主の降誕(日中のミサ) イザヤ527-10 ヘブライ11-6 ヨハネ11-18     20-12-25      

主の誕生、イエス様がお生まれになった。クリスマスおめでとうございます。

神様が赤ちゃん。何も出来ない赤ちゃん。何でも出来る神様が何も出来ない赤ちゃんとして生まれた。これは何なのですか。そしてイエス様、この方は何なのですか。 

ヨハネ福音書は今日わたしたちに、イエス様を思い巡らしなさいと言っているように思います。

「初めに言があった。」 言は神様のうちにあった。初めは、始まりは神様です。言のうちに命があった。命は働く力です。命はものを動かす力です。ものは見えるもの、見えないもの全部です。言はすべてのものを造り、すべてのものに命を与えた。言によって造られないものはない。 命、働かなければ、命は命ではない。命は働いている、生きている。そして、命は光。光は命のうちにあって光輝いている。輝かない光りは光ではない。 人は皆、言によって造られている。人は命を与えられて生きている。言は命の世界を造った。そして、暗闇の世界を造ったのです。暗闇は光を理解しない。命の動きを、命の喜びを、光りの温かさを理解しない。

言はこの世を創られた。人を創られた。人の世を創られた。光りのうちにいる人は暗闇を知った。暗闇=欲求、欲望の世界を知ったのです。

人は一人でいる。自分自身を持っている。自分の思い、自分の世界を持っている。そして、人は一緒に生きる。仲間と一緒に生きる。支えられ、支えながら生きる。人は一人であると同時に仲間と一緒に生きるのです。人の世界に暗闇が入った。人は暗闇を選んだ。自分は自分自身でいたい。自分の欲求を自分の力で満たしたい。その時、隣人が見えない。支えられて生きているのにもかかわらず、支えようとしない。人の世が欲求の世界になっていたのです。

人の命に光がなくなった。命の尊さがなくなった。助け合う心がなくなった。自己主義の場、力の場となった。自分の力を大切とする(尊重する)場となった。

 

言が肉となって、この人の世に現れた。その人は言の方。その方に栄光を見た。その方は恵みの方。隣人のうちに生きる命を示される方。その方こそ命を示す神様を示す方。まことに豊かな方。物の豊かさを超える、命の豊かさの中に生きる方。

その方こそキリスト、神様の命の方、まことの喜びの方。 

神様が来られる。神様がわたしたちの主である。王である。その方は貧しさのまことを知っておられる、苦しさのまことを知っておられる。 「その方は隣人の中に命の尊さを知っておられる」と言いました。隣人とは助けがなければ生きて行けない人です。その人が生きる、助けながら生きる。自分の持っているものを出し切って、その隣人が生きてほしい。命は一緒に生きることです。損をする、当然ではないか。その人が生きる。生きる命を味わう。これ以上に大きな喜びはないではないか。イエス様に命の貴さを見ます。

イエス様来られた。



主の降誕(夜半のミサ)  イザヤ
91-35-6 テトス211-14 ルカ21-14       20-12-25

 [イザヤ91-35-6

わたしたちは闇の中にいる。強い力に縛られている。希望がない。喜びのない生活。しかし、神様を忘れてはいない。神様、この暗闇を突き抜ける力を与えてください。

あっ、光がある。光が見える。光のうちに神様の大き恵みを見た。光りが大きな喜びとなる。大きな楽しみとなる。 その光は一人のみどりご。暗闇に生まれた一人のみどりご。その子の肩には権威がある。その子は驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君と唱えられる。その王国は正義と恵みの国。今も、そして、とこしえに立てられ、支えられる。万軍の主がこれを成し遂げる。

 この言葉は今、この時ではないでしょうか。ひとりごが平和を求めておられる。正義を求めておられる。それを行うのは、ひとりごをこよなく愛するわたしたちではないでしょうか。

神様を見つめます。ひとりごを見つめます。ひとりごを支え、支えられ歩きます。

一緒に歩けますように。 


 [テトス211-14

神様の恵みがわたしたちに見えるように現れました。神様の恵みをいただきたい。神様の恵みを見たい。 その恵みは何ですか。欲望を捨て去り、貧しく、苦しみを背負って生きること。そして、神様の栄光を待ち望むことです。 キリストはご自分を暗闇の世界に置かれ、生活されました。

