主の降誕(日中のミサ) イザヤ52・7-10 ヘブライ1・1-6 ヨハネ1・1-18 20-12-25
主の誕生、イエス様がお生まれになった。クリスマスおめでとうございます。
神様が赤ちゃん。何も出来ない赤ちゃん。何でも出来る神様が何も出来ない赤ちゃんとして生まれた。これは何なのですか。そしてイエス様、この方は何なのですか。
ヨハネ福音書は今日わたしたちに、イエス様を思い巡らしなさいと言っているように思います。
「初めに言があった。」 言は神様のうちにあった。初めは、始まりは神様です。言のうちに命があった。命は働く力です。命はものを動かす力です。ものは見えるもの、見えないもの全部です。言はすべてのものを造り、すべてのものに命を与えた。言によって造られないものはない。 命、働かなければ、命は命ではない。命は働いている、生きている。そして、命は光。光は命のうちにあって光輝いている。輝かない光りは光ではない。 人は皆、言によって造られている。人は命を与えられて生きている。言は命の世界を造った。そして、暗闇の世界を造ったのです。暗闇は光を理解しない。命の動きを、命の喜びを、光りの温かさを理解しない。
言はこの世を創られた。人を創られた。人の世を創られた。光りのうちにいる人は暗闇を知った。暗闇=欲求、欲望の世界を知ったのです。
人は一人でいる。自分自身を持っている。自分の思い、自分の世界を持っている。そして、人は一緒に生きる。仲間と一緒に生きる。支えられ、支えながら生きる。人は一人であると同時に仲間と一緒に生きるのです。人の世界に暗闇が入った。人は暗闇を選んだ。自分は自分自身でいたい。自分の欲求を自分の力で満たしたい。その時、隣人が見えない。支えられて生きているのにもかかわらず、支えようとしない。人の世が欲求の世界になっていたのです。
人の命に光がなくなった。命の尊さがなくなった。助け合う心がなくなった。自己主義の場、力の場となった。自分の力を大切とする(尊重する)場となった。
言が肉となって、この人の世に現れた。その人は言の方。その方に栄光を見た。その方は恵みの方。隣人のうちに生きる命を示される方。その方こそ命を示す神様を示す方。まことに豊かな方。物の豊かさを超える、命の豊かさの中に生きる方。
その方こそキリスト、神様の命の方、まことの喜びの方。
神様が来られる。神様がわたしたちの主である。王である。その方は貧しさのまことを知っておられる、苦しさのまことを知っておられる。 「その方は隣人の中に命の尊さを知っておられる」と言いました。隣人とは助けがなければ生きて行けない人です。その人が生きる、助けながら生きる。自分の持っているものを出し切って、その隣人が生きてほしい。命は一緒に生きることです。損をする、当然ではないか。その人が生きる。生きる命を味わう。これ以上に大きな喜びはないではないか。イエス様に命の貴さを見ます。
イエス様来られた。
主の降誕(夜半のミサ) イザヤ9・1-3,5-6 テトス2・11-14 ルカ2・1-14 20-12-25
[イザヤ9・1-3,5-6]
わたしたちは闇の中にいる。強い力に縛られている。希望がない。喜びのない生活。しかし、神様を忘れてはいない。神様、この暗闇を突き抜ける力を与えてください。
あっ、光がある。光が見える。光のうちに神様の大き恵みを見た。光りが大きな喜びとなる。大きな楽しみとなる。 その光は一人のみどりご。暗闇に生まれた一人のみどりご。その子の肩には権威がある。その子は驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君と唱えられる。その王国は正義と恵みの国。今も、そして、とこしえに立てられ、支えられる。万軍の主がこれを成し遂げる。
この言葉は今、この時ではないでしょうか。ひとりごが平和を求めておられる。正義を求めておられる。それを行うのは、ひとりごをこよなく愛するわたしたちではないでしょうか。
神様を見つめます。ひとりごを見つめます。ひとりごを支え、支えられ歩きます。
一緒に歩けますように。
[テトス2・11-14]
神様の恵みがわたしたちに見えるように現れました。神様の恵みをいただきたい。神様の恵みを見たい。 その恵みは何ですか。欲望を捨て去り、貧しく、苦しみを背負って生きること。そして、神様の栄光を待ち望むことです。 キリストはご自分を暗闇の世界に置かれ、生活されました。
いや、それも赤ちゃんとして来られました。 ご自身を全くささげられたのです。
それは一人のいのちをも失わないで、生きることを教えるため、キリストを知り、信じる人が皆、清められるためです。
[ルカ2・1-14]
皇帝アウグストゥスから、全領土の民に登録をせよとの勅令が出ました。人々は皆、登録をするために自分の町に旅立ちました。ヨセフもガリラヤのナザレからユダヤのベツレヘムという町に上って行きました。身ごもっていたマリアも一緒でした。 町は込み合っていました。泊る所がありません。ようやく家畜小屋に案内されました。マリアは月が満ちて、初めての子を生みました。布にくるんで飼い葉桶に寝かしつけています。夜通し、野宿をしていた羊飼いたちに、主の天使たちが周りを照らしました。主の栄光が彼らを包みました。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそメシア、キリスト。布に包まって飼い葉桶に寝ている乳飲み子、これがあなたがたへのしるしである。」
神様はわたしたちの社会を見ておられる。社会のみんなは皆、急いでいる。皆、競争している。仕事をする人は正しく、速くこなせるのがいい。学生は物をたくさん知っている、深く知っているのがいい。そんな競争をしている。競争の世界を作っている。皆一人一人に優しさがあったらいいのに。
ある人はもっとお金持ちになったらいいと思っている。ある人は美味しいお菓子を見つけよう。そんなふうにに思っている。
わたしの心はそうではない。
待降節第4主日B
サムエル下7・1-5,8b-12、14a、16 ローマ16・25-27 ルカ1・26-38 20-12-20
ダビデはイスラエルの王となった。今や、レバノン杉で建てられた王宮に住んでいる。しかし、ダビデが祈りを捧げる時、天幕に行くのです。主なる神は天幕におられる。天幕は遊牧民の移動式の住居、建物です。主が天幕におられる。主のために主の住居を造りたい。
主は言われます。お前は自分の力で、主であるわたしのために住まいを造ろうとするのか。わたしは、わたしの子イスラエルと共に歩んできた。わたしは常に移動できる天幕のうちにいる。お前は与える力を持ったから与えるのか。主がお前にそれだけの力を与えている、お前は支えられていることを忘れてはいけない。まことに「与えるとは損をすることだ」と言いうことを忘れてはいけない。お前はわたしに与えようとするのか。わたしのために損をするのか。いや、それは損ではない。
わたしはお前といつも一緒にいる。わたしの心、み旨を行いなさい。
大天使ガブリエルはマリアを訪れました。「マリア、あなたは神様から大きな恵みをいただいた。おめでとう。あなたは身ごもって男の子を生む。その子をイエスと名付けなさい。」
恵みは子を生み、育てることです。心を込めて、力を尽くして、子を生み、慈しみをもってその子を育てるのです。「恵み」は力を尽くして与えることです。
「恵み」というのは、神様からの、人の力を超えた贈り物かと思っていました。
そうではない。 恵みとは貰うのではない、与えるのです。大きな恵みを貰った。その恵みはあなたのものですか。あなたの楽しみだけのものですか。
たとえば、ふと、大きなお金が与えられた。その恵みを、そのお金を使って、美味しいものを食べたり、ディズニーランドや大阪UFJで遊びまくるのですか。
別の楽しみ方もあるのではないでしょうか。人の笑顔を見る楽しみです。
たくさんの施設が応援を求めている。災害で苦しんでいる人、悲しんでいる人たちがいる。そのひとたちの応援になったらいい。手助けが、その人たちの笑顔になったらいいのです。
その子の名はイエス。イエス―ヨシュア―はイスラエルの新しい指導者です。その名は「主は救い」言う意味です。薄暗いイスラエル、信仰が見えないイスラエルの新しい指導者への希望の名です。
わたしは何も知りません。何も出来ません。
すべてを神様に委ねなさい。神様の思いの内に生きる者になる。あなたは神様の子となりなさい。神様に出来ない事は何一つないのです。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」
神様、マリアの思いを、マリアの従順を完成させてください。
マリア、あなたは律法の通りに従わず、律法を超えて神様のみ心を受け入れました。まことの律法は神様のみ心です。
神様によって身ごもった。そう言った時、マリア、あなたは何を言っているのかと責められます。
それは、あなたが神様を冒瀆することになるのです。
ヨセフは悩んだ、苦しんだ。マリアの信仰について行けない。
大天使ガブリエルはヨセフに語ります。マリアを受け入れなさい。マリアの出来事はすべて神様のみ心によるものです。ヨセフ、あなたは受け継がれている律法の判断を超えて、神様のみ心を受け入れました。 神様のみ心が今始まりました。
マリア、ヨセフこの二人は神様の道を歩み始めました。
神様は道を歩む人に恵みを注がれます。神様の大きな、大きな恵みを注がれます。
しかし、その恵みはあなたを喜ばせる恵みではありません。
あなたが手助けしている隣人のための恵みです。
いただいた恵みは与えるための恵みではないでしょうか。
たくさんの恵みをいただいた、たくさん与える者となれますように。
今も神様はわたしたち一人一人に大きな恵みを与えてくださっていると思います。
何も出来ない赤ちゃんイエスが生まれる。
赤ちゃんの心が神様のみ心で満たされる、人の温かさ、ほほ笑みで満たされる。
待降節第3主日B
イザヤ61・1-2a、10-11 Ⅰテサロニケ5・16-24 ヨハネ1・6-8,19-28 20-12-13
待降節、新しい出発を待ちます。 1つわたしは勘違いをしました。神様が人の世に来られる。人間として来られる。それも何も出来ない赤ちゃんで来られる。なぜ、赤ちゃんで来られるのですか。何でも出来る神様が何も出来ない赤ちゃんで来られる。 わたしは言いました。赤ちゃんは何も出来ない。けれど、赤ちゃんのその瞳はきれいに澄んでいる。その赤ちゃんの姿はすばらしい。あの悪者の石川五右衛門も、笑ったことのない石川五右衛門も赤ちゃんがにこっとしたら、つい笑ってしまう。赤ちゃんは自分の前にいる人の心を感じている。その人が赤ちゃんをどんなにあやしても泣いてしまう人もいる。赤ちゃんに好かれるようになったらいい。
普段生活していると、作ってしまう。作り物の体、作り物の心でない、心と体に嘘がなかったらいい。
今、カトリック新聞を見て「あっ」と思いました。
神様はなぜ赤ちゃんで来たの? それはみんなに抱いてもらいたいからです。
わたしは赤ちゃんの心を全く思わなかった。赤ちゃんは求めている。みんなに抱きしめられたい。みんなの温かさが欲しい。みんなの笑顔が欲しい。みんなの優しい心が欲しい。
出発、温かさをもって、笑顔をもって、優しい心をもって歩き始めたいと思うのです。
ヨハネという人が神様を語り始めました。ヨハネと言う名は主は恵み深いという意味があるようです。ヨハネは光について語ります。神様はこの世に光を送られた。その方と出会いなさい。その方と一緒に歩きなさい。その方は光、その方を信じなさい。
あなたに光がある。あなたがその方ではありませんか。 わたしは光の証し人です。その方のために道をまっすぐにする者です。今、わたしたちの住んでいるこの荒れた土地で叫ぶ者です。
その方はわたしの後から来られる。 それはベタニアでの出来事でした。
ベタニアとは、貧しい者の家、苦しむ者の家、抑圧されている者の家という意味があります。
わたしは水で洗礼を授けている。悔い改めの後、神様のいのちの水で人を清めている。
そして、神様のみ心のうちに歩みなさいと告げます。神様の道、それは神様のみ心律法のうちに歩むことです。 その方は聖霊と火によって洗礼を授けられる。
その方はわたしたちには知られていない方。わたしたちの日常を超ええる方です。聖霊を見ておられ、光を見つめておられます。
わたしたちは科学の中に生きています。科学は外側を作ります。速く、正確に、美しく、快楽を求めながら物事を処理します。科学の内にすばらしい外側が出来ている。どこまでそれが進んで行くのか。 しかし、心は何処に行くのですか。心は置いてけ堀です。自分がどこかに行ってしまった。人とのつながりがどこかに行ってしまった。みんな一緒に汗をかこう。みんな一緒に苦労して歩いて行こう。みんな一緒に愉快に笑おう。そんな和やかさがなくなってしまった。
出発、何を目指して出発するのですか。何を待つのですか。
その前に、自分を見つめ、自分を清めなさい。自分が人を支える道具となりなさい。
赤ちゃん笑顔。赤ちゃんのまあ絵で皆が一番素直になる。
心が清くなりたい。光の中を歩みたい。
待降節第2主日B イザヤ40・1-5,9-11 Ⅱペトロ3・18-14 マルコ1・1-8 20-12-6
救い主が来られる。 わたしたちはベツレヘムでお生まれるになる赤ちゃんの誕生を待っています。神様が赤ちゃんとなってこの世に来られる。何でも出来る神様が何もで見ない人となる、いや、人の赤ちゃんとなって来られるのです。その神秘を味わう。その神秘の出来事、クリスマスが救いの出発だと思っていました。その出来事が救い主が来られる神秘だと思っていました。
今日、福音書は洗礼者ヨハネを語ります。
ヨルダン川の川沿いで神の国を語る、律法を語る者がいる。ヨハネの叫びはユダヤ全地方とエルサレムの人々の胸に響きました。多くの人々はヨルダン川に行き、ヨハネの姿を見た、話を聞きました。ヨハネに出会った人は言います。ヨハネこそわたしたちが望んでいる救い主だ。
荒れ野で叫ぶ者、ヨハネの姿はまさしくエリヤ(主は神である)です。ヨハネはラクダの毛皮を着、腰に革の帯を締め、いなごと野密を食べている。
また、エリヤは昔、カルメル山でバールの預言者と対決しました。イスラエルに雨が降らない、飢饉になっている。バールの神に願う、イスラエルの神に願う。神に願って雨を降らせてもらう。雨を降らせることの出来た神が本当の神である。エリヤは一人、バールの預言者が450人。エリヤは勝った。まことの神を示したのです。そして、450人のバールの預言者を皆殺した。
救い主に人々は力強い姿を見ます。ヨハネは力強い預言者。ヘロデ王と戦える預言者だ。わたしたちが待ち望んでいる救い主だ。
ヨハネは語ります。わたしは救い主ではない。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたさひは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水で洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
待降節に神様はわたしたちに何を求めておれるのですか。
主を待つ。主の心を待つ、主の救いを待つ。わたしたちも今、灰色の世界にいます。
今、待降節にいます。紫の世界です。神の救いが見えない世界です。栄光の賛歌は今歌いません。2月27日からミサが非公開になりました。ミサは公開されていますが、コロナの恐怖はますます強くなっています。自粛の生活を送りなさい。自由な生活を起こっているわたしたちには大きな試練です。
自粛:わたしに何が求められているのですか。
苦しみの世界ですか。悲しみの世界ですか。皆で一緒の喜べない世界ですか。
密になってはいけない世界です。
一人になりなさいと求められています。一人で自分を静かに見つめる。
静かな時を持つ。人と心でつながりなさい。
そして、神様を見つめるのです。
待降節第1主日B
イザヤ63・16b‐17,19b,64・2b‐7 Ⅰコリント1・3‐9 マルコ13・33-37 20-11-29
「目を覚ましていなさい。」 目を覚ましている、きっと緊張感があるのかなと思いました。だらしなくしててはいけない。 ふと、高校時代を思い浮かべました。授業が始まる。皆、席に着く。その時、先生に急に用が入ってくる。静かに自習でもしていなさいと先生は教室を去る。そこからが大変です。教室は授業の場ではなくなる。それぞれがお喋りをする。席を立つ。皆にとって、教室は勉強するためのものではない。面白いから勉強しているのではない。楽しいから授業を受けているのではない。
「目を覚ましていなさい。」 自然の中にいるわたしたちはふと季節を知る。枝が柔らかくなり、葉が伸びると夏の近づいたことが分かる。その様に社会の変化に気づいたらいい。今の社会はどんな社会ですか。社会はあなたに何を求め、何が与えらえていますか。あなたは社会に何をしていますか。この社会は人の命を大切にしていますか。心の健康を大切にしていますか。
この頃思うのですが、今わたしたちの生活は機械を十分に使っているように思います。人の手を使わないで機械が行っている。スーパーマーケット、コンビニに行けば、日常必要なものは何でも揃っている。人の手よりも機械によって生産している。米、麦、野菜、果物を作る。機械がなければ出来ない。そこに土の香り、海の香りがないように思います。魚、機械によって大量に収穫する。野菜、果物、今はもう、旬が分からない。
社会が変わって来ている。年老いた者の心は置き去りにされているように思います。機械のような速さで処理しなさいと言われているように思います。速く、正確に、行いが判断されているのではないでしょうか。ゆったりさがない。のんびりさがない。若い人たちは仲間が段々持たなくなっているように思います。会話がない。こんなことを聞きました。友だちの集まり。それぞれが小さなパソコンを持って集まる。集まって、それぞれが一人一人でゲームをしている。こんなことは本当なのですか。SNSで知り合って、結婚したと言う夫婦がいると言う。
変わった社会になっている。その出来事をすべて受け取ります。そして、自分がそこでどのように生きるか決めたいのです。 決める基準は何ですか。 社会を覆っている常識ではありません。会社の宣伝ではありません。近所の人たちの思いではありません。「神様のみ心です。」生きている命を考えるのです。人とつながる事を大切にするのです。言葉を交わすことです。
神様のみ心は何ですか。今、沈黙が求められているように思います。待つ心がありますか。
今、この時、自分を静かに見つめなさい。自分の食生活を見直す。ゆっくり歩く。祈りの時間を持つてみる。静かに会話する。教会に行く。教会で自分を取り戻したいと思います。神様の前に自分がいる。神様のみ言葉を心で受け止める。 社会に引き回されない。
自然の変化を知るように、社会の変化を知るようになったらいい。わたしたちは社会に乗って生活しているのではないでしょうか。イエスは社会の荒れているこの時に言われているのです。
「目を覚ましていなさい。」神様を見つめていますか。祈りの時間を持っていますか。
神様、あなたはわたしたちの父さんです。あなたは永遠の昔から「わたしたちの贖い主」です。
わたしたちをこの混乱から救ってください。静かな、喜びの生活を送らせてください。
父さんは言われます。この混乱はあなたたち自身が作っているのではないですか。あなたたちはわたしの道を歩いていますか。
わたしの心の中にいますか。
わたしを見つめていますか。
思い直しなさい。洗礼を受けた時の心に戻りなさい。
して、出発しなさい。それが救いの歩みです。
待降節、困難、災害の時、幼子は生まれます。
幼子は優しい光のうちに、温かいものが与えられ、人の温みの中で大きくなって行きます。
幼子は与えれらて成長してゆくのです。わたしたちも幼子に自分の精一杯の心を与えて行きたいと思います。 イエス様の誕生を待ちます。
王であるキリストA
エゼキエル34・11-12,15-17 Ⅰコリント15・20-26,28 マタイ25・31-46 20-11-22
その日、終わりの日、わたしたちは一人一人神様の前に立ちます。裁きの時です。
神様は言われます。 今終わりの時です。あなたの人生、生きる喜びはありましたか。あなたの心に、捨てられないほど大切な事が残っていますか。
あなたは自分を見つめてほしいのです。あなたにとって、毎日出会う人はあなたに何でしたか。
助けを求めている人と出会いたい、と歩いたことはありますか。
かつて、横浜教区に浜尾大司教さんがおられました。(帰天されましたが。)浜尾大司教さんがある説教で語られました。教会は献金を求めます。災害時にはそれなりの献金が集まります。
しかし、貧しい人のため、体の不自由な人のためというと、まるで集まらない。
この間、わたしが入院しました。すると、婦人たちがこぞって病院を襲います。お見舞いがたくさん、お花がたくさん。正直なところ、わたしはそんなに婦人たちの贈り物を求めていないと叫びたい。
そして、言いました。釈放されても、教会には来ないでほしい。その時、わたしは幼稚園の園長をやっていました。その人は口がうまい。わたしが容易に騙されたですから、婦人たちが口先で騙されたくないのです。
しかし、教会に訪ねて来ました。その時わたしは留守でした。お金が欲しいと言われたようです。
騙すよりは騙される方がいい。しかし、深みに入ってはいけない。二人とも穴に落ちてしまうからです。 愛するという事は自分も穴に陥る事でしょうか。いや、その人が生きることです。神様のみ心を知ることではないでしょうか。その人と共に生きる。穴に落ち込んでしまってはいけない。
手助けしたいけど、かかわったら、自分の生活が、かえって苦しなって来るのではないか、心配になって来ます。その前に、その人とどれほど何を助けたいかを考えてするのがいいと思います。
手助けです。病院訪問、刑務所訪問も大切です。しかし、食べ物を与えるのも喜ばれます。
イエスは王様です。与え続けた王様です。
わたしたちは支えられている、支える続ける王様になりたいと思います。
与え続ける王様になりたいと思います。
年間第33主日A 箴言31・10-13,19-20,30-31 Ⅰテサロニケ5・1-6 マタイ25・14-30 20-11-15
天の国:夫婦が互いに助け合えればいい。天の国はそんな和やかさだと思います。夫は言います。妻は真珠よりはるかに貴い。そんな重さを持っている。妻は貧しい人、乏しい人に手を差しのべる。美しさは主のもとにあると言います。妻は主を畏れるのです。
寄りかかるのではない、支え合うのです。天の国の豊かさを自分たちで造って行くのです。
イエスは天の国の尊さをたとえで語られます。
ある人が旅に出かける時、自分の財産を僕たちに預けました。一人には3億円、一人には1億2千万円、もう一人には6千万円、途方もない金額を渡されました。このお金を「わたしのため」に自由に使いなさい。そして、わたしの喜ぶものを持って来るのです。
かなり日が立って、主人は帰って来ました。お前たちは何を造ったか教えておくれ。
3億円貰った者は言います。わたしは人を使い、自然を使って、ものの見事に自然公園を作りました。すべてのものがここに住んでいます。動物の国、植物の国。心が癒されます。
1億2千万円預かった者は言います。わたしは友人たちを集め、喜びの国を造りました。子供と大人が一緒になって、協力しながら、苦しい問題、楽しい問題を解いて行きます。
協力しながら、歩いて行かなければ、いけません。協力しなければ問題は解けない。
主人は言います。お前たちは忠実な僕だ。人を研究している。自然を研究している。お前たちは自分で自分の力を見た。友人たちを見た。人々に善いものを与えることを知った。
ところが、6千万円預かった者が進み出て言います。あなたから預かった6千タラントンを地の中に隠して置きました。損をしていません。これがあなたのお金です。
何たることだ。お前はお金を自分の世界の中に隠してしまった。お前自身も自分の世界の中に閉じ込めている。お前にとって社会とは何か。自然の世界とは何か。友とは何か。お前は世界が動いているのを見ていない。 損をする? 損をすることが怖いのか。働く時、一人でいることが損失ではないか。人は一人では何も出来ない。人の中に入る。自然の中に入る。つながりの中でものは生まれるのです。新しい世界を思いつくのです。 地の中の心は腐ってしまう。地の中のお金は腐ってしまう。 この男はものを自分のものになるよう集め、そのすべてを腐らせてしまう。人を腐らせ、動いているものを止めてしまう。人と、自然と出会うことを拒否している。物を儲ける事しか考えていない。 この役に立たない僕を追い出せ。
わたしたちは何を求められているのでしょうか。
お前たちの一生懸命働く姿をわたしは見たい。そんな言葉が返ってくると思います。
お前に力を注いだ。内気にならず、笑顔で語り合いなさい。失敗したら、元気を取り戻し、直しなさい。
障害のある人を思いました。 神様はその人に障害を与えられました。神様はその人に障害の恵みを与えられた。障害が恵みなのですか。
障害を持つ人が障害について、フランクに、人と語り合えたらいいと思うのです。
障害を持つ人のきらめき、輝きが出せればいい。今まで、障害を地の中に埋めて来た。
年間第32主日A 知恵6・12-16 Ⅰテサロニケ4・13-18 マタイ25・1-13 20-11-8
「知恵は輝かしく、朽ちることがない。」
知恵と出会った人は言います。「そうか。その通りだ。」 知恵は人の心を和ませてくれます。心と体に力を与えてくれます。知恵は神様のみ心、神様のみ心は、今も、いつも働いておられる。
「そうか、知恵はキリストの姿だ。いや、キリストの姿が知恵だと思ってしまいます。」
「知恵を愛する人には進んで自分を表し、探す人には自分を示す。」 通行税を取っているマタイは神様み心を求めている。信仰の道に戻りたい。イエスはマタイを見る。マタイの心を見る。
イエスはマタイに声をかける。そこを立ち、わたしと一緒に歩きましょう。
知恵は、神様のみ心は、キリストはわたしたちに働きかけてくださる。わたしたちはそれを受けて輝くのだと思います。知恵を求める人は自分を律しなさい。知恵の中に入って行きなさい。
「知恵は自分にふさわしい人を捜し求め、巡り歩き、思いやりの心で彼らと出会うのです。」
イエスは天の国のたとえを次のように語られます。天の国の事を知恵のうちに心に留めなさい。わたしたちは天の国への道を歩いています。その道に行く手をはばむものが現れます。天の国に行く者、それを阻むものを知恵のうちに悟るのです。
