優秀なものがよい。人よりも優秀になりたい。よい能力を努力してもっと伸ばす。悪いところを努力して直す。それは善いように見える。でも、わたしたちの考えは少し違う。知識を得て偉くなるのかな。音楽をよく聴いて、音楽を知っている、絵画をたくさん鑑賞して、絵の世界を知るようになる。あの人は何でも知っている。その人は何を目指しているのだろうか。この社会の中で偉くなりたいのではないかな。能力があれば高い賃金で雇ってもらえる。課長、部長、上司になれる。努力して、ぶつかりあうのではないかな。 そんな社会じゃ障害は力不足になる。戦えば負ける。障害は損するね。 わたしたちはイエス様と出会った。神様と出会った。神様の思いを聞いたらいい。皆が喜びを味わう世界を造いなさいと言われる。子供の時、障害なんて思わなかった。兄弟、姉妹が一緒になって遊んだ。今、大人になっても皆が兄弟になればいい。出会った人が皆兄弟になれたらいい。兄弟が障害者。兄ちゃんが足が悪い、助けるのは当たり前だ。姉ちゃんの耳が聞こえない。助けるのは当たり前だよ。だって兄弟だもの。君は、足が悪い。子供の頃、当たり前に助けられていた。助ける、助けられる。当たり前。その心がみんなにあったらいい。
能力がある。力がある。大いに働く。その人は能力があるから、力があるから、体の不自由な人のために働ける。体の不自由な人、隣人のために働ける。体が不自由で何も出来ない。感謝を心であらわしなさい。人のために祈りなさい。大いに祈りなさい。これこそ一番大きな働きです。心も体も不自由で何も出来ない。その人が目の前にいる。その人のために祈ったらいい。その人のために世話をしてあげられたらいい。その人は何も出来ない。しかし、その人は神様から命を与えられた。役に立たないからといって命を奪うことは出来ない。
障害者はこれからの世を造って行くしるしだと思う。人のために働く。自分の心の豊かさがそこにある。皆が、生きている自分に何が出来るか考えたらいい。
年間第23主日C 知恵9・13-18 フィレモン9b-10,12-17 ルカ14・25-33 19-9-8
神様のみ旨を知る者がいるでしょうか。神様のみ心を悟るものがいるでしょうか。 (人が生まれる時、神様は一番大切のものを人にお与えになります。生きたい心、ありがとうの心です。)
疑問が起こった時、わたしたちはその場、その時、神様に向かって問うのです。神様のみ心は何ですか。わたしたちは何で造られたのですか。しかし、神様の、深いどこまでも深い、神様のみ心を知ることは出来ません。
丁度、わたしたちが命の何であるかを知ることが出来ないように。わたしたちの考えはいつも完全ではありません。不十分です。
わたしたちは体によって、わたしたちの心を現わします。今、わたしたちは体を大切にするあまり、心の純粋さを失っているように思います。わたしたちは体によって悩んでいるように思います。
しかし、体を大切にする薬がいかに多いかを知りました。顔のしわを伸ばす薬、顔のシミを見えなくする薬がある。便秘の薬もあるのです。その薬を飲んだらどさっと出る。婦人からそんな言葉を聞きたくないと思ってしまいました。若さを保つ薬がある。今まで通り食べても太らない薬があります。以前と以後の姿を見せるのです。
体によってわたしたちは自分を現します。人との付き合いで、聖なる教会の中にあっても、まことの神様のみことばを忘れてしまうこともあります。
―教会の事であっても真面目過ぎるのは問題だな―
わたしたちは地上の事で精一杯です。地上の事で精一杯なら、天上の事をどのように思い浮かべることが出来るでしょうか。 神様が霊を送ってくださらなかったら、力づけてくださらなかったら、わたしたちは誰も神様を知ることは出来ません。神様、あなたはわたしたちにまことのしるしを送られました。その方はまことの命、まことの愛を示されました。その方は神様の思いを示されました。神様の憐れみを行われました。わたしたちに神様への道をまっすぐ歩くように示されたのです。
心が神様のものになったらいい。体が心のままに動いたらいい。心と体が神様のものとなったらいい。心を空にしなさい。自分を捨てなさい。そうすれば体は神様のみ心のまま動く。
愛は自分を捨てることです。自分の持っているものを与えることです。苦しんでいる隣人を見たら与えたくなってしまう。心から損をしなさい。
福音書を読んで思いました。イエスは言われる。「この世のものを憎みなさい。父、母、妻、子供、兄弟、姉妹、更に自分の命であろうとも、これを憎まないならわたしの弟子ではありえない。」
神様は人の命を与えられ、この世に送られる。この世は神様の力に満ちている。人に必要なものはすべてこの世にある。この世にあるものを、必要なものを人は労働によって受け取る。自然によって人は満たされる。人によって人はどのように生きるかを知る。
しかし、イエスは言われます。この世は今や、悪の誘惑に満ちている。欲求の戦いの場である。この世の悪の誘惑、欲求の場から離れ、わたしと共に歩きましょう。
あなたは父、母、妻、子供、兄弟、姉妹、自分の命が自分を支えるものとしているのではないですか。それは子供の世界です。子供は父、母、兄弟、姉妹の支えがなければ生きて行けない。支えとして必要です。なくてはならないものです。あなたも子供の時、周りにいる父さん、母さん、兄ちゃん、姉ちゃんを喜んだ。
しかし、あなたは社会を作って行く大人です。あなたは受け取るものではなく、与えるものなのです。
今、あなたは自分の命を見つめる、そして、神様のいのちに生きる。あなたを支えてくれたものすべてに与えるものになるのではないですか。与えられるものではない、支えられるものではない、今から与えるものになる、支えるものになるのではないですか。父、母、自分だけを支えてくれる優しさ、思いやりを憎みなさい。自分だけ包まれている、特別であることをやめるのです。
父、母、妻、子供、兄弟、姉妹にも与えるものになる。それが出来なければ、まことの愛はない。
出会う人が求めているものを、生きるために必要なもののために働くのです。
特別に思いやりのある人を造ってはいけない。
この世の中で計算して強いものに味方してはいけない。この世の利益から離れて、損するものになりなさい。目の前に、苦しんで求めている人がいたら与えたくなる。そんな損です。
神様を見つめて、自分の持っているものをすべて捨ててわたしのもとに来なさい。
その時、あなたは十字架につけられている。与えるものになる十字架です。
信仰:イエスと一緒に歩くことではないでしょうか。
年間第22主日C シラ3・17-18,28-29 ヘブライ12-18-19,22-24a ルカ14・1,7-14 19-9-1
安息日は神様を思い巡らす日です。日常の生活を離れて時を過ごす。一人で過ごす。家族と一緒に過ごす。心安らぐ日です、喜びに満たされる、すべてのものを感謝する日です。
会食を設ける。きっとお金持ちです。会食は天の国の喜びにたとえられます。仲の良い人たちが集まって、食事を共にする。神様の造られたものを一緒に食べる。話をしながら、笑いながら、食べ物を味わいながら、時を過ごす。招きたい人と一緒の食事が出来る事は本当に嬉しい事です。しかし、食事を共にする基本は家族です。家族が家庭となる。父さんによって食べ物が用意され、母さんによって料理される。父さん、母さん、兄弟、姉妹が一緒になって食事をする。
いつもお腹が空いていたわたしたち子供は食事が一番の楽しみでした。でも、キリスト教と違って食事中お喋りは出来なかった。喋ろうとすると、食べているのに、つまらない事をしゃべるな、とすぐ怒られた。
また、同じたとえですが、あるイギリスの学生が講義を聞いた。イギリス、大英帝国は全世界にキリストの愛を知らせる大きな使命、希望がある。しかし、インドの生命観わたしたちと全くは違う。インドの人たちの貧困は命の問題だ。その青年はインドに行くために懸命にアルバイトした。インドに行って見たい。夏は過ぎ、秋が来た。青年はインド、コルカタ(カルカッタ)についた。ホテルからすぐに、町に出た。夕暮れであった。道路には寝転がっている人、座っている人がたくさんいる。町を歩く人たちは、その人たちには無関心で過ぎて行く。その人たちは食べる物もないという。青年は心が静まらない。その時、少女が寄って来た。食べ物をください。お金をください。どうしたんだ。わたしはもう2日も食べていません。少女は夏の服を着ている。汚れている。青年はポケットを捜す。これしかない。十分にならないかも知れないけど食べたらいい。けれど、あなたの今一番したいことは何ですか。わたしは一度でいいから、家族がみんな一緒に集まって食事がしたい。明るい食卓で、食べ物がたくさんあって、話ながら、笑いながら、お祈りをしながら、父さんと、母さんと、弟と、妹と、みんな一緒に集まってご飯を食べたい。心から笑いながら一緒に食事をしたい。
青年はそれを聞いて心を打たれたのです。
イエスが会食に招かれた。預言者イエスと一緒に食事がしたい。ほかの人も招かれています。
イエス様、ここにお座りください。招いた人が勧める。ほかの人たちはそれぞれ自分の席を選んでいる。教会の人たちも同じだと思います。会食をするので部屋に入る。皆が、ここが上席だね、暗黙のうに了解し合うのです。皆が遠慮し合う。 ここは違う。上座に座れることを誇りに思うのでしょうか。社会に対する貢献度を自ら思い、その誇りを見て貰いたいと思っている。イエスは言われます。上座を気にする。この世の事ではないですか。この世で得をしたいのですか。その人を見る。心の目でその人の心を見たらいい。しかし、自慢しない人は嬉しい人ですね。
一緒に食事をする。嬉しい事です。少年がイエスのところに来ました。僕はもう何日も食事をしていません。イエスは食事をしている弟子たちのところへ連れていった。話をしながら食べている。笑いながら食べている。パンがある。野菜がある。果物もでる。いつの間にか、皆のところに入っている。気兼ねがなくなっている。その少年はイエスと、イエスの皆と一緒に食事をしたことを決して忘れない。
年間第21主日C イザヤ66・18-21、ヘブライ12・5-7、11-13、ルカ13・22-30 19-8-25
毎日の生活の中で苦しいことが起こる、悲しい事が起きる。また、何かの集まりの中でも、苦しい事を押し付けられることがある。悲しい事に出会う。真面目に生活しています。努力しています。ある人は嘆きます。貧しい生活がまだまだ続いている。
神様、わたしたちに恵みをお与えください。苦しみから遠ざけてください。悲しみに会わせないでください。 神様があなたたちを苦しめるために苦しみを与えていると思うのですか。悲しませるために悲しみを与えていると思うのですか。そうではない、ヘブライ書は言います。試練、鍛錬としてとして与えているのです。
それ以上に、苦しみ、悲しみをわたしたちは知らなければならないと神様は考えておられると思います。ある時、自分たちの力では、自分の力ではどうしようもない苦しみの襲われる。それを受け留めなさい。逃げずに受け止める。自分たちの、自分の無力さを知る。 人間関係で苦しみが始まることがあります。挨拶も出来なくなった。その時から、静かな生活が出来なくなった。心の余裕がなくなった。また、自分の失敗によって莫大な借金を作ってしまった。責任を負わされる。何も出来ない。灯の消えてしまった家にいるようなものです。イライラだけが残る。
また、人の力を越える出来事が起きる。大地震が起きた。家が壊れた。火災にあった。持ち物が一切なくなった。 苦しみがある。悲しみがある。そんな時、人の尊厳、命の尊さ、生きる意味が見えなくなってしまう。消えてしまう。
そのすべての苦難を何を受け入れなさいと主は言われるのです。人がいかに小さいかを知るのです。何も出来ない、それを知るのです。辱められる。口もきいてもらえない。相手にされない。それを受け止められたらいいのです。自分の小ささを静かに知る。人の嘲りを静かに受けとめる。屈辱を受け止める。どんな出来事にも対応できる。何ものをも恐れない。器が大きくなるのだと思います。
その時、神様のみ心を行うことが出来る。隣人と共に歩むことが出来るのだと思います。
イエスに、「主よ、救われる人は少ないのでしょうか。」と問う人がいる。
イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るよう努めなさい。」
救われたい:いつも安心がほしいと願っているのですか。危険から遠ざけてください。危険など来ないようにしてください。困難に出会った時、それを容易に解決できる力を与えてください。事故のない生活、すべてがうまく行く生活がしたい、それを求めているのですか。
イエスはその思いを戒めておられるです。 救ってほしいと願えば、天から救いの力がその人に注がれ、平安が与えられる。自分のすべての罪が赦される。そんな事はありません。
救いを求めるのなら、狭い戸口から入り歩き始めなさい。狭い戸口から始まる細い、石だらけの、茨が生えている道を歩く。そして、隣人のための荷物を背負って歩くのです。
救いを求めているのに苦しむのですか。救いは苦しみなのですか。
苦しみを知らなければ救いはない。苦しみを越えて喜びがあるのです。
わたしは神様を知っています。毎日祈っています。寄付をしています。救いは与えられないのですか。神様は言われます。わたしはあなたを知らない。自分の思いのうちに祈っているのではないですか。寄付はあなたの生活の一部ですか。隣人を自分のように愛していますか。あなたの祈りは、あなたの隣人への思いは、わたしに届かない。
静かに、狭い戸口から入り、隣人のために与えるものになりなさい。
神の国の宴につきます。神様と楽しい、和やかな、心温まる食卓に着きます。
年間第20主日C エレミヤ38・4-6、8-10、ヘブライ12・1-4、ルカ12・49-53 19-8-18
イエスは言われます。わたしが来たのは地上に火を投ずるためである。わたしはまことの平和をもたらす。地上が悪との戦いに燃えていなければ、平和は来ない。平和を求めるのなら分裂を知りなさい。家庭にさえ分裂が起こる。
父は子と、子は父と、 母は娘と、娘は母と、 しゅうとめは嫁と、 嫁はしゅうとめと、 対立して別れる。 分裂を知り、分裂を超えて、分裂を飲み込んで平和を知る、平和を作り出すのです。
神様はわたしたちを平和、平安に導かれるのではないですか。出来事が起こった時、おおらかさをもって、優しさをもって、穏やかさをもって、不安な出来事を見つめる。その出来事の中に入って行く。人と接する。そして、その人の考え方の違い、やり方の違いを受け入れようとするのではないですか。 イエスは言われます。自分たちを受け入れようとしないその人たちと平安に接することが出来ますか。父さんだから、母さんだから、表面従って来た。先生だから従って来た。従わせるのは社会の力だ。会社の上司だから、何も言えない。個人的なことにも入ってくる。
自分が考えを持って来た時、おおらかさを持てますか、優しさを持てますか、穏やかさを持てますか、その人たちの考えを全部受け入れることが出来るでしょうか。
争いを避けるために妥協しているだけではないですか。違いを見えるものにしなさい。違いを安心して受け入れるものとしなさい。
(民族、国と国、文化、文明の違い、経済の違いを知っている。違っていい。誇りをもって生きる。経済によって生きるのではない。)
安心して、お互いに、自由に考えを言えるつながりになりなさい。不満、不平を持っていては本当の大らかさではない、本当の優しさではない。本当の穏やかさではない。考えの違いをはっきり分かりやすくする。自分の求めることを口に出すことが出来る。それが平和ではないですか。相手の語らいたいことを聞く。それが平和です。
今、自分が何のために働いているか。何を求めて働いているか。自分にかかわりのあるもの荷関心を持っているか。考えてほしいと思います。
苦しみを受けることを、悲しみを受けることを恐れてはいけない。苦しみの中、足りないものを見出しなさい。悲しみの中に失ってしまったものを思い巡らしなさい。苦しむ自分がいる。悲しむ自分がいる。苦しみ、悲しみを受け取ります。そして大きな器になったらいい。
小学生がお母さんに聞きました。 なぜ戦争はあるの。人を殺すのでしょう? お母さんは平然と言う。難しい問題ね。今度学校に行った時、先生に聞いてみるのがいいわ。そして、お母さんにも教えて。 戦争、平和は自分たちの問題ではないですか。子供の命、自分たちの命ではないですか。
百匹の羊がいた。一匹がこんな暮らしは我慢できないと思っていた。ある時、土塀に穴があるのを見つけた。穴を通って外に出た。自由だ。歩き回った。喜んで歩き回った。日が暮れた。食べ物がない。落ち着いて寝るところがない。牧者は一生懸命一匹を探した。そして見つけた。喜んだ。皆と一緒に喜んだ。しかし牧者はその穴を知って、ふさごうとは思わなかった。
年間第19主日C 知恵18・6-9、ヘブライ11・2,8-19、ルカ12・32-48 19-8-11
「小さな群れよ、恐れるな。」
イエスのまわりに大勢の人体が集まっています。あなたたちは力ある者ではない。あなたたちは、あなたたちを苦しめる者たち、力ある者たちを恐れなくてもよい。彼らはあなたたちの体を傷つけても、それ以上の何も出来ない。清さを奪ってしまう力、貧しさを嫌う力、命の尊さを知らない者たちと戦いなさい。
豊作になったら、新しい倉を造らなければいけないなどと考えたりしない。あなたがたはそれなりに貧しい生活をしている。あなたたちが、もし、豊かな物に包まれている生活をしていたら、あなたたちは物の事に気を使い、力を使います。興味ある物、もっと豪華なものを求めるようになります。物によって自分の世界を造ってしまうのではないですか。
あなたたちは小さく、弱い。小さい、弱い者であることを誇りに思いなさい。小さいが故に、弱いが故に神様のみ心が見える。小さいこと、弱い事の意味が分かる。小さくて生きる、弱くて生きる、神様の恵みを感謝するのです。あなたはあなた自身が貧しいから、貧しい仲間の生活がよく見える。そして、その人たちが生活できるよう応援したい心が湧き上がってくる。応援し合って生きる。一緒に生きなさい。あなたは持ち物を売って施しなさいと今日イエスは言われます。
生きている、生きることが出来る。それを感謝する。ある人は助けがなければ生きられない。その人も小さい、弱い。その人が自分の隣人。隣人が生きることが出来るように与える者になる。自分の地上の富、今、自分が持っている物を与えて行く。それは天に富を積むことです。天に富があるようになる。あなたの心は天に向かいます。富のあるところに心は向かうからです。
勉強して知識をたくさん得る。その知識を自分のために使うのではない。共同体のため、隣人のために使うのではありませんか。 働いて収入を得る。その働きが自分のためでなく、共同体のためであったらいい。自分たちが働いて皆がよくなる。隣人が生きるようになる。