いや、それも赤ちゃんとして来られました。 ご自身を全くささげられたのです。

それは一人のいのちをも失わないで、生きることを教えるため、キリストを知り、信じる人が皆、清められるためです。 

 [ルカ21-14

皇帝アウグストゥスから、全領土の民に登録をせよとの勅令が出ました。人々は皆、登録をするために自分の町に旅立ちました。ヨセフもガリラヤのナザレからユダヤのベツレヘムという町に上って行きました。身ごもっていたマリアも一緒でした。 町は込み合っていました。泊る所がありません。ようやく家畜小屋に案内されました。マリアは月が満ちて、初めての子を生みました。布にくるんで飼い葉桶に寝かしつけています。夜通し、野宿をしていた羊飼いたちに、主の天使たちが周りを照らしました。主の栄光が彼らを包みました。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそメシア、キリスト。布に包まって飼い葉桶に寝ている乳飲み子、これがあなたがたへのしるしである。」

神様はわたしたちの社会を見ておられる。社会のみんなは皆、急いでいる。皆、競争している。仕事をする人は正しく、速くこなせるのがいい。学生は物をたくさん知っている、深く知っているのがいい。そんな競争をしている。競争の世界を作っている。皆一人一人に優しさがあったらいいのに。

ある人はもっとお金持ちになったらいいと思っている。ある人は美味しいお菓子を見つけよう。そんなふうにに思っている。

わたしの心はそうではない。


待降節第4主日B 
         サムエル下71-58b-1214a16 ローマ1625-27 ルカ126-38    20-12-20

  ダビデはイスラエルの王となった。今や、レバノン杉で建てられた王宮に住んでいる。しかし、ダビデが祈りを捧げる時、天幕に行くのです。主なる神は天幕におられる。天幕は遊牧民の移動式の住居、建物です。主が天幕におられる。主のために主の住居を造りたい。
主は言われます。お前は自分の力で、主であるわたしのために住まいを造ろうとするのか。わたしは、わたしの子イスラエルと共に歩んできた。わたしは常に移動できる天幕のうちにいる。お前は与える力を持ったから与えるのか。主がお前にそれだけの力を与えている、お前は支えられていることを忘れてはいけない。まことに「与えるとは損をすることだ」と言いうことを忘れてはいけない。お前はわたしに与えようとするのか。わたしのために損をするのか。いや、それは損ではない。
わたしはお前といつも一緒にいる。わたしの心、み旨を行いなさい。     

大天使ガブリエルはマリアを訪れました。「マリア、あなたは神様から大きな恵みをいただいた。おめでとう。あなたは身ごもって男の子を生む。その子をイエスと名付けなさい。」
 恵みは子を生み、育てることです。心を込めて、力を尽くして、子を生み、慈しみをもってその子を育てるのです。「恵み」は力を尽くして与えることです。

「恵み」というのは、神様からの、人の力を超えた贈り物かと思っていました。
そうではない。 恵みとは貰うのではない、与えるのです。大きな恵みを貰った。その恵みはあなたのものですか。あなたの楽しみだけのものですか。
たとえば、ふと、大きなお金が与えられた。その恵みを、そのお金を使って、美味しいものを食べたり、ディズニーランドや大阪UFJで遊びまくるのですか。
別の楽しみ方もあるのではないでしょうか。人の笑顔を見る楽しみです。
たくさんの施設が応援を求めている。災害で苦しんでいる人、悲しんでいる人たちがいる。そのひとたちの応援になったらいい。手助けが、その人たちの笑顔になったらいいのです。

その子の名はイエス。イエスヨシュアはイスラエルの新しい指導者です。その名は「主は救い」言う意味です。薄暗いイスラエル、信仰が見えないイスラエルの新しい指導者への希望の名です。 
わたしは何も知りません。何も出来ません。
すべてを神様に委ねなさい。神様の思いの内に生きる者になる。あなたは神様の子となりなさい。神様に出来ない事は何一つないのです。