天の国は:いのちの喜びの場、柔らかい光に満ち溢れたところ、憐れみ、慈しみの場、心の平安、笑顔の絶えない場。天の国に入るのに、あなたに足りないところがあります。知恵はそれを示してくださる。 10人のおとめが花婿を迎えに出て来た。夜、皆ともし火を持って集まる。花婿が来るのが遅れた。皆、少し眠り込んだ。「さあ、花婿が来た。皆、迎えに出なさい。」おとめたちはともし火をともして、出る。賢い乙女たちは油の壺を持っていた。しかし、後のおとめたちはともし火の油を用意していなかった。「油を貸してください。」「分けるほど持っていません。店に行って、自分の分を買ってきたらいい。」愚かなおとめたちは外に出て行った。花婿が到着した。賢いおとめたちは迎えに出て、一緒に婚宴の席に着いた。油を買いに行ったおとめたちは閉まった戸をたたいた。「御主人様、開けてください。」主人は言う。「わたしはお前たちを知らない。」
おとめたちは皆、花婿の婚宴を喜んでいる。花婿を迎えるのも楽しい。一緒の花婿の婚宴に出席する。何と嬉しい事か。 知恵は問います。おとめたちは花婿を輝かす光の油を持っていますか。花婿の顔を見たい。宴にあずかりたい。婚礼の式に出席しなさいと言われた、だから出席した。
そんなのは婚礼の喜びではない。おとめの衣装は小羊の血で洗ったものですか。あなたには花婿の姿が見えない。 そんな美しいロザリオを持っている。ロザリオで祈っていますか。金の十字架をネックレスにしている。キリストは木の十字架にかかって命を落としたのではないですか。
目を覚ましていなさい。心の耳を傾けなさい。今、主があなたに声をかけられいてます。
高校生の時、試験にカンニングをする奴がいる。カンニングの常連になってしまってはいけない。学問はあなたにとって何ですか。苦し紛れにカンニングをしてしまう人がいる。
知恵はそれを見て、苦笑いをしていると思います。 実は、わたしは一度だけカンニングをしたことがあります。簿記の試験でした。難しい計算の問題です。隣の友達が見せる。それを夢中でうつしました。55年前の話です。
洗礼を受けた。洗礼から始まる道を歩いていますか。
諸聖人 黙示録7・2-4,9-14 Ⅰヨハネ3・1-3 マタイ5・1-12a 20-11-1
天使が神の刻印を持って現れた。神の刻印を押された者が神様の前に集まる。ところで、神の刻印とはなんでしょうか。
神の刻印:神様のうちに入る心に刻まれたしるし。。神様の道を歩む、神様のものとなる決意を心に刻んだものに押されるのだと思います。神の刻印が心に刻まれる。その時、その人のいのちは神様のみ心に満たされる。全く神様の道具となる。神様の刻印を押されるとは、自分の努力、自分の力、才能によるのではない。自分のすべてを捨てられた時、神様の恵みがその人に注がれ、あふれる。神様の恵みがあふれ、神様に包まれる。神様の刻印を押された者がまことのイスラエル。あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民が白い衣を身につけて、玉座の前に集まっている。彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣は小羊の血で洗ったものである。
天の国。天の国への出発は今、ここから始まっている。
イエスに従って歩きたい。イエスと共にいたい。イエスは従う大勢の群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちがそばに座られた。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
貧しい人々は幸い。悲しむ人々は幸い。柔和な人々は幸い。義に飢え渇く人々は幸い。
今、陥っている苦しみ、悲しみを心を開いて受け入れなさい。貧しい。この貧しさをしみじみ味わいまがら、手を取り合って生きなさい。貧しさに耐えるその心の強さを誇りなさい。苦しい、苦しさを耐え抜き、生きるのです。苦しさに耐える心の強さを誇りなさい。神様の恵みを一層願いなさい。悲しむ、思い切る悲しむのです。人の弱さを、小ささを芯から思い至りなさい。貧しい時も、苦しい時も、悲しい時も、神様はあなたを見ている。 貧しい、悲しい、それを超える。
豊かさから、快楽から離れる。豊かさを、快楽を打ち壊す。
憐れみ深い人となりなさい。心に清い人となりなさい。平和のために働く人となりなさい。義のために働く人となりなさい。自分の欲求に対決する、それも大切なことです。しかし、目を開きなさい。自分のこと以上に、隣人のために働く者となりなさいと言われているように思うのです。
神様を見つめる。神様のために働きなさい。
心の清い:自分の出来事は後回し。隣人のために心を砕き、体を使いなさい。自分の思いが清くなる。自分の出来事、自分自身の心の醜さが消えてしまう。
平和を実現する、義のために働く:出会う人と語り合えればいい。平和のために語り合う。人が大切にされているか。いのちが大切にされているか。
平和を作って行くとは、物を、心を求めることではない。平和とは与えることです。与え続けることです。与えるほど物がない。それなら、笑顔を与えなさい。励ましの言葉を与えなさい。最も大切なこと、その人のために心を込めて祈りなさい。
今日、わたしたちは特に、聖人を思い起こします。人は皆、生きたい心、生きたい体を持っています。家庭で生きて来た。父さん、母さんを通して人のの温かさを知った。父さん、母さんを通して人の生きる姿を知った。そして社会に出る。力のある人が、力を自分の勝手のために使っている。力のない人を自分の思い通りに使う。弱い人に苦しみや悲しみを与える。
人は神様からいのちを貰って生きている。人は皆兄弟ではないか。自分の兄弟が弱かったら、助けりうのは当たり前。体が不自由だったら助けてあげる。当たり前だよ。兄弟じゃないか。
聖人は自分のためではなく、隣人のために自分の生活を捨てて、働いた人たちです。愛のための生活を全うした人たちです。 人のために生きる。わたしたちも聖人を思いながら、後に従って行きたいと思います。
年間第30主日A 出エジプト22・20-26 Ⅰテサロニケ1・5c-10 マタイ22・34-40 20-10-25
律法の専門家がイエスに尋ねました。「律法の中でどの掟が最も重要でしょうか。」
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
律法の専門家は、聖書をいつも手元に置いている。聖書を覚えるほどよく読んでいる。イエスは聞いていると思います。あなたは掟について、神様のみ心を聞いているのですか。それとも掟、律法について、聖書の解釈について聞いているのですか。
イスラエルのエジプトからの脱出の旅、荒れ野の道の時、この掟は与えられた。その生活を思い起こしてほしいとイエスは言われたのです。主に導かれたイスラエルへの旅です。その旅は今のわたしたちの旅ではないですか。この世の旅路でわたしたちはたくさんの人々と出会います。外国から来ている労働者、シングルマザー、親のない子たち、また、体の不自由な人たち、そのほか、いろいろな事情で苦しんで生活している人たちと出会っています。まるで、旧約の時代の世界と同じことが起こっています。神を愛しなさいと書かれている。神様のみ旨は何ですか。
聖書を覚えるほど読んでいる律法の専門家の人。神様の掟、律法とはあなたにとって何ですか。あなたの聖書はあなたに何を求めていますか。あなたの律法、掟とはあなたにとって何ですか。
神様に心をあずけられたらいいと思います。神様の思いの内に語れたらいい。神様の思いを行われたらいいと思います。神様に祈る、祈り続ける。神様の思いの内に入れたらいい。
神様に祈る。わたしは今迄言ってきました。神様に祈ることは、自分の思いを神様に吐き出すことではない。自分の思いをすべてなくして、神様を見つめる事ではないか。自分をなくす。自分の心に捨てられない思いがあってはいけない。欲求、思想があってはいけない。自分自身を大切にする心(自我)があっていけない。無になって神様の前に座る。神様を見つめる。無になって神様を見つめるだけになった時、神様があなたの心と体に入ってくる。あなたは神様に包まれる。
そんなことは出来ません。そんな難しいことは出来ない。 そうかも知れません。
たとえば、あなたの愛する人に心を尽くすことを考えたらいい。愛する人、隣人を考えたらいい。その人は助けを求めている。見えるものを与え続ける。全力を尽くしてその人を思い、祈り、支えるのです。 その人に力を尽くす。その人を無心に受けとめることが出来るかも知れない。
愛とは、隣人のようになるのかも知れない。不自由さを受け取る。たとえば、口のきけない人が隣人である、その人の手助けをする。自分も丸一日口を利かない。一週間、一か月口を利かない。耳が遠い。聞きたい人の話が聞けない。見えない。見たい人の顔を見えない。
その人の苦しみを静かに知る。愛するとはその人に、苦しみについて、何も言わない事かも知れません。
神様は言われます。
苦しんでいる人に温かさを与えたい。
温かさを与えるのは誰か。
それはわたしの道を歩くあなたではないか。
聖書は愛の書です。律法、掟は愛の出発です。
神様の豊かな憐れみです。生きる喜びです。
年間第29主日A イザヤ45・1,4-6 Ⅰテサロニケ1・1-5b マタイ22・15-21 20-10-18
イエスは真実は何かを語ります。何かを行う。行うことに心をかけるのではなく、行おうとしているその目的に心をかけなさい。神の国を待ち望む人がこの世の国に、悪の力による国、に税金納めることが出来るか、それが律法に適っているのかが問題なのですか。この世を神の国に近づけようとすることのほうが、大切な問題ではないですか。律法はわたしたちに何を求めていると思うのですか。 わたしたちはローマの植民地となってしまった。土地はローマ皇帝のもの、家も人も、見えるものは皆、ローマ皇帝のものです。しかし、わたしたちの心は神様のものではないですか。見えるものは、土地、家、人はローマ皇帝のものですが、見えないものは皆、皆、神様のもの、神様の心に従うわたしたちのものではないですか。
わたしたちが一番大切にしているものは何か考えてみました。家庭、家族、財産ではないでしょうか。いや、教会を忘れてはいけない。家庭、家族、財産、教会は、皆、わたしたちの目の前にある。わたしたちを助けてくれている。しかし、イエス様は言われる。その中に入って、そのものに縛られてはいけない。わたしたち、わたしを助けてくれているのはそのものではないですか。そのものを感謝の思いで見てはいけないと言うのですか。見ている、感謝しているとはその中に生きると言いうことです。見て、感謝して、その中に生きる、それはその中に入ってしまうことです。家庭の中に入ってしまう、家族の中に入ってしまう。家庭を豊かにしたいと思う。善い家族でいたい。その中に入ってしまったら、ほかの人に目がいかない。体の不自由な人に目が行かない。その人に目が行かない。周りにそんな人はいないもの。働けなくなって、生活できない、苦しんでいる。そんな人は近くにいないよ。
今、あなたを囲んでいるものは、この世の出来事ではないですか。この世の出来事は人の思いによって出来ているのではないでしょうか。 イエス様は言われます。1つ1つのものは、1つ1つの出来事は神様の思いのうちにあるのです。1つ1つのものに心がある。1つ1つに心がある、1つ1つに重さがある。1つ1つのものがほかのものにつながっている。それを忘れてはいけない。家庭は他の家庭、全部の家庭とつながっている。家族の1人1人は他の家族の1人1人とつながっている。自分の得が他人の喜びとなったらいい。自分の損も他人の善い事につながったらいい。わたしたちは助けられて生活している。神様の思いのうちにある、支え合って喜ぶ。
それを忘れてはいけないと思います。
小さい子が言います。あっ、雨が白いものになって降って来た。
それは雪だよ。神様の贈り物かな。
年間第28主日A イザヤ25・6-10a フィリピ4・12-14,19・20 マタイ22・1-14 20-10-11
入祭唱を黙想しました。
「神よ、あなたが悪に目を留められるなら、だれがみ前に立てよう。
しかし神よ、あなたのもとにはゆるしがある。」
神様、あなたは造られたすべてのものを大切にしておられます。
悪にあるものよ!悔い改めなさい。わたしの顔を見つめなさい。わたしの心に触れなさい。友と共にわたしの道を歩いてほしい。 神様の厳しさは優しい。神様の優しさは厳しい。
種蒔きの種がその人の心に入った。その人は神様と出会った。神様と約束をした。洗礼を受けた。神様は言われます。わたしはあなたの目の前に山を造った。その山に登りなさい。登り続けなさい。道を作りながら登って行く。疲れたら休む。渇いたら水を飲む。
ふと見ると、大勢の人たちが登っている。この山は自分だけの山ではなかったのか。踏んできた道は自分の道。そうか、同じ山であっても同じ山ではない。自分の歩いている道であって、他人の道ではない。何年もかかって登って行く。 休み処で外を見る。自然の世界を見る。人の世界を見る。自分の世界を見る。静かにじっくりと見る。
わたしの登っている山は、自然の世界の山。人の世界の山。
あぁ、休み過ぎたな。もうこんな苦労して山に登りたくない。たまに御馳走を食べたい。お酒も飲みたい。ゆっくり寝たい。 その時、あなたは平地に戻っているのです。
主は言われた。わたしは人のために働く家を造ろう。ここで隣人のために働く、人助けをする。多くの人を集めたい。わたしの道を歩く人を集めなさい。洗礼を受けた人たちを集めなさい。
しかし、誰も来なかった。
主は驚いた。洗礼を受けているのに、わたしの道を歩く約束をしたのに、誰も来ない。もう一度誘う。行きたくない訳じゃない。自分は自分の仕事があるんだ。しつこく、誘いに来ないでくれ。
主は悲しむ。これでは、洗礼の恵みが死んでしまう。
そして、主は町を歩く人たちに声をかけた。人のために働く家があります。
ぜひ出席してください。席はいっぱいになった。でも、その中に、礼服を着ていないものが一人いた。
主は聞かれる。あなたは礼服を着ないで、どうしてここに入って来たのですか。
その人は返事をしようとしなかった。
恵まれていることに気付いたら喜ぶ。一緒に食事をする。一緒に楽しむ。
みんなが喜んで食事が出来ればいい。一緒に語り合えたらいい。
礼服とは何でしょうか。喜ぶ心の礼服かな、語り合う礼服かな。つながる心の礼服かな。
そして思うのです。
隣人を自分の様に愛しなさい。
人の助けとなるために仕事をしなさいと教えられている。
出会う人と、まず、聞く者になれたらいい。
まず、笑い合えたらいい。
与えられた道を忘れず、ゆっくりと日々を過ごせますように。
年間第27主日A イザヤ5・1-7 フィリピ4・6-9 マタイ21・33-43 20-10-4
東海道線が新幹線になりました。東海道線は乗り換えながら行く、一本に続いていないようです。こだま号から光となりました。また特に 号があります。こだま号は鈍行、各駅停車の新幹線です。近いうちに、リニアカーになると聞きました。新幹線より、もっと速くなる。
「狭い日本、そんなに急いでどうするの?」
「そんなにお金を儲けてどうするの?」
おおらかな主人は息子の死を知り深く悲しみました。ぶどう園の尊さを知ってほしい。そのために息子のいのちを失った。一方、農夫たちは思ったのです。もっと収入が多くなればいい。収穫を全部自分たちのものにしたい。主人に収穫を渡さない。このぶどう園をも自分たちのものにしよう。
イエスは言われる。「祭司長、民の長老たち、あなたたちはこの出来事どう思いますか。
「この主人は損をした。この農夫たちをひどい目に合わせて殺し、ほかのよい農夫たちに貸すに違いない。」 イエスは言われます。「それは神様のみ心ではない。『家を建てる物の捨てた石、これが隅の親石となった。これは主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』 ぶどう園は何のために作られたのですか。ぶどう園、この家は人々のためではないですか。人々に心を込めた、上等なものをなるたけ安く、なるたけ多く作って、なるたけ多くの人に分かち合うための家ではないですか。
祭司長、民の長老たち、あなたたちは農夫と同じところにいるのではないですか。同じ思い、同じ目で見ているのではないですか。
悔い改めなければ、ぶどう園が見えない。神様のみ心が見えない。
家の主人の思いを大切にしてほしい。
家を建てる者がこの大きな石を捨てる。こんな大きな石は不用だ。この石があっては仕事が順調に行かない。こんな石はいらない。この家の仕事は、無駄をなくし、節約して物を安く作る。大量生産しよう。この家をそのような工場にしよう。
働く喜びが消えてしまう。
心を尽くして作る喜びが消えてしまう。
皆のために作ろうと言う心が消えてしまう。
家の主人はこの石を中心とした家を造りました。これこそ、働きたくなってしまう畑、果物の、穀物の成長にますます見入ってしまう畑。心を込めて善いものを作りたくなってしまう、たくさん作りたくなってしまう畑。この畑で、皆の事を思って働く。
ぶどう園で作ったこのぶどうを見てください。味わってください。
年間第26主日A エゼキエル18・25-28 フィリピ2・1-11 マタイ21・28-32 20-9-27
神の国への道を歩みます。このわたしたちの世界が神の国へと続いている。祈ってますかと問われます。善い事をしていますかと問われます。
パウロは今日、信仰生活について書いているように思います。祈りましょう。しかし、わたしたちにとって、祈るとは何でしょうか。わたしたちは深い祈りに何を求めているのでしょうか。
祈る、神様の前に立ち、全く自分の思いをなくして、神様のみ言葉を待つ。神様の前で空っぽになる。神様が心の入ってくる。神様の力が入ってくる。祈りが深くなればなるほど、神様の思いを知るようになる。 それは特別な人たちの世界ではないですか。
霊の交わりを求める。霊の交わりによってわたしたちは何を求めるのですか。
慈しみの、憐みの心を持つ。 わたしたちは慈しみの心、憐みの心によって何をするのですか。
パウロは、わたしたちにキリストの道を歩む、キリストの姿のうちに歩みなさいと言っているように思うのです。 しかし、わたしたちは神様の道具であるという事は忘れてはいけないように思います。神様のみ心をふと思い起せるようになればいい。わがままを捨てて、人のために働けるようになればいい。自分がなくなって、人の心がよく見えるようになればいい。神様の思いが感じられればいいと思うのです。 皆と生活している。一緒に働く、一緒に歩く、皆と一緒に喜ぶ。一つの心に入る、キリストの心に入るのです。
父さんが兄さんの所へ行き、言います。「子よ、今日、ぶどう園に行って働きなさい。」
「父さん、今日はこれとこれをやり終えなければいけません。だから、今日は行けません。」
しかし、兄は思い直して、ぶどう園に行った。
父さんは弟のところへも行って、同じことを言った。弟は素直に、「父さん、承知しました。」と言った。しかし、弟は行かなかった。どちらが父さんの望み通りにしたのか。
ぶどう園は一緒に働く場所です。体の不自由な人も、力があり、手先の器用な人も、一緒に働く場です。賃金は一緒です。急に自分の用が入り、定時間働けない人も、ぶどう園で働いた人は皆、同じ賃金です。善いものを、精一杯作る。みんなに喜んでもらうために作る、そんな場です。父さん一家はそんなように働く場、ぶどう園が好きだった。兄さんは、自分の仕事があるからと断った。しかし、父さんの勧めだ、父さんの思いだ。行こうと決めた。行った。ぶどう園の仕事が、働くことが分かった気がした。言ってよかった。
弟は元気よく、行きますと言った。素直な心の返事だった。でも、行きたくない。行かなくても、誰にもとがめられない。
どちらが父さんの望みどおりでしたか。皆、自分の思いを持っている。父さんの思いが、自分の思いを越えることが出来ますか。自分の欲を抑えて、父さんの望みを行うことが出来ますか。
そんなことを問われているように思います。
神学校に神学生が生活しています。朝起きる。朝の祈り、黙想、続いてミサがあります。食堂で、朝食。軽い掃除。部屋に帰る。勉強の時間となる。自由時間。晩の祈り、夕食、睡眠。神学校全体の掃除があります。講話があります。その他、いろいろ行事があります。すべての出来事が神学校の中で行われます。自由がない。
これは、ぶどう園の働きに似ていると思ったのです。ぶどう刈り取る。ぶどうの実をぶどうの船に入れる。ぶどう酒を作るため、ぶどうの舟のぶどうを足で踏み続ける。
神学校の生活は何のためですか。神学生になるためですか。いや、そうではない。神様のみ心をもっと知るためです。神様のみ心の道具となるためです。一緒に祈りことを知る、一緒に黙想することを知る、一緒に食事をするためです。一緒の中の自分を見出すためです。自分のために一緒にいるのです。 父さんの望みを行うために、父さんの道具となるために神学校で生活するのです。
ぶどう園で働く。自分の生活のためですか。いや、隣人の生活のために働くのです。一生懸命、善いものを作ろうとし、たくさん作ろうとして、働くのです。
祈ろうとしても自分の内に祈ってしまう。自分をなくそうとしても、なかなか自分がなくならない。自分をなくして、神様の前に座れない。深く祈れない。うまく黙想できない。心で聖書が読めない。
神学生になれるかな。踏みとどまれ。父への希望を忘れるな。自分がなくなった時、祈りがある。自分がなくなった時、善い行いが出来る。 これが兄さんの心ではないでしょうか。
神学校の先生が求めていることが出来ればいいよ。出来なかったらごまかせばいい。6年、7年神学校で生活すれば、神学生の落ち着きが生まれるよ。神父になるために道のりだ。堂々と神父になったらいい。 これが弟の心ではないでしょうか。
洗礼を受けた。神様の子として生きる。神様の道具として生きる。
キリストは十字架の死に至るまで従順でした。人のために生活した。人のために、苦しんだ。人のために、わたしたちのために十字架で死んだ。
年間第25主日A イザヤ55・6-9 フィリピ1・20c-24、27a マタイ20・1-16 20-9-20
イエスは天の国ついて、多くのたとえを話されます。イエスが語られる天の国のたとえを聞きいつも思います。天の国はこの世から出発しているのだ。この世の出来事が天の国で起きている。同じ出来事を天の国ではどのように判断しているのかと思うのです。
聖書勉強会でこのたとえを勉強しました。「聖書だからこんなことが出来るんだ。この世でこんなことはあり得ない。こんなことは本当にあろう筈がない。労働問題になる。働いた分だけもらえる。それが公平だ。」おじさんが言いました。
この世ではぶどう園は造れないのでしょうか。この世の人たちは主人の気前の良さをねたむだけなのでしょうか。ぶどう園は求める人たちへ、心のこもったもの、最高の製品を作り、届けます。 主人は言います。賃金は製品を作った、製品が売れた見返りではない。生活のための賃金、自分の十分豊かさのための賃金です。このぶどう園で善いものを、たくさん作って行こう、ぶどう園は恵みの場です。働く恵みがある、善いものを作る恵みがある。一緒に働く、仲間を得る恵みがある。自分の力が皆の喜びになったらいい。
5時にしか来られなかった。その人は奥さんが熱を出して、精一杯看病していたのです。収入がなければ、食べ物が手に入らない。やっと外に出られた。5時ごろだった。ぶどう園で働かないかと誘われた。賃金の時1デナリオンもらえた。嬉しかった。息子がいた。お父ちゃんよかったね。お父ちゃん嬉しいね。息子の顔が明るくなった。 ぶどう園に感謝。恵みのぶどう園に感謝。
神様の気前の良さに感謝、感謝、感謝。
年間第24主日A シラ27・30-28・7 ローマ14・7-9 マタイ18・21-35 20-9-13
「憤りと怒りを遠ざけなさい。」と言われます。憤り、怒りは感情のうちに、自分の心をぶつけているのではありませんか。自分しか見えない。相手の心を見ようとしない。それは悪い方法です。
罪を犯す、人とのつながりを切ってしまう。どうしようもなく心が乱暴になってしまった。兄弟は自分の世界に入ってしまいます。
その時、兄弟を罪人だと思ってしまう。あなたは裁く者になってしまった。あなたはそれほどまでに完全なのですか。人の罪を赦せない器の人がどうして主に自分の罪を赦してくださいと言えようか。
主はすべての人の罪を赦し、罪を犯した人を追い出さない。わたしのもとに戻り、回心して、新しく出発しなさい。これが主のみ心です。 主のごとく、兄弟の落ち度には寛容でありたいですね。
ペトロはイエスに問います。「兄弟と思っていた者がわたしに罪を犯したら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか。」 7は完全数です。7回赦す、それで終わればいい。それ以上は赦さない。 「ペトロ、あなたは何回赦すべきかと聞いている。それは相手のことを思って聞いているのですか。あなたは人を赦す自分の我慢の限界を言っているのですか。あなたに行っておく。7の70倍まで赦しなさい。永遠に赦し続けなさい。
赦すとは2人の絆が続いている事です。つながりを切ってはいけません。その人は兄弟ではないですか。一緒に食べたり、飲んだり、語り合ったりした仲なのではないですか。その人とのつながりを切ってはいけない。その人に憤り、怒り、その人を全く他人とするのですか。自分の世界から放り出し、その人の心を殺してしまうのですか。(その兄弟は、もはや、自分の世界には生きていない。) 一緒に生きるとは、支え合うこと、支えられていることを感謝し、支える者になること、赦し合うこと、赦されていることを感謝し、赦すことではないですか。赦されていること、赦すこと、それが憐れみではないですか。 自分の兄弟を憐れみの心で接しなさい。心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさる。
イエスのたとえを聞きました。
わたしたちは皆、一人一人1万タラントンの借金を背負っているかも知れない。神様はそれをじっと待っていてくださっている。1万タラントとは6千万日の賃金です。1600年、1700年くらいのとてつもない借金です。天の父はそれほどまでに、気長に待っていていてくださる。
一方、わたしたちはせっかちです。人に貸した百万円の借金を見つけたら、今すぐ返せ。待ってられないと突く。貸した人は天の父に1万タラントンの借金がある。