そうとう前の出来事ですが、広島にある障害者施設の人たちがディズニーランドに来ました。その施設長さんはよく言っているのです。障害者施設は出来ない者の寂しい、集まりの場ではない。この体が出来る事をするために前を向いて歩くのです。この体が出来る事を味わうのです。広島から浦安に来た。大旅行です。皆、緊張しながら、いろいろな乗り物に乗った。スリルを味わった。大喜びです。皆にとって大冒険です。しかし、手伝う人は大変です。バスで来た。一人一人、バスの乗り降りの介助。お手洗い。ディズニーランドでの手伝い。しかし、手伝いが大変であればあるほど、皆の喜んでいる姿が嬉しい。皆はもっともっと遊びたい。もう一度来たい。
その人たちが、もし、そばにいたら、その人たちの喜びのために働きたいと思うのではないかと思います。その人たちのために時間が作れたら嬉しいと思います。
わたしたちには体の不自由な人たちの知り合いがいない。吃りで苦しんでいる友人がいない。父さん、母さんと一緒に生活できない、3歳からその施設にいるんだという高校生を知らない。
腰に帯を締め、灯をともしていなさい。自分の世界から抜け出て、周りをしっかり、静かに、丁寧に見なさいと言われているのではないでしょうか。自分を包んでいる社会を見る。自分の中のその灯を点けて見る。灯は外を見る光です。
主人の帰るのを持っている。主人に会う。主人を見つけて、主人の思いを、また、新しい心で受け止める。 主人は言われます。遅くまで待っててくれてありがとう。一緒に食事をしようか。食べながら、飲みながら語り合おう。
社会にはいろいろな人がいる。その人たちを身近に感じる。その人たちのために働く。応援してみる。出会いがあって、その人たちと心のつながりがあったらいい。新しい発見があったらいい。
わたしたちは主人のもとで働く者です。主人の指示に従って歩みます。主人の心を知る者となる。主人の心を行う者となる。主人の世界を味わうために、主人の言葉を味わうのではないでしょうか。
信仰とは、主人と出会い、主人の言葉を聞き、主人の心を見る、触れる、中に入ることです。
信仰とは、主人の望まれている事が、見える、見えないのかかわらず、必ず存在すると確信する。見えない出来事のうちに事実を確信することです。
年間第18主日C [コヘレト1・2,2・21-23、コロサイ3・1-5,9-11、ルカ12・13-21] 19-8-4
コヘレト、集会の指導者は言います。
なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい。
集まりの指導者ですから力がある方だと思います。心配りがある。進んで指導する。ある時、大きな出来事を頼まれた。よし、造り上げよう。皆の力を要請して、善いものを造ろう。苦労する。努力する。時間がかかった。しかし、それに手違いが生まれた。完成するはずが、壊されることになった。そんな筈じゃない。全部が無駄になる。こんなに誠意を持って働いたのに。きちんと計画していたのに。 ふと思ったのです。空しい。なんという空しさ。自分の力はなんと空しいのか。
奉仕をしている。その人は感謝もしない。あなたはわたしたちの本当の助けとなっていない。奉仕をして褒められると思っているんでしょう。心配りが足りないよ。上から目線で発言しているよ。 奉仕をしている安心、善い事をしている安心がある。だからってそんなことを言われたくない。善い事をして悪口を言われる。むしろ、腹が立ってくる。もう、その人のところには行きたくない。
役に立っていない。空しい。本当に空しい。
ある人は軽薄にみられる。本人はそれが腹立しい。問題があるならちゃんと言ってくれ。議論すれば勝つ。徹底的にやっつける事が出来るんだ。 何を考えているんだ。そんな思いは空しいよ。相手に勝つことなんて空しいよ。自分が何かを思ったら空しいものさ。
主は言われます。あなたは空しくて当たり前。あなたはもともと空しいものではないか。わたしはあなたを土の塵で造った。そして、わたしの命の息吹を注ぎ、生きるものとした。わたしはあなたをわたしの道具として造った。あなたはわたしの道具ではないですか。しかし、あなたはわたしの愛する子としてこの世に生んだのです。愛する者としてこの世で生きるのです。あなたはこの世で生きている。わたしはあなたを支えています。わたしの愛によって生きている。その愛を忘れてはいけない。わたしの愛を精一杯受け取ってほしい。わたしの愛を隣人に示してほしい。
愛とは相手の人とつながることです。その人と一緒に生きることです。愛はただの言葉ではありません。愛とはその人の手助けをすることです。精一杯隣人とつながってほしい。
もし、その成果を求めたら、それは愛ではなくなります。善い事をしていると思ったら、それは愛ではなくなります。奉仕でも何でもない。わたしはあなたを造った。その愛のうちに生きるのです。
この世のものを、地上のものを求めてはいけないのですか。自分の思いがあります。自分の思いのうちに努力します。自分の得性を大切にしたい。力ある者になって人を助けたい。有能なものになりたい。 主は言われます。あなたは自分の思いのうちに手伝いたいと思っているのですか。相手は自分の手助けの道具ですか。自分の都合の良い方法で手伝いたいのですか。
それは愛ではない。 そんなあなたには相手が見えない。相手の心が見えない。いや、相手の心を見ようとしない。 知識があったらいい。体力があったらいい。上手な会話が出来たらいい。あなたは求めている。貪欲は偶像礼拝です。有り余るほどの財産を持っていても、人の命はどうすることもできないのです。相手の心に入って行けないのです。
8月は平和を考える時です。平和こそ愛の時です。与える者になる。皆が与える者になる。わたしたちはどのように平和を求めてきたかを考えたいと思います。武力によって紛争を解決しない。それが平和の第一歩だ。日本が起こした戦争の悔い改めだ。戦後わたしたちそう決めました。
今、日本の軍事力はアジアでは有数の力を持っている。軍事力はますます大きくなっている。軍事ではない方法でどれだけ平和のために努力したか。何を与えてきたか。与えることを渋っていたのではないか。平和とは損をすることです。どれだけ損をしてきたか。平和を造って行きたいのか。損をする気があるのか。
8月、平和を考える時です。
今、自分にとって、自分の生活にとって、
平和とは何ですか。愛とは何ですか。
自分の生活で愛を行う。
年間第17主日C 19-7-28 [創世記18・20-32、コロサイ2・12-14、ルカ11・1-13]
弟子の一人が「イエスに、主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
主よ、ヨハネの集まりでは弟子たちが、皆一緒になってよく祈っているようです。わたしたちも祈りたい。イエスの集まりは修道院のような生活ではない、そのような生活をイエスは望んでいなかったのではないかと思いました。神様を大切の思う心を忘れてはいけない。むしろ、神様を思う心を深めなさい。神様の道を歩みたい、わたしに従いなさい。しかし、イエスが指導して黙想をするのではない。イエスを中心として祈りの集まりを持つのではない。規則がない集まりではなかったかと思うのです。むしろ、黙想したい、祈りたい、その心が起こって来る時を待っていたように思います。
弟子たち、わたしの言葉を心の耳で聞きなさい。わたしの業をそのまま受け止めなさい。弟子たちは毎日、イエスを目の前で見る。イエスが人に話しかける。人に心を開く。人々がイエスに何を求めているかを見る。イエスがそれをどのように受け取るかを見る。イエスに従って歩くとは、イエスの道を歩くことだと知るのではないでしょうか。 イエスの中に何かが見えてきた。神様の憐れみが見えて来た。神様の温かさが見えた。じわっと光が見えて来た。祈りたい。神様との時間を持ちたい。 祈りましょう、イエスは弟子たちに「主の祈り」を与えられました。
そして、イエスは祈りについて語られたように思います。祈りに安心してはいけない。祈りは神様の道を行く出発です。自分の小ささ、弱さを知りなさい。聞く者になりなさい。自分に向けられた出来事をすべて受け取りなさい。その時、神様はあなたに心を留められる。
祈る。本当に何を求めるのか考えなさい。まことのいのちを求める。いのちのために働く。
助けを求めている隣人のために祈り求めなさい。その人が求めているものを与えたい、しかし、持っていません。神様、支えてください。強く求める。しつこく求める。
「求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい。」
第二次世界大戦中のヨーロッパ、ある山にある町の出来事です。老夫婦がいました。熱心に祈りの生活を送っています。ドイツ軍が世界を侵略している。ラジオでニュースにかじりついている。ある日、老夫婦はこの町が爆撃されることを聞いた。驚いた。老夫婦は近所の皆に知らせた。避難しましょう。町の偉い人のところにも行って、知らせた。しかし、誰も信じない。脅かすのをやめてくれ。こんな山の中にある町をドイツ軍が爆撃するはずがないよ。老夫婦は知らせるのをやめた。夜、爆撃される。その夕方、老夫婦は小さな荷造りをして、山に避難した。ここまでくれば大丈夫だ。町をを見降ろす。夜、暗くなってきた。そのうちに空襲警報が鳴り響く。爆撃が始まった。老夫婦は言う。やっぱりね。あんなに皆に注意したのに、信じなかったのがいけなかったのよ。仕方ないわ。老夫婦は勝ち誇ったのです。悲しい出来事です。悲しい老夫婦です。
老夫婦がいました。こちらの老夫婦は子が出来ない。婦人は毎日祈ります。神様、子供を与えてください。善い子に育てます。毎日、毎日祈ります。ある日、旅する聖人のような人が通りかかります。婦人の願いを聞いて、一緒の祈りましょうと言ってくれた。翌年、子が生まれた。夫婦ともに喜んだ。子には何でも与えた。可愛がり、可愛がった。子が腕白少年になった。その少年は親のいうことをちっとも聞かない。青年になった。盗む、暴力を振るう。ついに殺人を犯してしまった。老夫婦は苦しんだ。そして言う。親を苦しめる子なんかほしくなかった。老夫婦は旅する聖人とまた出会った。そして言う。子供のために苦しんでいます。願いを叶えてくれなかった方がよかった。
旅する聖人は言う。何のために求めたのですか。自分たちのための慰めのためだったのですか。子供も自分の楽しみのために育ったんですよ。 悲しい出来事です。悲しい祈りです。
年間第16主日C 19-7-21
イエス様はマルタ、マリアの家を訪問されました。マルタがイエスを家に迎え入れます。マルタ、マリアはイエス様の訪問を喜びます。イエスはカファルナウムに拠点を持っておられる。マルタ、マリアはエルサレムに近いベタニアに住んでいる。イエスがエルサレムに訪問されなければ会うことがない。久し振りに出会ったのだと思います。
マリアはイエスの足もとに座ってイエスの話に聞きいっている。マルタはイエスを精一杯接待しようと、準備にかかる。お茶を出す、ありあわせのお菓子を出す。ちょっとしたものを作ってご馳走しよう。料理を始める。大切なお客さんには、そのようにするのですよと母から教わって来ている。
あぁ、忙しい。ふと見るとマリアはイエスの足もとに座っている。何たることか。マルタはイエスのところに行って言います。マリアはわたしがこんなに忙しく働いているのに手伝おうとしません。先生のために作っているのです。先生、おかしいとお思いになりませんか。マリアはわたしに任せて何もしようとない。手伝うように言ってください。先生、マリアを叱ってください。
イエスはマルタに怒られてしまいました。イエスはマルタに苦笑いしながら答えます。
わたしはマリアの心を感じている。久し振りに出会った喜びの心を感じている。先生の語りたいことに耳を傾けます。マリア、ありがとう。
そして、マルタ、ありがとう。でも、わたしはマリアがわたしを心から迎え、わたしに熱心に心を向けてくれたことが何よりも嬉しい。 マルタ、あなたは迎える準備に心がいっぱいになっている。マルタ、あなたの心にはわたしがいなくなってしまったのではないですか。
必要なことはことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。
マルタとマリアの出来事を読んだ時、ダミアン神父の事を是非、知ってほしいと思いました。ダミアン神父は1840年ベルギー生まれました。24歳で神父になりました。8年間ハワイで活動していましたが、ハンセン氏病患者の世話をする人が誰もいない事に気づきました。ハンセン氏病の人たちは見つかるとモロカイ島に送られ、そこで誰の世話を受けずに死んでゆく。ダミアン神父はそこに派遣される願いを出しました。モロカイ島には800人のハンセン氏病患者が隔離され、年間142人が死を向かえるのです。 ダミアン神父は1873年モロカイ島に赴任しました。患者たちのために生活整備を行う。きれいな生活を送る。ブラスバンドを作った。学校を作った。
患者のため、上司、共働者と問題を起こすことが多かったようです。しかし、ダミアン神父は自分の意思を曲げなかった。自分の意志を貫いた。ダミアン神父は患者には優しかった。
しかし、患者にとってダミアン神父はあくまでも部外者であった。あなたはわたしたちのために働いている。それは本当に嬉しい。しかし、あなたはわたしたちの本当の仲間ではない。あなたは与える者。わたしたちはあなたからもらう者。ダミアン神父はその隔たりに苦悩した。命をかけて働いているのに、わたしはこの人たちの中に入れない。 ダミアン神父は患部に触れることにも躊躇しなくなっていた。感染を恐れなくなっていた。1884年自らハンセン氏病を発症する。「我々らい患者」として立っている。1889年4月15日帰天されました。49歳です。
救いとは何ですか。出会った人が救いを求めている。救いの恵みをその人に示す、その人とつながることではないですか、あなたは神父だから神様の思いをその人に教えるのではないですか。神様が今、共にいることを告げることではないですか。 ハンセン氏病の患者は言います。あなたはわたしたちに生活のすばらしさを教えてくださいます。感謝します。でもあなたは与える者、わたしたちはもらう者です。でも、あなたはわたしたちの本当の仲間ではない。あなたはハンセン氏病の苦しみを知らない。体の苦しみ。心の苦しみを知らない。彼らが求めていたのは、ダミアン神父がまことの仲間、友であることだった。命のつながりを求めていたと思うのです。
必要なことは何ですか。あなたはまことに何を求めているのですか。
年間第15主日C [申命記30・10~14、コロサイ1・15~20、ルカ10・25~37] 19-7-14
神様はこの世界の状況を見て思います。自然が壊れて来ている。人がこんなに苦しい生活を送っている。わたしは見えるもの、見えないもの、すべて善いものを造った。生きる命を喜びとした。今、悪いものが、悪い力が世界を支配している。悪いものも造った。それは事実です。それは人が悪いものを超えて、まことの善いものへの道を歩んでもらいたいからである。
神様は言われます。わたしはあなたたちの前にいる。あなたたちがどこにいても、どんなときにもわたしを思い起こしてほしい。あなたたちがわたしの声に聞き従うならば、地の果てに追い散らされても、わたしはあなたたちを集め、そこからあなたたちをわたしの場所、祝福の場、いのちの場、幸いの場に連れ戻す。あなたたちは今、立ち帰って、わたしの声に聞き従いなさい。
わたしはあなた方の前に祝福と呪いを置いた。いのちと幸い、死と災いを置いた。
律法の書にある戒めと掟を守りなさい。心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に立ち帰りなさい。
わたしの戒め、掟は難しいものではない。遠く及ばぬものでもない。あなたたちの口で語られる言葉のうちにある。あなたたちの心の中にある。わたしはあなたたちに善い心を与えている。あなたたちが自分の思いを捨て、自分を空にした時、善い心が働く。自分の欲求を捨てなさい。
あなたたちは生きる喜びを知る。自分が生きる喜びを求める。しかし、自分が生きているのではない。助け合って生きている、支えられて生きている事を知る。
全てを持っておられる主はあなたを見つめておられる。主の愛に気付きなさい。主の心に気付きなさい。主の心が戒め、掟です。主の心が律法です。まことの命、まことの喜びの道を歩く。
わたしたちは律法というと法律のように、こうしなさい。こうしてはいけないと書かれていると思ってしまいます。律法とは法律のように条文が書かれているのではないと思います。
律法の書は創世記から申命記までの五書、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の五書です。神様のみ心と人の動き、働きが書かれています。神様の愛と、人の権力の我儘が書かれているのです。
ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして問います。
「先生何をしたら、永遠の命を受け継ぐことが出来るでしょうか。」
「聖書には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。」
「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
「正しい答えだ。それを実行しなさい。」
「わたしの隣人とはだれですか。」
隣人は隣の人です。いつも隣にいる人、呼びかければすぐ返事が出来る人です。いでも声をかけられる身近にいる人です。お互いに声を掛け合う人です。イエス様は隣人と言う言葉を特別な人にも用います。助けを求めている人です。助けてもらわなければ、生活できない。体が不自由な人です。話せない人、耳が不自由な人、見えない人です。神様は本当に不思議なことをなさいます。ある人は生まれつき体が不自由です、一人では食べられません。歩けません。言葉も話せません。また、ある人は事故にあって不自由な体になりました。その人があなたのまことの隣人ですよ。
助けがなければ生きて行けない。その人を造られた。ある人を体の不自由なそんな状態にした。 神様は「命について」言われているように思います。人は神様から命を授かって生きている。どんな人も神様の命によって生きている。命が生きるように手助けする。その人が自分の兄弟であったら助ける、兄弟じゃないかそんなことは当たり前だよと言って助ける。
わたしたちは神様から命を授かっている、皆、兄弟姉妹ではないですか。隣人は兄弟ではないですか。その人たちのために働く。お返しはない。その人たちのために損をするのですか。そうだよ、兄弟だから、そんな事は当たり前じゃないか。
祭司、レビ人の目の前に苦しんでいる人が横たわっている。ほかに大切な用事があったのでしょうか。見てみないふりをしてしまう。祭司、レビ人の人たちは命の大切なことを一番よく知っている。聖書をよく知っている。 よく勉強している、よく知っていてもだめですよ、よく祈っている、よく祈っているだけではだめですよ。行いなさい。
隣人がどこにいるのか見えない。わたしたちに言われているのだと思います。
あなたに隣人がいますか。その隣人のために精一杯手助けをしていますか。
互いに愛し合いなさい。
年間第14主日C 19-7-7
「収穫は多いが働き手が少ない。」