「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」 

神様、マリアの思いを、マリアの従順を完成させてください。
マリア、あなたは律法の通りに従わず、律法を超えて神様のみ心を受け入れました。まことの律法は神様のみ心です。

 ヨセフ、あなたは今迄、律法に忠実に生きてきました。マリアの出来事を見ました。受け入れられない。公にすれば問われる。身ごもった男はだれか。その男の責任は何か。 答えられない。
神様によって身ごもった。そう言った時、マリア、あなたは何を言っているのかと責められます。
それは、あなたが神様を冒瀆することになるのです。
ヨセフは悩んだ、苦しんだ。マリアの信仰について行けない。

大天使ガブリエルはヨセフに語ります。マリアを受け入れなさい。マリアの出来事はすべて神様のみ心によるものです。ヨセフ、あなたは受け継がれている律法の判断を超えて、神様のみ心を受け入れました。 神様のみ心が今始まりました。 

マリア、ヨセフこの二人は神様の道を歩み始めました。
神様は道を歩む人に恵みを注がれます。神様の大きな、大きな恵みを注がれます。
しかし、その恵みはあなたを喜ばせる恵みではありません。
あなたが手助けしている隣人のための恵みです。
いただいた恵みは与えるための恵みではないでしょうか。
たくさんの恵みをいただいた、たくさん与える者となれますように。  

今も神様はわたしたち一人一人に大きな恵みを与えてくださっていると思います。  

何も出来ない赤ちゃんイエスが生まれる。
赤ちゃんの心が神様のみ心で満たされる、人の温かさ、ほほ笑みで満たされる。



待降節第3主日B
          イザヤ611-2a10-11 テサロニケ516-24 ヨハネ16-819-28   20-12-13

待降節、新しい出発を待ちます。 1つわたしは勘違いをしました。神様が人の世に来られる。人間として来られる。それも何も出来ない赤ちゃんで来られる。なぜ、赤ちゃんで来られるのですか。何でも出来る神様が何も出来ない赤ちゃんで来られる。 わたしは言いました。赤ちゃんは何も出来ない。けれど、赤ちゃんのその瞳はきれいに澄んでいる。その赤ちゃんの姿はすばらしい。あの悪者の石川五右衛門も、笑ったことのない石川五右衛門も赤ちゃんがにこっとしたら、つい笑ってしまう。赤ちゃんは自分の前にいる人の心を感じている。その人が赤ちゃんをどんなにあやしても泣いてしまう人もいる。赤ちゃんに好かれるようになったらいい。

普段生活していると、作ってしまう。作り物の体、作り物の心でない、心と体に嘘がなかったらいい。  

今、カトリック新聞を見て「あっ」と思いました。
神様はなぜ赤ちゃんで来たの? それはみんなに抱いてもらいたいからです。
わたしは赤ちゃんの心を全く思わなかった。赤ちゃんは求めている。みんなに抱きしめられたい。みんなの温かさが欲しい。みんなの笑顔が欲しい。みんなの優しい心が欲しい。
出発、温かさをもって、笑顔をもって、優しい心をもって歩き始めたいと思うのです。 

ヨハネという人が神様を語り始めました。ヨハネと言う名は主は恵み深いという意味があるようです。ヨハネは光について語ります。神様はこの世に光を送られた。その方と出会いなさい。その方と一緒に歩きなさい。その方は光、その方を信じなさい。
あなたに光がある。あなたがその方ではありませんか。 わたしは光の証し人です。その方のために道をまっすぐにする者です。今、わたしたちの住んでいるこの荒れた土地で叫ぶ者です。
その方はわたしの後から来られる。 それはベタニアでの出来事でした。
ベタニアとは、貧しい者の家、苦しむ者の家、抑圧されている者の家という意味があります。

わたしは水で洗礼を授けている。悔い改めの後、神様のいのちの水で人を清めている。
そして、神様のみ心のうちに歩みなさいと告げます。神様の道、それは神様のみ心律法のうちに歩むことです。 その方は聖霊と火によって洗礼を授けられる。
その方はわたしたちには知られていない方。わたしたちの日常を超ええる方です。聖霊を見ておられ、光を見つめておられます。