そんな途方もない事があるのか、いや、これがわたしたちの現実だと思います。
年間第23主日A エゼキエル33・7-9 ローマ13・8-10 マタイ18・15-20 20-9-6
嫌な出来事がたくさん起こっています。子供を自動車の中において、15時間も放っておいた。子供たちは暑くて、熱中症で亡くなってしまった。もっと前には、老人介護施設で、養護士の青年が何人もの老人を死にいたらめた。何も出来ない老人はこの世にいては迷惑だ。死んでしまえ。ずっと以前ですが、女子高校生を無理に誘いだし、強引に自分の部屋に押し入らせ、おもちゃのように遊び、殴り、蹴り、暴行を加えていた。4,5日監禁、殴り過ぎて死んでしまった。女子高校生の死体をコンクリートで箱詰めにした。若い青年たちの犯行です。 以前の教会で、あの事件は自分の家の近所だったんです、その家も知っていますと言う話を聞いたのです。
嫌な事件、出来事がわたしたちの身の回りで起こっている。今は、そんな出来事はわたしたちのまわりでは起きないと思っているとは言えないのです。子供たちが、公園で見守る人がいなければ遊べない。小学生が朝、学校へ行く時、集合して大人に案内され、行くようになっているのです。
今日、兄弟があなたに罪を犯したなら、あなたはその人を赦すことが出来ますかと問われます。
それ以前に、あなたは今、お付き合いしている人を兄弟、姉妹と思っていますか、と問われているのではないかと思います。
青年ではないですから、人生とは何かを語ることはないかも知れません。しかし、自分が持っている人としての生き方を友として、兄弟として、語り合ったことはありませんか。
善い出来事、悪い出来事が起こっています。出来事はわたしたちが造っている社会の中で起こっています。その社会の中にわたしたちが住んでいるのです。
人とつながって生きている。例えば、悪いことをしてしまった人と出会う。本当のことを言えば、悪いことをしてしまった人と出会いたくない。一緒に歩きたくない。なぜなら、その人をいつも気にしていなければならないからです。自分が悪いことに利用されるのではないか、その人に心を許せないのです。
自分の思いを捨てて、度胸をもって、その人と語り合う心が持てればいい。聞き入れる心を持ったらいい。悪いことをしたその人が生きる喜びを見い出したらいい。その人が希望が持てればいい。
教皇様は回勅「ラウダート・シ」を5年前に出されました。すべてのものを、すべてのいのちを見つめる。そして、言われます。すべてのいのちを守るために祈りなさい。
「あらゆるものはつながっている」、この視点がいのちの根底にあると思います。(大塚司教)
つながる。兄弟となってくれる。損をしてもいい。その人の心の奥につながればいい。その人が、自分を思ってくれる人がいると思えればいい。
つながるところに神様はおられる。神様はそのつながりを見ていてくださる。
つながりこそ愛です。地上で愛を行っている人は天上でも愛の光が見える。愛の温かさのうちにいる。
年間第22主日A エレミヤ20・7-9 ローマ12・1-2 マタイ16・21-27 20-8-30
イエスは言われる。「わたしはエルサレムで長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することのなっている。」
「イエス様、何を言うのですか。あなたはメシア、生ける神の子。人々を救う方、わたしたちに神様の救いをもたらす方ではないですか。あなたによって平和が与えられる。あなたによってまことの、最高の喜びが与えられるのではないですか。でも、あなたは多くの苦しみを受ける、殺されると言われる。そんな事があろう筈がない。あなたはわたしたちを勝利に導かれる方。希望がなくなってしまうようなことは二度とおっしゃらないでください。そんなことがあってはなりません。」
イエスは厳しい心をもって言われた。
「サタン、引き下がれ。」 サタン:敵または反対者。反逆の天使デーモンの長をさす。
「あなたはわたしの道を邪魔するもの。神のみ心に反対する者。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
わたしの道は人々に快楽を与えるためのものではない。経済的に豊かさを求めるものではない。
リニア・カーの新幹線で大阪まで1時間で行ける?旅する心がなくなってしまう。人と出会う、時を待たねばならない、心のときめきがなくなってしまう。
神様は言われる。苦しみを見つめなさい。何が苦しいのですか。自分を見つめなさい。手助けを求めなさい。手助けとなりなさい。苦しみを超える力を持ったらいい。
わたしについて来たい者は自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい。
怠けた者の苦労を背負う。こんなことまでするのですか。あのおじいちゃんは同じ話を何度も何度も聞かされる。笑顔で聞いている。 神様、疲れました。 わたしのところで休みなさい。一緒にお茶を飲みましょう。
怠けている者と一緒に歩く。でも不平を言ってはいけない。ある時、どんどん荷物が増えて来る。
もうこれ以上は背負えないよ。それを一つ背負ったらどうかな。これ以上あるなら、一緒に歩けなくなってしまう。
同じ話を何度も何度も話すおじいちゃん。おじいちゃんはきっと、同じ話を聞いてくれる人がいる、それを安心しているかも知れないよ。その人はあなたと一緒にいてほしいのさ。
わたしのために苦しんでくれた人がいる。その人はわたしに恩着せがましいことを何も言わなかった。その人はわたしを大切にしてくれたのだと思う。今、考えると、涙が出るくらい嬉しい。
わたしたちは、人のいのち、特に、隣人のいのちを見つめながら、手助けしながら、手助けを求めながら、イエスと一緒に歩いて行きます。
年間第21主日A イザヤ22・19-23 ローマ11・33-36 マタイ16・13-20 20-8-23
イエスと弟子たちはフィリポ・カイサリア地方に着きました。フィリポ・カイサリア地方は異邦人の地です。いろいろな神様が祭られています。ギリシャの神々、地域の神々、そして、ここはバール信仰の拠点となる所です。ローマ皇帝の祭壇もあります。
神とは何か。神に何を求めているのか。神にどのように従うのか。信仰とは、信仰生活とは何か。
フィリポ・カイサリアという大都市で、人々は自分の思うままに神を選んでいるのです。
イエスは弟子たちに問います。「人々は、人の子の事を何者だと言っているのか。」
「あなたは預言者、神様のみ心を語る人、憐れみを行う人。あなたと共にいたい。あなたのことばを聞きたい。あなたの中に安心がある。平安がある。人々は、あなたを洗礼者ヨハネだと言っている人も、エリヤだと言う人も、エレミヤ、預言者の一人だと言っている人もいます。」「それでは、一緒に生活しているあなたたちは人の子、わたしを何者だと言うのか。」「わたしたちはあなたに神様の姿を見ています。あなたは神様のみ心を語る言葉を持っておられます。あなたは神様の目を、耳を持っておられます。『あなたはメシア、生ける神の子です。』」
イエスはメシア。人々はイエスに救いを求めている。イエスは人を救う方。
わたしたちは救いに何を求めていますか。・大きな病気をしないこと。・大きな事故に巻き込まれないこと。・善い出来事に会うこと。・いつも、平安でいられる事。 それが救いですか。
イエスはわたしたちに求めておられます。 救いとは、感謝を忘れない、隣人に与え続ける、人々のために働くことではないですか。 支えられて生きている、それを忘れてはいけない。
わたしに従いなさい。そうすれば生きている命が分かる。支え合う。愛が分かる。命は愛すること。生きる、あなたが生きるのではない。隣人が生きる。みんな一緒に生きる。あなたはその人のための助け手となる。それが愛ではないでしょうか。
救いとは、荷物を背負うことです。愛とは荷物を背負うことです。
「わたしは何者か。」
「あなたはメシア。あなたのうちに救いがある。
あなたの道を歩みます。」
イエスは、ご自分がメシアであることを誰にも話さないように、命じられた。
メシアを知りたい、メシアとつながりたい。
年間第20主日A イザヤ56・1,6-7 ローマ11・13-15,29-32、 マタイ15・21-28 20-8-16
ファリサイ派、律法学者の人々がイエスに言います。
律法を守る、これが神様への信仰の道ではないですか。
イエスは言います。あなたたちは自分の言い伝えのために神の掟を破っている。
たとえば、父、母が求めているものを、これは神様への供え物ですよと言えば、父、母へあげなくてもよいと言っている。その心は父母への敬意を失くしている。神様の掟を無にしているのではないか。 「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。」(マタイ15・1~)
イエスはそこを去って、異邦人の地に行かれた。異邦人:神を知らない人たち。しかし、異邦人も神様が造られたもの。わたしたちの兄弟ではないか。
カナンの女がイエスに向かって叫ぶ。「わたしの娘が悪霊にひどく苦しめられています。」
イエスはその叫びを無視する。この女は娘の癒しを求めているのか。イエスは何も答えない。
癒しの力を求めている。これは信仰から出るものではない。苦しみ、悲しみを癒す。その思いやりの心を信仰だと思ってはならない。慰めの力を求める。偶像に求めなさい。この女は何を求めているのか。
弟子たちが近寄って来て願う。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ます。」
イエスは弟子たち、女に言う。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない。わたしは神様に仕える者。神様のいのちを見失った羊のために働く。まことのいのちを見つめている。羊にまことのいのちを求め、負った傷を癒す。」
しかし、女はイエスのもとに来る。イエスにひれ伏す。「主よ、どうかお助け下さい。」
「子供たちのパンを小犬にやってはいけない。」 信仰のない命は消えて行く。そのいのちは何のためか。その友と何を造って行くのか。そのいのちはどのような喜びを求めているのか。
主のパンによって、主の思いのうちに生きる。支え合って、いのちが生きる。
「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
主よ、イエス様よ、主のパンを知りました。そのパンのいのちにあずかりたい。
パン屑でも拾い集めます。パン屑でも与らせてください。
イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。」
律法を超えて神様の憐れみ、神様の慈しみを知った。
いのちが何であるかを知った。
年間第19主日A 列王記上190・9a ,11-13a, ローマ9・1-5 マタイ14・22-33 20-8-9
エリヤは40日、40夜歩き続け、神の山ホレブに着いた。そこにあった洞窟に入り、夜を過ごした。主はエリヤに言われる。そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい。山の中に立つ。神の存在を感じる。激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いたしかし、風の中に主はおられなかった。地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。その時、全身で神様を、主を感じた。
神様は天地を従えておられる。神様の前で天地は動く。しかし、動く出来事の中に神様はおられなかった。目に訴えるもの、耳に聞こえるものの中に神様はおられない。心を神様に向ける。心を開く。その時、ささやくように神様は語られる。心にはっきりと語られる。
神様との出会いは神様からの思いです。あなたが出会いたいからではなく、神様があなたを求める、それが神様との出会いだと思います。心をもっともっと神様に向けたいと思います。
「群衆を解散させてください。人々は皆、村の食べ物を買いに行くでしょう。」「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」 村で売っている物ではなく、神様のパンを食べ物とするのです。神様のみ心をたらふく食べ、満腹してもらいたい。イエスは多くの群衆に賛美と感謝の祈りで祝福されたパンを弟子たちの与えられた。弟子たちはそれを配った。パンはなくならなかった。皆が食べ、満腹した。
イエスは弟子たちを舟に乗せ、向こう岸に渡らせた。群衆を解散させ、一人、祈るために山に登られた。祈った。深く祈った。
舟は湖を渡っている。岸から1キロも行かないうちに、逆風が起こり波に悩まされている。
夜が明ける頃であった。イエスはそれを見て、湖の上を歩いて、弟子たちのところへ行かれた。
夜が明け始めている。湖の上、静かな光の中を人が歩いている。弟子たちは幽霊だと言って、脅え、恐れのあまり、叫び声をあげた。イエスは言う。「わたしだ。恐れることはない。」
「わたしだ。」これはギリシャ語で「エゴ、エイミー」です。わたしはある。モーセが神様の名を聞いた時、神様は言われました。「わたしはある」。イエスはその名を語ったのです。
ペトロ、何を恐れるのか。死ぬことを恐れているのか。あなたはわたしにつながっている。あなたはわたしの中にいる。死ぬことはない。
船が湖を進みます。舟は教会、湖は社会のたとえです。教会が語る、教会が行う。社会は教会の心の反対する。教会はへこたれてしまう。社会の中で信仰生活できない。苦しい、悲しい。イエスが来られる。皆を包む。静かに、ゆったりと、ほほ笑みをもって、語りなさい、行いなさい。教会は社会の皆に敵対するのではない。社会を生きるものとするのです。
年間第18主日A イザヤ55・1-3 ローマ8・35,37-39 マタイ14・13-21 20-8-2
イエスはヨハネが首を切断されて死んだことを知った。舟に乗り、そこを去って、人里離れた所に退かれた。ヨハネは幼い頃からの友達だった。マリアとエリザベトは親戚かも知れません。成人になって、ヨハネは信仰の道を歩いた。イエスも信仰を生きる。ヨハネがヨルダン川で神様を語っている。神の道を歩む決心を表す洗礼を授けている。イエスは人々のそんな話を聞いた。ヨハネのもとには大勢の人たちが集まっている。人々はヨハネのもとに行き、話を聞く、そして洗礼を受けるのです。ヨハネの宣教はイスラエルを動かしている。イエスはヨハネのもとに行き、洗礼を受けた。
人々はイエスの温かい話を喜ぶ。穏やかな口調を喜ぶ。イエスの叱る言葉が心に突き刺さる。
イエスはヨハネの死を知り、思います。預言者はこのように世を去る。多くの預言者は、常に迫害され、追放され、そして惨めに死んでいった。友ヨハネが世を去った。人里離れた所に行き、祈られた。深く深く祈られた。神様のみ心のうちに入られた。
群衆はついにイエスを見つけた。イエスは群衆を見て、深く憐れまれた。生きている人たちの生きている姿を見た。動いている命を見たのです。そして、その中の病人を癒された。生きなさい。生きる命の喜びを見出しなさい。
夕暮れになった。「人々を解散させてはどうでしょうか。それぞれが村に買い物に行くでしょう。」「いや、行かせることはない。あなたたちが食べ物を与えなさい。今、人々は神様のみ心のうちにいる。わたしの言葉のうちにいる。人々にわたしが食べものを与えよう。」
イエスはパンを取った。賛美の祈りを唱えてから、パンを裂き、弟子たちにお与えになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人がパンを食べて満腹した。
飢えが満たされた。人々はイエスを食べることが出来た。飢えが満たされ、渇きが癒された。人々はイエスを求めた。イエスが心の中に入った。体の中に入った。
飢えている者は皆、穀物のところに来なさい。
まことの渇き、飢えは魂の渇き、飢えではないでしょうか。命が見えない、正義が見えない、憐みが分からない。何のために生きているか、何に向かって生きているのか分からない。自分を打ちのめす命の力に出会っていない。 まことの水はあるのか。どこにあるのか。
心を空にして、目を閉じ、耳を傾けなさい。
その方は言われる。わたしに聞き従いなさい。わたしはあなたに命を与えた、与えている。わたしの水を心行くまで飲み、わたしの穀物を心行くまで食べなさい。わたしの中に入りなさい。わたしはいつもあなたを見ている。あなたを包んでいる。出来事に心身を投じなさい。その時、もっともっと渇く、飢える。
神様を求める時、飢えがある、渇きがある。
もっともっと神様を求めなさい。神様を食べなさい、神様を飲みなさい。
年間第17主日A 列王記上3・5,7-12 ローマ8・28-30 マタイ13・44-52 20-7・26
イエスは天の国を語ります。物語のように、童話のように語ります。まるで、この世から、今ここから天の国は始まっているのですと言うように、イエスは語られるのです。
畑があります。その畑に宝が隠されている。その畑を見た者は、畑のその宝を見た者は持ち物をすべて売り払ってその畑を買います。 畑の中に宝が隠されている。それを見つけたのですか。 この畑に麦、野菜、果物がどんな具合に実るか。その畑の地質はどうか。 申し分のない豊かな土地だ。その畑はどのようなところにあるのか。 水はある、陽は充分照り付ける。必ず大きな収穫がある。あぁ、その土地を手に入れたい。 今迄持っていたものをすべて売り払ってその畑を買う。
すぐに働きます。精魂込めて働きます。実りを信じて働きます。働いた。働いた。働きで得た収穫物、麦、野菜、果物はみんなのもの。みんなの収穫。みんなの笑顔が生まれる。
働いて天の国が見えるようになる。そのすべての出来事が天の国の出来事ではないでしょうか。
天の国にこんな別なたとえがあります。 商人が善い真珠を探している。ついに善い真珠を見つけた。その真珠はまことの真珠。真珠は何ミクロンかの膜で造られている。何万回も、何十万回も、何百万回もの薄い膜で造られている。動物、鉱物の命が時間のなかで、つながって膜となる。その膜が命の輝き。時間の中で過ごした命が膜となって神様の恵みによって輝いている、言葉を超えて輝いている。その真珠の中に神様のまことの憐れみを見る、憐れみを知る。
真珠こそ神様のみ言葉、神様の愛。 持ち物をすっかり売り払って、それを買う。
天の国は湖に網を降ろして、漁をしている様相です。網がいっぱいになるほど魚が取れた。天使たちが来てより分ける。善い魚は喜びの器に入れられる。悪い魚は燃え盛る炉の中に投げ入れられる。 湖はこの社会。魚は神様の呼びかけに歩きまわります。しかし、一人一人に決断の時が来る。 あなたは神様の言葉をどのように受け取っていましたか。あなたは毎日の生活をどのように過ごしていましたか。
もう一度思います。天の国はこの世から始まっているのではないでしょうか。
目の前の出来事を自分の心で判断しなさいと言われているようです。
今、あなたはどんな畑を持っていますか。収穫をどのように使っていますか。
隣人のために働いていますか。あなたの隣人はどんな人ですか。
まことの真珠を見つけましたか。 それは祈りの中にありましたか。聖書の中にありましたか。奉仕活動の中にありましたか。
自分の思いを捨てた時に、まことの畑、まことの真珠を見つけられるのではないでしょうか。
心の目で見る。心の耳で聞く。
年間第16主日A 知恵12・13,16-19 ローマ8・26-27 マタイ13・24-43 20-7-19
イエスは天の国をたとえで語られます。
「良い種を蒔いたのに毒麦が生えてきました。どこから毒麦が現れたのでしょうか。」
「敵の仕業だ。」 「毒麦を抜き集めましょうか。」 「いや、刈り入れの時まで両方とも育つままにしておきなさい。」
農家のお手伝いをしています。 「そこに毒麦が育っています。あそこにもあります。早いとこ抜き取りましょうか。」「いや、育つまで待とう。」 善い種を蒔いたのに毒麦が育ってしまった。善い種が蒔かれた。芽を出した。 その時、赤ちゃんが生まれた時の事を思ったのです。赤ちゃんの目は澄んでいる。透きとおっている。キラキラ輝いている。この子はきっと良い子になるよ。子どもは成長して、青年になる。大人になる。
良い種はよい麦になる。心の透きとおった赤ちゃん子はよい青年になる。そうかなー。
ある青年は自分の欲求のうちに生きる道を選んでいる。わがままになった。悪いことをするようになった。 「毒麦だ、今のうちに刈り取ってしまおう。」「いや、待とう。」「その青年はまことの温かさを知らないで成長したんだ。まことの優しさ、穏やかさをもって接してみよう。わたしのもとに戻ってほしい。能力のない人を馬鹿にしたり、ものを知らない人を馬鹿にする。お金のない人を軽視する。馬鹿にされたくないから、暴力を振るう、悪口を言う、妬む。ある人は自分の中に閉じこもる。苦しんでいる人たちが毒麦になってしまう。良い麦として育てたい。」
毒麦を静かに受け入れたい。つながれたらいい。温かさを伝えられたらいい。もしかすると、他人の目におがくずを見つけたあなたの目に丸太があるかも知れない。
天の国は動いていると思うのです。もしかすると、わたしたちはこの世に生まれた時から天の国にいるのかも知れません。神様のいのちで生きる。神様の恵のうちにいる。わたしたちの父さんは神様です。天の国の出発が与えられている。わたしたちは、まだ、天の国を受け取っていないのです。
人の命を大切にするために働くことが出来ない。求めている人たちのために与え続けるて行くことが出来ない。自分の思いがあったら、神様が見えない。わたしたちは神様の道具として造られた。
良い種が蒔かれた。世に生まれた。天の国はじっとしていない。悪い麦を切り捨てない。善い麦になるようにわたしたちを使って、働きかけている。
じっと自分を見つめる。自分の心を見つめる。そして、自分の欲求を消す。自分の思いを消す。
祈る。自分が祈る。祈る、祈る、祈る。自分を捨てて神様の前に座る。祈るのは自分ではない、神様の霊が祈りを導いてくれる。
天の国を知るために、神様はパンを捏ねらせる。畑を耕させる。見えないくらい小さい種を蒔かせ、育てさせる。働かなければ天の国は見えない。天の国は心と体に入って来ない。
たとえば、洗礼を受けた。神の子となった。教会の仲間となった。神様につながっているから天の国に入れる。洗礼の道を歩かなければ、天の国が分からないと思います。洗礼の道を歩きながら、天の国が何かが分かってくる。せんれいは天の国の出発です。もう、天の国に入っている。でも、横道に入ってしまうと、天の国が見えなくなってしまう。
年間第15主日A イザヤ55・10-11 ローマ8・18-23 マタイ13・1-23 20-7-12
イザヤの預言が心に沁みました。
「雨も雪も、ひとたび天から降れば むなしく天に戻ることはない。」
毎日、わたしたちまわりにはいろいろな出来事が起きています。出来事はすべて神様からのものだと思います。一つ一つに重さがある。出来事の豊かさがある。出来事に訴えるものがある。
善い出来事、嫌な出来事、その中でも、もう聞きたくもない出来事があります。
ついこの間、三歳の児が飢え死にするという事件が起きました。お母さんは24歳。お母さんは外出、家にいない。その子は8日間部屋に閉じ込められて、ほったらかしにされた。誰も訪ねない。その子は飢えで死んでしまった。
この出来事は、今、わたしたちの社会で起きた。(東京都蒲田1丁目の事件です。実は、蒲田はわたしの住んでいたところ(実家)からそれほど遠くないところです。だから余計にびっくりしました。) わたしたちはこの事件に何を見ますか。そんなに突拍子もない出来事のように思われないのです。 社会の仲間から離れている。家庭が壊れている。親と子の関係がない。……
神様はいつも、命の大切さを語ります。どんなことが起こっても命を大切にしなさい。何よりも命を思う。生き方を思う、考え方を思う、それは命を大切に導くものであってほしい。
神様のみ言葉は発せられた。空しくは戻らない。わたしが与えた使命を必ず果たす。
神様のみ言葉はわたしたちに語られているのです。
イエスはたとえを用いて語られる。人々はイエスのまわりに集まる。イエスの話を聞きたい。イエスは童話のような、昔話のような語り口で神様を語られる。時々神様の業を行われる。イエスが話し始めると、イエスの言葉が耳から心の中に入ってくる。その時には、皆、イエスの話の中に入っているのです。イエスの話に入った時、話の中に光が見えたように思います。
でも、今日のイエスは舟に乗り、腰を下ろされました。そして、種を蒔くの種蒔きの話をされました。この種は単数で書かれているとある神父さんが言いました。種を蒔く、全く同じ種分けることの出来ない全く同じ種です。 その種を種蒔きは手で握って、ざあーっと蒔く。あるところは、ここに種を蒔いたあって仕方がないよ。みんな会社の仕事で精一杯だ。ある人は言います。飲み屋に来て種なんかを蒔くなよ。酒がまずくなる。ある青年は言います。今試験勉強で大変なんです。この勉強が終わったら、種を受け取ってみようと思います。ある人は言いました。この種を貰います。育てるのですか。気を長く持って、種も育ち方を見ます。
種がよい土地に蒔かれたら、根を出す。育つ。木になる。茂る。そして、実を結ぶ。種が蒔かれている。それを受け取る。育てる。苦労が多い、忍耐がいる。
それを受け入れる人は大きな実を見る。とてつもなく大きな、たくさんの実を得る。
それが神様の思いです。イエスは聞きます。あなたはどこにいますか。
でも、今、みんなは種が蒔かれている事を知りました。今、ここで聞きました。
種に、耳を傾けます。種を見ます。見つめます。
イエスの言葉に耳を傾けます。イエスの業に心を留めます。
イエスの中に入ってみます。イエス様、種を貰いに来ました。
種蒔きはイエス様。種はみ言葉、み心。
イエス様、わたしたちも種蒔きになりたい。
年間第14主日A ゼカリヤ9・9-10 ローマ8・9,11-13 マタイ11・25-30 20-7-5
人は見える体と、見えない心を持っています。わたしたちは心で思い、体で表現します。神様が体を造られ、心を造られた。土に塵で体を造られ、神様の思いを受け入れる心を造られたのです。心に善い事を刻まれた。そして、神様は心に神様の霊を送られています。
神様のみ心がわたしたちの心になったらいい。そうであれば、わたしたちは神様のみ心のまま働きます。神様のみ心のままに語ります。み心のままに行います。