昔は人生論など語った。中学生の頃か、高校生の頃か分かりませんが、小説をよく読んだ。自分の中に世界があったのだと思います。それが楽しかった。友人に絵描にのなった者がいますが、絵の世界を知った。たまに一人で美術館に行った。その頃の社会が話すことを求めていたのかも知れません。思い出すのが、安保闘争のテレビでの放送です。ベ平連のニュースです。「ベトナムに平和を!市民連合。」 皆が自分の意見を表現したかったのです。その運動の中に入りたい。サラリーマンでない人の思いだったように思います。
今わたしたちの社会は、いろいろな出来事が多いと思います。よく理解できない出来事。例えば、パソコンで見るのでしょうか、危険な出来事が動画になって拡散されている。わざと危険なことをして映像にしている。こんなことが出来るんだと示しているのです。あれは犯罪だよと思うものです。あるいは、お母さんが自分の子供をほったらかしにして、家に帰らない。子供には2,3日食べ物がない。飢えて死んでいた。若いお母さんは言います。子供が煩わしかった。また、虐待によって傷を負う。そして死んでしまう。
わたしたちの中に、暖かさがないのではないかと思うのです。危険なことをする。評判をよくするために、画像多くの人たちに見てもらおうとして、わざとする。その人たちは寂しい。声をかけられたい。自分を受け入れてくれる場が欲しい、温かさに包まれたいのではないかと思います。
今も競争の世界です。ますます激しい競争の世界になってきていると思いいます。
スポーツに少年、少女たちが励んでいる。スポーツは楽しむよりはうまくなりたいものだと思っている。草野球などを馬鹿にする。今、草野球があるのか分かりませんが。草野球は面白い。時に、うまい奴がいる。そいつはみんなの評判になる。
勉強する。よい高校へ行くために、よい大学に行くために勉強する。勉強の面白さは消えてしまう。わたしの小学生時代に塾と言う言葉がはやり始めていたころです。母ちゃん、塾に行かせてくれ。勉強しても仕方がないよ。お前はそろばん塾に行きなさい。そろばん塾に行きました。
うまければいい。速く出来ればいい。皆が認めてくれるから。練習してうまくなる。人よりも何倍も練習する。そして周りの人よりもうまくなる。速く出来ればいい。物をよく知っていればいい。
心はどこに行ってしまうのですか。昔、出張は旅のようでした。大阪に出張する。仙台に出張する。一泊どまりでした。懐かしい。
収穫は多い。求めているのではないか。多くの人がゆったりとした時間を求めているのではないか。あなたがゆったりとした人になればいい。その人を押せば笑顔が浮かんでくる。静かな言葉出てくる。その人といれば落ち着く。苦しい事があった時、話さなくてもいい。その人といたい。
わたしたちに宣教が求めらているのです。いつも受け取ることしか考えていないかも知れない。あなたが行きなさい。いつもの人と出会う。今日はいつもと違う心を持つ。出会って話す。いや、最初に、聞く者になってほしい。その人を受けとめる人になってほしいのです。
おじいさん、おばあさんが多くなってきました。わたしたちもおじいさん、おばあさんです。ゆったりとお茶でも飲みませんか。話すことが目的ではありません。一緒に、一緒の時を味わうのです。目的のために一緒にいるのではありません。
ゆったりた時を味わうために一緒にいるのです。田舎の方に行くと、今はもうあまり見かけなくなりましたが、おじいさんが道路の端に座って、じっとしている。何を見ているのか、どのくらいか分からないけど、じっとしている。今、それが分かりかけてきたように思います。ゆったりとした時を過ごす。
シスターの経営する老人ホームがあります。時々訪問する。信者さんはいつも喧嘩しているのね。ある人がそう言います。どうしたんですかと聞きます。あなたはミサにでない。この間も出ていない。あなたの態度は信者しておかしいいよ。そんなことでいじめてる。仲のいい教会じゃないね。
イエスは言われます。収穫のために働き手になってほしい。
心の平和を造って行く。教会に平和がある。いえ、教会が平和を求めているからです。
平和とは聞くことです。あの人に聞いてもらえる。どんなことでも、いつでも聞いてもらえる。
平和とは与えることです。求めてはいけない。その人を受け取ることです。つながりを大切にすることです。
キリストのうちいる喜び。日々を過ごす喜び。仲間がいる喜び。
年間第13主日C 19-6-30 (列王記上19・16b、19-21、ガラテヤ5・1、13-18、ルカ9・51-62)
毎日の生活がありました。もっとお金が入ればいい。サラリーマンを辞めて、一人で稼ごう。そう思ったりしました。仕事をする。お金を得るために仕事をしている。そんな毎日の生活でした。毎日の生活が自分の思いの生活になっている。ふと自分がないと気付くのです。以前のわたしはよく本を読んでいました。 神様が呼ばれました。自分が神様に向かって勉強するのではない。わたしの内に入りなさい。神様の思いのうちに動く者になる。そして、洗礼を受けました。遅い洗礼です。神様は言われます。お前の生活はわたしが包む。洗礼を受ける時、決心しました。毎日祈ります。神様との時間を作ります。急に生活を変えた。純粋に生きたい。もっともっと純粋に生きたい。そんな思いが生まれたのです。
サマリアでのヤコブ、ヨハネ兄弟の怒りがよく分かります。サマリアでイエス様が歓迎されていない。無視されている。ヤコブ、ヨハネが怒って言います。「主よ、お望みならば天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」ヤコブ、ヨハネは純粋にイエスを慕っていたんだなと思います。純粋はほかのものを排除する。ほかのものを見たくない。認めない。
洗礼によって自分の人生に新しい道を求めていたのだと思います。新しい生き方をしたい。このまま社会に生きていると社会埋もれてしまう。イエスの声を聞いた。イエスの姿を見た。神様の世界を見なさい。あなたを包んでいる世界を見る。自然を見る。自然は生きている。自然のうちに生きる命を見る。雄大な世界がある。不思議な、神秘の世界がある。人を見る。一人一人が生きている。一人一人はつながりながら生きている。一緒に生きている。そうか、自然も一つ一つの生きているものも大地につながって生きている。木も、花もお互いにつながって生きている。お前の生きている世界を見つめなさい。命が動いている姿がある。生きるために動く、それは働くことです。そして、神様は言われます。すべてのものはつながっている。命によってつながっている。
この世の命の煩いから、まことの命への道を歩きなさい。まことのいのちは神様のもとにある。
洗礼によってあなたの道を歩いています。本当か? わたしと一緒にエルサレムへ行こう。
いですはエルサレムに向かう決意を固められた。厳しい心で歩んでいる。
イエスのうちに神様の心を見る。ある人がイエスに言う。「あなたと共に歩みたい、あなたに従って歩みたい。あなたおいでになる所ならどこへでも行きます。」 イエスはその人に言います。あなたは何を求めているのか。わしの生活は見るに忍びない、惨めなものだ。寝るところも十分ではない。食べ物もない時がある。わたしの生活は旅人の生活です。あなたはそれを受け入れますか。
イエスがある人に言います。「わたしに従いなさい。」「わたしに父が亡くなりました。葬りに行かせてください。」「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬りらせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。あなたは今はもうすでに、父さんの死を偲んだのではありませんか。父さんを心にとめた。それで充分です。死の苦しみの世界にとどまっていてはいけない。死者の世界から、この世の世界から出発しなさい。死を超える命がある。その命を宣べ伝えなさい。神の国を言い広めなさい。」
静かに神様に従います。一緒に喜ぶ。自然も、人も一緒に喜ぶ。支えられていることを感謝しながら、支える者となって生きる。働く。一緒に喜ぶとは、助けを求めている人のために働くことです。自然が生きる力を妨げないことです。(人によって空気が汚れてくる。水が汚れてくる。水が飲めなくなってくる。取りすぎて、魚がいなくなってくる。ペットボトルで海がおかしくなっている。木が無くなってくる。) 静かに今住んでいる世界を見ます。人はすべてのものとつながっている。
イエスのエルサレムでの姿をわたしたちは知っています。支える者になる、その厳しさをもう一度思い巡らしたいと思います。
キリストの聖体C 19-6-23
ご聖体、このパンの中にイエスがおられる。わたしを食べなさい。わたしはあなたと共にいる。
ご聖体、命をかけられたイエスの愛を、神様のこの神秘を深く味わいたいと思います。
神様は見える世界を造られた。この宇宙が神様の世界。何千億の星が動き、光を放ち、輝いている。小さい星の一つ太陽の周りをまわる地球を造られた。わたしたちの世界を造られた。この地球の、この世界を喜びにあふれる場にしよう。時間を造り、空間を造った。自然を造り、自然の中、最後に人を造られた。人は神様の似姿、いのちを喜ぶ、笑顔で語る、歌う者。
神様は人に喜びを選ぶ自由を与えられた。自分を囲む世界を知り、出来事の中で何をするか、何を考えるか、自由に選ぶ。人は自分を知った。力の強いものは自分の自由を楽しむようになった。自分の思いのうちに生きる。力のあるものが自分の欲求のうちに動く、力のない者は捨てられて行く。 神様は力のある者、力のない者を造られたのですか。力がある、力を持っている、その力は自分のための力ではない。力のない人を手助けするための力です。皆が喜んで命を生きる。
人はまことの命とは何かを忘れている。まことの愛は何かを忘れている。支えられて生きていることを思いもしない。神様は預言者を送られた。年月をかけて、何十人もの預言者を送られた。人は預言者を嫌った。預言者の話を聞こうともしない。ついに神様はご自分でこの世に来られた。まことを語ろう。語りかけ、その人の心に入ろう。神様はイエス、「主は救い」と言う名をもって、毎日、語りかけた。病を癒した。
イエスは語りかけます。命のすばらしさを語ります。神様が人にどれほどの恵みを与えられているか、まことの愛を知りなさい。どれほど与えらえているか、どれほど支えられているかを思い巡らしなさい。 イエスの言葉は聞く人の心に響いたのです。力のない人たちはイエスのもとに集まる。イエスこそわたしたちに恵みを与えてくださる。イエスに力を求めた。イエスに安心を求めた。イエスに体の癒しを求めた。力ある人はイエスの言葉に耳を傾けようとしなかった。人は自分の思いを自分の力によって追い求める。求める、だから人は大きくなる。イエスは与える者になりなさいと言っている。与えてばかりいたら、身を滅ぼすだけだ。
愛し合いなさい。互いに愛し合いなさい。わたしたちは神様から命を注がれて生きる者となった。わたしたちは神様の命によって生きている。それを忘れてはならない。神様は自然を造られた。人は自然にある人に必要なものを得て生きている。わたしたちは自然に支えられている。神様は人の恵みを与え続けている。神様に支えられなければ人は生きて行けない。人は小さい者、弱い者である。しかも、驚くべきことに、神様はある人にもっと不自由さを与えている。その人は不自由なために助けがなければ生きて行けない。
その人が自分の兄弟だったら、助けるのは当たり前。兄ちゃん手伝うよ。悪いね。当たり前だよ、だって兄ちゃんじゃないか。でも、その体の不自由な人が、他人だったらほっておく。知らんぷりする。 神様は言われます。人は皆、わたしの命によって生きている。生きられない者がいたら、その人が生きられるように手助けしなさい。力のある者は自分の豊かさしか求めていない。力のない者、苦しめばいい。そんなことも思う。力のある者は人が見えない、見ようとしない。 イエスは言われる。力のある者、あなたは神様の支えがなければ生きて行けない、それを知りなさい。
神様は弱い人を造らた。体の不自由な人を造られた。助けがなければ生きて行けない。一緒の生きる。だからあなたが助け手となりなさい。愛は助け手となることではないですか。物の支え合いではない。心の支え合い。人と人のつながり。その人とつながる。その人と兄弟になる。
人は言葉によってつながっているように思っている。しかし、言葉は耳に入って話を理解しようとする、頭で言葉を受けとめているのではないか。
心の耳によって聞きなさい。言葉を心で受け止めなさい。
イエスは言われます。わたしはあなた方を愛している。わたしのすべてを与えてもよいほど愛している。わたしの愛を知り、その思いで隣人を愛しなさい。愛は与えることです。自分が支えられていることを知って、支える者になるのです。人のために働きなさい。
まことの命は与える者のうちにある。わたしは与える者である、だからあなたたちのためにわたしのすべてを与える。わたしの命をあなたたちのために与える。あなたたちにまことの命を知るように。まことの愛を知るように。あなたたちが支えられていることをまことに知り、まことに支える者となるように。 出来事を悟りなさい。聞いて、見て、触れて知ろうとするのではなく、心の耳で聞き、心の目で見て、心で触れなさい。その時に、相手の心が見える。出来事の命が見える。
わたしはあなた方の心と体の中にあるあなたがたの思いを捨て去るように、わたしの命を捨てる。
自分が生きたいと言いう思いを捨てなさい。あなたは自分のために生きるのではなく、神様の思いのうちに生きるのです。あなたの命の働きによって隣人が生きるようになる。一緒に生きるとは、生きられない人が生きられる出来事です。
三位一体の主日C 19-6-16
イスラエルは神様から選ばれた民。神様から言葉をいただいた。わたしたちは神様のみ心のうちに歩む。神様に従う、神様から与えられた道を歩むのです。 神様のみ心は、み言葉は律法です。律法のうちに神様はおられる。心を入れ替えて、生活を改めなさい。
イエスは言われる。神様を律法のうちに閉じ込めてはいけない。律法は神様のみ心。神様のみ心に出会う。神様のみ心に会いに行きましょう。 神様のみ心に出会った時、律法が分かる。神様は今も、生きておられる。今も働いておられるのです。 イエスに出会った人々はイエスに神様の心を見た。イエスの業に人を超える力を見た。イエスによって、悪霊が追い出された。死んだ者が生き返った。イエスこそ神様の姿ではないか。
希望のない、光のない生活を送っていた民はイエスに希望を抱いた。しかし、イエスは苦しみのうちに刑罰を受けて、世を惑わすという刑罰を受けて、十字架につけられて殺された。
イエスを師と仰ぐ人たちは、イエスが死者の世界からわたしたちのもとに来られたと言い始めた。世を去ったイエスが新しい命生きる者となった。人には考えられないこと、死んだ者が生きている。
この世を超えるいのちがある。いイエスは神様の命に入られた。人々はこれぞ神様の姿だと知ったのです。そして宣言します。イエスは神様です。
天の父に、イエスが加わる。神様がお二人いることになる。それはおかしいではないですか。
キリストを信じる人は言います。神様はお三方おられる。父と子と聖霊です。
今日、三位一体の神様を見つめます。 イエスは言われます。神様は父さんです。人は父さんによって命を得、世に送られる。世で生きる。父さんによって支えられている。
わたしたちはイエスの姿に神様の思いを見た。神様の慈しみを見た。わたしはお前を愛する。お前たちはわたしのいのちよりも大切だ。生きなさい。喜びをもって生きなさい。
イエスはわたしたちを知っている。わたしたちの弱さを知っている。欲求のうちに苦しんでいることを知っている。そのわたしたちに心を開いて話を聞いてくださっている。わたしたちをそのまま受け入れてくださっている。弱いわたしたちの中に入っておられる。
前にも話したと思うのですが、こんな話があります。 自閉症の子がいました。お母さんがわたしに言います。「神父さんは優しい方ですね。わたしの子が神父さんと話したいと言っています。うちの子は誰とも話したがらない子でした。あの子と話す時間を作ってくれませんか。」「どうぞ、話しましょう。」その子は今までの苦しみを話します。こんなに苦しい、こんなに悲しいのに誰も気に留めてくれなかった。わたしはずっと、聞いていた。この子はあまりに全部を人のせいにしている事が気になったのです。「そうですか。こうしたら、こんな事をしたらどうかな。」そう言った途端、その子は口を閉じてしまったのです。目の勢いがなくなりました。あー、しまったと思ったのです。その子の苦しみのうちに、悲しみのうちに入っていなかった。ただ聞いてやるだけだった。弱いその子と一緒にいなかった。弱くなれなかった。それは助けではない。その子はその時からわたしを無視したのです。
誰でも弱い人、小さい人です。その人の弱さの中にいなければ、自分が小さくならなければ、一緒に歩けない。わたしのその助けは、その援助は自分の善い行いのために行ったのではないか。その助け、その援助は自分を助ける援助ではないか。善い行いのために助ける、与える、それは全く助けではない。 この出来事は、わたしにとって忘れることの出来ない事です。
天の父のもとに息子イエスがおられる。神様の力を持っておられる。また、聖霊と言う神様がおられる。聖霊が父と子を包まれる。聖霊によって包まれた二方は、聖霊の中で一つです。
天の父と子イエスは同じなのですか。天の父は神様です。この宇宙を創られた方。この世を造られた方です。息子イエスも神様です。しかし、まことの人です。イエスはまことの神、まことの人です。人の力のうちにいる。肉体の中にいる。弱い存在です、小さい存在です。―行きたいところに歩いて行く。心を語るのに言葉を使わなければいけない。お腹がすいたら食べる。疲れたら休む。眠くなったら寝る。
何故、神様が人となったのですか。何でも出来る方が何も出来ない方になってしまう。
そんな事を考えた時、思い起こすのが、イエスの40日間の荒れ野での試練の生活です。神様が言われたのです。お前は何も知らない。お前は何もかも知っていて、何も知らない。人は何かを知りなさい。人の弱さを体で知るのです。欲求の強さ、誘惑の強さを知る。神様は何でも出来る、だから、弱い人の苦しみを知らない、貧しい人の苦しみをしらない。
お前は断食していて、何も食べていない。お前には神の力があるのではないか。目の前の石ころにパンになれと言えばパンになる。お前は腹を空かすなんてない人だよ。わたしは断食が何であるかを知る。貧しくて食べることの出来ない人の苦しみを知るのです。
完全とは弱さ、小ささを心と体で体験しなければいけない。イエスは完全に人となったのです。
神様は全く一方(ひとかた)です。まことの命は一つ、まことのいのちは一つ、まことの愛は一つです。神様の本名は父と子と聖霊です。父と子は全く一つ。子は父の思いを語り、父の力を行うのです。聖霊は神の働く力です。天の父が働く、聖霊によって働く。子が働く、聖霊によって働く。父の思いは聖霊によって子に働く。父と子が聖霊によって一つなのです。
わたしたちがイエスと出会った。イエスに神様を見た。イエスを神様だと宣言した。三位一体がわたしたちの神。イエスを神様だと宣言します。
聖霊降臨の主日 C 19-6-9