神様は言われます。あなたはわたしの道具である。わたしの思いのままに行いなさい。
この体は手助けを求めている人のために働く体です。手助けするための体です。
「親孝行、したい時には親はなし」わたしもよく聞かされました。
中学生、高校生になると親から離れるのは当然だと思っていました。親から離れると言っても、一人で生活するのではありません。父さん、母さんのいう通りにはならないという事なのです。それはは反抗期だよと言われてしまいます。 自由になりたい。自分の思う通りにしたい。
「そんなことをしてはいけない。」「そんなのはただの我儘でしょ。」「訳の分からない事ばっかり言って。」 そんな枠の中にいるのは嫌だ。 中学生、高校生が自由とは何か。生きる命とは何かを考えているのではない。けれど、自由になりたい。自分の思う通りにしたいのです。親の言いつけから自由になりたい。学校の規則から自由になりたい。わたしは高校3年生まで坊主頭でした。制服を着なさい。帽子をかぶりなさい。教科書を教室にしまっておいて鞄の中は空っぽという者もいました。喫茶店に入ってはいけない。保護者がいなければ映画に行ってはいけない。
今から考えると、可愛いなと思います。そんな事に懸命になっていた。人生とは何か。この人生に、この命に目的はあるのか。そんな事には全く関係のない反抗期でした。しかし、人生論は文庫本で次から次へと読んでいたのです。
父さん、母さんの思いを悟りなさい。子供の生き方を大切にしている。子供よ、自分の欲求、楽しみから解放されたらいい。父さん、母さんは子供たちにそんな言葉をかけられたらいいのです。
イエスはわたしたちに父さんの心、母さんの思いやりに心を留めなさいと言っているのだと思います。イエスは年を取ったわたしたちに言われるのです。あなたたちはまだ反抗期ですね。
人を愛しなさい。特に、助けを求めている人たちを愛しなさい。
愛する:与え続けることです。 与え続けたから貧しくなってしまった。そうだね、貧しくなった分、助けられたね。お互いほほ笑み合えたらいいですね。
働くことに疲れたら、イエスのところに行って休みなさい。不平を言いたかったら、イエスに向かって、ありったけ話しなさい。聞いてくださる。そして、言われます。隣人を忘れてはいけない。手助けすることを忘れてはいけない。あなたも支えられている。ありがとうの心を忘れてはいけない。
みんな、子供のように父さん、母さんの思いを行えたらいい。
人は皆兄弟。兄弟のように助け合えたらいい。
年間第13主日A 列王記下4・8-11,14-16a ローマ6・3-4,8-11 マタイ10・37-42 20-6-28
ここ木更津教会はいろいろな自然に囲まれています。すぐそこには港があります。山々が見えます。歩いて行くと、公園があります。緑に囲まれ、ゆったりとした広場です。木々がきれいだな、珍しい鳥が飛んでいる。ある人が言いました。木が生きている。木も太陽を求めて、水を求めて懸命に生きているんだよ。鳥も自然に生きているというけれど、競争で食べ物を探しているんだね。あぁ、そうか。ちょっと思いました。わたしたちには、自然は和やか、おおらかに見える。しかし、自然は生きているものには優しい以上に厳しさを求めている。
わたしたちも自然の中に生きています。考えますと、わたしたちは実にいろいろな物に、いろいろな出来事に包まれて生きているのですね。いや、それ以上にわたしたちが生きているという事は、周りにある、見えるもの、見えないものに支えられている。自然に支えられて生きているのですね。
今日、イエス様はわたしたちに、厳しい事を言われます。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」
わたしたち一人一人に、父がいる。母がいる。兄弟、姉妹がいる。また、毎日の生活の中で、仕事の中で、一緒に歩いている仲間、友人がいる。その人たちをわたしの思いよりも、大切にするのなら、わたしにふさわしくないと言われるのです。 まことにイエス様はそういわれたのですか。
わたしは父さんと母さんの愛によって生まれたのではないですか。そして、父さん母さんの愛によって,家庭で育っていったのではないですか。父さん、母さんの支えによって生きている。父さん、母さんによって今、ここに生きているのではないですか。
十戒にも、父母を敬いなさいと書かれています。十戒は神様のみ心だと思います。
ルカはもっと厳しく言われます。父、母、妻、子供、兄弟、姉妹、を更に自分の命であろうとも、こ れを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。(ルカ14・25~)
神様に声をあげたいと思います。
わたしは父さん、母さんの子ではないのですか。神様、わたしはあなたにとって何なのですか。
あなたはわたしの愛する子である。わたしはあなたの父さん、母さんの愛を包んでいる。わたしは父さん、母さんを通してあなたを生んだ。あなたは父さん、母さん以上にわたしの子である。
父さん、母さんを憎みなさい。これはわたしの命令です。もし、あなたが父さん、母さんの世界に入り、そこに住むならば、あなたのいのちは死んでしまう。
父さん、母さんはあなたに命のまことを教え、まことの生き方を教えるのです。父さん、母さんはあなたに一番近い、一番深いつながりです。しかし、いのちに働きは父さん、母さんの世界から自由なのです。あなたのいのちは神様から注がれた神様のいのちです。まことのいのちを生きなさい。今、父さん、母さんの悪口を言っているわけではありません。
父さん、母さんの愛を超える愛、見える愛を超える愛がある。愛による命。それがあなたに注がれている。それを知ってもらいたいのです。 その愛のうちに生きるのです。
父さん、母さんを憎め。 父さん、母さんから全く離れる。全く離れた時、父さん、母さんが見えます。父さん、母さんのいのちの姿が見えます。憎むとは自分の独立です。今迄のつながりを捨てることです。一人の人として立つ。人として父さん、母さんと対等に立つことが出来る。
憎め:未練が残る、甘えていたい、その心を憎みなさいと考えたいのです。心と体が父母と、何処かつながっていたいその思いを捨てます。それがあれば、全く神様のものとなれない。
愛は自分を捨てるという事です。神様を愛する。その時、自分の思い―自分でありたい、自分の思い出、いろいろな欲求―は捨てます。
十字架を背負ってわたしに従いなさい。 イエス様の背負った十字架は人の罪。あなたは隣人のいのちのための荷物、十字架を背負って、わたしと一緒に歩きましょう。
年間第12主日A エレミヤ20・10-13 ローマ5・12-15 マタイ10・26-33 20-6-21
人に気を使って生きている。失敗を気にして生きている。褒められたいと思って生きている。
誰に気を使っているのですか。誰のために、何のために生きているのですか。
無意識にですけど、失敗したくないと思っている。友だちに失礼なことをしたくないと思っている、自然と日常生活でも気を使っているのです。
イエス様は言われました。「人々を恐れてはならない。」わたしたちは人から軽んじられたくない、何も出来ないと思われたくないと思っているのでしょうか。気を使いならが生きているのではないでしょうか。 障害を持っている人は特に人の目を気にすると思います。今は差別語となっていますが、ちび、びっこ、どもりという言い方がありました。その言葉には軽蔑の心があったのです。そんな言い方に敏感に感じてしまう。恐れてはならない。気にしないふりをして、気にしているのです。
お前は神様に愛されているのですよ。イエス様はわたしたちにそう言われています。お前は神様の子だよ。神様はお前に命を注がれてお前はこの世に生きる者となったんだ。お前が頭がよい、知識がたくさんある、頭の回転が速い、そんな子だから、わたしの子なのではない。運動が出来るからでもない、お前は心が強いからわたしの子なのです。善い事が好きだから、神様を知りたいから、わたしの子なのです。
でも、わたしは人に言えるような善い事はやった事がない。人の見ていないところでちょこっと悪い事ばかりしている。気が弱い。誘惑に負けてしまう。皆の前でおじけづいてしまう。はっきり表現できない。自分が思っている事をうまく人に伝えられない。誠意を持ってやるけれど、嫌みに取られてしまう。
神様は全部見ておられる。大切なのは心だ。つながっている心。つながりたい心だ。心からの行いは人に見せるものではない。神様に向かっている心じゃないかな。
欲張りの心をやめて、何も出来ないと思う心をやめて、心静かにゆったりとしよう。
こんな僕にも、お前はわたしの子だと言ってくれている。僕は、何もしない子じゃなくて、何か出来ればいいと思っている、そんな子。
一番大切なのは、何かをやってあげるのではないよ。喜びをあげるのではないよ。やってあげて喜ぶ、喜びをあげのは大切かも知れない。それ以上に、その人の話を聞いてあげることだと思う。
その人の愚痴を聞く、ずっと聞く。何時間でも聞く。ある人は人の悪口しか言わないかも知れない。
自分の欠点しか言わないかも知れない。訳の分からない事しか言わないかも知れない。それをじっと聞くのです。疲れる、それに耐えられたらいいね。相づちを打つんだ。
「あいつは何も喋らない。ただ、人の話を聞いているだけだ。」「いや、そうじゃない。あの人は相づちを打ってくれる。笑顔でじっと話を聞いてくれるよ。」
神様は言われます。もう一度聞きなさい。わたしが選んでお前をこの世に生んだのです。わたしの子がどんなに小さい子であっても、どんなに弱い子であっても、お前はわたしの子です。
お前を愛しています。 雀もわたしが造った。雀よりはるかにお前の方がまさっている。
覆われているものは姿を現す。隠れているものは知らされる。 あなたは何者か。わたしは小さい者、弱い者。しかし、神様の子です。
キリストの聖体A 申命記 8・2-3、14b-16a Ⅰコリント10・16-17 ヨハネ6・51-58 20-6-14
エジプトは世界を支配する超大国です。イスラエルの人々はエジプトの奴隷でした。人を支配する国から脱出し、神の国に向かいなさい。40年の荒れ野の旅が始まったのでした。ついに、イスラエルの到着した。40年は主が導かれた荒れ野の旅です。目指したのはイスラエルという土地です。しかし、イスラエルの土地ではない。40年の荒野の長い生活が旅の一つ目標です。40年が必要だったのです。どんな苦しい道であろうとも、どんな危険な道であろうとも、苦しくても、悲しくても前を向いて歩いて行かなければいけない。苦しい中にも喜びがある。悲しい中に本当の慰めが生まれる。それを知る。パン、水は神様から与えられるのだという事を知るのです。生きる、支えられて生きている事を心と体で本当に知るのです。
神の国は与えられて、安心の中に住むのではない。神様のみ心の中で生きる。神様のみ心の生活が神の国となるのです。イスラエルに入る、そこに神の国を造って行きなさい。
イスラエルに住むあなたたちは今、全くの平安の中にいますか。
神様のみ心のままに生きていますか。
わたしたちが見てあなたを信じることが出来るように、どんなしるしをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。
あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが死んでしまった。わたしが天から降ってきたパンである。このパンは命のパン、み心のパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる。
神様のみ心、愛のみ心、命のみ心が見える形、パンとなった。わたしが示すパンがそれである。
わたしが命のパンである。わたしを食べなさい。わたしの心を食べなさい。わたしの愛を食べなさい。わたしの心があなたの中に入る。わたしの愛があなたの中に入る。それがわたしの願いです。わたしがあなたの中に入りたい。あなたの心の扉を開きなさい。わたしの体を食べる。
その力であなたの心の扉を開きなさい。
パンであるわたしを食べる。み心を食べなさい、愛を食べなさい、いのちを食べなさいと言いました。パンはイエス自身です。イエスの全生涯を食べるのです。父がイエスをこの世に送られた。赤ちゃんとして生きた。父ヨセフ、母マリアの愛がある。宣教生活の日々。み心、み業、み言葉。一つ一つにイエスの姿がある。父への従順によって、受難がある。十字架がある。ご死去。復活。
イエスを食べる。イエスの姿のうちに入ります。イエスの道を歩む。イエスが一緒にいるからです。
わたしを食べる者はわたしによって生きる。
わたしを食べる者は永遠に生きる。
三位一体の主日A 出エジプト34・4b-6,8-9 Ⅱコリント13・11-13 ヨハネ3・16-18 20-6-7
「神様は独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」
この世が汚れてしまっている。この世は欲求、欲望、快楽を得る場。裕福な生活を求める場になってしまっている。しかし、世は神様が造られた場です。神様は世を愛しておられる。世が変わってほしい。悪の世界から善の世界に戻ってほしい。わたしの思いの場、清い世界になってほしい。悪の世界では生き生きと生きる命が消えてしまう。命を喜ぶ、生きているいのちを喜ぶ善の世界に戻ってほしい。悪に入ってしまった世界を善へと戻す。悪の力から買い戻すのです。神様は独り子の血を代金とされた。神様の独り子のすべてが代金となったのです。世が救われるために。わたしたちはイエスによって、まことのいのちを知った。まことの愛を知った。まことの喜びを知った。まことの信仰を知ったのです。
今日は三位一体を思い起こします。父のみ心によって命を失ったイエスは何者ですか。イエスは神様です。父とイエスは、お二方は同じ神様なのですか。命を捨てさせた方と命を捨てた方が同じ神様なのですか。そうです。不思議ですね。 一緒に、三位一体を考えて行きましょう。
三位一体とは「父と子と聖霊」が一つだという事です。父と子が似ている、驚くほど似ているというのではありません。父と子が一つになるほどつながっているという事です。
似ているというのではない、父と子が全く一つであるという交わり、つながりです。
父がおられます。父はご自分の仕事を行います。子がおられます。子も自分の仕事を行います。父は父です。父は父の誇り、父の力、父の姿があります。子は子の清い、憐みの姿、子の力があります。父と子はつながっている。愛によってつながっているのです。
愛する:愛するとはその愛している方に力を尽くして手助けをするという事ではないかと思います。イエスはわたしたちに新しい掟を示されました。ある青年がイエスに尋ねます。
「永遠の命を得るために何をしたらいいのですか。」 イエスは答えられます。「心より律法を守りなさい。」 「わたしは小さい頃から律法を守るように教えられてきました。」 「あなたに欠けているものが一つある。もし、完全になりたいのなら、持っているものをすべて売り払い、貧しい人々に施しなさい。」(マタイ19・16-30 ルカ18・18-30)
律法のうちに生きるのは素晴らしい。しかし、律法は愛の現れではないですか。神様のみ心が律法となった。神様のみ心を知らなければ、律法は単に規則です。いや、厳格な規律です。
新しい掟:第一に全力、全心をもって神様を愛しなさい。第二に隣人を自分のように愛しなさい。
あなたを包むものを愛しなさい。自然を愛す。人を愛す。特に隣人を愛しなさい。隣人とは手助けがなければ生きて行けない人です。 愛とはその人とつながることです。その人の心のうちに入ることです。持っているものをその人のために使う。その人が生きるために使う。
人は愛するために生きるのです。生き生きと喜んで生きるのです。イエスは言われました。友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
三位一体、父と子と聖霊は愛のうちに一体です。いのちが一つ。心が一つ。憐れみが一つ。存在が一つです。父と子がどのように一つなのですか。聖霊によって一つです。聖霊は神様です。聖霊こそ愛です。子が父と一つ。その時、聖霊によって子の存在が父のもとに一つになります。聖霊が動く時、子が共に動きます。父が子に入る。聖霊によって父が子に入るのです。
子の言葉に中にいつも、聖霊と共に父が働いています。子の言葉は聖霊によって、父の心から出るものです。子だけが働くものではありません。父だけが働くものではありません。いつも聖霊のうちににに父と子が働きます。愛のうちに父と子は聖霊によって一つである。
聖霊降臨の主日A 使徒言行録2・1-11 Ⅰコリント 12・3b-7、12-13 ヨハネ20-19-23 20-5-31
聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」とは言えないのです。聖霊を受けなさい。
今日、わたしたちは聖霊降臨の日を迎えました。そして、今日4人の洗礼の恵みを祝います。
聖霊降臨を教会は赤色で祝います。赤は血の色、命です。そして、赤は聖霊の炎の色です。
ところで、聖霊とは何ですか、一緒に考えたいと思います。 わたしはずっと以前、聖霊は神様の力だと考えていました。神様の命の力、愛の力、慰め、励まし、喜びの力、困難な時、神様は聖霊によって助けを与えてくださる、神様の思いが聖霊によって実現する。しかし、聖霊は神様ですと教わったのです。聖霊降臨、聖霊がわたしたちの中に入られる。聖霊は神様の道具ではない。神様の思いが、心が神様となって働くのだと思ったのです。今日、わたしたちはアレルヤ唱の前に聖霊の続唱を歌いました。歌っていて、聖霊はこの方だと思ったのです。あなたは光の輝き、優しい心の友、憂いの時の慰め、信じる者の心の友。イエスのみ心が聖霊となって実現するのです。
もう一つ、天の父が思いを現わします。わたしの心の内にあるものを、姿ある物、見えるもの、見えないものとして造ろう。宇宙を創られました。天の父は子イエスに言います。わたしの思いを物にしておくれ。イエスは聖霊によってすべてを造られます。宇宙を造ったのは神様、父と子と聖霊です。
神様は唯一です。しかし、わたしたちの神様は三位一体の神様。父と子と聖霊です。父と子は一体です。父の思いが聖霊によって子イエスに伝わります。聖霊によって父がいイエスに入って来るのです。聖霊の働くところにはいつも父と子がいます。父が聖霊によって子に入る。イエスが聖霊によって父に入るのです。
父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるようにすべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。(ヨハネ17・21)
天の父のみ心がイエスの語る言葉となって、その言葉が聖霊によって実現する。聖霊が神様なのにわたしたちに降り、入られてわたしたちの中に住むのですか。わたしたちが神様の住む家となる。そうです、わたしたちが聖霊によって生きる者となるのです。 わたしたちは神様のいのちを注がれた。生きる者となった。わたしたちは神様のいのちに生きるのです。自分の命は消え去ってしまう。しかし、神様の命は永遠に生きる。
まことの命の喜びは一緒に生きている喜びです。たくさんの人が生きるために助けを求めている。その人が生きられたらいい。手助けする者となりなさい。隣人のために働きなさい。その人が感謝する。生きられる。ありがとう。その喜びがまことの喜びではないですか。アイスクリーム、ケーキ、おいしいものを食べて喜ぶ。楽しい事をして喜ぶ。それ以上に心から喜ぶ喜びです。
聖霊によらなければ、「イエスは主である」と言えない。イエスの言葉を聞く。イエスの業を見る。イエスの言葉は聞こます。イエスの業は見えます。しかし、イエスの言葉の心を聞くのです。業の心を見るのです。心の耳で聞く、心の目で見るのです。聖霊によらなければ、聞こえない、見えない。
自分自身を捨て、聖霊に満たされますように。自分自身を捨て去る、それこそまことの自分です。
主の昇天A 使徒言行録1・1-11、 エフェソ1・17-23、 マタイ28・16-20 20-5-24
イエスが復活された。イエスはご自分の復活の「いのち」を弟子たちに示された。
わたしを見なさい。わたしに触れなさい。この世の命を超える新しい命がある。
恐れることは何もない。神様への道を歩みなさい。
イエスは弟子たちに語ります。わたしはあなたがたを離れて父のもとに行きました。父のもとから、あなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るためです。(ヨハネ15・26) あなたがたは真理の霊、聖霊によって洗礼を受けます。聖霊の水の中で今までの自分が死ぬ。知識と経験によって自分があった。また、小さい頃からの思い出によって自分があった。知識、経験、思い出によって自分を作って来た。自分が自分でありたい。
しかし、その自分はいらない。聖霊の中で自我がなくなる。自分が死ぬ。聖霊がその人の中に注がれ、その人は聖霊によって生きる。その人は新しい自分になる。本当の自分は自分を捨てた時、聖霊によって生きるのです。(土の器に聖霊が注がれ、聖霊に満たされる。土の器の中で、古い自分がなくなり、聖霊が生きる。その器が本当の自分。)
使徒たちは復活のいのちにいるイエスに尋ねます。
「主よ、イスラエルのため国を立て直してくださるのは、この時ですか。」
イエスは答えられる。「この世のものから離れなさい、この世から解放されなさい。出来事を心の目で見る。心の耳で聞くのです。まことのイスラエルは聖霊のうちにある。神様のみ心のうちにある。全世界に行き、わたしの証人となりなさい。神様の出来事を語る。わたしの証人はわたしの道を歩くのです。その場がまことのイスラエル。神様の思いのうちに働く場がまことのイスラエルです。
イエスが天に昇って行かれる。
集まっていた人々が一心に、天を見上げていると、二人の天使たちがそばに立って、言った。
「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たと同じ有様で、またおいでになる。」
イエスは不思議のうちにこの世に来られた。毎日、街角で、神殿の境内で、神様のみ心を語った。憐れみの業を示された。そしてついには、わたしたちすべての人々の罪を背負って、十字架にかけられ、命を奪われた。そして、わたしたちに、死を超える新しい「いのち」に生きる姿を示された。
すべて神様の業。神様がわたしたちに与えられた出来事ではないでしょうか。
「いのち」にかかわる神様の不思議な出来事。
そして、今、イエスは天に昇られる。そして天に昇った有様で、また、この世に来られる。その不思議が又、わたしたちに与えられる。
これが昇天の出来事です。
11人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。
イエスが来られた。弟子たちは、イエスを見てひれ伏した。
しかし、疑う者もいた。この弟子は目の前の出来事があまりに不思議過ぎて、悟ることが出来なかったのではないでしょうか。心の目で見ることが出来ないのだと思います。
この出来事を、今、自分のこの目で見ている。自分が納得したい。
イエスは近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい
復活節第6主日A 使徒言行録8・5-8,14-17 Ⅰペトロ3・15-18 ヨハネ14・15-21 20-5-17
ペトロの手紙を読みます。わたしはイエスの証人です。イエスのうちに生きている喜びがある。生活に希望がある。イエスによって祈りを教わった。神様を知った。まことの律法は何かを知った。イエスに神様のみ心、神様の業がある。イエスに従って歩む、イエスのためなら死ぬことが出来ると思っていた。しかし、わたしもイエスを裏切ってしまった。日曜日、イエスは新しい命をわたしたちに示された。わたしはイエスを語ります。
主の道を歩みなさい。主と共に平和のために、光に向かって、命の喜びのうちに歩む。主に結ばれている。主とつながっている。もし、問われたらいつでも弁明できるように備えていなさい。
もう一度、静かに神様の不思議を思い巡らすのです。
あなたは神様に何を求めているのですか。神様にどんな希望を持っているのですか。
キリストは人ですか、神様ですか。神様が人となった?神様は人の思いを超えるすばらしい力を持っているのではないですか。それを捨てて、神様が人となったのですか。あなたが言っている神様である人キリストが残酷に殺された。なぜ、神様であり人であるキリストが殺されたのですか。
わたしたちはイエスに出会った。キリストに出会った。イエスの心のうちに入って行った。イエスに神様を見た。神様に結ばれているわたしたちが穏やかに、静かに、善い生活を送る。和やかな、喜びの生活を送るのです。善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。いや、正義を行うために苦しむ、手助けの必要な人のために、与える続ける、だから貧しくなる。その方がもっと善い。 キリストも人々の罪のために苦しみました。その苦しみはどれほど大きかったか。キリストは肉では死に渡されましたが、霊では生きる者となったのです。
イエスの最後の晩餐、訣別の説教を聞きます。
あなたがたはわたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。キリストによって示される掟とは「人の形」と言ってよいでしょうか。人が造られた時、善い心を、愛の心を心に刻まれている、それが掟です。どんな人であっても、赤ちゃん、幼児はお父さん、お母さんによって、その心に刻まれるのです。赤ちゃん、幼児は真っ白な心を持っている。人の温かさ、支えられていつながりを受け取っているのです。 愛はいのちのつながりです。わたしを愛するならば、わたしと命のつながりに結ばれていると信じるならば、わたしは聖霊を遣わして、永遠にあなたと一緒にいるようにする。
聖霊は神様です。あなたの内に神様が住まわれる。聖霊があなたの中に住む。聖霊が子を共にあなたの中に住む。あなたはわたしと一緒にいる。
わたしたちの中で聖霊が働きます。神様の思いがわたしたちを通して実を結ぶのです。わたしたちの行いが神様のすばらしさを現わすのです。それが出来ればどんなにかすばらしいか。
イエスは言われます。あなたがたを「みなしご」にはしておかない。自分のうちの欲求、欲望によって罪を犯しても、あなたがたがどんな厳しい迫害にあってわたしを捨てたと言っても、あんたがたは孤立することはない。わたしはあなたたがた見ている。どんな状態になっても、あなたがたを見ている。罪を犯したなら、すぐに悔い改めなさい。罪を犯し続け、どんどん道に迷い続けたら、神様が見えなくなってしまう。「みなしご」になってしまう。みなしごになっても神様はあなたの名を呼び続ける。
(ルカ15・1-7) わたしたちは自分たちで「みなしご」の道を歩いているのではないかと思います。
今、わたしたちのこの時代は物によって生きる時代になってしまったのではないかと思います。食べ物、飲み物がふんだんにある。良い物を求めて生きる。性能の良いものを求めて生きる。心の食べもの、飲みものを求めない。わたしが見えなくなってしまう世が来た。 しかし、あなたがたはわたしを見つめる。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。
わたしの掟―愛しなさい。 いのちのうちに共にいる。命につながっている。
復活節第5主日A 使徒言行録6・1-7 Ⅰペトロ2・4-9 ヨハネ14・1-12 20-5-10
イエスは言われます。わたしはあなたたちから離れ去る。父のもとに行く。あなたたちは神様と出会った。わたしと出会った。神様を信じなさい。わたしをも信じなさい。
もっともっとわたしを見つめてほしい。わたしの話を心のうちに聞きなさい。言葉の重さをそのまま受け取りなさい。言葉の中にわたしはいる。わたしは「いのち」のうちに語っているのです。
わたしは父のものです。父のうちに入り、父のうちにいます。父はわたしの中に来られ、わたしの中におられます。父の家の中にあなたたちの場所を用意します。わたしはあなたたちをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所にあなたたちもいます。 あなたたちとわたしは一緒に歩き、一緒に喜び、一緒に苦しみ、悲しみます。いつまでも一緒にいます。
わたしはあなたたちから離れる。どこに行くかあなたたちは知っている。
トマスは言う。「主よ、どこに行かれるのか、わたしたちには分かりません。」
イエスは言われる。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことは出来ない。」
わたしは道:わたしたちはイエスを思い巡らします。天の父がわたしを母マリアを通してこの世に遣わされた。人に支えられ、生きた。食べ物、飲み物が与えられ、人の温さの中に安心があった。温かい心、笑顔、ほほ笑み、そして、時に苦しみ、悲しみがあった。
成人になって、預言者の道を歩いた。人の生きる姿の中に入って行った。神様の道具となった。人と会った。人と語った。温かさを与えた。人を憐れみで包んだ。人は自分の欲求のために隣人を見捨てた。人は神様の世界から離れた。神様はわたしに言われた。人をわたしのもとに戻しなさい。あなたの命にかけても、人をわたしのもとに買い戻しなさい。わたしは神様の道具。人のために働く、自分の持っているものを与える者。人が生きるために与え続ける。
人が神様の世界を離れた。神様の言葉を語った。神様の業を行った。しかし、命を求められた。人のためにすべてを捨てなさい。それが愛。 わたしはあなたと一緒に歩く道。あなたは神様から選ばれてこの世に生まれた。わたしと出会った。
一緒に歩きましょう。隣人に与え続けながら、歩きましょう。
わたしは真理:わたしは「ある」です。すべてのものはわたしによって「ある」、「生きる」。
見えるものであっても、見えないものであっても、わたしがものを造る。わたしが「ある」とする。
すべてのものはわたしの掌の上にある。
わたしは時間の外にいる。時間を超える、永遠のうちにいる。
わたしは場所を超えている。わたしは時間から自由、場所から自由。
わたしはこの世を造った。時間、空間のうちに造った。
すべてのものに命を与えた。この世のすべての出来事はわたしのもの。
わたしがあなたたちに示す真理はただ一つ。生きること、喜んで、限りなく生きることです。
わたしは命:命とは生きていることです。自分の世界にいては命はない。命はつながりです。自分の世界から外に出る。外に出た時、つながりが生まれる。ものはつながりがなければ、支えられなければ生きられない。命が生きない。与えられた命を喜ぶ。つながりを喜ぶ。命は助けられていること、助けていることです。
わたしを見る者は父を見ている。わたしの言葉を聞いている者は父のみ心を聞いているのです。
復活節第4主日A 使徒言行録2・14a、36-41 Ⅰペトロ2・20b-25 ヨハネ10・1-10 20-5-3
五旬祭の日が来た。五旬祭は刈り入れの祭りです。過越し祭の第2日目から数えて50日目に祝われました。50日目は7週目です。ユダヤ教で、後に、この日をシナイ山で律法を授与された日とされた様です。 五旬祭は、律法が与えられた日を記念する。「まことの律法とは神様のみ心」ではないでしょうか。わたしたちはまことの律法を知る。まことの律法に入る。神様のみ心が与えられる。五旬祭は神様のみ心がわたしたちの中に入ること、まことに神様である聖霊が天から降り、わたしたちを満たすのです。実に、五旬祭は聖霊降臨のお祝いです。
イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。「なぜ生まれつき目の見えない人が生まれるのですか。」「だれが罪を犯したのですか。」イエスはお答えになった。「神の業がこの人に現れるためである。」イエスはこの人の目を癒された。その日は安息日であった。
イエスは言われた。「わたしが来たのは神の業が行われるためである。見えない者が見えるようになり、見える者は見えないようになる。」そこに居合わせたファリサイ派の人々はこれらの事を聞いて、「我々も見えないという事か」と言った。「あなたたちは見えない。しかし、あなたたちは見えると言っている。」
イエスははっきり言われます。まことの羊飼いは羊の心が見えている。羊と心がつながっている。まことの羊飼いはどこから来るのでしょうか。 羊飼いは羊を導き、育てます。善いものを食べ、善い水を飲みます。羊飼いによって善い命の道を歩きます。
わたしたちはまことの羊飼いイエスの姿を見ました。神様のうちにおられるイエス。イエスは言われます。イスラエルの祭司、律法学者、ファリサイ派の人々、あなたがたの歩いている道は神様への道ではない。神様のみ心の道ではない。あなたがたは別の門から入って来て、羊の上に立っている。 羊はまことの羊飼いを知っている。まことの羊飼いは自分の羊を呼び出す。羊はその声を知っているので、ついて行く。心からついて行く。他の門から入った羊飼いは羊を呼んでも、羊は逃げ去ってしまう。しかし、嘘の羊飼いは堂々としてその地位にいる。その力を発揮している。
羊飼いの声が羊を動かしているのではなく、羊の住んでいる所の規則に従って生きているのではないでしょうか。神様のみ心の律法が文字の律法になってしまっている。羊は律法の力によって嘘の羊飼いの力に従っている。そこはまことの羊の囲いではない。
イエスは言われる。わたしがまことの門である。わたしの門を通って羊の囲いに行き、羊と出会いなさい。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。
イスラエルの羊飼いたちは神様のみ心を語らない。聖書の言葉を引用する。律法の言葉で裁く。イスラエルの羊飼いたちの世界は律法によって縛られている世界です。「しなさい」「してはいけない」ことだらけです。
ルカのたとえ(LK.18・9~14)を読みたいと思います。
ファリサイ派の人が祈るために神殿に上りました。神様へ喜びの祈りをささげます。「わたしは奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二回も断食し、全収入の十分の一を献げています。」
イエスは言います。この喜びの祈りは神様に届かなかった。このファリサイ派の人は神様の掟を忠実に守っている。あなたの感謝は自分の世界の充実の喜びではないですか。あなたは神様とつながろうとしていない。徴税人の苦しみを知ろうとしない。あなたの喜びは生きて行けない人たちへの手助けになっていないのではないですか。自分の城の完成の喜びではないですか。
復活節第3主日A 使徒言行録2・14、22-33 Ⅰペトロ1・17-21 ルカ24・13-35 20-4-26
新しい預言者が現れた。力ある預言者だ。この方は神様の心を持っている。神様の力を持っている。イエスに出会った人たちはイエスに静かな、深い霊性を感じている。
ある人は言う。イスラエルがこの方によってダビデ時代と同じような力強い神の王国となる。この方こそイスラエルの新しい王だ。イスラエルはローマの植民地であってはいけない。イスラエルはすべての国の、すべての人の祝福の源ではないのか。(創世記12・1~)
ある人たちはイエスに慰めを感じている。生活は希望です。命は喜びです。生きている、それは神様の恵です。神様は父さんです。父さんが自分の子供を心にかけないわけがありません。
悪いことをしたなら、素直に謝りなさい。父さんはあなたのことばを受け取ります。
心を見ておられる。新しい心で出発しなさい。
しかし、イスラエルの人々はイエスの十字架を見た。血みどろになって倒れながら、必死に十字架を背負うイエスの姿を見た。ゴルゴタの丘で十字架につけられ、命を奪われた。皆イエスの十字架を見た。イエスの死を見た。
イエスが心から離れない人たちはイエスの出来事を思い返している。
イエスの受難と死が理解できない。イエスは神様の心を語った。神様の業を行った。なのに、神様は残酷です。理不尽です。なぜ、あのような苦しみ、悲しみをお与えになるのですか。
イエスは神様のみ心のまま生きた方ではないですか。
イエスと一緒に歩きたいと思っていた多くの弟子たちは、希望を失くした。イエスの出来事を理解することが出来なかった。 ある二人の青年がエマオという村に向かっている。この青年たちはイエスに神様の姿を見ていた。イエスは人々に毎日毎日、神様の憐れみを語り続けた。いのちの尊さ語り続けた。悪霊を追い出した。病を癒された。神様の業を行った。
しかし、イエスは何も求めていなかった。わたしは神様の道具ですと語っていた。
イエスは出会う人々皆を、神の道へ招いている。神様のみ心に招いている。
わたしたちは、あの方こそ新しいイスラエルを造ってくださる方だと信じていた。
イエスの出来事は何なのか。イエスの出来事も神様の出来事なのか。
旅人が青年たちの話を聞いて言う。何のことを話しているのですか。わたしたちはエルサレムで起こった事、十字架にかかって死に渡されたナザレのイエスの事を話していたのです。わたしたちはイエスに神様の姿を見ていました。しかし、苦しめられ、十字架にかかって殺されたのです。
しかし、こんな出来事がありました。イエスの亡くなった三日目に、仲間の婦人たちがイエスが葬られている墓場に行ったのですが、イエスのご遺体がないというのです。天使が現れて「イエスは生きておられる」というのです。弟子のペトロ、ヨハネも行って、見ましたが、イエスはそこにおられなかった。
旅の人は青年たちに言います。あなたたちは何を求めていたのですか。あなたたちは預言者たちの言葉を信じていない。あなたたちはイエスに出会った。イエスに神様の姿を見た。イエスの言葉が心を刺した。イエスの業に心を奪われた。そんなあなたたちは素直な心で、イエスに神の姿を見なさい。見るのではない。感じるのではない。イエスに向かって、イエスの中に入って行きなさい。イエスの出来事をそのまま受け取りなさい。そして、イエスに向かって歩きなさい。あなたの心と体でイエスを受け取りなさい。
神様は善い出来事、悪い出来事、全部の上に立っておられる。あなたに善い事、悪い事、両方をあなたの前に置かれる。どちらを選ぶかはあなたの心です。
人は小さい、弱い。人は悪い世界にいる。悪い世界に中で苦しんでいる。悲しんでいる。力のある者が人を踏みつける。踏みつける人、踏みつけられている人の心が死んでゆく。人は残酷なこと、非情ことを行う。 悪いことを受け取り、それを超えなければ、まことの善い事が見えない。
日が暮れて来た。二人はその旅人の人を誘って宿屋に着いた。食事の席、その人がパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。 その時、この方がイエスだと分かった。この方こそイエスだと心に響いた。その時には、イエスの姿は消えてしまっていた。
パンを食べる時、イエスが分かる。イエスは生活の中にいる。頭の中ではない。心の中ではない。日常の生活の中でイエスと出会うのです。祈りの中、聖書の中、霊性の中でイエスと出会う。それはあなたの、自分の中のイエスです。自分の城の中にいるイエスです。
復活節第2主日A(神のいつくしみの主日)
使徒言行録2・42-47 Ⅰペトロ1・3-9 ヨハネ20・19-31 20-4-19
わたしたちの主イエスが反逆者として、十字架の刑を言い渡された。鞭打たれ、血を流しながら十字架を背負ってゴルゴタへの道を行く。人々の中を十字架を担いながら歩かれた。弟子たちはイエスのその姿が見られない。あまりに恐ろしかったからである。イエスは十字架に釘付けされ、死んでいった。
弟子たちは週の初めの夕方、集まっていた。ユダヤ人を恐れ、家の戸には鍵がかけられていた。イエスがすーっと弟子たちの真ん中に立った。そして言われた。「あなたがたに平和がありますように。」弟子たちはイエスの姿に驚いた。静かな力にあふれていた。弟子たち皆を包み込む大きさに心を打たれた。イエスの姿に栄光を見た。弟子たちはお叱りを受けると思っていたのです。しかし、イエスは言われた。「あなたがたに平和があるように。」あなたがたは弱い、小さいものである。それを忘れてはいけない。わたしはあなたがたを愛している。いのちのつながりで結ぶ。
そしてイエスは言われたのです。「父がわたしを遣わされたように、わたしはあなた方を遣わす。全世界に行って福音を告げ知らせなさい。」
わたしの言葉は父からのもの。わたしの業も父からのもの。わたしを見る者は父を見ているのである。わたしは父の中にいる。そして父はわたしの中にいる。わたしはあなたがたを全世界に遣わす。わたしの出来事を語りなさい。わたしの言葉を語りなさい。わたしの業を行いなさい。わたしはいつもあなたがたと共にいる。
トマスはその時一緒にいなかった。皆イエスと出会ったというのか。イエスは十字架にかかって命を落としたのではないか。わたしは手に釘跡を見、この指を釘跡に入れて見なければ、この手を脇腹に入れて見なければ信じない。 わたしたちはこのトマスを「疑いのトマス」と教えられました。
わたしは敢えて正直者のトマスと言いたいのです。 死んだ者が現れたという。微笑みをもって現れたという。死んだ者が語ったという。そんなことが信じられるのか。
8日の後、弟子たちはまた家の中にいた。トマスも一緒であった。 8日と言うのは新しい出発という事です。7日間、出来事が完成した。そして、翌日、8日目に新しく出発するのです。
イエスが入って来られた。そして言われる。「あなたがたに平和があるように。」そして、トマスに言われます。あなたの指をここに当て、わたしの手を見なさい。あなたの手を伸ばしわたしの脇腹に触れなさい。イエスがトマスの前にいる。神様を見る。神様がトマスを覆う。神様がトマスの心に入ってくる。
トマスは言う。「わが主、わが神よ。」
イエスは言われる。「見ないで信じる者は幸い。」
出来事を心で受け止めなさい。仲間の言葉を心の耳で聞きなさい。あなたと共にる彼らは、仲間ではない、友、兄弟ではないか。信じるとは、知識を超えるもの、経験を超えるもの。兄弟の信じている出来事を心で受け止めなさい。神様の出来事を信じる。復活をトマスは信じられなかった。
トマスの姿はわたしたちの姿のように思います。
徹底的に祈りたい。貧しくなるほど与えたい。自分を無にしたい。
復活の主日 使徒言行録 10・34b、37-43 Ⅰコリント5・6b-8 ヨハネ20・1-9 20-4-12
ご復活おめでとうございます。
もう一度、主の復活の出来事を思い巡らしてゆきたいと思います。
ペトロは語ります。わたしたちはイエス様の証人です。イエス様の言葉、行いに神様が共におられた。しかし、わたしたちはこの方を木にかけて殺してしまった。律法では、木にかかって殺された者は神に呪われていると書かれている。しかし、神様はこのイエスに、殺されてから三日目に復活の命を与えられました。イエスは神様と共に、文字による律法を超えたのです。わたしたちは復活したイエスと食事を共にしました。わたしたちはイエスの出来事を告げ知らせます。
この世には悪いパン種が蔓延している。パン種によっておいしいパンが食べられる。しかし、悪いパン種―古いパン種、悪意と邪悪のパン種が働いている。善いパン種を求めなさい。善いパン種を造られる方、善いパン種を蒔く方、それがわたしたちの主イエス様です。
過越しの食事に、パン種のないパンを食べた。
イエスは言われた。ここにわたしのパン種を入れる。まことのパンを食べなさい。
人々は言います。その者がわたしたちの生活を変えようとしている。自分が王となってわたしたちを支配しようとしている。イスラエルの最高法院は言います。その者の信じている神はわたしたちの神ではない。その者によってエルサレムは動揺している。動揺が広まれば、ローマ軍が入ってくる。大祭司カイアファが言います。その者を亡き者としよう。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方があなたがたに好都合とは考えないのか。(ヨハネ11・48~)
その方が反逆者として捕らえられ、苦しみの内に十字架につけられて殺された。その方イエスが葬られた。
週の初め、朝早く、まだ暗いうち、マグダラのマリアは墓に行った。主のご遺体がない。弟子のところに走って行った。主がおられません。どこに置かれたのか分かりません。弟子たちも墓に行った。主はおられなかった。
主はこの世にはおられなくなった。二人の弟子とマリアはそれを心の留めた。
イエスの復活をまだ理解していなかったのである。
ペトロは宣言します。イエス様こそ神様の力の内にいる。イエス様こそまことのパン種。
イエス様は新しい命をわたしたちに示された。
イエス様は復活された。
ペトロはイエス様の復活を宣べ伝えます。
わたしたちもイエスの復活を大いに喜び、語って行きたいと思います。
復活の聖なる徹夜祭 20-4-12
イエス様が復活された。神様の光が、新しい光がわたしたちのもとに届いた。わたしたちはその光を見た。イエスの復活を信じた。死は終わりではない。神様はすべてのものの造り主と聞いている。死を超える。神様は死をも支配する神様だと知ったのです。
マグダラのマリアは復活のイエスと会ったのです。
マグダラのマリアは墓の外に立って、泣いていた。墓の中にイエスはいない。
マリアはイエスの遺体の置かれたところに白い服を着た二人の天使を見た。
天使は言う。「婦人よ。なぜ泣いているのか」
「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのかわたしには分かりません。」
こう言いながら後ろを振りむくと、男が立っていた。
その男が言う。「婦人よ。なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか。」
「あなたがあの方を運び去ったので紫あら、どこに置いたか教えてください。」
その男は言った。「マリア」
その言葉がマリアの心に入って響いた。
マリアは振り向いて、「ラボニ」と言った。その男がイエスだと気づいたのです。
イエスは言われた。「わたしに縋りつくのはよしなさい。」
マリア、お前はわたしを、お前の支えとして、お前を守る者として心から愛している。
わたしはそれを感じている。マリア、わたしをそのように愛してはわたしが見えない。
あなたはわたしに縋りつこうとしている。わたしはあなたの愛の中にはいない。
わたしは天の父のもとに上がる。その時、あなたたちはわたしのまことの姿を見る。
わたしの兄弟のところに行って、この出来事を語り、告げなさい。
イエスはわたしたちに言われています。あなたたちはわたしに出会った。
わたしの中に入ろうとしていますか。
あなたはわたしに求めている。 平和をください、病を癒してください。温かい心を与えて下さい。喜びを与えてください。今、全世界を恐怖に陥れているコロナウィルスを取りのけて下さい。
イエス、あなたを愛しています。大いなる恵みを注いでください。わたしたちの心を満たしてください。安心をください、あなたの温かい心、憐みのある心、悪いものを罰する力をください。
あなたたちはわたしをマリアのように愛しているのではないですか。
そのイエスはわたしのまことの姿ではない。そのイエスはまことのイエスではない。
生きるとは、命を喜ぶとは、迫ってくる困難、恐れに立ち向かうことです。立ち向かうあなたに、わたしは力を注ぎましょう。自分の力を使って歩くのです。その道が命の国に続いています。死んで歩まなくなるのではないのです。死を超えて新しい出発がある。新しい国、神の国に入りそこからの出発です。人の世にいる者たちのために祈る。助言を与えることではないでしょうか。
イエスは復活した。イエスが死から立ち上がられた。イエスこそ神。死を超える神。
わたしたちは主の復活を見た。神は死を超える者、死を支配する者だと知った。
ご復活おめでとうございます。
聖木曜日・主の晩餐の夕べのミサ 20-4-9
主の晩餐を記念します。思い巡らします。
食卓の事を考えました。夕飯は家族で一緒に食べます。父さんが会社から帰って来た。母さんが料理をする。姉さんが手伝っている。家族がそろっている。夕食はいつも家族みんなで食べます。一緒に食べる食事は喜び、楽しみ、感謝の時です。そんな大げさなことを言わなくても、母さんが料理を作ります。昔は、(わたしたちの時代)食事中、喋ってはいけなかったのです。つまらない事をしゃべってないで黙って食べろと怒られました。畳の上で、坐って食べました。ラジオもテレビもついていない。テレビはなかったけれど。思い出してみると、家族がそろうのは夕食の時だけだったと思います。
食事の喜びは大切にしたいと思います。金持ちの前に横たわっていた貧しいラザロは死んで、天の国に入った。天の国は食卓をもって迎えてくれる。天の国の食卓は聖人たちとの会食。青空の下、明るい、風の心地よい、語り合って食べる。顔を見ながら、笑いながら、飲み、食べる。
インド、コルカタ(カルカッタ)である少女と出会いました。貧しい身なりの少女が食べ物を、お金を恵んでくれ、もう二日も食べていないと言うのです。少しお金を渡す。もし、願いが叶うなら、今一番何をしてほしいと思うと聞く。少女は言う。おじいちゃん、お婆ちゃん、お父さん、お母さん、兄弟、皆一緒にご飯を食べたい。笑いながら、何の心配もなくて、一緒にご飯が食べたい。
主の晩餐を思います。この晩餐はイエスを中心とした過越しの食事です。エジプトからイスラエルの脱出、神様の示された土地へ行く、その出発の食事が過越しの食事。そして新しい過越し、イエスに従って歩む出発の食事がミサです。神様がおられるところへ旅立つ。その国は見えない。
その国は神の思いが行われるところです。その道はこの世から始まっている。わたしたちは今、イエスに従って、見えない神の国へ歩んでいるのです。
イエスはこの時、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
この世にいる…わたしと出会った者、わたしの思いの内に入ろうと思った者、わたしの弟子となりたいと思ったすべての者を愛された。愛とは自分の持っているものを、その人に与えることです。その人が生きるために与える。愛し抜かれた…自分の存在を空にされた。全身全力をもってわたしたちを包まれた。 イエスは目の前にいる弟子たち一人一人に膝まづいて、足を洗い始めた。わたしはあなたの奴隷となります。あなたたち一人一人の奴隷となります。あなたたちのために全力を尽くして働きます。「愛する、この上なく愛する」をイエスはこのように表現したのだと思います。すべてを捨てて…奴隷となる。
「わたしのしていることは、今、あなたには分かるまいが後で分かるようになる。」
「わたしの足など決して洗わないでください。」「もし、わたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりのない者となる。」 イエスは言われた。わたしはあなたの足を洗った。わたしは師、先生と呼ばれている。主であり、師であるわたしが、あなたがたの足を洗った。あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
兄弟、お互いまことの兄弟になりなさい。自分を無にして、兄のため、弟のために働きなさい。
キリストの名のもとに集まる者は皆兄弟、まことの兄弟となる。自分の全部をもって苦しんでいる兄弟、悲しんでいる兄弟のために働きなさい。
この食事の時、イエスは「わたしはお前たちのまことの兄弟だ」と言われているのだと思います。わたしの命を与えてもお前たちを愛する。お前たちを罪の世界から解放し、命の世界に導く。
エルサレムでの出来事を決して忘れてはいけない。わたしの苦しみ、悲しみを決して忘れてはいけない。わたしの愛を決して忘れてはいけない。
イエスは言われる。また、わたしと一緒に食事が出来ますように。
受難の主日(枝の主日)A イザヤ50・4-7 フィリピ2・6-11 マタイ27・11-54 20-4-5
過越しの食事が終わった。イエスはゲッセマネに来た。弟子たちも従った。弟子たちに言われる。誘惑に陥らないように祈りなさい。イエスは少し離れた所にはなれ、ひざまずいて祈られた。
父はイエスに言われる。このエルサレムでまことの神様のまことの憐れみ、まことの愛を示しなさい。
弟子たち、またイエスに出会った人々は、イエスがエルサレムに王として入る決意を喜んだ。ロバによって進む。服を道に敷いた。枝を道に敷いた。皆、神様がイエスをイスラエルの王とする、と思っていた。過越しの食事は出発の時です。新しいイスラエルが生まれる。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。」 イエスのものと集まる者たちは弟子が12人、大勢集まっても500人ぐらいでしょうか。その者たちが集まってローマと戦うのですか。すぐ鎮圧されるのではないですか。弟子たち、人々は信じます。イエスには神様の力がある。イエスには万軍の主がついておられる。