五旬祭、過ぎ越しから50日目に刈り入れの祭りを祝います。麦の穂が実った。刈り入れよう。麦が大地に種を蒔かれ、大地に育てられた。水が与えられ、太陽の陽を十分浴びた。実りを祝う。神様の大きな恵みを祝う。労働の実りを祝う。刈り入れ祭に神殿に参詣することは義務だったようです。弟子たちは一同集まって祈った。
静けさの中で祈っている、皆の心が神様に集中している。突然、風が吹き下ろすような音が聞こえた。炎のようになった聖霊が一人一人の上にとどまった。聖霊はいのちの炎、言葉の炎。すると、一人一人が聖霊に満たされた。
弟子たちは語り始めた。聖霊が弟子たちの心と体に働いて語っているのです。弟子たちが麦の穂のように、神様の恵みに、神様の思いに満たされて、心が開かれ、語る。思い思いに語っている。自由に言葉が出てくる。その言葉が聞く人の胸を打つ。大勢の人たちが、集まって来た。大勢の人たちは言う。懐かしい、聞こえてくる言葉が心に入り、懐かしく、慰めを感じる。
人は洗礼によって神様の世界に向かって歩みます。今までの自分が水によって死に、いのちの水によって新しく生きる。堅信、聖霊による洗礼、によってわたしたちは聖霊の住まいとなります。キリストによる洗礼、わたしたちが神様の住まわれる神殿となるのです。
堅信:confirmtio con 全面的にfirmatio堅固にする 堅信は強化と言う意味があるそうです。
聖霊降臨を思う時、あっ、これは教会の洗礼ではないかと思ったのです。教会は生きています。神様の思いが教会を通して働くのです。教会は神様のみ心のままに造られました。神様のみ心を行います。教会はキリストの体。教会の頭はキリストです。キリストの思い、言葉、行いが聖霊によって行われるのです。聖霊は力の神様です。天の父のみ心、イエスのみ心を行うのです。
教会が行う? いや、教会を造っているわたしたちが行うのです。洗礼によって、堅信によって教会の煉瓦となったわたしたちが、わたしたちの働きが教会の働きとなるのです。
教会の働きはキリストによるわたしたちの働きです。
聖霊がすべての事を成し遂げる。
イエスは言われます。あなたがたはわたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしの言葉を守る。 イエスのいわれる掟とは、心配りです、心だてです。その心からの思いでイエスの計画を完成するものです。わたしを愛しているならば、わたしの心を守る、わたしの願いを行ってくれる。わたしと父はその人のもとに行き、一緒に住む。 聖霊がすべての事を成し遂げる。
わたしたちはキリストの体の一部。ほんの一部。教会を造っている煉瓦。キリストに聖霊によってつながっている。わたしたちは教会の一部となっている。
今日聖霊降臨を祝います。すべてのものが聖霊によって生きる。
天の御父は聖霊によってイエスを生んだ。イエスは聖霊によって見えるもの見えないものをお造りになった。天の父とイエスは聖霊によって一つになった。聖霊の働くところには天の父がおられる。聖霊の働くところには御子イエスがおられる。
聖霊は神様。神様がわたしたちの中で働かれる。
主の昇天C 19-6-2 (使徒言行録1・1-11、ヘブライ9・24-28,10・19-23、ルカ24・46-53)
イエスが罪人とされて十字架にかかりました。十字架を背負ってわたしたちの前を歩かれ、そしてゴルゴタの丘で十字架に釘で打ち付けられたのです。イエスの姿に神様のみ心見ました。イエスが亡くなられた。苦しみのうちに亡くなられた。何故ですか。
弟子たちは家に集まって祈っている。ひっそりと、苦しみのうちに、悲しみのうちに、集まって祈っている。ユダヤ人たちが入って来られないように、家には鍵をかけている。
イエスが来られた。イエスは真ん中に立たれて言われた。「あなた方に平和があるように。」
弟子たちは驚いた。亡くなったイエスが今ここにおられる。「ひっそりと閉じ籠っていないで、外に向かって歩き始めなさい。」 一瞬、弟子たちは息を飲む。 「この世の命を超えるいのちがある。聖書には書いてある。メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。あなた方は復活のいのちに生きるわたしを見た。」
イエスはわたしたちを喜びで包んでおられる。力を感じた。その時、弟子たちは一瞬、後悔の思いが沸き上がったのです。わたしたちはイエスを裏切った。イエスが捕らえられた時、イエスが十字架にかかると決まった時、恐ろしくて逃げ去ってしまった。
イエスは最後の晩餐で言われていました。わたしは父のもとに行く。あなた方のもとから去って行く。あなた方の心は悲しみ、苦しみでいっぱいになるだろう。わたしが父にもとに行って「あなた方を助ける力ある方」を送る。わたしが去って行かなければ「その方」は来ないからである。
神である方が肉体をもって自分の姿を示された。神様が人となられた。肉体を超えなければ、完全な神になれない。その方、イエスはキリスト。完全な人であり、完全な神である。肉体の壁を打ち破ったのです。肉体の命を捨てる。肉体の命を捨てなければ父のもとに行けない。この時、わたしはあなた方のところを去ったのです。(ヨハネ16・5~)
その方によって、聖霊によって、あなた方の目が、耳が心の目、心の耳となる。心の目が、心の耳が働くようになる。イエスを心の目で見る、心の耳で聞くのです。出来事を心の目で見る、心の耳で聞くのです。イエスが心と体に入ってくる。出来事が心と体の入ってくる。―理解しようとしてはいけない、悟るのです。― (ヨハネ16・12~15)
語りたいことはたくさんあるが、まだあなた方には受け取ることが出来ない。聖霊が来られると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせるでしょう。聖霊が来られる時まで、都にとどまっていなさい。
イエスは弟子たちをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。
今日、主の昇天を祝います。天におられる主がわたしたち一人一人を見ておられる。わたしの中に入る道を歩みなさい。わたしの中にちょとでも入った時、わたしはあなたの中に入ります。
復活節第4主日C 19-5-12
わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。
わたしはわたしの羊を知っており、わたしの羊はわたしに従う。
ユダヤ人たちは言います。
「あなたを信じることが出来るような『しるし』をわたしたちに示して下さい。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。神様の恵をモーセによって知ったのです。わたしたちが見てあなたを信じることが出来るように、どんな『しるし』を行ってくださいますか。」
イエスは言われます。
わたしの父は天からまことのパンをお与えになる。このパンこそ世に命を与えるものである。
いつまでもなくならず、永遠の命に至らせる食べ物、このパンのために働きなさい。
永遠の命の至らせる食べ物、この食べ物こそ、人の子があなたたちに与える食べ物である。
それを信じなさい。それがわたしがあなたたちに示す「しるし」である。
そのパンをいつもわたしたちにください。
あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが死んでしまった。しかし、天からの降って来た生きたパンを食べるなら永遠に生きる。わたしが命のパンである。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲みなさい。
これを聞いたユダヤ人たちは言います。「何を言っているのか。実にひどい話だ。こんな話を聞いていられようか。」
「わたしは今、神様のみ心のうちに話している。わたしの言葉は霊である。命である。心を開いて私の言葉を聞き入れなさい。いや、わたしの言葉を受け入れなさい。わたしはあなたの心に語っているのである。あなたの命に向かって語っているのである。わたしを信じる時、聖霊があなたの中に注がれる。聖霊によって、わたしの言葉があなたの中に入って行く。頭で理解するのではなく、心と体に入って行くのです。」
イエスの中に入った時、神様が見える、いのちが見える、安心が心を包む。自分が神様のものになる。 イエスを食べるとは、イエスを飲むとはイエスの苦しさを体で感じることではないでしょうか。イエスの悲しみを体で感じる、イエスのやるせなさを思い知るのではないでしょうか。まことの喜びに体が震えるのではないでしょうか。
わたしによって父を知る。父からのお許しがなければ、誰もわたしのもとに来ることは出来ない。わたしとあなた方はつながっている。命によってつながっている。
わたしの羊になるのです。わたしはあなたを知っている。あなたはわたしを知っている。
あなたはわたしの姿のうちに歩む。自分を捨て、与えられた十字架を背負いながら、イエスに導かれ、イエスと共に歩む。永遠の命への道を歩む。
イエスに本当に素直になって、信仰生活を続けて行きたいと思います。
復活節第3主日C 19-5-5
イエスは新しいいのちに生きておられる。弟子たちは復活したイエスと出会っている。新しいいのち、復活のいのちを信じている。しかし、我々にはイエスの姿は見えない。イエスの話す言葉は聞こえない。イエスに呼びかけたくても、呼びかけられない。新しいいのちのイエスは、復活のイエスは我々にはもっともっと近いはずだと言う。
弟子たちは故郷に戻っている。ガリラヤ湖畔、夜、ペトロは言います。「わたしは漁に行く。」 そこにいた弟子たちも言います。「わたしたちも一緒に行こう。」
夜、漁に行くことがあります。夜、月明かりの中、舟は沖に出て、真っ暗の中、かがり火を海面に近づけます。海面が明るい、その明かりを目指して魚が寄って来る、集まって来ます。そこに網を打つのです。 ペトロと弟子たちは夜中の間、漁を続けた。しかし、何も取れなかった。
陸に上がると、一人の男が立っていた。その男は言います。「食べ物はありますか。」「何もありません。何も取れなかったのです。」「魚を取っていたのですか。わたしのいう通りにしたら取れますよ。」 その男の人の声がペトロを動かした。その人の声が心に入った、心に響いた。その人の心がペトロに入ったのだと思います。
網を打つと魚がかかった。あまりに多くて網を引き上げることが出来なかった。
「今のその思いでは漁は出来ません。あなたがたは人をとる漁師になったのではありませんか。わたしの思いのうちに漁をしなさい。そうすれば取れる。」
ヨハネがペトロに「主だ。」と叫んだ。ペトロは裸同然であったので、上着をまとい湖に飛び込んだ。
「心の火を灯しなさい。あなた方一人一人の心の灯で出会う人の心を照らしなさい。集まって大きな光となる。教会を造りなさい。」 イエスは言われた。「さあ、来て、朝の食事をしなさい。今日が始まる。」 わたしのパンを食べなさい。イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。
魚はギリシャ語でIXOUS(イクス―ス)、頭文字を綴ると イエス・キリスト、神の子、救い主 となります。初代教会は仲間であるしるしとして魚の絵をキリストの象徴的記号としていた様です。
食事が終わると、イエスはシモンペトロに「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロは、「はい主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。
イエスはペトロにわたしを愛しているか、わたしを愛しているかと三度も聞かれる。ペトロは悲しくなる。主よ、わたしはあなたを愛しています。イエスは答える。わたしの羊の世話をしなさい。
イエスの心、ペトロの心を思い巡らすのです。
愛する:その人のために、その人たちのために働く。自分の兄弟として、与える者になる。全く与える。自分の持っているものをその人が生きるために使ってもらう。自分を捨てなさい。自分に与えられた十字架を背負って。キリストに従いなさい。
ペトロはイエスの言葉を聞いた。イエスの姿を見た。心が震えた。あなたのためなら命をも捨てます、と言った。しかし、ペトロはイエスを裏切った。
あなたはイエスの仲間ではないか。ペトロは、呪いの言葉さえ口にしながら、そんな人は知らないと誓い始めた、と聖書は書いています。(マタイ26・73~)
お前の愛は何か。お前の心はわたしの出来事に感動している。わたしの中に入りたいと思っている。しかし、お前の体がそれを拒否しているのではないか。それをしっかりと見据えなさい。
キリストを知っているという。キリスト教を知っているという。キリストの心が自分の心に響くと言う。
わたしの愛のうちに生きなさい。あなたのために死んだ。あなたが苦しまなければいい、悲しい事がなければいい、その思いでわたしが命を捨てたのではない。思いっきり苦しんで、どん底まで悲しんで、いのちの喜びを知りなさい。その道を歩みなさい、わたしの道を歩みなさい、その思いです。その時に、自分の我が無くなる。あなたの中にわたしが入る。
この世の旅で苦しむことが出来る。悲しむことが出来る。苦しむことは当たり前、悲しい事があるのは当たり前。しかし、自分のために苦しむのではなかったらいい、自分のために悲しむのではなかたらいい。
新し掟を与える。互いに愛し合いなさい。新しい愛がある。
自分がいない、相手が自分の中にいる。その人が生きる、それが、自分が生きること。
それが出来る。兄弟だから。それがイエスの愛だから。
復活節第2主日C(神のいつくしみの主日) 19-4-28
イエスはわたしたちに新しいいのちを示されました。この世の命は終わります。しかし、この世の命は神様のいのちに包まれています。この世の旅を終え、神様の世界に入るのです。この世の旅、自分を捨て、自分の十字架を背負い、イエスに従う事だと思います。
弟子たちはイエスの最後の出来事が分からなかった。イエスが十字架にかかって殺された、それがどうも納得できない。神様のみ心を持っていたイエスが、神様の力を持っていたイエスが、敵の手にかかって、何の抵抗もせず殺されてしまった。神様は動かなかった。万軍の主は来られなかった。
弟子たちはイエスと一緒に生活した。イエスによって神様のみ心と出会ったと思った。神様の力を知ったと思った。わたしたちはイエスによって神の力を現されると思っていた。イエスはイスラエルの王。新しいダビデ。しかし、自分たちの主イエスが十字架によって殺されてしまった。イエスは何だったのか。神様は何か。自分たちは何か。弟子たちはほっぽり出されたのです。
弟子たちはユダヤ人たちを恐れて、集まっている家に鍵をかけている。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち言われました。「あなたがたに平和があるように。」そう言ってから、息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」
閉じ籠ってはいけない。さあ、立ち上がりなさい。閉じ籠った目で人を見てはいけない。閉じ籠った目で出来事を見てはいけない。自分たちの仲間だけでいるのではなく、立ち上がって出て行きなさい。平和を造って行きなさい。平和とは、人と人のつながりではないですか。人と出会ってつながる。心と心がつながって行く。互いに与える者になる。隣人のために働くのです。
隣人:助けがなければ生きて行くことが出来ない人です。
隣人を大切にする。隣人を自分のように愛しなさい。
聖霊を受けなさい。イエスが聖霊を注がれる。清い心で人を見る、出来事を見る。罪が見える。罪を赦す力を与えようと言われます。罪は糾弾するものではありません。罪人を仲間から外すのではない。罪人を自分に関係のない者とする、それはその人を殺す事です。その罪を行った人の心に優しさを与えなさい。
罪:壊そうとする心、壊そうとする力です。憎む心、騒々しい心。欲求、欲望のうちにある心、力。
罪が目の前にある。その罪を受け取り、優しさで返しなさい。
その時、トマスはいなかった。ほかの弟子たちがイエスに会った、イエスと話したという。何を言っているのか。イエスは死んだ。墓に葬られたじゃないか。あの方イエスに出会ったら、その手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、またこの手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。
イエスは来られた。トマスに言われる。
信じない者ではなく、信じる者になりなさい。
見ないのに信じる者は幸いである。
マグダラのマリアが墓でイエスに会った。走って行き、ペトロと仲間に伝えた。誰も信じない。
エマオへ行く弟子たちがイエスと会った。イエスと歩いた。イエスと話した。イエスのまことの出来事を、その時知った。エルサレムに帰って伝えた。誰も信じない。
大勢の仲間たちがイエスに会った。話を聞いた。聖霊を受けた。新しい命を知った。トマスは信じない。 仲間の信仰のうちに、真剣に求める心を信じなさい。仲間を大切にする。神様に従順になる。 新しい命を信じます。
復活の主日 日中のミサ 19-4-21
ご復活おめでとうございます。
「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。」 墓は入り口の石が取りのけられている。入口が開いている。墓にはいませんというしるしではないですかと思うのです。ここは新しい墓、イエス様しかいない。イエスは墓に閉じ込められる命ではない、自由ないのちに生きている。そんなしるしだと思うのです。
ペトロ、ヨハネも墓に向かって走った。墓の中を見た。ご遺体はなかった。ペトロは思った。わたしはイエスを見捨てて逃げてしまった。イエスの苦しみの時、イエスのもとから離れた。つながろうとしなかった。 イエスと一緒に生活していた。イエスの言葉、行いのうちにいた。イエスの言葉、行いに心を打たれていた。しかし、わしたちは力ある預言者イエスのうちにいる。イエスはダビデの子。イエスこそ新しいイスラエルの王となる。今、イエスは王となる道を歩いている。
イエスは言われる。地上の生活の思いから離れなさい。わたしの言葉の奥にある、行いの奥にあるわたしのまことの心を見なさい。わたしの命を見なさい。わたしの心のうちに入りなさい。わたしの命に神を見なさい。
あなたの見ている神殿は壊れる。わたしが壊す。 王であるべきキリストの姿が壊された。いや、壊れる道を歩んだ。神様の神殿が壊された、まことの栄光によって壊された。まことの神殿が造られる。今見ている神殿が壊されなければ、まことの神殿を見ることが出来ない。
神様の姿を持つ人イエスは人々の前で壊されていった。
そして、三日目に新しいいのちに生きる姿を現わされた。これこそ神様の栄光。
イエス様、あなたに従います。
あなたのいのちの道を歩みます。
主の復活に感謝。
聖金曜日・主の受難 19-4-19
わたしたちの一番大切にしている、神様の姿であるイエス様が十字架に釘付けにされ殺された。静かに時を持つ、生活を見つめる、命を見つめる。わたしたちは何を大切に生きているのか、もう一度考えたいのです。
過越し祭の準備の日、正午ごろ、イエスは裁判にかけられました。