ゲッセマネでイエスは祈る。父はイエスに言われる。「このエルサレムでまことの神を現しなさい。わたしが与えるこの盃を飲みなさい。この杯に満ちている、人のすべての罪を飲み干しなさい。」イエスは言う。「わたしには出来ません。この杯をわたしから取りのけてください。」「イエス、お前はわたしの子。父さんの言いつけを守りなさい。」イエスは苦しみ、汗が血の滴るように地面に落ちた。
イエスは捕らえられた。鞭で打たれた。背中が真っ赤になった。血が流れる落ちた。裸にしろ。赤いマントを着せろ。茨の冠をかぶせろ。唾が吐きかけられ、頭を棒でたたき続けられた。イエスは寝ていない、食べていない。十字架の背負わされ、ゴルゴタまで人びとの中を歩いた。何度も倒れる。体力が残っていない。ついに十字架に釘付けされる。 「苦しいか。もしお前が神の子なら、自分を救ってみろ。お前は他人は救えるのに、自分は救えないのか。」
昼の3時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」ここは詩編22です。苦しみのうちにある心を神様が救われると解説されています。だからこの苦しみのうちにあるイエスは神様に叫び続けていると言います。
しかし、わたしはこの祈りは、イエスの本当の苦しみではなかったのかと思うのです。祈っても祈っても神は答えてくださらない。神とつながっている安心をください。しかし、神は返事をなさらない。
イエスの体は鞭で打たれ、血が流され、骨はひびが入っている。弟子たちはイエスのもとを去ってしまった。イエスは人々に神様の言葉を語った、業を示した。憐れみを示した。愛を行った。しかし、人々は何も示さない。イエスは全く一人になった。体の苦しみのうちにいる。心の苦しみのうちにいる。イエスは小さい、弱い、人間の本当の苦しみを知ったのではないかと思うのです。
わたしたちは言います。神様は俺たちの苦しみ、悲しみ、悔しさ、誰にもぶつけられない心を知らない。神様はいつも豊かだ、平安だ。しかし、イエスは言います。わたしは本当の苦しみ、本当の悲しみ、誰にもぶつけられないわだかまりを知っている。わたしはあなたと一緒にいる。
救いとは何ですか。 わたしたちはいつも神様に求めていると思います。平安をください。力をください。もっと大きな能力をください。人を支える力をください。静けさをください。
神様は言われます。不足を貰って平安が得られますか。いや、もっと欲しいと願います。救いはもらうことではありません。 与える者になりなさい。イエスはすべてを持っておられた。それがわたしたちの救いではなかったのです。イエスと一緒に与えるものになる。
わたしたちの罪を受け取ってくださった。そのためにすべてを与えられた。 イエスが最高の与え主です。イエスのうちにまことの愛があります。憐れみが働いている。受難。 すべてを与えられた
四旬節第5主日A エゼキエル37・12-14 ローマ8・8-11
ヨハネ11・3-7,17,20-27,33b-45 20-3-29
旧約聖書では復活はないと言っていたのでしょうか。第一朗読エゼキエル書を読んでこれこそ復活、この世の命を超える、新しい命が注がれる主にみ言葉ではないかと思ったのです。
主は言われる。わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地に連れて行く。
人は死んでこの世から去る。この人の、築いてきたこの世の出来事は忘れ去られてしまう。この世の自分の命が終わる。自分が無くなってしまう。 神様は言われる。わたしはあなたを死の世界から引き上げ、わたしの国イスラエルに連れて行く。
そこは、まことのいのちの国、まことの喜びの国、光の国です。
わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。神様から新しい命が注がれる。新しいいのちに生きる者となる。自分たちの新しい地に住む。それが神様のみ心の地となる。神の国となる。
ラザロは死んでしまった。ラザロの姉さんマルタは言う。「その時、イエスよ、あなたがいてくださったら、ラザロは死ななかったでしょう。」 イエスは言われる。「わたしを信じなさい。わたしを信じる者は死んでも生きる。」「終わりの日の復活の時に復活することは信じています。」「わたしは復活であり、命です。ラザロは復活する。」「わたしはあなたを神の子メシアであると信じています。でも、ラザロはもういない。死んでしまった。」 マルタは願うのです。ラザロの姿が見たい。触れたい。声が聞きたい。話をしたい。
ラザロの死をマルタ、マリアは嘆き苦しんでいた。村の多くの人たちも泣いていた。皆の悲しみ、苦しみがイエスの心に迫って来た。ラザロを思い起こす。イエスも泣かれた。
復活とは何ですか。復活のいのちに生きるとは今、つながっているという事ではないでしょうか。
今、一緒にいる。声が聞こえる。話すことが出来る。つながっていることです。例えば、息子がはるか遠い国に旅立って、そこで生活している。元気でいるように、幸せでいますように。息子のために祈る。
復活のいのちに生きているとは、その人と今もつながっているのです。
イエスは墓に行きます。墓をふさいでいる石が取りのけられます。イエスは天を仰いで深く祈り、言われます。「父よ、わたしの祈りを聞き入れてくださって感謝します。あなたがわたしをお遣わしになった。今、わたしはあなたのみ心を行います。」 そして、大声で言われた。「ラザロ、出て来なさい。」
信じる者は神の栄光を見る。 ラザロは手と足を布に巻かれたまま出て来ました。
神様の出来事が行われた。神の栄光がイエスによって現わされた。いのちを失った者が死の世界から生きる世界へ連れ戻された。愛する者は今ここにいる。見える姿で、触れることが出来る、話すことが出来る姿で、今、ここにいる。
死を超える命がある。生きるってすばらしい。
神様と会った。イエスと出会った。すばらしい。
神様のみ心を聞いた。神様からのいのちは消えない。
イエスによって神様のいのちが又注がれる。
四旬節第4主日A サムエル上16・1b、6-7,10-13a エフェソ5・8-14
ヨハネ9・1,6-9,13-17,34-38 20-3-22
「主に結ばれている。光の子として歩みなさい。」
主はサムエルに言われます。「ベツレヘムに住むエッサイのところに行きなさい。わたしはエッサイの息子たちの中に王となるべき者を見出した。その者に油を注ぎなさい。」
サムエルはエッサイのところに行きます。エッサイの息子たち7人がサムエルの前を通ります。サムエルは長男エリアブに目を留めた。容姿がよい、力強い体をしている、教養があるこの者が王となるのに違いない。
主は言われる。「王となるのはその者ではない。サムエル、お前は外観だけを見ている。わたしは心で見る。」 サムエルは7人を心静かに見つめた。相応しい者はいない。「これで全部ですか。」「末の子がいます。今、羊の番をしています。」 末の子が呼ばれた。サムエルはその子と出会った。神様はその子を選ばれた。
末っ子は父エッサイから見捨てられた子であったように思います。兄弟から離されて、羊飼いをさせられている。その子の名はダビデ。ダビデと言う名は「愛する子」と言う意味です。
神様は小さい者、弱い者を選ばれた。あなたは小さい者、弱い者です。いつまでも、へりくだる者でありなさい。主に支えられる、主の力によって歩むのです。神様によってみ心を行うこたが出来る。その心を忘れてはいけない。
イスラエル最初の王、サウルを思い起こしました。サウルはベニヤミン族出身です。ベニヤミン族は12部族のうち一番小さい部族です。今、強い国がイスラエルを攻撃しようとしている。民は王を求めた。王を与えてください。王によって一つにまとまる。強いイスラエルを求めたのです。
神様はべニアミン族のサウルを王としたのです。
生まれつき目の見えない人がいた。弟子たちがイエスに聞きます。「この人は目が不自由です。誰が罪を犯したのですか。本人ですか、両親ですか。」「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の愛がこの人に現れるためである。」
体の不自由な人がいる。かわいそうにと思ってしまう。「あの人はあんなに不自由だ。助けてやらなければいけない。」イエスは言われます。「その考えはやめなさい。可愛そうだ、不幸だと思う心をやめなさい。その皆の思いが、その人に、体の不自由さのために自分は悪い状態だと思わせるのではないですか。皆の心は、その人を下に置いている。心のどこかに、わたしにはあのような体の不自由さがない。良かったと思っているのではないですか。その人と対等につながるのです。互いに支え合う。出来ないことがあれば助け合う。その人が一番の兄弟ではないですか。
目の不自由なこの人は不自由さを苦しんでいる。その苦しみから解放したい。わたしはそのために来た。わたしは遣わされた方の心を行います、業を行います。 暗闇から解放されますように。
その人の目は開いた。「あなたの目はどのようにして開いたのか。」「イエスと言う方によって癒されました。」「安息日にあなたは癒された。安息日に業を行う、それは律法に適っていない。その人はわたしたちの神様のみ心のうちにいない。」
その人はイエスに会った。「あなたはやがて来られる人の子を信じるか。」「その方はどんな方ですか。」「神様が憐れみを注がれた方。神のみ心を持つ方。神のみ業を行う方です。人を包む方です。」「その方を信じたい。その方はどこにおられますか。」「あなたと今、話しています。」
三位一体の主日A 出エジプト34・4b-6,8-9 Ⅱコリント13・11-13 ヨハネ3・16-18 20-6-7
「神様は独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」
この世が汚れてしまっている。この世は欲求、欲望、快楽を得る場。裕福な生活を求める場になってしまっている。しかし、世は神様が造られた場です。神様は世を愛しておられる。世が変わってほしい。悪の世界から善の世界に戻ってほしい。わたしの思いの場、清い世界になってほしい。悪の世界では生き生きと生きる命が消えてしまう。命を喜ぶ、生きているいのちを喜ぶ善の世界に戻ってほしい。悪に入ってしまった世界を善へと戻す。悪の力から買い戻すのです。神様は独り子の血を代金とされた。神様の独り子のすべてが代金となったのです。世が救われるために。わたしたちはイエスによって、まことのいのちを知った。まことの愛を知った。まことの喜びを知った。まことの信仰を知ったのです。
今日は三位一体を思い起こします。父のみ心によって命を失ったイエスは何者ですか。イエスは神様です。父とイエスは、お二方は同じ神様なのですか。命を捨てさせた方と命を捨てた方が同じ神様なのですか。そうです。不思議ですね。 一緒に、三位一体を考えて行きましょう。
三位一体とは「父と子と聖霊」が一つだという事です。父と子が似ている、驚くほど似ているというのではありません。父と子が一つになるほどつながっているという事です。
似ているというのではない、父と子が全く一つであるという交わり、つながりです。
父がおられます。父はご自分の仕事を行います。子がおられます。子も自分の仕事を行います。父は父です。父は父の誇り、父の力、父の姿があります。子は子の清い、憐みの姿、子の力があります。父と子はつながっている。愛によってつながっているのです。
愛する:愛するとはその愛している方に力を尽くして手助けをするという事ではないかと思います。イエスはわたしたちに新しい掟を示されました。ある青年がイエスに尋ねます。
「永遠の命を得るために何をしたらいいのですか。」 イエスは答えられます。「心より律法を守りなさい。」 「わたしは小さい頃から律法を守るように教えられてきました。」 「あなたに欠けているものが一つある。もし、完全になりたいのなら、持っているものをすべて売り払い、貧しい人々に施しなさい。」(マタイ19・16-30 ルカ18・18-30)
律法のうちに生きるのは素晴らしい。しかし、律法は愛の現れではないですか。神様のみ心が律法となった。神様のみ心を知らなければ、律法は単に規則です。いや、厳格な規律です。
新しい掟:第一に全力、全心をもって神様を愛しなさい。第二に隣人を自分のように愛しなさい。
あなたを包むものを愛しなさい。自然を愛す。人を愛す。特に隣人を愛しなさい。隣人とは手助けがなければ生きて行けない人です。 愛とはその人とつながることです。その人の心のうちに入ることです。持っているものをその人のために使う。その人が生きるために使う。
人は愛するために生きるのです。生き生きと喜んで生きるのです。イエスは言われました。友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
三位一体、父と子と聖霊は愛のうちに一体です。いのちが一つ。心が一つ。憐れみが一つ。存在が一つです。父と子がどのように一つなのですか。聖霊によって一つです。聖霊は神様です。聖霊こそ愛です。子が父と一つ。その時、聖霊によって子の存在が父のもとに一つになります。聖霊が動く時、子が共に動きます。父が子に入る。聖霊によって父が子に入るのです。
子の言葉に中にいつも、聖霊と共に父が働いています。子の言葉は聖霊によって、父の心から出るものです。子だけが働くものではありません。父だけが働くものではありません。いつも聖霊のうちに父と子が働きます。愛のうちに父と子は聖霊によって一つである。
四旬節第3主日A Exo.17・3-7 Rom.5・1-2,5-8 John4・5-15,19b-26,40-42 20-3-15
奴隷に貶められていたイスラエルがエジプトから神の国へ旅立ちます。神の国でまことの平安、平和を知る、生きる喜びを知る、命の尊さを知る。すべてのものが生きている。動物、植物、人が生きている。空がある、地がある。生きる命、これこそ神様の恵み、贈り物ではないか。
主は言われる。あなたたちに地を与える。そこで神の国を造りなさい。すべての国の、すべての人の祝福の源となりなさい。
イスラエルは旅立った。神の国への道は荒れ地だった。なぜこんなに厳しいのか。年寄りを助けながら、子どもたちを助けながら歩く。敵が襲ってくる。武器を持って戦う。もう食べ物がない。飲み水がない。 民は渇いて仕方がない。ついにモーセに不平を言う。
「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしたちも子供も、家畜までも殺すためなのか。」
主は言われる。「生きるための水を与えなさい。」モーセは主の言われる通り、杖をもって岩を打つ。
創世記、天地創造を読みました。全く始め。何もない。しかし、形のない地がある、闇がある、そして水があるのです。第1日目に神様は光あれと言われた。神様のいのちの息吹、霊が光りとなって宇宙を満たした。第2日、水が大空の上、下に置かれます。大空から雨が降る。地を潤す。乾いた地が生きる。大空の下、地の下と言ってもよいでしょうか。水が湧き出る。井戸が出来る。泉が湧く。大地が潤され、木々が育つ。草が育ち、花が咲く。動物が食べ、水を飲み、生きる。人が食べ、飲み、生きる。水は生きるに欠かせないものです。 そうか、すべてのものは天の上から、地の下からから水に包まれている。水に支えられている。水を大切にしなければいけないなと思うのです。
イエスは旅の途中、サマリアのシカルという町に来られた。ユダヤ人とサマリアの人たちとは仲が悪い。イスラエルが南北に分かれた時、サマリアは北イスラエルであった。ユダヤ人は異教化したサマリアを軽蔑して、統一がなった時も、サマリア人たちがエルサレムの神殿に来るのを許さなかった。サマリアはゲルジム山に神殿を建設した。サマリア5書も編纂したようです。
イエスは井戸のそばに座っておられた。サマリアの女が水を汲みに来た。
「水を飲ませてください。」
「ユダヤ人のあなたがサマリアの女にどうして水を飲ませてほしいと頼むのですか。」
「もしあなたが、神様のまことの知恵を知っていたなら、水の大切さを知っていたなら、そして、わたしが何者であるかを知っていたなら、わたしはあなたに命の水を与えたでしょう。」
「あなたは水を汲むものを持っていない。何処からその生きた水を手にお入れになるのですか。」
「この井戸からの水を飲めば、また渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」
まことの神は霊ではないか。神様と出会いなさい。イエスはサマリアの女の人に難しい言い方をなさいます。『霊と真理をもって礼拝しなさい。』 自分を捨てなさい。自分に与えられているものは神様から与えられたもの。人の手伝いのための力ではないですか。全く神様の道具となる。自分のいのちはそのために命。神様によって命を授かった。自分のいのちは神様のもの。
「わたしはキリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。」
「それは、あなたと話しているこのわたしである。」 まことの水はいのちの水ではないか。わたしは命の水を与える。
エルサレムでイエスは大声で語ります。わたしは生きた水の流れです。わたしの水を飲む者はその人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。
イエスの水とは何ですか。霊と真理だと思います。
霊と真理とは何ですか。イエスの言葉です。語られる言葉以上に、イエスの姿が言葉です。イエスの言葉、行いが、イエスの生涯が言葉です。 イエスの中に入りなさい。イエスの水を飲みなさい。
四旬節第2主日A 創世記 12・1‐4a Ⅱテモテ1・8b‐10 マタイ17・1‐9 20‐3‐8
アブラムに心を留めたいと思います。
アブラム:父は高く上げられる。アブラムは信仰の父と呼ばれている。アブラムがまことの父と出会った。まことの神の道を歩んだ。アブラムによってイスラエルが始まった。
主はアブラムに言われたのです。あなたのすべてを捨てて、わたしの土地に住みなさい。あなたの住む土地をわたしの地にしなさい。あなたによってわたしの国が出来る。国と言っても領土を求めているのではありません。神様の心が行き渡る住みかです。
何も持たない者となる。神のみ心のうちに入る。神の国へと旅をする。
あぁ、そうか。わたしはアブラムの姿にイエスを思い浮かべたのです。
神を生きる。神を語る。神のみ心を行う。神の国へと導く。自分を捨てる。十字架の道を歩く。
神を生きるとはいのちを生きることです。 神を語るとは神に出会った、神のみ心が動いている、神の光が心と体に輝いている。神と共に歩いていることです。 神のみ心を行うとは喜びが心から体から溢れている、聞く者となる、そして語る。聞くことが語ることだと知る。
わたしたちはイエスと出会いました。パウロは言います。神の力の支えられて、「福音のために苦しみを忍んでください。」 福音のために苦しみを背負う。福音は命の喜び、皆が喜び合いながら生きることが出来る。皆が生きるために働き合う。福音はすべての人が救われる知らせではないでしょうか。 この世は力の強い人の思い行いの世界です。欲のまま生きる。力のまま生きる。だから、力のない人、弱い人は生きることが出来ない。特に体の不自由な人の苦しみはほっておかれる。神様のみ心のまま考え、行いましょう。福音を行いましょう。しかし、福音に反対する人が力を振るっているのです。 いのちのために働く。生活を脅かされている人たちのために働く。
弟子たちはイエスと歩くことに誇りを持っていました。イエスは神を求める者の心を引き付けるものを持っている。人の力を越える力を持っている。このイスラエルはイエスによって新しい、強い国になる。その時、わたしたちは神の恐るべき力を見る。神によってイスラエルが生まれ変わる。
しかし、毎日の生活にそのような事は起こらない。イエスは人々を支配する道を歩んでいるのか。
イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登りました。山頂でイエスの姿が変わった。顔は太陽のように耀き、服は光りのように真っ白になった。ペトロ、ヤコブ、ヨハネはイエスの姿から目を離すことが出来ない。イエスのところにモーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っている。
モーセは律法を語る。エリヤはまことの預言者。イエスによってまことの律法、まことの預言が完成される。 ペトロ、ヤコブ、ヨハネは天の国の出来事を見た。
ペトロは興奮してしまったのでしょう。ペトロは叫ぶ。「わたしがここに仮小屋を三つ立てましょう。」
雲の中から主は言われる。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け。」
イエスはモーセ、エリヤと語り合っている。わたしたちの生活は神の内にある。
四旬節第1主日A 創世記2・7-9,3・1-7 ローマ5・12-19 マタイ4・1-11 20-3-1
神様は土に塵で人を形づくられました。土の人形の鼻に神様は命の息を吹き入れました。生きるものとなりなさい。人は神様のいのちに満たされ、生きる者となりました。神様はエデンの園を設け、その中に人を置かれました。 エデン:「歓喜」の意。神の国、主なる神の園。 人の生きる場を示されたのだと思います。人は生きる場所を持つ。生きる場とは安心の場ではないでしょうか。その園には見るからに好ましく、食べるの善いものをもたらす、あらゆる木が植えられていました。木は果物の実を結び、野菜、米麦等が豊かに実っていました。
蛇が娘に言いました。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
女は蛇に答えます。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。 でも、園の中央に生えている木の実だけは、食べてはいけないのです。触れてもいけない。死んではいけないから、と神様はおっしゃっていました。」
「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知る者となるのだ。」
女はその実を見た。きれいな形をしている。おいしそうにみえる。食べてほしいようにそそのかしている。女はその実を取って食べた。一緒にいた男にも渡した。男も食べた。すると二人の目は開かれ、自分たちが裸である事を知ったのです。 自分の裸を隠す知識の衣もない、力の衣もない、自分を誇ることが出来る者が何もない事を知ったのです。
人の思い、行いが人の歴史を作って行きます。エデンの園から追われた人は神様のみ心、み言葉が耳に入らなかった。数多くの預言者が世に送られました。預言者は神様の言葉を語ります。そのために王から追放され、人々から苦しめられ、殺されまさした。
神様はご自分の姿を示そうとされました。ご自分が神を語る。神の国を語る。平和を、平安を、慰めを、清さを、そして、恵みを語り、憐れみをおこなわれたのです。病気を癒す、悪霊を追い出されたのです。
ヨハネがユダヤの荒れ地で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。
そして、天の国の道を行くものに洗礼を授けている。イエスはヨハネから洗礼を受けた。
その時、イエスに聖霊が注がれた。イエスは洗礼の恵みで心と体が神の霊に満たされた。
神様はイエスに言われる。荒れ地に行きなさい。あなたは神の力を持っている。しかし、あなたはまことの人である。人として生きるのです。人に出会う、人と交わるのです。人の小ささを知りなさい。人の弱さを知りなさい。心と体によって知りなさい。
40日間、昼も夜も断食する。少しでもいいから食べたい、腹を満たしたい、食べない、断食の苦しみを知ります。「食べたいだろう? 神の子なら、この石がパンになるよう命じたらどうだ。神の子が腹が減って苦しむことなんてないんだよ。」 「人はパンだけで生きるものではない。人は神様のみ心によって生きるのである。」
悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言われた。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。地に打ち当たらないだろうよ。打ち当たる前に天使たちが支える。あなたは神の子だから。」「あなたは神を試してはならないとも書いてある。」
悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、すべての国々とその繁栄ぶりを見せて言う。「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう。」「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」
四旬節に入りました。イエスの受難を思います。イエスに苦しみを与えているのはわたしたちではないですか。今、わたしたちは苦しみの道を歩むイエスを見ます。イエスは言われます。一緒にこの道を歩もう。歩く道の中で、苦しみを与えている自分がいる事を知る。自分を捨てる、神様はそれを求めておられる。その厳しさを知る。
物から離れなさい。名誉から離れなさい。力から離れなさい。知識から、経験から、自意識から、善い姿であろうとする誘惑から離れなさい。
四旬節、自分の信仰を見つめて行きます。
灰の水曜日 ヨエル2・12-18 Ⅱコリント5・20-6・2 マタイ6・1-6,16-18 20-2-26
善い行いをしなければいけない。施しをしなければいけない。祈らなければ、断食しなければいけない。それがわたしたちの世界ですか。その生活の中にいなければいけないのですか。
善い行い:それは一緒に生きる喜びです。善い事がたくさんあった方がいい。皆がほほ笑んで生きるのがいい。 施しをする:助けてほしいと叫んでいる人がいる。独りで苦しんでいる。その人が目の前にいたら、手伝う。自然と体が手伝う。
見てもらおうとして、善い事をするのですか? 人の褒められたいから、施しをするのですか?