「イエスはあなたたちの王。わたしがあなたたちの王を十字架につけるのか。」
祭司長たちがピラトに言います。「わたしたちには皇帝のほかに王はありません。」 皇帝がわたしたちを守ってくれる。この世に生きることが出来る。どんな体制であっても生きる。今、ローマの植民地になっているが、皇帝に従順であれば生きることが出来る。今、この命を大切にします。皇帝のほか王はありません。 生きるとは何ですか。神様とは何ですか。
律法とはこの世のものですか。地上の生活のものですか。
律法によって一人一人の生活が守られているのではないですか。命が守られられ、穏やかに暮らせる。祭司、律法学者によって律法が管理されている。律法は神様の心に通じている。
律法は悪を裁きます。人を苦しめるものを裁き、悪を取り除きます。
律法は神様のみ心ではないですか。神様はいのちの喜びのために、まことの命を愛するために世を造られたのです。地を造り、天を造られた。人を世に送られた。地上の生活は大地に支えられ、天に支えられている。地下からの水に支えられている。地上の生活はすべてのつながりの中にああるのではないでしょうか。
律法は地上を超えるもの。地上にだけあるものではない。律法はすべてを超える方と地上に住む人とのつながりではないですか。一人一人の人は神様とのつながりによって守られるのです。
律法は悪を裁くというけれど、律法は神様のみ心だから、律法によって悪を裁くのではなく、神様の温かさを知る者になる、神様の憐れみを知る者になるのではないですか。
律法は言うのです。神様のもとに戻りなさい。
まことに生きる。今、わたしたちは皇帝のもとにいます。皇帝のもとで、わたしたちイスラエルは生きている。イエスにイスラエルの人々は集まっている。イエスのもとに集まるイスラエルは伝統ある、信仰の民イスラエルではない。信仰の自由、独立、紛争の種を蒔いている。イエスのイスラエルは今この時の平安を壊す。我々にとってイエスは必要ない。イエスは皇帝に逆らうもの、この世の今ある命を壊すもの。
イエスの示されるいのちは神様からのいのちです。神様からのいのちによって人は生きているのです。この世を神様の命によって生きるのではないですか。まことの王は神様です。皇帝ではない。皇帝の奴隷となって生きるのではない。皇帝の求めるものは、自分の体を喜ばせるもの、自分の心を名誉、地位、知識で喜ばせるもの。
わたしたちは神様の道具となって生きるのです。神様の道具は、一緒に生きるものが見えます、聞こえます。苦しんでいるもの、悲しんでいるものが見えます、聞こえます。道具は、神様の耳となって、口となって、その人たちに慰めを与えたらいい。助けを与えられたらいい。
まことの自由は隣人が見えることです。人のために働くことが出来る事です。
イエス様は十字架によって命を奪われました。 イエス様はまことの自由に方だった。
隣人のため声をかけ、業を行い、いのちの喜びを示された。
自由を奪う人のためにいのちを落とされた。まことの自由を示すため命を落とされたのと知ったのです。いのちをかけて神様を示されました。神様の喜びを示されました。
わたしたちの目の前にイエスの十字架が立っています。あなたの生活は何に向か会っていますか。主の晩餐の夕べのミサ 19-4-18
過ぎ越しの食事でしょうか、イエスは食事の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。盥に水を汲んで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいで拭き始められた。ペトロが言う。「主よ、わたしの足を洗ってくださるのですか。」
イエスは言われる。「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる。」 「わたしがあなたがたにした通りに、あなたがたもしなさい。」
信仰:神様が教えてくださった道を歩みます。神様から教えていただいた正しい事をする。弟子たちは、今の社会で教えられている祭司、律法学者たちの教えに心が動かない。イエスの話に心を奪われている。イエスの行いに本当の憐れみを見ている。毎日、イエスの話を聞いている。イエスの業を見ている。目が見えるようになった。聞こえない耳が聞こえるようになった。歩けるようになった。手が動くようになった。イエスの姿に心を奪われている。イエスと一緒に歩きたい。イエスの道を歩みたい。 自分たちの信仰を見つめる。これが本当の信仰か。 イエスの話を聞く。その出来事にまことの憐れみを見る。業を見る。まことの憐れみを見る。しかし、イエスの話の内容の憐れみを受け取っているだけではないか。イエスの業の憐れみを受け取っているだけではないか。
イエスの心の中に入って、イエスと一緒に歩きたい。与える者にならなければイエスと一緒に歩いていることにならないのではないか。
ある青年が(女の人です)マザー・テレサの写真を見ています。「マザー・テレサが好きなんですか。」「マザー・テレサの言葉、行いに心を打たれています。わたしはまだ洗礼を受けていないのです。この復活祭に洗礼を受けます。マザー・テレサは万難を排して人のために働きました、人を大切にしました。ノーベル賞を貰いましたね。」 この女の人は、人のために、自分の利益のためでなく、働いたことに心を動されたのです。自分も人のために働きたい、そんな心があると思います。
それが神様の求める信仰ではないでしょうか。
弟子たちもイエス様がよく分からなかった。
イエス様は言われていると思います。善いと思ったことを行いなさい。それが正しいかどうか考える前に行いなさい。律法に適っているか、常識に適っているかを考える前に行いなさい。
食事をしている弟子の前に腰を下ろし、イエスは言います。わたしはあなたの足を洗います。
それは奴隷の姿ですよ。おやめ下さい。
わたしはあなたたちの足を洗うほど、あなたたちを大切にしている。これがわたしの愛です。奴隷の姿だと人は言うかも知れない。自分の名誉も尊厳も捨てるほどあなたたちを大切にしているのです。 わたしがあたたちの足を洗いたい愛と、常識とどちらを選びますか。常識を選んだら、あなたたちへの愛を示すことが出来ない。
律法のうちに判断する。常識のうちに判断する。それ以上に、心のつながりを見つめなさい。
「このお饅頭は神様に献げるものですよ。誰も手をつけてはいけません。」嫁さんがそう言いつけます。子供たちは言う通りにします。お母さんが食べたいという。嫁さんは言います。「お母さん、お母さんがどうしても食べたいと言っても、これは神様のものだから、食べてはいけません。」
イエスは言われます。「この献げ物は神様を喜ばせるものではないですか。お母さんが食べたいとおっしゃっている。差し上げなさい。お母さんもこのお饅頭を食べて一緒に神様を賛美するのです。家族が神様を大切にしている。家族がお母さんも大切にしている。神様にその心が通じないと思っているのですか。皆で喜ぶ、それが神様への一番の献げものです。」(律法に父母を大切にしなさいとあります。)イエスの心のうちに入っていますか。律法が求めるのはイエスの心に入っているかどうかです。 わたしがあなたたちの足を洗った。あなたたちもわたしと同じようにしなさい。受難の主日(枝の主日)C 19-4-14
夜が明ける頃、イスラエルの全民衆はイエスをピラトのもとに連れて行った。「この男はイスラエルを惑わし、自分が王であると言っております。」
ピラトはイエスに問います。「お前は王か。」
イエスはピラトに答えます。「あなたの思いは人伝えからのものではないですか。」
イエスは問うておられるのです。あなたにとって王とは何ですか。
わたしは神様のうちにある王です。神様のみ心で人々を包む王です。上から力をもって命令するのではなく、皆の下にいて、下から皆を支える王です。皆に神様を知ってもらうための王です。人に、皆にまことの平安を与える王です。人のために働く王です。また、人の罪を背負う王です。人々を罪から解放するために働く王です。
ピラトは言う。「ヘロデもわたしもこの男を調べたが、死刑に当たるようなことは何もしていない。」
しかし、人々は、「十字架につけろ。十字架につけろ。」と叫び、要求し続けます。
人々の要求は大きい。ピラトはイエスを人々に引き渡しました。
イエスは十字架を背負って歩きます。
自分の姿を人々に見せるのです。人々はイエスの惨めな姿を見ます。
イエスにとって、人々の罪が十字架となって自分を苦しめている。 人々はイエスは自分の罪のために罰を受けて苦しんでいると思っている。人々はイエスが見えない。イエスを見ていない。
イエスは十字架に釘付けされている。苦しかったら、お前の持っている人の力を超える力によって、自分を救ったらいい。お前は病気の者を癒した。悪霊に取りつかれている者の悪霊を追い出した。死んでしまった者が生き返った。お前は助けを求めている者を救い出した。お前は神様の力を持っているのではないか。今、お前はお前を救え。
メシア、救いを与える者。人々は、わたしたちはメシアを求めている。まことの救いを求めるとは、自分の罪を赦してください、自分に安心をくださいと言うようなものではない。隣人を手助けできる、隣人に救いを与えるということではないでしょうか。メシアを求めるとは、自分が救われたいからメシアを呼ぶのではなく、自分もメシアのあとを継いで与える者になるという思いがあるのではないでしょうか。
イエスの十字架の苦しみはすべての人の罪を背負っている苦しみです。
イエスの右左に犯罪人が十字架につけられている。一人が言う。「お前はメシアではないか。自分自身とわれわれを救ってみろ。」 もう一人が言う。「俺たちは自分の罪のために十字架にかかっている。この方は何も悪いことはしていない。イエスよ、あなたの御国においでになる時には、わたしを思い出してください。」 イエスは言われた。「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる。」
神様に心を向けなさい。どんな悪い事をしても、誰にも相手にされなくても、神様の名を呼びなさい。神様は必ず応えられる。
イエスは午前10時頃十字架に釘づけにされ、昼3時ごろ息を引き取られました。
イエスを知っていたすべての人、ガリラヤから従って来た婦人たちは遠くに立って、これらの事を見ていた。
神様はすべてを見ておられます。
四旬節第4主日C 19-3-31
神様はキリストを遣わされました。キリストを通して神様のもとに帰るのです。神様に受け入れてもらう者となる、神様の心の中に入りなさい、神様に従順を約束するのです。 人はあの時、神様のみ心から離れ、知識、経験による力を求めました。神様から離れました。エデンの園を追われました。 神様は言われるのです。キリストのうちに生まれる、新しく創造される者になりなさい。
父さんは毎日の生活の中で、息子たち、兄さんと弟に神様の思いを教えていました。神様と出会いなさい。神様の思いのうちに歩むのです。 弟は自分の思いのうちに生きたかった。父さんの言葉は自分の思いを締め付けるだけだった。自由になりたい。自分の思いが全く無視されている。自由になりたい。自分の思いのうちに生きたい。
兄さんは父さんの言葉に神様の律法を合わせて聞いていました。父さんの言葉に反対することはなかった。わたしは父さんに仕えます。わたしは父さんの言いつけに背くことはありません。
弟が帰って来た。無理を言って、貰った財産を全部使って全部無駄使いしてしまったのだ。貧しい姿で、何も持たず帰って来た。
弟は何もなくなった時、自分を見つめた。自由とは何かを考えた。自分の欲求は何だったのか。自分の欲求のうちにいた時、自分には何も見えなかった。何も聞こえなかった。父さんの心が見えていなかった。父さんの自分への愛が見えていなかった。
兄さんは弟が帰ったことを知って不愉快に思った。怒った。あいつは家を捨てて、神様を捨てて出て行ったものだ。わたしたちから全く離れた。わたしたちには係わりのない者となったのだ。
兄は言った。父さん、あなたはあの男を喜んで迎えている。あの男は父さんの思いを裏切ったのではないですか。それなのに、良い服を与え、履物を履かせ、指輪をお与えになった。それ以上に、あなたはあの男に盛大な宴会を開いて喜びを示している。わたしは不愉快です。
兄さんよ、わたしの息子、あなたのあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。喜び楽しむのは当たり前ではないか。 わたしとあの弟は出会ったのだ。まことにつながった。心と心がつながった。まことに父さんと子になったのだ。
お前はわたしのために働いていいると言っている。心からわたしのために働いていたのか。わたしに背いたことは一度もないと言っている。お前の従順は律法による従順ではないか。わたしの心にぶつかって来なさい。
信仰とは何ですか。
神様の道を歩むとは何ですか。
神様とは何ですか。
自分は何を求めているのか考えなさい。
四旬節第3主日C 19-3-24
モーセが問います。「あなたの名前は何ですか。」 神様は言われます。「わたしはあるという者だ。」 「ある」は存在です。「ある」は生きているということではないかと考えました。
神様は言われます。わたしはある。ものはわたしによってある。わたしによって生きている。わたしはあるを表現した。見えるもの見えないものを造った。造られたものによって世界が出来た。神様によって生きる力が生まれる。物の大もとは神様。命の大もとは神様。
わたしたちは周りを見ます。わたしたちは自然に囲まれている。神様のみ心によって自然がある。わたしたちの世界は神様のみ心の場です。生きる、神様のみ心によって生きる。自然は神様のみ心によって生きている。人は神様の命を注がれて生きている。生きることは喜び。生きる喜びが与えられる、そして、それが愛。
苦しんでいる者、悲しんでいる者、飢えている者、渇いている者、その苦しみ、その悲しみ、飢え、渇きをわたしに向って叫びなさい。わたしはあなたの声を聞く。
自分ではどうしようもない壁にぶち当たったら神様に祈りなさい。神様は言われます。わたしはあなたを見ている。あなたを心にかけている。あなたのもとに行く。
わたしたちは神様の道を歩みます。神様のものとなったのです。あなたたちはわたしの霊的な食物を食べている。わたしの霊的な水を飲んでいる。霊的な食物、霊的な水とはキリストです。キリストを食べ、キリストを飲んでいるのです。
ローマ人によってガリラヤの人たちが殺された。イエスに告げる者がいる。イエスは言われる。
わたしはエルサレムでシロアムの塔が倒れて18人が亡くなった事を知っている。多くの人たちが災難に遭っている。滅んでしまったと思われている。その人たちを思い起こしなさい。その人たちが全くの犠牲なのか。その人たちが悔い改めて信仰の道を歩いていたら、その人たちの死は人々の心を打つだろう。その人たちも神様が呼ばれたのだから、この世の生活を終えたのではないか。その人たちの死は滅びではない。
ある人がぶどう園にいちじくの木を植えた。ぶどう園は神様の場、そして、いちじくは信仰の木ではないかと考えました。主人は言います。このいちじくの木は3年も実がならない。こんな木は切り倒せ。園丁は主人に言います。もう1年待ってください。木のまわりを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかも知れません。 このいちじくの木に回心を求めます。悔い改めなさい。ぶどう園にいれば実がなると思っているのか。あなたが神様を求めなければ、あなたが実を結ぼうと思わなければ、実は出来ない。
わたしたちはイエスと出会った。イエスは言われる。わたしの姿のうちに歩いてください。
わたしの思い、行いがわたしの体。わたしの肉を食べてください。
わたしの言葉が生きる水。わたしを飲んでください。
そして言われます。ぶどう園で働きましょう。
四旬節第2主日C 19-3-17
イエスはわたしたちに言われています。
神様の栄光に入りなさい。そして、神様の栄光とは苦しみです。
神様の栄光は苦しみなのですか、栄光は最大の喜びではないのですか。神様の栄光は命の喜び、一緒に生きる喜びではないのですか。
わたしは新しい掟をあなた方に与えました。愛しなさい。神様を愛しなさい。そして、隣人を自分のように愛しなさい。愛は喜びです。愛は与えることです。自分を与える。自分のすべてを与える。それは苦しみではないですか。苦しみがなければ愛はない。
栄光は神様のわたしたちへの愛です。そして、愛、苦しみを知らなければ人を助けられない。
神様の出来事すべてが神様の栄光です。神様の愛です。喜びも、苦しみも、悲しみも、その中に神様の栄光があるのです。
今日の福音書を読んで、そんな事を思ったのです。
「イエスは弟子たちに聞きます。あなたたちにとってわたしは何者か。」
「あなたはメシア。生ける神の子です。」
「しかし、わたしは言っておく。人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
ペトロは言いました。あなたは神の子、メシアです。神様の力をもって、わたしたち導く方です。
ペトロあなたが言ったその言葉を忘れてはいけない。しかし、あなたが見るのはメシアである人の子が長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて、ついには、殺されてしまうのです。
しかし、わたしは今日も神様を語り続けます。神様の業を行い続けます。わたしについて来たい者は自分を捨てなさい。自分の十字架を背負いなさい。
イエスはペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて山に登りました。祈るために山に登られたのです。祈っているうちにイエスの顔は輝き、服は真っ白に輝いたのです。そして、二人の人がイエスと語っていいる。モーセとエリヤです。イエスは自分のエルサレムでの最期の姿、受難の姿をモーセとエリヤに語っています。 イエスは言われます。
モーセ、わたしはあなたの業を完成する。イスラエルはまことのイスラエルに入る。
エリヤ、あなたの業はわたしの姿によって完成となる。人々はまことの預言者を見る。
ペトロは夢心地でその出来事を見ている。 モーセとエリヤが去って行こうとしているのを見て、イエスに言う。このすばらしい出来事、神様の出来事がいつまでも続いてほしい。モーセとエリヤがわしたちと共にいてほしい。イエス様、いつまでもわたしたちを導いてください。
わたしは仮小屋を3つ建てます。1つはあなたのため、1つはモーセのため、もう1つはエリヤのためです。
その時、雲が起こり、3人を包みました。そして雲の中から声が聞こえました。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け。」 雲が去り、そこにはイエスだけが残っていた。
弟子たちにはイエスの道が見えていない。これからのイエスが見えないのです。自分の思いを捨てることが出来ない。自分の今持っている信仰の思いで考えてしまうのです。
モーセは律法を忠実に行った者。律法を生きた。神様のみ心のうちに人々を守り導いた。40年民の不安が尽きることのない旅の指導者であった。神様に守られながら民を導いた。しかし、モーセはイスラエルの入ることは出来なかった。モアブの山からイスラエルを見た。そして、その時モーセは神様から天に呼ばれた。栄光は苦しみではないですか。逃げる事の出来ない苦しみです。しかし、いつもその苦しみに神様がおられた。モーセはイスラエルに導いた、しかし、入ることが出来なかった。完成はあなたのものではない。その栄光のためにあなたは働いたのではない。栄光はあなたが得をするためではないと神様は言われるのです。損をしなさい。わたしたちは最後まで損をしたモーセに神様の栄光を見ます。
エリヤは神様に熱情をもって仕えた預言者です。バールの預言者を、450人の預言者を殺しました。王妃イザベルは怒ってエリヤを追い回し、殺そうとした。40日間逃げ回りました。(列王上19・1~) 神様のみ旨を行うこと、それは苦しみです。
モーセとエリヤがイエスと話をした。イエスの歩く道が示されていたように思います。人々の罪を背負って歩く。苦しみのどん底に入られるのです。
イエスは言われます。今見たことを誰にも話してはいけない。
ペトロも、ヨハネも、ヤコブも何が起こったのかわからなかったと思います。
すべての出来事に神様のみ心がある。
苦しみのうちに神様のみ心がある。
神土生木に感謝。
四旬節第一主日C 19-3-10
イエスはヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられました。ヨルダン川から帰られるとすぐ、イエスは荒れ野の中を霊によって引き回され、悪魔から誘惑を受けられたのです。
この話を読んで何とも不思議な話だと思っていました。イエスはまことの神の子です。霊によって、神様の思いによって荒れ野、命のない所に導かれ、引き回されたのです。悪魔から誘惑を受けたのです。
イエスは洗礼を受けました。その時、イエスは聖霊に満たされました。神様の栄光がイエスを包んだのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」イエスは完全な知識を持っています、完全な知恵を持っておられます。
しかし、神様はイエスに求めます。まだ足りない。だから、イエスは霊に導かれたです。
わたしはイエスに何が足りなかったのか分からなかったのです。
イエスが人の世界に入って行く。その出発です。人の生活の中の喜び、苦しみ、悲しみを知る。人の心の中に入って行くのです。たとえば、わたしたちが中学を卒業したのち、社会人になる。少年が社会の中で会社に入って働く、賃金をもらう。高校を卒業したのち、社会人になる。選挙権を持つ大人になった。会社で働く。しかし、社会の人間関係は、社会生活には解答はないように思うのです。 イエスは神様の力を持っておられる。答案用紙はいつも100点です。満点です。
しかし、足りない。飢える、食べ物が手に入らないから飢えに苦しむ、その空腹を知らない。苦しむ人に慰めの言葉を語る、悲しむ人に優しさを語る。その言葉に実感がない。
その苦しさを知らないから、その悲しさを知らないから、その人の心に入って行けないのです。まなざしがその人の心に入って行かないのです。
イエスは全部知っている、しかし、イエスは何も知らないのです。
ちょっとこんなことを思い出しました。第二バチカン公会議が開催される前の時代、こんな本が出ました。「司教さん、地獄に行く。」そんな名だったと思います。司教さんは貴族のような生活をしています。司教さんを自分たちの職場に呼んだのです。司教さん、ここが工場の職場です。油のまみれた現場で、十何時間も働いているのです。寝る時間もないほど働かされています。大勢の、本当に大勢の仲間たちがここで働いているのです。司教さん、ここがわたしたちの世界です。
子供の時、お母さんが、いつもいない寂しさ、お父さんが、ちゃんとしていない家庭生活があります。家族が皆で一緒にご飯を食べたことのない、家族で喜んだことのない、そんな生活があります。
イエスは霊に導かれて、荒れ野にいます。
荒れ野で誘われます。イエス、あなたに足りないものがある。それをわたしがあなたにあげよう。
あなたがわたしに平伏せば。あなたが神様から離れれば、あなたを満足させよう。
この世の繁栄、権力、この世界の見えるもの全部をあなたにあげよう。
イエスは言われます。
わたしは弱い人、貧しい人と一緒に生活します。
わたしたちの神である父さんのところに皆集まります。
父さんの思いのまま生活します。
わたしたちはただ神様を拝み、神様に仕えます。
四旬節、イエスの姿を日々見つめて行きたい、
年間第8主日C 19-3-3
日曜日、教会に集まります。ミサを祝います。安息日、神様を見つめます。わたしたちが命を与えられている。生きている。自然が与えられている。すべてが生きている。
わたしたちは神様を知りました。神様は言われます。今生きている喜びを語りなさい。神様の恵みを感謝し、命の尊さを感謝する。皆と一緒に生きる喜びを感謝する。
喜びの道を歩みなさい。一緒に生きる道を喜びなさい。教会に集まる。教会から出発するのです。
イエスは今日言われます。盲人が盲人の道案内をすることが出来ようか。
目の見えない人に道案内は出来ますか。目の見えない人に道が見えません。耳の聞こえない人に道案内が出来ますか。耳の聞こえない人には交通機関の音が耳に入ってきません。道を歩くことが出来ない。
そうか、目の不自由な人、耳の不自由な人はわたしたちではないのかと思うのです。わたしたちは見えると思っている。聞こえると思っている。しかし、神の国へ行く道がよく見えない。いや、神の国が見えない。 神様を漠然と知っている。神の国を漠然と知っている。神様への道が分からない。神の国への道が見えない。神様のみことばがよく聞こえない。
神様はわたしたちを弱い者、小さい者として造られているのです。弱いとは、小さいとはよく見えない、よく聞こえない事ではないかと思うのです。もっと、見える者になりなさい。もっと、聞こえる者になりなさい。見ても見えない、聞いても聞こえない。開いている目が見えないとは、心の目が開いていない事ではないでしょうか。神の言葉が聞こえない。心の耳が開いていない事ではないでしょうか。見ているもの、聞いているものを心に刻みなさい。
自分の心を見たいと思います。そして、自分の心の清さを求めたいと思います。自分たちの周りに悪がはびこっている。そんなことを感じます。悪は嫌だ。悪を懲らしめたい。自分が悪を懲らしめる。ほかの力によって悪を懲らしめてもらう。
悪が見える。悪を懲らしめたい。あなたは今、目の前の出来事を裁いていませんか。あなたは自分の心を見た。自分の中に我儘がある。自分の事しか見ていない心がある。自分には隣人を助けたい心がない。自分がもっと清くなりたいと思っている。
あなたの目にも丸太があるのです。自分の丸太を見ないで、どうして人にあなたのおが屑を取らせてくださいと言えるのですか。
清さを求めているあなたは人の罪を見て、その人の苦しみが、その人の悲しみが分かればいいと思います。人の悪さを見つけた、人の罪深さを見出した時、その人を攻撃するのではない、その人の苦しさ、悲しさを思うのです。その人と一緒に歩けたらいい。その人が優しさを知ったらいい。温みを知ったらいい。光を知ったらいい。穏やかさ、おおらかさ、ゆったりとした居場所を知ったらいい。その人と、どこかにつながりが生まれればいいと思います。。嫌な奴、嫌いな奴と一緒に歩けたらいい、そんな大きな心が持てればいいのです。
善い実を結びたいと思います。善い心を持つ、善い心から善い話が出来ればいい。善い業を行えればいいと思うのです。
年間第7主日C 19-2-24
イエスは弟子たちに言われます。
人は神様の命を注がれて生きています。父さん、母さんのもとに一緒に生きています。毎日の生活に嬉しい事があり、失敗もある。喜びがあり、悲しい事や、苦しい事があります。いろいろな出来事がある、それは当たり前のことです。出来事、それはみんな神様からの出来事です。
しかし、忘れてはいけない、大切なことがあります。それは、敵を愛することです。敵を愛しなさい。愛するとはその人のために働くことです。その人の必要を満たすことです。
兄弟の一人、二人が敵となって向かってくる。あんな悪い事をする者も兄弟ですか。受け入れなさい。 あなたを憎む者に親切にしなさい。 悪口を言う者を祝福しなさい。 左の頬を打たれたら、右の頬を向けなさい。
愛するとはその人のために働くことです。 求める者には与えなさい。誰にでも与えなさい。
人に善い事をした。お礼を求めてはいけません。
「元気になってよかったね。手伝いができて良かった。」と言いなさい。
ある人は求め過ぎている。我儘が過ぎている。自分が偉いと思っている。また、力によって奪ってゆく者がいる。騙そうとしている者がいる。 その人が本当に求めているのは物ではないと思います。騙して物を手に入れる。力づくで物を手に入れる。大金を自分のものにする。その人が本当に求めているものは自分が愛されているということではないでしょうか。心が満たされたことがない。愛されていなかった、子供の頃も甘えることが出来なかった。足りない、足りない。満たしたい。
その人とつながることが出来たらいい。支えられていることが分かればいい。支えている人が、損をしながら手伝ってくれていることを知ったらいい。
愛しなさい。互いに愛し合いなさい。
わたしたちはイエスに出会った。その方は悪い人にも情け深い。何も出来ない人にも快い言葉をかけてくださる。悪い人にも希望を与えてくださる。人を裁いてはいけない。人を罪人と決めはいけない。どんな人も今終わるのではない。悪い人は、愛を行っていない人は、自分のことを第一に考えているのではないですか。 それはあなたではないですか。わたしたちではないですか。
ある人が言いました。童話を書きたい。童話を読んでいると子供の世界が自分の中に広がって行く。自由な何の計算もなく、喜んでいる、悲しんでいる、苦しんでいる。夢の世界を味わうことが出来る。何も求めていない世界だと思う。でも、わたしの今までの人生は、真面目に暮らせればいいという生活だった。静かに、波風が立たないような平凡な生活をしてきた。
野原で何も考えずに走り回っていた。暗くなるまでトンボを取ったり、蝶々を取ったり、溝の中に手を入れてザリガニを夢中になって取ったりしていた、そんな姿を思い起こしている。そんなことを文章にできたらいい。宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」と言う童話がある。天の川の世界を思い浮かべている。そこに電車が、鉄道が通っている。思いが自由だ。心が自由だ。そんな世界に心が和らぐんだ。なごんでくる。言葉が優しくなってくる。童話を書きたい。でも出来ない。自由になれない。
わたしは言ったのです。馬鹿になったらいい。思い切り、損をする者になったらいい。相手に何も求めない。何もかも感謝する心を持てばいい。いつも笑いの心を持ったらいい。自分の思い切りの楽しい世界を作ったらいい。今の自分をやめたらいい。
イエスは言われます。赦しなさい。与えなさい。その時、あなたはあふれるほど赦され、溢れるほど恵みが与えられる。
年間第6主日C
イエスは弟子たちと共に山から下りました。イエスの周りには大勢の群衆が集まって来ている。イエスは人々に神様のみことばを語ります。神様のみ心を語ります。
イエスは思っていました。山の上から語りたくない。神様は今、わたしたちの前に、わたしたちの横におられるのです。今、ここに一緒におられる神様がみ言葉のうちに憐れみを示されるのです。
わたしたちは今、お聖堂にいます。神様と向き合っています。イエスのみ言葉を聞いています。
心で聞いていますか。イエスのみ言葉がわたしたちの内に、自分のうちに入って来ていますか。
「イエスは目を上げ、弟子たちを見て言われます。」 この世を包んでいる神様のみ心を思いなさい。すべての出来事が神様の思いのうちにあるのです。 善き出来事があった。その出来事を喜ぶ。その喜びに心と体が弾んでくる、この喜びをいつも味わいたい。神様はそんな喜びを与えられる。 また、こんな出来事は、こんな苦しい、残酷な出来事は神様からのものではないと思ってしまう。決してこんなことが起こってはいけない。しかし、この出来事も神様の心を通してわたしたちに与えられているのです。人が行ったことです。目をそらしてはいけない。
「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなた方のものである。」 貧しいあなたは貧しい人の心が分かる。貧しい苦しさ、貧しいゆえの悲しさが分かる。 40年ぐらい前の話ですが、アフガニスタンに行ったことがあります。ヌンとかナンといってパン種が少ししか入っていないパンがあります。60センチくらいの長さで30センチぐらいの幅のあるパンです。それを買って食べる。歩きながら食べる。一枚5円ぐらいの値段だったと思います。アフガニスタンの人たちも、歩きながら食べる人がいる。食事なら家に帰って家族と一緒に食べたらいい。家族がいないのかも知れない、一緒に食べたい心がなくなってしまっているのかも知れない。貧しい心になっているのかなと思うのです。
わたしも小学生の頃、皆、貧しかったのですが、給食がなかったので、昼ご飯にコッペパンを買って食べました。毎日、15円くらい貰って、パンと牛乳を買ったのかなと思います。
今から考えると、もっとお金があったらいい。十分ご飯が食べられたらいいと思います。
貧しくて苦しんでいるわたしたちにイエスは言われます。神の国はあなたたちのものである。自分のことに十分でないあなた、貧しいあなたが、その時、自分の心の小ささを知るのです。あなたの周りにもっと貧しい人たちがいる。隣人を思う、助けがなければ生きて行けない人の事を思いなさい。助け合いながら歩きなさい。あなたの姿を神様は見ておられる。神様の安心があなたに注がれます。この時、神の国への出発ではないでしょうか。 イエスは、今、飢えている人、今、悲しくて泣いている人の呼びかけられます。飢えを十分苦しみなさい。そして、飢えている人がいることを知りなさい。泣いている人、思い切り泣きなさい。そして、飢えが満たされた時、喜びなさい。大いに喜びなさい。泣いている人、慰め得た時、喜びなさい。大いに喜びなさい。そして、あなたが飢えた人に与える者になったらいい。悲しんでいる人に慰めを与える者になったらいい。一緒に喜ぶ。大いに喜ぶ。神の国への出発です。
富んでいる人、満腹している人。貧しい人を見なさい。飢えている人を見なさい。富んでいる人、満腹している人、あなたたちは不幸だ。貧しい人の苦しみが分からない。飢えている人の苦しみが分からない。
貧しくなりなさい。与える者になりなさい。今、イエスの言葉が分かります。
年間第5主日C 19-2-10
「イエスがガリラヤ湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。」 イエスは弟子たちに言われます。あなたたちもこのような人たちの仲間だった。あなたたちは今、わたしと共に歩く者、わたしのそばにいる者である。
成人洗礼であるわたしたたちは、何度も、自分を見つめる時を持ったと思います。自分を変えたい、自分の生活を変えたい。わたしは、33歳で洗礼を受けました。学生時代から、格好つけて、名の通ったいろいろな本を読みました。何かと出会うことが出来ると思ったのです。また、わたしなどは旅が好きで、20代から、よく旅に出ました。景色と出会う、人と出会う。20代の前半に青森の恐山に行ったことがあります。下北半島の北端に尻屋というところがあり、そこで寝ころびながら空を見た記憶があります。その時、旅行中の青年に、商人宿があると教えられ、そこに泊まりました。京都出身の青年で、一緒に泊まりました。50年近く前の出来事です。その青年と今でも、お付き合いがあります。 洗礼を受けたきっかけは外国、見てやろう旅行です。旅先で全く一人になりました。お金もパスポートも航空券も取られてしまいました。洞窟で祈りました。助けてくださいと祈りました。10日間食べる物もなく、祈りました。洗礼を受けますと約束しました。日本に帰り、洗礼を受け、ついにはまことの生活を知りなさいと神父になる勉強をしたのです。
自分を見つめる時を持った。自分を変える時を持ったのです。イエスを知りました。イエスの名のもとに多くの人たちが集まっていることを知りました。今日の福音では、多くの人たちがイエスの周りに押し寄せて来たと表現されています。情熱をもって、歩いて、歩いてイエスの話を聞きたいと集まっていた。木更津は今日も雪の名残があります。昨日、朝早くから雪が降っていました。朝早くからミサがあります。誰も来ないと思っていました。道が凍っていたら、車輪が滑る。しかし、3人も集まりました。何か嬉しかった。
イエスは漁師である弟子たちに語られます。魚が取れないのですか。沖に漕ぎ出して、網を打ちなさい。シモン・ペトロが言います。「夜通し漁をしましたが、何も取れませんでした。」 夜通し、と言うのは、魚は夜、暗い時に水面に上がってくるそうです。徹夜して漁をした、しかし、何も取れなかった。でも、先生が言うのですから、やってみます。本当はやりたくなかった。自分たちは漁をして生活している。何十年も漁の生活をしている。先生と言っても漁については素人ではないですか。でも、「お言葉ですから、網を降ろして見ましょう。」 そしてその通りにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。他の舟を手伝いに呼んだ。その舟も魚でいっぱいになった。これを見たペトロはイエスの足もとにひれ伏して言います。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です。」
群衆の一員では物足りない。弟子となる。神父の道を歩みます。この道も大変な道です。大変だから、歩きたいのだと思います。聖なる道と言います。聖とは、俗世間を離れるという事ではないでしょうか。きリストの道は聖なる道です。わたしたち、皆、俗世間を離れる道を歩むのだと思います。この世の義理、人情から全く離れて、イエスの心の中に入る。命の大切さを心の底から考える、体の不自由な人の手伝いをする。生活を喜ぶ。
一度、まことの祈りをしたいと思います。黙想に入ったらいいと思います。深く神様と出会う時を持ちたいと思います。 出発しなさい。出て行きなさい。神様はわたしたち一人一人に言われています。生活の喜びを現わしなさい。そんなことはわたしには無理と思ってしまう。でも、何かしたい。イザヤの召命の出来事を読みました。心に唇に火が触れる。そうか、わたしたちには赦しの秘跡がある。外に出る恥ずかしさがある。話しかける気おくれがある。それを取り外してもらいたいと思います。「わたしを遣わしてください。」と言いたいのです。
年間第4主日C 19-2-3