祈る:祈りの世界を少し知りました。神様との心の出会いです。神様の前にいるわたしの全部との出会いです。自分との出会いです。ふと祈りたくなる。祈りの日々を作りたいと思ってしまう。黙想の日々を作りたい。祈りの世界はいい。それを人に見てもらおうとして祈るのですか? それはまことの祈りではない。ただ祈りたい。
断食する。今日、断食が求められています。断食で心と体の苦しみが与えられます。
食べ物:神様から与えられた恵みです。食べる、飲む、生きる力が与えられる。食生活が偏っていると言われる。楽しみだけで食べているのではないですか? しかし、収入がないからて食べられない。その人たちの苦しみを味わう。食べられることの幸いを思う。
わたしたちには生きる世界が与えられている。そして死の世界が与えられている。
今日、人のあるべき姿を考えるのだと思います。人の世を考える。人のいのちを考える。年間第7主日A レビ19・1-2,17-18 Ⅰコリント3・16-23 マタイ5・38-48 20-2-23
聖なる者になりなさい。聖なると言えば、神様の世界ではないですか。
心の中で兄弟を憎んではならない。自分を愛するように隣人を愛しなさい。人は皆、どんな人であろうとも、神様が造られた。出会う人と皆、兄弟のつながりが持てればいい。兄弟は自分にとって一番心の許せる人ではないですか。兄弟なんかいない。別々に生きている。この世は他人の集まりだ。他人と思っている、しかし、支えられなければ人は生きて行けないのです。もう一度言います。人はどんな人であろうとも、神様が造られた。父はお一人。兄弟が他人のようになってはならない。
隣人、助けがなければ生きることが出来ない。食べることが、飲むことが出来ない。歩けない、手を動かせない。隣人とは一人では生きることが出来ない人です。隣人が兄弟である。兄弟が生きる。その手伝いができればいい。その手伝いをしなさい。その世界がわたしの世界であると主は言われるのです。隣人にとって必要なもの、神様が用意されたもの、それはあなたではないですか。
聖なる世界はきっと愛の世界です。いのちの世界。生きる。あなたは一人で生きるのではない。むしろ、あなたは隣人の手伝いをするわたしの道具です。あなたの生きる力は隣人の手伝いをする力となるのです。
愛するとは一緒に生きることです。神様から命を注がれ、わたしたちは生きるものとなった。生きる、強く生きなさい。あなたに必要なものは全部あります。神様の愛の内にわたしたちは生きています。 そして、しかし、神様はもっと大きい愛をわたしたちに注がれました。それは、わたしはあなたの内に住みたい。あなたの中に生きたい。だから、あなたは神殿になってほしい。
神殿、神様のみ心の場です。わたしたちが神様のみ心のまま語る、動くようになるため神様がわたしたちの中に入られるのです。わたしたち一人一人の中に入られる。み言葉が心の中に入るのですか。いや、み言葉より強いもの、神様の体がわたしたちの中に、わたしの体に入る。わたしたちは神様の体、ご聖体を食べる。心と体で神様を受け取るのです。わたしはあなたの中に入る。わたしはあなたの中に住む。
イエスは厳しく言われます。 「あなた方の天の父が完全であられるように、あなた方も完全な者となりなさい。」 神様の律法を、心をもって守りなさい。あなた方は少し誤解して考えているようです。
「目には目を、歯には歯を」とは目をつぶされたら、相手の目をつぶす権利が生じる。歯を壊されたら、相手の歯を同じように壊すことが出来ると考えている。そのように受け取っていました。この律法の心はもっと大きいのです。目をつぶされたら、その怒りがどんなに大きくても、相手の目をつぶすだけで終わらせなさい。歯についても同じように思うのです。
王子様が喧嘩をして腕を折られた。それを聞いた大王は激しく怒った。わたしを、王を王子を侮辱している。その者を捕えよ。その者と連なる者を牢に入れよ。その者の首を打て。 その判断は律法に適っていない。
聖なる者、愛する者になる。悪人に手向かってはいけない。
「隣人を愛し、敵を憎め」 敵を愛しなさい。自分を憎み、苦しめている者のために祈りなさい。悪人と戦ってはいけない。悪の心と戦う。それは、その悪の心を受け入れる大きさを持つ事です。悪人とつながる。殴られたら、殴らせなさい。その者の気分が住むまで殴らせなさい。あなたはそれだけ強くなりなさいと言われているように思います。敵も、自分の苦しめている者も神様が愛され、この世に送った兄弟ではないですか。敵を包み込むような大きな心を持つ、それが神様の望みではないでしょうか。悪のために、人の原罪による罪のために命を捨てた方がまことの律法を示されているのです。
完全な者となりなさい。人が人であるその小ささ、弱さのうちにいきる。十分に生きる。それが完全な人の姿です。 兄弟の一人として、神様の道具として生きることが出来ますように。
年間第6主日A シラ15・15-20 Ⅰコリント2・6-10 マタイ5・17-37 20-2-16
安息日、会堂で手の萎えた人を癒した。それを目の前で見ていたファリサイ派の人々はイエスをどのように殺そうかと相談した。(マタイ12・3-)
安息日、イエスは会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、イエスはそばに行き、手を取って起こされた。熱は去り、彼女は癒された。夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのところに連れて来た。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちを癒し、悪霊を追い出した。(マルコ1・29-34)
人々はイエスに出会った。イエスは苦しんでいる人を癒された。悲しんでいる人は慰められた。
イエスは毎日、町に出て、神様を語った。父さんが子供に語るように話された。そして言われるのです。自分が得をしようと思いながら生きてはいけない。むしろ損をしなさい。困っている人に出会ったら、その人のために与えなさい。損をしなさい。また、イエスは病の人を癒された。
イエスは律法を守らない預言者だと言われている。しかし、イエスは言う。わたしは律法や預言者を廃止するために来たのではない。律法、預言者を完成するために来たのだ。律法は神様の心、 預言者は神様のみ言葉を語る者ではないか。律法の心に入ろう、預言者の教えを心に留めよう。
しかし気をつけなければいけない、まことの律法は文字によるものではない。律法を守るとは、神様のみ心が心に刻まれることではないか。律法を守るとは神様のみ心のままに生きることではないか。
イエスは義について語ります。あなたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、まことの律法のうちにいない。義とは神様への全くの従順です。神様のみ心、神様のいのち、神様の憐れみ、慈しみ、神様の愛への従順です。自分の考えを超える従順、自分の命を超える従順です。律法学者やファリサイ派の人々の義は、この時はこの様にする、これはこの様に対処する、先達の預言者の教えを思い起こし、行う―義を規則のように考えているのではないですか? そんなのは義ではない。義は神様の愛への答えではないですか。精一杯その人のために働く、心をかける、時間をかける、物を提供することではないですか。
律法が善と悪を判断する。律法のうちにその人の善を認め、悪を非難するのですか。悪とされた人を排除する。 憐れみはどこにあるのですか。律法が神様のみ心ならば、悪を行う人とつながろうとする思いではないですか。 神様は言われています。わたしは悪を行う人が滅びるのを望まない。回心してわたしのもとに戻りなさい。(エゼキエル18・21-32)
律法は厳しい罰を求めています。その罰は自分に求められていると考えたらいい。誘惑のうちに目が悪いものをを見てしまう。この手が悪い事をしてしまう。暴力を振るってしまう。口が暴言を吐く。人の噂を語る、人の悪口を言ってしまう。目をえぐり取りなさい、手を切り取りなさい、語るのをやめなさい。神様は悪に厳しい。厳しさは自分に向けられている。父さんが子に叱るのです。父さんの愛を知っています。けれど、何度言っても聞かない。こんな厳しい罰を与えると宣言するのです。
神様の愛のうちに生きる。そんな罰を受けても神様のうちに生きる。そんな心を持ちたいと思います。
灰の水曜日が近づいてきました。四旬節の出発です。灰の水曜日には断食します。決まりで断食するのではない。食べ物に恵まれている事を体で感じるのです。自分が生きている、支えられて生きている。食べられない人がいる。食べていない人が教会に来るのです。この教会にはそういう人が来ませんが、浅草に近い教会にいた時には、半日歩いてきた、金がないから食べていない、金が欲しい、食べ物がほしいという人がいました。食事を作ります。おかずを添えて出します。
外国では子供が働いている。食べるために働いている。珍しい事ではない。そんなことをよく聞きます。 今の生活を見直す。断食しなさい、断食してほしい、その心を受け取ってほしいと言われるのです。
飢えている人に心を配る、苦しめられている人の願いを満たそう。
あなた方は幸いです。あなたがたは神様のみ心のうちにいる。
あなたがたは地の塩である。塩にはどんな力があるのか調べました。塩の力はすごい。魚などを塩漬けにする。腐らない。塩のような友情、塩のような契約。決して変わらない友情、契約。ある箇所に、穀物を献げものとするために塩をかけなさいと記されている。(レビ2・13)悪い水に塩を投げ込む。この水が清くなる。(列王下2・20-21)幼児を塩で清める。(エゼキエル16・4)
そして塩は調味料(コロサイ4・6)塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。
わたしたちが塩になる。話す言葉に落ち着きがある、信頼される、静けさがある、優しさがあり、明るい、その言葉に慰めに響きがある。そんな心の言葉が語られたらいい。言葉に温かさがなかったら、その人とつながりが生まれるでしょうか。
世の光となりなさい。夜、車で山道を走る。車の光しかない。注意しながら、ゆっくりと走るのです。 道に出る。家が見えてくる。車が走っている。光は安心です。みんなの中に入っている。
夜、山の頂上に着く。そんなに高い山ではないけれど、下に家々の明かりが見える。光りの中にいる。高速道路を走っている。夜、反対車線。車の明かりがどんどん走ってくる。そして、周りのビルが光に輝いている。実は、都会の賑やかさはよいと思っていない。都会は人の欲で、ネオンで、賑わっている。都会の光は欲の塊だと思っている。しかし、高速で千葉に帰る時、夜の景色はすばらしいのです。海に映える光がある。おかしいと思っても素晴らしのです。
温かい言葉は小さな光です。元気付ける言葉が、慰めの言葉が小さな光となってその人の心に入って来る。
「あなたの光を人々の前に輝かしなさい。」
心の光が言葉となったらいいのです。
思う、行う、語る、それは、みんな心の光ではないでしょうか。
地の塩となります。
主の奉献 マラキ3・1-4 ヘブライ2・14-18 ルカ2・22-40 2020-2-2
ヨセフ、マリアは神様と出会った。いつも祈りのうちに会っている。感謝のうちに会っている。いえ、ヨセフ、マリアは神様に出会った。見えるものとして、聞こえるものとして神様と出会ったのです。そして、赤ちゃんとしてこの子が与えられた。喜びです。赤ちゃんが生まれた。聖霊の恵みが、神様の喜びがわたしたちに与えられた。
聖霊がマリアに降り、いと高き方の力がマリアを包んだ。生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。ヨセフとマリアは生まれた子イエスを献げるためにエルサレムに来た。(ルカ1・26-)
初めての子を主に献げるためです。
「すべての初子を聖別してわたしに献げよ。イスラエルの人々の間で、初めに胎を開くものはすべて人であれ、家畜であれ、わたしのものである。」(出エジプト13・2,12)
神様がわたしたちの世に来られた。見える体、肉をもって血によって生きる。
イエスはまことの神様です。イエスはまことの人です。しかし、人の子イエスは肉の思い、肉の欲求によってによって自由ではない。なぜ神の子イエスは小さな者、弱い者としてとしてこの世に来られたのですか。それは血と肉によって血と肉を超えるためです。
自分が生きたい、生きる欲求を超える。好悪を超える。肉の欲求を超えるためです。肉は快感を与える。自分に快感が与えられる。苦しむのは嫌だ。貧しいのは嫌だ。食べ物がない、水がない。そんな不自由は嫌だ。 わたしたちは自分が生きたい。肉の欲求のうちにいる。これらはすべて悪の誘惑です。血を超えて、肉を超えて死の恐怖から解放する。いのちは神様のもの。神様のいのちを喜ぶのです。
イエスは血と肉のすべての試練を受け取りました。苦しみました。人の体をもって神様の道を歩んだのです。血と肉の苦しみを超えられた。その苦しみを知っている、人の小ささ、弱さを知っている。
だから今、試練を受けている人たちを助けることが出来るのはないでしょうか。
ヨセフとマリアはイエスを神様に献げる。これは大きな喜び、これは感謝の心です。
シメオンはマリアの胸に抱かれている赤ちゃんを見た。その子を抱き上げ、神を讃えて言った。
「主よ、わたしはあなたの救いをこの目で見た。異邦人を照らす掲示の光。あなたの民イスラエルの誉れです。この子はイスラエルの多くの人を倒したり、立ち上がらせたりするために定められた者です。また反対を受けるしるしとして定められています。」
ついこの間、わたしたちはイエスの誕生を祝いました。神様の不思議な神秘を思い、心が喜びで満たされました。みんながイエスの誕生を知った。みんな喜んだ。でも、その驚き、喜びを、もう忘れてしまっていませんかと問われていると思います。
今日イエスの奉献を祝います。おかしな話になってしまいますが、神様と出会い、神様の思いを知った、イエスが自分の中に生まれた。自分を神様に奉献する、神様に向かって歩き始める。
その決心を祝う。そんなように思うのはどうでしょうか。
主の洗礼A イザヤ42・1-4,6-7 使徒言行録10・34-38 マタイ3・13-17 20-1-12
ヨハネがユダヤの荒れ野で悔い改めの洗礼を授けている。
人々は力強い預言者の言葉を聞いた。洗礼という儀式によって悔い改めることが出来る。罪が赦される。多くの人がヨハネのもとに集まった。ヨハネは言う。罪を告白し、悔い改めにふさわしい実を結べ。ヨハネの言葉が人々の心に突き刺さった。
イエスがヨハネのもとに来た。大勢の人の中で列に並び、順番を待っている。イエスの番が回って来た。ヨハネの前にイエスがいる。ヨハネは言う。「わたしこそあなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたがわたしのところに来たのですか。」「今は止めないでほしい。わたしの出発です。洗礼を授けて下さい。正しい事をするのは我々にふさわしい事です。」
洗礼:Baptism洗礼は水の中に身を沈めることです。水の中に身を沈める。水の中で今までの自分が死ぬ。水が今までの自分の罪を拭い去ってくれる。そして、命の水によって新しい命を得る。新しい自分が神様への道を歩む。
洗礼によって ①すべての罪が赦される。 ②教会の一員となる。 ③神の子となる。 そんなことを教わった。
主が洗礼を受けると聞いた時、何でかなと思ったのです。主は神様です。罪がない。赦されなくてもいい。神の子となる。主こそ神の子です。
イエスはまことの神様、そしてまことの人です。イエスはヨハネのもとに集まる人々の中の一人となった。洗礼を受けるために並びます。ヨハネによって水に入ります。水から出ます。皆と一緒に歩きはじめるのです。 洗礼は出発の宣言です。イエスには大きな世界が与えられている。しかし、その道を歩いて入って行かなければ新しい世界はないのです。洗礼は、人として信仰の道を歩む宣言です。
自分の洗礼を思い出してみたいと思います。洗礼を受けた時、心が躍った。新しい世界に入る。もっと祈ろうと思った。もっと聖書を読もうと思った。洗礼は信仰の道の出発です。今、信仰の道を歩んでいますか。 ①罪が赦される。 自分の欲求に負けてしまう。また罪のうちにいる。自分を静かに、ゆっくり見つめます。 ②教会に一員となる。 教会が生きている。教会は一人一人が働かなければ眠ってしまう。与える者になります。 教会はキリストの体。キリストの体の一部となる。何も出来ないわたしがキリストの一部となるのですか。出来そこないでも神の子。頭の部分になれないかも知れない。足の小指になれるかなと思う。足の小指と馬鹿にしても、足の小指が傷ついて痛くなれば、起き上がれなくなってしまう。キリストの体の一部であることを感謝します。 ③神の子となる。 神様のみ心を思い巡らす。父さんの声を聞く。人のために働きなさい。隣人を愛しなさい。自分の利益を求めない。聞きなさい。自分を主張するのではない、相手を受け入れなさい。出会う人と一緒に歩きなさい。わたしも神様のみ心のうちにいる、感謝します。
主が洗礼を受けられた。主は言われます。一緒に歩こう。一緒に喜ぼう。一緒に苦労しよう。一緒に泣こう。一緒に食べよう、飲もう。静けさを味わおう。 一緒に祈ろう。
年間第3主日A イザヤ8・23b-9・3 Ⅰコリント1・10-13,17 マタイ4・12-23 20-1-26
イエスはヨハネがヘロデ王に捕えられたと聞いた。イエスとヨハネは幼い頃からの知り合いであった。 信仰を共にした友であった。ヨハネがユダヤの荒れ地で、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と叫んでいると宣べ伝えている事を知った。イエスはヨハネに会いに行く。そして、ヨハネから洗礼を受けたのです。お互いに人々を天の国に導こう。その様な心の結びつきがあったように思います。
ヨハネが捕らえられて牢獄にいると聞いた。ヨハネが王に、また社会的に力のある者たちに嫌われている、苦しめられていた。イエスは預言者が嫌われる姿を見たのです。
ヨハネはイエスについて言う。わたしより後から来られる方はわたしより優れておられる。わたしはあなたたちに水で洗礼を授けているが、その方は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
その時から、イエスはカファルナウムに住み、宣教を始めるのです。
「悔い改めよ。天の国は近づいた。」
イエスはガリラヤ湖畔を歩きます。そして、ペトロ、アンデレ兄弟に声をかけられます。
「わたしについて来なさい。人間を取る漁師にしよう。」
また別の兄弟ヤコブ、ヨハネに出会った。彼らを呼ばれた。
宣教: 出会いに行きなさい。自然と出会う。人と出会う。自然の力を知る。生きている。自然は輝いて生きています。その力を受け止めなさい。人と出会う。心で語り合う。その人たちとつながって行く。命の尊さ、愛の尊さを教えるのではない。いのちが今働いている。愛の温かさを感じる。自分の中に働いているいのち、愛を心で感じるのです。いのち、愛を知るのです。
出発は歩くことです。出会うことです。ヨハネは荒れ地に歩いた。荒れ地で語り始めた。イエスは人々に声をかけた。「わたしについて来なさい。一緒に歩きましょう。」
祈ります。黙想します。そして歩きます。出会います。
出会うために歩く。聞くために出会う。そして少し語ります。
わたしたちは、祈る時、十字架のしるしをします。十字架を超えて、十字架を通って神様と出会う。
自然と出会っていますか、人と出会っていますか、荷物を背負って歩いていますか。
主の公現 イザヤ60・1-6 エフェソ 3・2,3b,5-6 マタイ2・1-12 20-1-5
聖堂に入って来た時、香の匂いがします。この匂いは何ですかと聞きました。東方の三人の博士が幼子に贈り物をささげた、その香を記念したのですという。何か嬉しい心持になりました。
主の公現:主の思いが、王の思いが皆の前に顕わにされたことを祝います。
わたしたちのこの世界は主の思いが形になっているのです。天地万物が命を与えられ、生きている。主によって動いている。今、わたしたちは主を忘れている。洗礼を受けた。主と出会った。
今、あなたは主の道を歩んでいますかと問われているのです。
「ベツレヘムから指導者が生まれ、イスラエルの牧者となる。」
夜なべをして羊の番をしていた羊飼いたちに主の天使が訪れた。いつも神様に心を向けている者たちあなたたちに喜びの出来事を告げよう。今夜ベツレヘムに救い主がお生まれになった。イスラエルの王の誕生である。出会いに行きなさい。羊飼いたちは心が躍った。さあ、行こう。道案内は星、唯一つ。家畜小屋に着いた。入った。父よ、母マリアがいた。飼い葉桶に乳飲み子がいた。乳飲み子を見た。跪いた。礼拝した。
東の方から占星術の学者たちがベツレヘムにたどり着いた。ユダヤの王となる方を拝みに来た。その方に会いたい。神様の恵がわたしたちに知らされた。その方に会いに来た。神様からの知識が希望となった。見えるものとなった。
信仰の心を持つ者。立ち上がれ、光を放て。信心が信仰となる。心を開いて、立ち上がり、自然と、人と出会いなさい。神様を語る。神様のみ心を行う。神様を語る人に、神様のみ心を行う人に光が注がれる。闇が社会を包んでいる。暗黒が国を包んでいる。しかし、あなたは光のうちにいる。闇は、暗黒は光に照らされる。あなたの光を見る。皆、あなたの光を求めている。神様を求めている。神様のみ心を求めている。あなたは喜びに輝き、心が晴れやかになる。人々は光の優しさ、喜びを受け止め、光の温かさに平安を味わう。
今日、主の公現を祝います。神様のみ心がわたしたちの目の前で起こった。わたしたちはそれを見た。主の誕生。
主は言われる。一緒に歩こう。えっ、主は赤ちゃん。支えながら歩く。与えながら歩く。そうか、体の不自由な人たち。与えながら歩く。一緒に歩く。
主が神様の道を導く。一緒に生活をしよう。一緒に見よう。一緒に考えよう。一緒に喜んで、一緒に苦労しよう。
神の母マリア 民数記6・22-27 ガラテヤ4・4-7 ルカ2・16-21 20-1-1
家畜小屋の戸が勢いよく開いた。そこは静かな部屋。羊飼いたちは静かに入って来た。羊飼いたちはヨセフ、マリアを見た。飼い葉桶の幼子を見た。飼い葉桶の幼子を見ると羊飼いたちは跪いて、祈った。そして、天使が訪れてくれたこと。天使の語ってくれたことを話した。そこにいた人たちは羊飼いの不思議な話を聞いていた。そして、おかしな話をするのものだと思ったのです。