2020年来年、オリンピックが開かれます。そのせいかどうか分かりませんが、いま、スポーツに興味が注がれています。様々な世界大会があります。日本のチームはどのスポーツも世界に挑戦する力を持っています。柔道、レスリング、卓球、バドミントン、テニス、わたしたちの子供の頃知らなかったサッカー、カーリングも強い。そして、体の不自由な人たちのためのオリンピック、パラリンピックも来年開かれます。忘れていました。冬の競技にはスキー、スケートのいろいろな競技があります。 勝てばうれしい。勝つために厳しい練習をする。体力の訓練、精神の訓練。自分の時間をそのためだけに使う。技術が進歩してゆく。若い選手が進んだ技術のうちに励んでいるのだと思います。水泳、卓球など、また、テニスなど、16,17歳の少年、少女が力を持ち世界に名をあげる。
スポーツの世界は選手の力の素晴らしさ、業のすばらしさの世界です。選手の世界だけではない、それを見ている人々の世界になっている。だから、勝つ、負けるが自分のことよりも、皆の思いを、皆の期待を満足させるものになっている。純粋にその選手のすばらしさをほめるのではなく、その選手は皆の期待を背負っている。すばらしい選手には国民栄誉賞などが与えられている。
何か少しおかしいと思います。オリンピックの世界もおかしい祭典になってきていると思います。素直にスポーツの競技を楽しむ、見て楽しむ、やって楽しむ。そんな世界に戻れたらいいと思うのです。
もっと大きな賜物があります。人が生きる。最高の道があります。それは命とつながる道です。生きる力の道です。その道とつながりたい:その道について言葉で語られた、道が分かったと思う、でも、その道に入ることは出来ません。その人とつながりたいと思っても、その人の中に入ることは出来ません。頭の中で考えている、それは自分の世界、つながらない。そのために、知識を必死で集めても、自分の財産を全部貧しい人の施しても、命を苦しんでいる人に与えても、愛がなければ無に等しい。愛が命とのつながりです。愛が生きる力です。
愛とは、自分がいないということです。自分の利益を求めない。相手が自分の中にいるのです。相手の必要としているものを与えるのです。そして、その人が生きる。生きる喜びを知る。馬鹿になりなさい。今、自分に必要としていることは、必要としているものは、自分がかかわっている人が求めていること、求めているものです。
最高の道とは命を生きる道です。自分が生きるのではない、かかわった人が生きる。かかわっている人は、ほかの人の助けがなければ生きて行けない。その人が生きる喜びを知った時、その喜びが自分の喜びとなる。助けを求めている人、その人が隣人です。
その道はどこに通じているのですか。
一緒に生きる命に通じています。愛に通じています。神様のみ心に通じています。
ナザレの町、安息日です。イエスは会堂で聖書を読みます。手渡された聖書はイザヤ書です。イエスは語ります。神様の温かさ、優しさ、慰め、そして、厳しさ。父さん、母さんが自分の子供を慈しむように神様は自分の子を決して放り出さない。命の尊さを語り、命の喜びを語ります。
会堂に人たちは思います。神様がイエスの口を通して語っている。しかし、ある人は言います。「あいつは、イエスは俺たちの近所に住んでいるヨセフの子ではないか。」
会堂に神様を見ようとしない。会堂に神様がいない。神様を見ようとしない、神様の場所なのに、神様を聞こうとしないところには神様はおられない。清くなれない。
年間第2主日C
イエスはカナの婚礼で最初のしるしを行われました。 会食、その中でも、婚礼の宴は特に喜びの会食です。 家庭で家族が一緒に食事をとる。家族が一緒になって食べる、一緒に寝る、父さん、母さんは家庭のために働く。全部が一致のしるしです。その一つ一つを大切にしたい。今の社会ではあまり大切にされていないようですが、家族が一緒にいる。大切な時です。和やかさの時です。 仲間と一緒の食事をとる。一緒に時間を過ごす。例えば、力仕事の現場で長い時間一緒に宿泊した仲間、また、高校生の時、寮生活をした仲間に、絆が生まれます。一緒に飯を喰った仲じゃないか。そして、絆がある仲間と一緒に食事をする。食事をするから絆が生まれる。
天の国の喜びを、神様を囲む宴で現わすこともあります。(イザヤ25・6-10、ルカ16・16-)
カナで婚礼がある。町の皆、全部の喜びです。イエスも弟子たちも婚礼に招かれています。マリアは裏方で飲み物、食べ物の世話をしています。 婚礼、披露宴の席でマリアがイエスに近づき言います。「ぶどう酒うがなくなりました。」 ここで交わされるイエスとマリアの会話がわたしたちにはちょっと理解できないのです。考えてみました。母さん、何ということを言うのですか。宴会の席でぶどう酒がなくなってきた、母さんの心配は分かりますが、ぶどう酒を用意する、この出来事は普通の人には出来ないことです。人の子、預言者に人の力を超えることを頼んでいるのですよ。それをわきまえてください。そして、わたしが力を示す時はまで来ていません。その時は母さん、あなたが決めることではありません。それは、親子の問題ではありません。それをきちんとしてほしい。
そして、イエスは静かに答えます。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまで来ていません。」 母さんはそれに動じずに、召使たちに言います。「この人が何か言いつけたら、その通りにしてください」 神様はここでニコッとするのです。マリアは婚礼の祝いに心を留めている。婚礼は神様の前の出来事ではないですか。神様の宴を祝っています。不足がある、出来る事をします。これは神様のみ心のお手伝いです。 イエスはマリアの気遣いを受け入れたのです。
そこには清めのための水ガメが六つ置いてありました。一つに80リットルから120リットルの水が入ります。イエスは召使にその水がめに、水を一杯入れるように、お命じになりました。そして言います。宴会の世話役のところへ持って行きなさい。世話役は水の味見をした。水がめの水がぶどう酒に変わっている。世話役は言います。こんな良いぶどう酒は今まで飲んだ事がない。
清めのための水が、神様と人を結びつける善いぶどう酒に変わりました。
主の洗礼C 19-1-13
イスラエルは混乱の時代にいました。戦争に負けて、ローマ帝国の植民地になっている。生活を喜ぶ社会ではない。イスラエルが平和の国ではない、神様の祝福を持つ国には見えない。穏やかに時を過ごせない。民衆はメシアを望んでいた。混乱の中のイスラエルが強い羊飼いによって導かれたい。民衆はヨハネに望みを持ったのです。このイスラエルがヨハネによって神様を知るようになる、ヨハネによってまことの安心を得る。民衆はヨハネにメシアの力を見たのです。
しかし、ヨハネは言います。わたしはあなたがたに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。その方は聖霊と火であなたがたに洗礼を授ける。
その時、ヨハネのもとにイエスが来られた。彼から洗礼を受けるためである。ヨハネは言います。「わたしこそあなたから洗礼を受けるべきなのに…。」「洗礼は神様へ行く道の出発です。正しい事をするのは善い事です。」 まことの人間としてとして洗礼を受けたい。ヨハネのところに集まっている人の中にいて、列を作って待っていたのです。
わたしは、なぜイエスが洗礼を受けたのか全く分からなかった。イエスは神様だから心も体も清い。神様だから心に神様のみことばが備わっている。
洗礼とは何ですか。また、自分の洗礼を思い起こしながら、考えたいと思います。
ヨハネの洗礼は:罪の告白、そして、神様からの水、命の水によって心も体も清められる。
律法のうちに歩みなさい。律法こそが神様への道です。律法の教えによって、社会の常識を超える。神様のみ心のうちに生きるのです。
悔い改めてふさわしい実を結びなさい。 悔い改める:正しい道を歩む、それが求められる生活です。神様を見つめて歩むのです。社会の中の自分を見つめて歩いてきた。その目の視点を変えなさい。 善い実を結ぶ。会堂に行く。出会う人とつながってゆく。親切にする。祈る。
イエスの洗礼は:ヨハネの出発と同じように、今までの自分が死ぬ、新しい清くなった自分に生きるのです。洗礼は神様への出発です。神様の言葉に心の耳を傾けなさい。神様のみ心に耳を傾けなさい。
あなたは命を知りました。命、喜んで生きることです。生き生きと生きる。
律法は規則ではない。神様のみ心の道標です。神様のみ心のうちに働きなさい。
律法のうちに生きる…イエスは言われます。わたしたちには古くて新しい律法がある。新しい律法を教えたい。 まず、神様を全身全霊で愛しなさい。第二に、隣人を自分のように愛しなさい。
出会う人、特に、隣人を愛しなさい。神様を愛するとは、自然のために働くことです。人のために働くことです。律法のうちに生きるとは、自然を大切にすること、そして、全身全霊をかけて隣人を愛することです。隣人とは自分一人では生きて行けない人たちです。助けが必要な人たちです。
ヨハネは言われました。アブラハムの子たちよ、あなたたちは自分たちを何と思っているのか。洗礼を受けている者たち、洗礼を受けているからと言って、自分たちを偉いと思っているのか。実に、実のならない木はみな切り倒されるのだ。
イエスは言われます。実を結べない木がある。三年待っても実を結ばない木がある。切り倒すのを少し待ってください。もう一度肥料の与え方を変えてみます。実らない木にこれまで以上に、話しかけてみます。 仲間と一緒に生活出来ない小羊がいる。その小羊が仲間から外れて迷いだしてしまう。どこに行ったのか。羊飼いはその小羊を捜し回る。見つけだしたら喜んでその小羊を抱きかかえる。
イエスの洗礼は、神様を忘れない、神様のために働くことの出発です。神様のために働くとは自然を愛すること、人を愛することです。よく愛することが出来るように、自分の欲求を少しずつ捨てて行く出発です。
イエスの洗は、イエスの姿を見つめることです。イエスはまことの神様、イエスはまことの人です。神様は全部知っている。何でも知っているのですか。いや、神様は人の小ささ、人の弱さからくる苦しみを知らない。「欲」に連れられてしまう弱さ、そのために苦しみを知らない。悪の中に入ってしまった苦しみ、空威張りの苦しみを知らない、その苦しみを味わったことがない。
イエスはまことの人です。神様はイエスに言いつけます。荒れ野に行きなさい。人としての弱さを味わいなさい。誘惑に立ち向かいなさい。イエスは苦しみを味わいました。そして、人の弱さを、小ささを心と体で知ったのです。
イエスの洗礼を受けた。
イエスはその人を見ています。「悪い事をしてしまった。」「どうしたんだ。自分のことしか思っていなかったんだね。我儘はいけないよ。少し祈ったらいいよ。」
洗礼は素直になってイエスの道を歩むことです。
何度も何度も新しい心をもって歩くことです。その道の出発が洗礼です。
主の公現 19-1-6
まことの神様、まことの主はイスラエルだけの神様ではない。イスラエルによってわたしたちはまことの神を知ったのです。赤ちゃんがまことの神。見えない神様が赤ちゃんとなってわたしたちの前に現れました。神様はそれを天体の現象によって現わされました。東方の学者がそれを見て、心が騒ぎました。世界を動かす新しい王が生まれた。その方に会いに行こう。その学者は占星術の専門家マゴイであったと今日の聖書と典礼に書かれています。ゾロアスター教の司祭職ではないかと考えられるのです。新しい王は宗教を越えて示された。まことの神は宗教、国を越えてその思いを知らせるのです。
宗教という世界を日本では学問的に考えているように思います。出来上がった宗教団体の事を言っているように思うのです。お前は神道か、お前は仏教か。何だお前はキリスト教か。
宗教とは何かを辞典で調べました。
①見えない力のある方への信仰。神様への信仰。 ②聖俗の世界を考え作る。 ③典礼、儀式を持つ。 ④道徳律を造る。 ⑤人の力を超える力を引き起こす。 ⑥祈り ⑦世界観への参加、活動。 ⑧組織。
主の公現:まず神様は言われたのです。①神様の心を見つめなさい。 ②宗教の壁を越えなさい。国々の壁を越えなさい。東方の国から、熱心なゾロアスター教の学者がイエスのもとを訪れました。③聖俗を越えなさい。生まれたばかりの神様の御子が飼い葉桶に寝かされている。 ④祈りなさい。
ある人が王となる。その王は巫女さんの口を通して言います。この王は神様の力によって王となった。その神様の思いによって、その王の力によってこの国を支配する。
神様は言われます。 まことの王はそうであってはいけない。王は一番仕事をするのです。考える仕事、力を使う仕事がたくさんある。神様の思いのうちに、自由に仕事をするのです。
まことの王は、思いやりを持ちなさい。憐みの心を持ちなさい。隣人が生きるように手助けしなさい。皆が生きる。生き生きと生きる。そのために働くのです。
王、あなたは自分の国に平和をもたらすために働くのではありません。あなたの国が他の国との交わりがうまく行くように働くのです。
主は言われました。全世界に行って、すべての造られたものに神のみ心を宣べ伝えなさい。恥ずかしい事ですが、カトリック教会はまだ十分に主の公現を理解していなかったように思います。主の思いが全世界に広まる。力のある国が文明のない国を自分のものにしてしまったのです。その国の土着の、伝統ある文化を取り去ろうと思ったのです。その国に自由はなくなった。例えば、南米の国の言葉はスペイン語、ポルトガル語です。
第二バチカン公会議はこの出来事を反省しました。国は自分たちの伝統をしっかりと保ち、大切にしなさい。国がその国であるように。その国の言葉で、自分の言葉で神様に祈りなさい。自分の言葉で神様と話をしなさい。だったら、国は国と全く違うから、教会は一つにならないのではないですか。いや、神様に向かう心は一つです。国と国は違う。だから一緒ではない。そうです。語り合いなさい。深く交わりなさい。西洋の修道士さんたちが一年に何回か来て、比叡山で禅をしています。体で知るのです。
主の公現。神様はお一方。命を与えられるお方。慈しみ、憐みを与えられる方。喜びを与えられる方。差別はない。まことの自由を与えられる。自由とは隣人の命のために働くことです。
神の母聖マリア 19-1-1
大天使ガブリエルはおとめマリアを訪問した。「マリアおめでとう。あなたは神様から恵みを受けた。あなたは身ごもって男の子を生む。」「わたしが子を生むのですか?でも、わたしは何も出来ません。」天使は言うのです。「あなたの父さんヨアキム、母さんアンナの助言を受けなさい。あなたを囲む多くの人があなたを支えます。素直になりなさい。聞く人になりなさい。そして、何よりも神様を大切にしなさい。そして、ヨセフ父さんイエスと3人で豊かな家庭生活を送りなさい。赤ちゃんの笑顔にあなたも笑顔で答えなさい。あなたの子をあなたの心で受け止め、あなた温みで育てなさい。なりよりも、神様に向かう自分の生活を送りなさい。静かに、力強く働きなさい。ヨセフを助けながら働きなさい。そして、あなたはまず母さんとなるのです。神様の恵が限りなくありますように。」 マリアは男の子を生んだ。
羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。真夜中、天使が近づき羊飼いたちを照らした。羊飼いたちの周りが明かるくなった。天使たちは言う。「今日ダビデの町であなた方のために救い主がお生まれになる。布に包まって飼い葉桶に寝ている乳飲み子、その方が救い主メシアである。」羊飼いたちは言う。さあ、ベツレヘムへ行こう。その出来事を見よう。」羊飼いたちは急いで出かけた。そして飼い葉桶に寝ている乳飲み子を捜し当てた。飼い葉桶のそばにいる父ヨセフ、母マリアを見た。ヨセフ、マリアに天使たちの出来事を話した。聞いたものは皆羊飼いたちの話を不思議に思った。母マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。幼子はイエスと名付けられた。
父さんは母さんの手伝いによって働く。十分に働くのです。子が生まれた。父さんの子への思いが母さんを通して知らされる。人の温み、ほほ笑み・笑顔、おおらかさ、待つことを知るのです。そして与えることを知って行くのです。生きることは感謝、そして、与えることです。
今日、新しい年を迎えました。新しい心で、微笑みをもっておおらかに、ゆったりと、神様の道を歩いて行きたいと思います。
聖家族C 18-12-30
今日、聖家族の祝日です。イエス様の家族を思い巡らしたいと思います。
イエス様の家族を思い巡らす前に自分の育った家庭を思い出しました。
子供の頃は楽しかった。物がない時代、貧しかったけれど、皆が貧しかったと思います。隣近所の家に醤油を借りに行ったり、「おはぎ」を作る時、多めに作って近所の人たちにあげたりしました。
町のちょっとした広場にテレビが置かれ、町の人が集まっていました。隣のうちには早くからテレビがあって、夜、よく見せてもらいに行きました。 学校から家に帰ると言います。「ただいま、お母ちゃん何かある?」何かあるとは食べ物が何かあるかという事です。いつもお腹が空いていた。 お客さんが来ると お菓子や、果物が出ます。それをじっと見ています。親しいお客さんが、ひでちゃん、食べなよと声をかけてくれます。取って食べます。後で怒られました。
外では、隣近所の子供たちと毎日、空き地で走り回って遊びました。そして、夕方になると、ひでおー、ご飯だよー、とお母ちゃんが呼ぶのです。
そんな思い出がたくさんあります。家庭が一番のんびりする場でした。
貧しかったけれど、食べられたからよかったと、今、思います。
そんなことを考えると、イエス様の時代と似ているなと思うのです。
イエス様の家庭では、貧しいながらもお母さんの工夫でおいしい手料理が出ていたと思います。父ヨセフ、母マリアそして息子イエスの家族は毎年過越祭を祝うためにエルサレムに出かけました。
今で言うなら、復活祭のお祝いに東京教区の信徒が、東京カテドラルマリア大聖堂にあつまる、神様の日を東京教区の皆が集まって司教さんを中心に一緒に祈る、そういうことです。
村で一緒にエルサレムに旅をします。祭りが終わった。帰路についた。一日分歩いた時、ヨセフ、マリアはイエスがいないことに気付いたのです。あぁ、イエスは自由だったんだなと思いました。村の仲間は兄弟のようです。イエスも近くの家の少年たちのガキ大将、子供たちのリーダーだったのでしょう。村の皆もイエスを自分たちの息子のように思っている。両親はイエスの行動に安心していました。父うヨセフ、母マリアは帰路、村の人たちと話をしながら歩いてきた。夜になってイエスが帰って来ない、どうしたのか。知り合い、親類に尋ねる。見ていないよ。エルサレムに帰りました。
三日の後、ついにイエスを見つけました。イエスは神殿の境内で、学者たちの真ん中に座り、真剣に話しを聞き、質問をしているのです。母マリアはイエスに言います。「なぜ、こんなことをしてくれたのです。父さんも母さんも心配して捜していたのです。」するとイエスは言う。「どうしてわたしを探したのですか。わたしは自分の家、父の家にいるのです。」父ヨセフ、母マリアはイエスの言葉の意味が分からなかった。母マリアはこれらの出来事をすべて心に納めていた。
父さん、母さん、これがあなた方息子の姿ですよ。両親の神様を思う心が、神様を大切にする思いが子に伝わっている、神様の思いがイエスの中に住んでいるのです。神殿がわたしの家。
母マリアはイエスの自由な姿を見たのです。 イエスは神殿に強く引きつかれた。父の家にいる喜びがあった。心が父の家にいる。今、体と心が一つになって父の家にいる。神殿に自分の場所がある。 学者の語っている話を聞きます。神様を見ている自分の思いを語ります。自分は神様をこのように感じていますが、先生の意見は神様をむずかしく解釈しているように思います。神様をどのように感じているのですか。そんな質問をしていたのです。人々はイエスの賢い受け答えに驚いていたと記されています。
父さん、母さんはイエスの安心の姿に驚いていたようにも思います。
ナザレに帰り、イエスは今まで上に父さんと仕事をし、母さんの手伝いをしたのです。父さん、母さんはイエスの成長をより深く心の留めたのではないかと思います。
聖家族、父ヨセフ、母マリア、イエスを思い巡らし、自分の家庭を思ったらいいと思います。主の降誕(日中のミサ) 18-12-25
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。」
ヨハネによる福音書を読みました。ついこの間までこの文章が、皆目わからなかった。
初めに:何がが初めにあったという。どうしてその事が初めなのか。
言があった:言があるとは何ですか。話す人がいた、聞く人がいたということですか。
言は神と共にあった。言は神であった。言が神? ますます分からない。
もっとイエスに出会ったのでしょうか。イエスの姿をもっと知りたいと思った。イエスが神様。人の命を超える方。人でありながら、人を超える方。イエスが神様、そして、言。言とは出来事ではないかと思ったのです。言は出来事の姿。イエスがおられる、イエスのみ心が語る、イエスが行う、すべての出来事が言。その言が神様によるもの、いや、神様の出来事がイエスの姿だと知ったのです。
言は話を語り、聞く声に出す言葉ではないと思います。言は読んでわかる文ではないと思います。
言は憐みの心です。例えば、あなたの話していることには言がない。あなたの文章には言がないと言いたい時がある。それはあなたの話す言葉には心がない、あなたの行いは心がない、もっと言ってしまうと、あなたには愛がないということだと思います。
初めに言があったー神様が初められた。神様が時間を造られ、場所、空間を造られた。
初めに、宇宙、地球を造られた。すべて神様の御心の業です。初めに神様の御心があった。神様の力が「しるし」となった。 初めに宇宙を造られた。初めに地球を造られたと読んだのです。
万物は神様によって成った。言によって万物は動き始めます。
第一日目、神様は光あれと言われた。光があった。光が宇宙に注がれた。宇宙は光に満たされた。この光は命の光、聖霊の息吹です。宇宙のすべてのものは神様とつながっているということを言っているように思います。
神様は今日、この日、赤ちゃんをわたしたちに送られました。
貧しい厩に生まれた。ここがあなたの寝るところです、生まれるとすぐ飼い葉桶に寝かされた。
この子の名はイエス。「主は救い」という名です。
イエスの命は光。神様によって生まれたまことの光です。
イエスがわたしたちのために生まれた。
クリスマス、おめでとうございます。
主の降誕(夜半) 18-12-25
今日はクリスマス。わたしたちは今夜イエス様の誕生を祝うために集まっています。
今より少し前、クリスマスのミサは25日の午前0時に始まりました。真っ暗な中でミサが始まります。
ここは田舎の村です。一人のおじさんがおじさんの弟の家族と一緒に住んでいました。弟の息子がおじさんに言います。「おじさん、今日の夜、クリスマスのミサがあるよ。僕たちと一緒に教会に行こうよ。」おじさんは言います。「みんな、行っておいで。おじさんは体の具合が少し悪いようだ。家の中で祈っているよ。」 弟の家族は家を出て教会に向かいます。12時近くになると、その村は真っ黒になります。皆、教会に集まっているのです。
おじさんは一人、暖炉のそばの揺れ椅子に揺られながら考えます。神が人になる? そんな馬鹿々々しい事を誰が信じるのか。神は何でもできる、しかし、人は何も出来ないじゃないか。神が人となる、そんなことはあり得ない。あり得ない、信じられないよ。
耳を澄ませば、遠く教会の鐘がなっている。「今日はクリスマスか。」
おじさんは目を閉じ、まどろみかけている。
すると突然、バシン、バシンと音がする。えっ? 続いてバシンと音がする。窓ガラスに何かがぶつかっている。何事かと、身を起こして立ち上がる。外に出る。そこに見たものは、空から鳥が窓をめがけて飛んで来るのです。空に鳥の群れが飛んでいる。おじさんは思う、あの群れは道を間違えた渡り鳥だ。寒空の中、、明かりを求めて、窓ガラスをめがけて飛んで来るのだ。一匹、一匹、窓ガラスにぶち当たり軒に落ちて来る。「何ということだ。」 おじさんは納屋に向かって走った。納屋の戸を開ける、窓を開ける。電気をつける。干し草を納屋にまく。おじさんは外に向かって叫びます。「こっちだ、こっちだ。こっちへ来い!」 しかし、鳥たちは次から次へとガラス窓にぶつかって死んでゆく。おじさんは「こっちへ来いよ」とつぶやくのです。「あぁ、わたしが鳥になって鳥たちに話しかけることが出来たなら」
その時、おじさんは悟ったのです。神が人となったことを。おじさんはその場で膝まづいた。
おじさんは、今、人となった神の愛を知った。
待降節第4主日C 18-12-23
わたしはよく言います。生活の中で深く祈る、聖書を深く読む、黙想の時を持つ、すばらしい事です。しかし、これらは全て信心業です。自分の部屋の出来事ではないですか。自分の部屋からから外に出る。自然と出会う、人と出会う。信仰は信心からの出発です。信仰はつながり、出会いです。信仰は神様とのつながり、自然とのつながり、人とのつながりです。
出発の証を求める。罪の償いの証を求める。証し・「いけにえ」を求めているのだと思いました。
「いけにえ」はつながりを求めています。しかし、「いけにえ」は信心業ではないかと思ったのです。罪を犯した時、償いを果たすための捧げもの、それが「いけにえ」となると思ったのです。神様に願いをかなえてもらうためにささげるもの、それが「いけにえ」となる。
信仰のための証、「いけにえ」ではなく、自分の得のためにいけにえを捧げる、それが儀式となっているように思うのです。
キリストは「いけにえ」となりました。まことの命への出発、まことの愛への出発です。
何かを願う時、本当に願う時、どんな捧げものよりも一番の捧げものはあなた自身ではないかと思うのです。あなたがその出来事に、考えのうちにいるのではなく、考えから出発して、体でその力に対するのです。 あなたが祈る、聖書を読む、黙想する。その力をもって人と接するのです。その「いけにえ」をもって自然と接する、人と接するのです。あなたが力を発揮するのです。
その日、マリアは大天使ガブリエルの訪問を受けました。大天使ガブリエルから神様からのみ心を聞きました。神様の思いが自分に注がれたのです。と同時に、エリザベトが、子供は出来ないと思われていた女エリザベトが身ごもった、もう半年にもなることを知りました。
マリアはすぐ旅に出ます。急いで旅立つと書かれています。急いでとは、ほかの用件は受け付けませんということです。マリアの心にはエリザベトの出来事、そして自分に注がれた出来事しかありません。この二つの出来事を一緒に祝いたい。
マリアは150㎞を越える距離を、山地、砂漠の道を歩いたのです。
ザカリアの家に着きました。エリザベトに会った。マリアは挨拶をする。 わたしは神様から恵みを受けました。神様の道を行く者となりました。エリザベト、あなたも神様から恵みを受けたことを聞きました。 マリアの挨拶の言葉をエリザベトが聞くと、マリアの言葉、心がエリザベトの心と体に染み渡りました。その時、マリアの胎の子が喜んで踊りました。
エリザベトは言います。「わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとはなんと幸いなことでしょう。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
小さい者、弱い者が幸いを受ける。マリア、エリザベトは思います。何の取り得もないこのはしために神様は心を留めてくださった。小さい者、弱い者であることを感謝します。
フランス、ルルドにベルナデッタという少女がいました。ベルナデッタは聖母マリアに出会ったのです。田舎に育ち無学文盲、無邪気な、しかし意志の強い少女でした。ベルナデッタは司教さんによって修道院に入ることが出来ました。しかし、修道院の中で、シスター同士でマリア様と会ったこと、その状況の事は話してはいけないと約束がありました。修道院で生活しています。院長さん、指導員シスターがベルナデッタに言います。「あなたは本当に何も知らないのね。もっともと勉強しなさい。あなたは本当に何も出来ないのね。料理が出来るようになりなさい、つぎはぎが出来るように、ボタン付けも覚えなさい。司教さんの指示がなかったらあなたはこの修道院に入れませんでしたよ。何故、あなたがマリア様に会うことが出来たのですか。何故、あなたが選ばれたのですか。」
「神様が、誰にも負けないわたしの貧しさを知っておられたのだと思います。」
待降節第3主日C 18-12-16
待降節第3主日を迎えています。イエスの誕生を待つ。待てる人になりなさいと言われているよう思うのです。ゆったりと、希望を持って待つ。
第2朗読のフィリピの教会への手紙を読みました。この時、パウロは獄中にいるのです。暗い中に閉じ込められている。人と出会うことが出来ない。自然の息吹を味わうこともできない。陽射しを味わうこともできない。歩くこともできない。牢獄の中でパウロはフィリピの教会の人たちに言います。皆さん。主において喜びなさい。牢獄にいるからこそ、より強く神様を見つめる、より深く神様を思い巡らしているのではないかと思います。今、主と共にいる。わたしは、今、主と共にいることを喜んでいます。どんなことでも、思い煩いのはやめなさい。感謝を込めて祈る、願いをささげる。神様はあなた方の心を聞き入れてくださいます。 待つことは神様と共にいることではないでしょうか。
神様のみ言葉がヨハネに降った。ヨルダン川の河沿いで、力強く、叫ぶように語ります。悔い改めて神様のもとに戻りなさい。天の国はわたしたちの前に来ている。わたしたちは一本の木です。悔い改めに相応しい、善い実を結びなさい。善い実を結ばない木は皆、切り倒されて火に投げ込まれます。 わたしたちはどうすればよいのですか。
学生ならば、知識に好奇心を向けなさい。自由である自分を見つめなさい。若い事を味わいなさい。 お母さんであれば、お母さんである思いやりを持ちなさい。受け入れる寛容な心、優しさで、喜びの心で語りなさい。 お父さん、与える者になっていますか。働いている。何のために働いているのか、もう一度考えなさい。今、どんな状態であろうとも、この社会を作っているのはわたしたちだと知るのです。
徴税人がヨハネのもとに来ます。「わたしたちはどうすればいいのですか。」「規定以上のものは取り立てるな。」 兵士も来ます。「このわたしたちはどうすればよいのですか。」「誰からも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ。」
実は、今日は喜びの主日です。希望のうちに待つ。イエスの誕生を心を清くして待つ。ますます清くなって主を迎える。どうしたらいいのですか。愛する人になりなさい。その人と一緒に生きる。心が結ばれる。支え合うのです。隣人を自分のように愛する。愛する人がいる。自分が、自然に与える者になっている。得するものではなく、与える者になっている。
待っている。全部が喜びではないでしょうか。
わたしたちは聖霊と火で洗礼を授ける方を待っています。
待降節第2主日C 18-12-9
今日の福音書は歴史の教科書のような始まりです。聖書は歴史の本ですか。聖書で歴史を調べることが出来るのですか。いや、歴史は歴史の専門家に教わった方がよいと思います。
人はこの世界に生きています。豊かな自然に包まれています。大自然の中に、仲間を作って生きています。自然の中におおらかに生きる。しかし、現代は機械の力が目覚ましく進んでいて、ある人は機械が食べ物を造っていると思っています。肉を食べる、血を見なくても肉が食べられるのです。お米を食べる、パンを食べる、野菜を食べる。土の中に入ってお米を作る、麦を造る、野菜を育てる。そんなことを考えなくてもいい。スーパー、コンビニで食べ物が、食べられるように並んでいます。食べ物を作っていると思っている機械に与えるのは自然が造ったもの、それを忘れてはいけないと思います。自然の中で働かなければ食べ物を得ることは出来ません。あまりにも食べ物が人の手を通して与えられているので、特に都会に住む人たちは、自然の中に生きていることが分からなくなってしまったのだと思います。
人が生きる、それが歴史を作るのです。力ある者が自分のため、自分の家族、親類のために豊かな生活を求めます。歴史の初め、家族が、親類一族が一緒になって住んでいました。そして、部族が一緒になり、戦争が繰り返され、地域がまとまる。そして、国が出来るのです。強い国が弱い国を支配してゆきます。破壊力のある兵器、武器によって、または人が武器となって、他国を攻める、支配するのです。経済によって弱い国を支配します。一大帝国が出来るのです。
今から2000年前、ローマ帝国の植民地、イスラエルでの出来事です。荒れ野に住む預言者ヨハネに神様からの言葉が降りました。ヨハネは罪の赦しを得させるために、悔い改めの洗礼を宣べ伝えます。ヨハネは叫びます。イスラエルの人々、神様の御心のうちに生きなさい。神様のみ心、それが祝福です。喜びを喜ぶ。喜べない人がいる。なぜ喜べないのですか。なぜ苦しんでいるのですか。なぜ悲しいのですか。喜びは心から生まれるもの。その人の苦しみを受け取りなさい、悲しみを受け取りなさい。心がつながって、その人と一緒に歩けたらいい。 神様を見つめなさい。
神様を見つめる。自分の命を思いなさい。自分の命を見つめながら、自然の生きている力、自然の持っている命の息吹と出会うのです。そして、人が皆神様の命のうちに生きている、それを思います。この世界にあるすべてのものに命がある。すべてのものが生きている。山がそこにある。川がそこを流れている。海がある。すべて造られたもの。場所と時間のうちに、そこに、その時ある。そのように造られている。そこ、その時はそのもののもの。そのものに与えられた時と場所です。わたしたちが今、ここにいる。家庭、家族の中にいる。仲間がいる。その中で生きている。家族と語る、友と語る。話を聞く。喜ぶ。 しかし、よく考えてみると、これらの事は皆与えられたものではないですか。すべてが与えられている。自然があった。人が生まれた。それ以前に、場所がある、時間がある。全部与えられているのです。すべてのものに命が与えられている。 この世を包む大きな力を知るのです。
イスラエルは神様の言葉を聞いた。ヨハネは神様の言葉を聞いた。神様は一人一人に命を注がれ、人はこの世に生まれる。神様に愛されて、命が注がれ生まれる、そして、生きる。支えながら生きる。神様を見つめなさい。神様である主を見つめなさい。主イエス・キリストの姿を思い巡らしなさい。 見つめただけでは主を知ることは出来ません。自分の心の中で一生懸命祈る、愛とは何かを勉強する。苦しんでいる人を憐れむ、悲しんでいる人を思いやる。そこから出発です。人と出会い、歩きなさい。主の道を歩みなさい。その時、人は皆、神の救いを見るのです。
救いは、願って待っていても与えられません。人のために働いた時、あなたを救いが包みます。安心が何かが見えます。平和が何かが見えます。
待降節第1主日C 18-12-2
待降節に入りました。イエス様の誕生を待ちます。イエス様はまことの王。 喜びを与えてくださる、慰めを与えてくださる、力を与えてくださる、誇りを与えてくださる、命を与えてくださる王です。
全てを持っておられる方が赤ちゃんとして来られる。何も出来ない赤ちゃんが王様。神様からそんな不思議な出来事が与えられる。
ちょっとよけいなことを話したいと思います。 キリスト教がローマ帝国に入って来た。ローマ帝国に広まっていた宗教はペルシャ由来のミトラス教というものでした。太陽の神ミトラスを崇拝する。日本でもそうですが、初日の出を拝む。正月、元旦に早起きして日の出に手を合わせる。 まことの光は、まことの温かさは太陽から注がれるものではありません。まことの光、温かさは命の喜びです。命を与えてくださる方がまことの神様です。神様によって生きる。生き生きと生きる。その神様こそまことの神様です。イエス・キリスト、すべてを造られた神、わたしたちを包んでくださる神、わたしたちと共にいてくださる神。ローマ帝国の人々が儀式のうちに拝む神様ではなく、共に歩んでくださる神様のうちに入って行ったのです。
イスラエル、人々がエルサレムの神殿に感心をしている。なんて神殿は美しいのだろう。このような美しい石で造られている。見事な奉納物で飾られている。イエスは神殿に感心する人々に言われます。 「この神殿は何のためにあるのだろうか。この神殿が壊され、全く何もなくなってしまう、一つの石さえ残らなくなってしまう時がくる。」 彼らは尋ねる。「それはいつ起こるのですか。それが起こる前にはどんなしるしが現れるのですか。」 「それがいつ起こるのかは、天使たちも知らない。人の子でさえ分からない。天の御父だけが知っておられる。」
あなたがたは神殿に天の国の姿を見ているのではありませんか。天の国は柔らかな光に満ちている。優しく受け入れてくれる、慰められる、いつも喜びが心に満ちている。
この神殿が壊される時が来る。あなた方が壊す力となっているのです。その時あなた方は言うであろう。神様はどこに行ってしまったのか。神様の憐れみは、慈しみは、わたしたちへの愛は消えてしまったのか。 神様は聞かれます。あなたたちの神様への愛はどこに行ってしまったのですか。わたしがあなたたちに求めた新しい律法をあなたたちは忘れてしまっているのですか。
愛しなさい。 第一に神様を愛しなさい。第二に隣人を自分のように愛しなさい。
あなたたちは清さを求めていない。隣人を見ようともしない。
日常の生活の煩いで、心が鈍くならないように気をつけなさい。 社会は人が造っているのです。その中で自分が生活する。生活とは神様の命を生きることではないですか。生き生きと生きることです。社会の中に生きるとは人の心の中に生きることではありません。いつの間にか神様を忘れている。人と一緒にいて、人を自分と何気なく比較している。人の見栄の中に生活している。神様を見つめる目が消えている。神様に感謝する心が消えている。 隣人が見えない。自然の命が見えない。自然の力が見えない。心が鈍くなっている。
その日が来ます。 その時、大地は揺れ動き、天は太陽、月、星に徴が現れる。人の力をはるかに超える力がわたしたちを襲いかかってくる。そのようなことが目の前に起こったら、自分に迫ったら身を起して、頭をあげなさい。恐ろしさを受け入れ、苦しい中にいて神様を見つめなさい。
目を覚ましていなさいと教えられます。
神様を忘れてはいけない。
祈りを忘れてはいけない。
イエスの姿を思いなさい。
わたしたちがますます清い心をもってイエスの誕生を待ちたいと思います。