この人たちは羊飼いだからと言ってまっとうに聞いていなかったのかも知れない。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。
これらの出来事:マリアは、わたしは天使ガブリエルと出会った。天使ガブリエルは言う。神様の祝福、恵みが与えられた。男の子を身ごもります。この子の名をイエスと名付けなさい。イエスは永遠にイスラエルを治めその支配は終わることがない。天使は親戚のエリザベトも身ごもっているという。そして、わたしは主人の生まれ故郷ベツレヘムに来た。ベツレヘムはダビデ王の出身地でもある。そして、今日、今、羊飼いたちと出会った。羊飼いたちは天使と出会ったという。
わたしたちは神様のみ旨のうちにいる。
イエスのお母さんマリアの出来事を思い起こします。そして、今日、平和について考えます。今日は世界平和の日です。
平和:平和は皆が喜んで生きることです。力のない人も、体の不自由な人も、人の助けがなければ生きて行けない人も、みんな生きる。男も、女も、大人も子供も生きる。どのような文化、文明を持っていても、皆が仲間。生きよう。 平和は生きること、平和は皆が与える者になる事です。
こんなことを考えてみました。隣のお母さんたちが集まって、話をしている。お茶を飲んでいる。何の益もない。それが平和の一コマだと思います。無駄なこと。隣の家に行って、近所の人とお茶を飲む。ささやかな憩いの時がある。誰しもが憩いの時を持てたらいい。その時が一番の幸せ。
母の子供の時、青春時代は奉公の生活だった。12歳からただ働く。休みがない。結婚して、母として働く。時代が変わった。子供が皆成人になった。年が60近くになっている。隣のお母さんからお茶に呼ばれた。母にしてはこんなことは考えたことがなかった。何の益もない、無駄な時間だ。父は定年で家にいる。何もすることがない。母さんがいない。お茶を飲んでいるのか。呼んで来い。平和は無駄な時間を持てることではないかと思うのです。
無駄なことはいけない。純粋に突き進みなさい。しかし、それはその人たちの心の豊かさを、心の温かさを、心の余裕を壊すのではないかと思います。一緒にいると疲れてしまいます。
ゆったりと過ごす。静かに過ごす。相手が見える。相手の心を聞くことが出来る。一緒にいることが出来る。平和は一緒にいることです。
マリアはお母さん:マリアはイエスのお母さん、そして、わたしたちみんなのお母さんです。
お母さんにとって子供は宝物です。子供はみんな宝物です。みんな受け入れます。みんなが良い子であったらいい。でも、意地悪な子がいる。いう事をちっとも聞かない子がいる。悪い事をする子がいる。体の、心の不自由な子がいる。体が不自由で、心が不自由で何も出来ない子がいる。お母さんは悪い子が気になる。意地悪な子が気になる。反抗ばかりする子が気になるのです。子供はみんな母さんの子。だから嫌いにはならない。そんな子でも母さんの子です。
平和はみんなとつながっている事だと思います。
世界平和の日。平和のために働いていますか。与える者になっていますか。
平和は自分たちで作って行くものだと思います。
聖家族A シラ3・2-6,12-14 コロサイ3・12-21 マタイ2・13-15,19-23 19-12-29
家族―父さん、母さんそして兄弟がいる。そして家がある。みんな一緒に住んでいる。家族とは不思議です。一緒だから安心、一緒だから自由。家族の本当は、家族があるから自分がいるのです。父さん母さんが家族の柱。兄弟が家族を作っている。そんな風に考えました。
父さん、母さんを大切にしなさい。父さん、母さんは今までの人生を生きて来た。神様への道を歩いている―神様を知らない人は言います。人の道を歩いている。子供は、父さん母さんから歩くことを教えられた。ご飯を食べる事、箸を持つことを教えられた。おいしいもの、嫌いなもの教えてもらっているのです。喜び、悲しみ、怒りを父さん、母さんから学んでいる。全部父さん、母さんから教えられている。 父さん、母さんであるわたしたちは何気なく家庭生活を送っているのですか。
子供たちは父さん、母さんの生活の姿を見ている。じっと見ている。父さん、母さんの姿しか目に入らない。出来事を言葉で聞くのではない、心の耳で聞いている。心の目で見ている。子供たちは心と体で父さん、母さんの姿を受け止めているのです。
「年を取るにつれてお宅の息子さんはますますお父さんに似てくるね」と言われる。息子は言います。「特に父さんの真似をしようと思ったことなんかないよ。」
父さん、母さん神様を大切にしてほしい。祈りを大切にしてほしい。子供たちが父さん、母さんの大切にしている心を受け取るからです。祈りが身に着く。
両親を大切にする。「何から何まで、全部、父さん、母さんのいうことを聞くのですか。奴隷のようではないですか。」 「そう。父さん、母さんを大切にするために奴隷のように働いたらいい。あなたは今、自分を持っている。人とは何かを考えている。だからこそ、年老いた父さん、母さんのために働いたらいいのです。」 主は父親、母親の対するあなたの心遣いを忘れない。
ベツレヘムでマリアは男の子を生んだ。何日もたたないうちに天使はヨセフに現れて、言った。
「ヘロデがこの子を殺そうとしている。エジプトに逃げ。わたしが伝えるまでそこに留まっていなさい。」 夜だった。 ヨセフはマリアとその子を連れて、夜のうちに旅立った。ヨセフの言葉にマリアは子を連れて、夜、出発するのです。マリアは静かに従います。一緒に歩く。マリアの従順を見ます。 そして、ヘロデが死ぬと天使はヨセフに言います。「ここエジプトからイスラエルの地に行きなさい。ヘロデは死んでしまいました。」 ヨセフは起きて、マリアと子を連れてイスラエルの地に帰ります。イスラエル、ガリラヤの地、ナザレに帰ったのです。
ヨセフの歩いた道は子イエスの生きるための道です。 エジプトに行った。エジプトに難民として行った。エジプトで言葉が十分に話せない。どの様に住むか。食べ物、飲み物を心配する。お付き合いの苦労がある。安全を考える。そしてついに、エジプトからイスラエルに帰ることが出来た。
しかし、イエスは家庭の中にいた。いつも、マリアの胸の中、温かさの中にいた。父さん、母さんの微笑みの中にいた。食べた、飲んだ。安心の中にいた。
聖家族:温かさの家族です。安心がある、心がつながっている、思いやりがある。祈りを忘れない。
神様のうちに歩む。苦労の連続です。危険の連続です。しかし、一日一日を感謝する。
父さん、母さんに感謝します。子供たち、ありがとう。支えられて生きて来た。支えて生きて来た。
一緒にいる。一緒に生きて来た。
主の誕生(日中のミサ) イザヤ52・7-10 ヘブライ1・1-6 ヨハネ1・1-18 19-12・25
初めに言があった。
本当に昔の話なんですが、今から55年ぐらい前です、慶応大学の講座で、初歩の哲学講座を聞きに行きました。言葉について語られたのです。その話を聞く、面白い。驚きながら、面白いのです。先生は語られます。言葉は頭の中にある。文字にして見える言葉、語って、聞く、言葉は道具にしか過ぎない。文字にできる言葉、語る言葉は道具です。頭の中の働きの道具です。心が、思い、考えが本当の言葉ですよと言われた気がしました。わたしは哲学を勉強しなかったので詳しい事は分かりませんが、その講座は今でも忘れません。
わたしは言葉に興味を持っています。
「初め言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。」
この字句を読んだ時、神様の思いが万物を造られたのだ、万物は神様の思いのうちにあると思ったのです。神様の思いが光となった。神様の思いが命と生む。万物は命のうちに生きると思ったのです。万物は光のうちにある。そして神様の思いのうちに、神様のいのち、神様の光に人の身体が与えられた。その、人の身体を持つ者は神様のいのちを持つ。神様の姿のうちにいる。 そんな風に考えが拡がって行きました。 そしてその方がイエス様です。(イエスの名の意味は主は救いです。) 主は肉となって、わたしたちの間に宿られた。(1・14)
「今、わたしはあなた方にしるしを与える。」 神様の不思議がわたしたちのしるしとして与えられている。それが神の愛する独り子イエス。イエスは救い、イエス様が来られる。赤ちゃんとして来られる。今日、今日がイエス、わたしたちの主イエス様の誕生日です。
本当に不思議。何でも持っている、何でも出来る万物の造り主が何も持っていない、何も出来ない赤ちゃんとしてわたしたちの中に住んだのです。父さん、母さんがいなければ生きて行けない。人に助けられなければ生きて行けない。神様が人に助けを求めている。
あっ、そうか。イエスのたとえ話を思い出したのです。 畑に宝の箱が隠されている。その畑のすばらしい土地を知った人はその土地を買い、その畑を熱心に耕します。熱心に木々を植え、花を植えます。植えれば植える程、見事に育って行く。
パン粉が与えられた。パン粉に水を入れる。パン種を入れる。捏ねます。一所懸命捏ねる。そして、パンの形を作る。しばらく置いて、パンを焼く。パンが出来上がる。食べればおいしい。
畑もパン粉も何もしなければ、ただの雑草の土地、捨てられる粉です。
赤ちゃんが与えらえた。赤ちゃんのために、神様のために働きなさい。神様の道具となって働きなさい。神様が赤ちゃん、そこにはそんな不思議があったんだと悟ります。
今日、赤ちゃんイエスの誕生日。
待降節第4主日A イザヤ7・10-14 ローマ1・1-7 マタイ1・18-24 19-12-22
イスラエルのナザレの出来事です。
ヨセフにはマリアという許嫁がいました。マリアは13,4歳の女の子です。
ヨセフのお父さん、お母さんは言っています。お前の許嫁のマリアはお祈りが好きな女の子だよ。父さん、母さんのいうことをよく聞く、よく働く、思いやりのある、明るい子だよ。いい家庭が出来るね
しかし突然、マリアは結婚する前に身ごもっていることが明らかになりました。
ヨセフの父さん、母さんもそれを聞いてびっくりしました。
マリアは言います。この子は神様の思いのうちに宿った子です。
ヨセフはそれを聞いて納得がゆきません。マリアは自分のその信仰のうちに歩めばいい。わたしはそれを受け入れることが出来ない。わたしは自分の信仰の道を行く。ヨセフは正しい人であった。律法に忠実であったのです。ヨセフの心は優しかった。ヨセフはマリアのこの出来事が公になると、マリアは責められるのではないかと危惧したのです。相手が誰だか分からない。その人の名を告げられないと言えば、結婚できない不貞な行いだとされる。また、相手は神様だと言えば、神様の恵だと言えば、神を冒瀆する者とされる。
この出来事は忘れよう。マリアと密かに縁を切ろうと思ったのです。
このように考えていると、主の天使がヨセフの夢に現れて言います。
「ダビデの子ヨセフ、恐れずにマリアを妻として迎え入れなさい。マリアは神様の子を生む。その子の名をイエス(主は救い)と名付けなさい。」
イエスは主は救いという意味です。そして、イエスはインマヌエル、インマヌエルは神は我らと共におられるという意味があります。イエスのうちに主の救いを見る。イエスと共にいる。
ヨセフはマリアを妻として迎え入れました。
マリアの思い:
「あなたは神の子を身ごもる。」「わたしは結婚していません。」「神様のみ心に従いなさい。」「わたしは主のはしためです。お言葉通りになりますように。」
マリアは神様のみ心にまことの律法と出会ったのです。文字になった律法を超える神様のみ心に出会った。神様のみ心がまことの律法。まことの律法に出会ったのです。マリアはそれに従ったのです。
ヨセフの思い:
「マリアは子を生もうとしている。マリアの出来事は律法に適っていない。わたしは律法に従って生きる。」 天使は言います。「マリアの出来事は神様のみ心によるものです。文字の律法から離れなさい。そうでなければ神様のみ心に反することになる。神様のみ心が律法の心ではないですか。」
「神様のみ心に従います。」
マリアもヨセフも文字による律法を超えて、信仰の道を歩んだのです。
待降節第3主日A イザヤ35-1-6a,10 ヤコブ5・7-10 マタイ11・2-11 19-12-15
ヨハネはヨルダン川沿いで叫ぶ。主のもとに帰りなさい。悔い改め、洗礼を受け、新しいいのちを得て、生きなさい。律法のうちに神様の道を歩みなさい。ヨハネの声は人々を力づけた。イスラエルを力づけた。 しかし、ヨハネはヘロデ王に言ったのです。ヘロデ、あなたは律法に反している。兄弟の嫁を奪ってはいけない。そして、ヨハネはヘロデ王に捕えられたのです。
ヨハネは牢にいる時、イエスの出来事を思い巡らしていた。
そして、弟子たちを送ってイエスに尋ねさせた。あなたはまことの「来るべき方」ですか。
イエスはヨハネの弟子たちに言われます。あなたたちの目で見たことをヨハネに語りなさい。
わたしの指によって天の国が始まっている。まさしく今、神様の力が働いている。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。 あなたたちにとってこの出来事は何ですか。神様の福音の出来事ではないですか。素直にこの出来事を喜びましょう。
イエスは人々に言われます。あなたたちは荒れ野に出かけた。何を探しに行ったのですか。
鮮やかな色をした花園ですか。レバノンに生えているような立派な杉の木ですか。しなやかに服装をした人ですか。いや、そうではない。あなたたちは荒れ野で語っている預言者に会いに行ったのではないですか。その人こそまことの預言者です。まことの預言者ヨハネについてこう言われている。 「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう」
ヨハネは偉大な預言者です。そして、ヨハネは新しい時代への架け橋となるのです。
天の国は今から始まる。ヨハネは天の国への約束の預言者です。
イエスはヨハネについて厳しく語ります。イエスとヨハネは親しかったからこそ厳しく語ったのではないかと思います。 イエスは言われます。ヨハネの教える「律法による信仰」は終わりを告げる。
すべての出来事は神様のみ心に沿って行われています。だから、あなたの日常の行い、振る舞いも、律法に沿って行いなさい。それがまことの信仰生活です。ヨハネは言います。あなたたちは神様を忘れている。律法を守ろうとしていない。悔い改めなさい。 律法によって天の国への道を歩みなさい。
イエスは言われるのです。律法を完全に行っても天の国に入ることはできない。律法に神様のみ心が見えないからだ。律法が神様のみ心ではない。律法を告げられた神様のみ心が律法なのだ。律法を行ったと言っても、神様のみ心を思わなければ律法を行ったことにはならない。
それはちょうど、学生が試験を受けるようなものだ。試験範囲が決められている。よい成績を取るために勉強する。 それは学問なのですか?学問は神様の造られたものを知るための勉強ではないですか。これを研究しなさいと言われる。これはこんな仕組によって出来ているのか。次第に深みに入って行く。勉強するすればするほど、研究すればするほど面白くなって行く。宇宙を考える。宇宙はこんな大きな世界か。考えられないほど大きい。この仕組みは何か。宇宙に時間はあるのかか。考えれば考える程、不思議、研究のしがいがある。神様の世界に入って行くのです。
試験に良い成績で通過しても天の国には入れません。勉強すればするほど、神様が見えなくなってしまいます。本当の勉強ではなくなってしまう。
二人の人が神殿に上った。一人はファリサイ派の人、もう一人は徴税人。ファリサイ派の人は立って、心の中で祈った。律法を十分守れて感謝します。神様の道を歩んでいます。一方、徴税人は遠く立って祈った。神様、罪人のわたしを憐れんでください。 神様はこの徴税人を義とされた。
(ルカ18・9-)
イエスは安息日に手の萎えた人を癒された。安息日に人を癒すのは律法に適っていない。イエスは言います。安息日に命を救うことは律法に適っていないのですか。(ルカ6・6-)
律法を守る。自分の道を正しく守る。神様の栄光は、神様の思いは人との出会いの中にあるのではないですか。出て行きなさい。人と出会いなさい。律法によって善悪の判断を知るのではない。神様の求めておられることを行う、それが律法ではないですか。自分の体でみ心を行う、それが律法の思いです。
律法の思いは、律法の目指すのは命の尊さです。
今ここに天の国の出発がある。それをしっかりと見つめなさい。
待降節第2主日A イザヤ11・1-10 ローマ15・4-9 マタイ3・1-12 19-12-8
ヨハネがヨルダン川に立ち、語り始めた。「悔い改めよ。天の国は近づいた」皆は預言者の姿を見た。預言者の言葉を聞いた。ヨハネのところに集まる。ヨハネは終末を告げるエリヤを思い起させる姿をしている。
神に希望を置く者よ、あなたたちの信仰はどこにあるのか。神の怒りは差し迫っている。
悔い改めよ:あなたの心を変えなさい。あなた自身を変えなさい。心を入れ変えると言っても、あなたがそこにいて、そこから見ている、考えているのなら、また元に戻ってしまいます。今そこにいるあたなたをやめなさい。その場所から引っ越しなさい。アブラハムが住まいを変えたように、モーセがエジプトから脱出したように、脱出して荒れ地を40年もの歩いたように、あなたの生活を全く変えなさい。 ヨハネは言います。今のあなたをやめなさい。水の中に沈む。命の水によってあなたの悪を拭い去ります。水の中で今までのあなたは死にます。そして、罪の消え去った新しいあなたが生まれる。わたしは水による洗礼を授けます。 悔い改める―今のあなたをやめなさい。そこからあなたは自分を見つめるのです。人を見るのです。神様を見るのです。
天の国は近づいた。 天の国は今あなたの前にある。天の国は神様の喜びの場です。すべてのものが生き生きと生きている、すべてのものが喜んで生きている。天の国に入ったら、空が青く、何処までも青くわたしたちを包んでいる。真っ白な雲が輝いている。緑に生きる山々が堂々としてそびえ立っている。川が流れる。命の水が流れている。花が咲く。木々が燃えている。光に満ちている。柔らかい光が包む。風が爽やかさを運んでくる。その国にいる者は思う。天の国を知らせたい。天の国へのを歩みなさい。天の国は動いている。だから動かなくては天の国は見えない。
天の国は目の前にある。見えない。悔い改めなければ見えない。今のあなたには見えない。
イエスは天の国にはどこにあるのか「たとえ」で教えられます。(マタイ13章参照)
天の国は畑です。その畑を見つけた。その畑には宝の箱が埋まっている。畑を耕しなさい。その畑は土がよい。そこは陽射しがよい。水の便が良い。どんな種でも蒔きなさい。植えなさい、働きなさい。あなたはたくさんの恵みを受ける。その穀物は、その果実は隣人に与えるものです。その人には天の国が見える。天の国への道を歩いている。そこから天の国は始まっている。
天の国は真珠のようなものです。その真珠はまことの光のうちに輝いている。真珠は何ミクロンかの層が何千、何万、何百万集まって光っている。まことの真珠を捜し求めている人には真珠の輝きが見える。自分の持っている全財産をささげてもそれを買う。何ミクロンの層は人の生きたいのち。人の喜び、人の苦しみ。人の命を見つめている人が真珠に出会う。真珠を見つめる、真珠の中に入って行くのです。
天の国は400リットルのパン粉にパン種を入れて水で捏ねている姿です。一生懸命捏ねる。パン粉に水が入る。パン種が混じる。パン粉に命の水が加わって、パン種の不思議が更に加わって、パンの形が出来上がる。しばらく置いて置く。そして焼く。ふっくらとしたパンが焼き上がる。
この全部が天の国の出来事です。働いている姿のうちに天の国は始まっている。
悔い改めなさい。心で思うだけではだめです。行いなさい。歩き始めなさい。
待降節第1主日A イザヤ2・1-5 ローマ13・11-14a マタイ24・37-44 19-12-1
11月25日教皇ミサに参加するために東京ドームに行きました。友人の神父と水道場で食事の約束をしていたので朝早く木更津を出ました。8時頃のバスで東京駅へ向かったのです。そしてついに、11時半ごろ入場しました。ミサは3時半からです。待ちました。4時間半も待ちました。待つ。教皇様を思いながら待ちました。その時、場内に歓声が上がりました。国旗の手旗が降られています。教皇様が白い車に乗って、入って来た。会場がどよめくほど歓声が上がっていました。
待つ。マリアを思い浮かべます。大天使ガブリエルがナザレの少女マリアを訪れます。マリアは神の子を宿ったことを知らされます。神様のお恵み。その時、エリザベトも身ごもって6ヶ月人っていると知らされます。子が産めないと苦しんでいた、悲しんでいたエリザベトが身ごもっている。マリアはエリザベトに会いたいと思った。会って、神様の恵みを喜びたい。マリアのエリザベトに会う旅は待つ心の旅です。 会った。喜びに包まれた。喜びが祈りとなった。
教皇は「王たるキリスト」を改めて思い起こさせてくださいました。まことの王はわたしたちが望んでいる王です。苦しみを知っている王、悲しみを知っている王、住む所がない人々が難民として受け入れてくれる国の王。人々が皆、喜んで生きる喜びを味わえるよう導かれる王。
わたしたちは今日、待降節に入りました。主がわたしたちのところへ来られる。人の住んでいるこの地に来られる。神様は、最早、預言者たちを通して語られるのではなく、ご自分が肉の体をもって、人の心をもって、わたしたちに直接語られるのです。神様がますます近づいて来られるのです。
ローマ書でパウロは語ります。今という時を特に大切にしましょう。今、眠りから覚めるべき時です。夜は更け、日は近づいたからです。終わりの日、救いの日が近づいたからです。
今、もう一度深く思い巡らす。自分にとって救いとは何か。自分の求める救いは何か。今からの信仰生活をどのように過ごすのか。
わたしたちの生活はマラソンをしているように思います。この社会が皆にマラソンを強いている。すべてのものを速く。正確に。速く正確に、それが楽しみになってくる。ゆっくりとする、間違ったりする。その者ははじかれてしまう。
神の子イエスの生活を思い浮かべたいと思います。イエスは常に言われます。
ゆっくり歩こう。間違ったら始めから出発しよう。