わたしたちは科学の中に生きています。科学は外側を作ります。速く、正確に、美しく、快楽を求めながら物事を処理します。科学の内にすばらしい外側が出来ている。どこまでそれが進んで行くのか。 しかし、心は何処に行くのですか。心は置いてけ堀です。自分がどこかに行ってしまった。人とのつながりがどこかに行ってしまった。みんな一緒に汗をかこう。みんな一緒に苦労して歩いて行こう。みんな一緒に愉快に笑おう。そんな和やかさがなくなってしまった。 

出発、何を目指して出発するのですか。何を待つのですか。
その前に、自分を見つめ、自分を清めなさい。自分が人を支える道具となりなさい。
赤ちゃん笑顔。赤ちゃんのまあ絵で皆が一番素直になる。

心が清くなりたい。光の中を歩みたい。


待降節第2主日B イザヤ401-59-11 ペトロ318-14 マルコ11-8       20-12-6

  救い主が来られる。 わたしたちはベツレヘムでお生まれるになる赤ちゃんの誕生を待っています。神様が赤ちゃんとなってこの世に来られる。何でも出来る神様が何もで見ない人となる、いや、人の赤ちゃんとなって来られるのです。その神秘を味わう。その神秘の出来事、クリスマスが救いの出発だと思っていました。その出来事が救い主が来られる神秘だと思っていました。

今日、福音書は洗礼者ヨハネを語ります。

ヨルダン川の川沿いで神の国を語る、律法を語る者がいる。ヨハネの叫びはユダヤ全地方とエルサレムの人々の胸に響きました。多くの人々はヨルダン川に行き、ヨハネの姿を見た、話を聞きました。ヨハネに出会った人は言います。ヨハネこそわたしたちが望んでいる救い主だ。  

荒れ野で叫ぶ者、ヨハネの姿はまさしくエリヤ(主は神である)です。ヨハネはラクダの毛皮を着、腰に革の帯を締め、いなごと野密を食べている。 

また、エリヤは昔、カルメル山でバールの預言者と対決しました。イスラエルに雨が降らない、飢饉になっている。バールの神に願う、イスラエルの神に願う。神に願って雨を降らせてもらう。雨を降らせることの出来た神が本当の神である。エリヤは一人、バールの預言者が450人。エリヤは勝った。まことの神を示したのです。そして、450人のバールの預言者を皆殺した。

 ナボテのぶどう畑。宮殿の裾のところにナボテがぶどう畑をもっていた。アハブ王はその土地を自分のものにしようとした。ナボテは譲らない。この土地は神様からの嗣業の土地です。譲るわけにはいかない。王妃イザベルが計略を持ってナボテを亡き者として、その土地を得た。エリヤはそれを知って、王を糾弾した。エリヤは王を赦さなかったのです。

救い主に人々は力強い姿を見ます。ヨハネは力強い預言者。ヘロデ王と戦える預言者だ。わたしたちが待ち望んでいる救い主だ。

ヨハネは語ります。わたしは救い主ではない。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたさひは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水で洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

待降節に神様はわたしたちに何を求めておれるのですか。

主を待つ。主の心を待つ、主の救いを待つ。わたしたちも今、灰色の世界にいます。

今、待降節にいます。紫の世界です。神の救いが見えない世界です。栄光の賛歌は今歌いません。227日からミサが非公開になりました。ミサは公開されていますが、コロナの恐怖はますます強くなっています。自粛の生活を送りなさい。自由な生活を起こっているわたしたちには大きな試練です。

自粛:わたしに何が求められているのですか。

苦しみの世界ですか。悲しみの世界ですか。皆で一緒の喜べない世界ですか。
密になってはいけない世界です。

一人になりなさいと求められています。一人で自分を静かに見つめる。

静かな時を持つ。人と心でつながりなさい。

そして、神様を見つめるのです。

待降節第1主日B 
       イザヤ6316b‐1719b642b‐7 コリント13‐9 マルコ1333-37    20-11-29  

「目を覚ましていなさい。」 目を覚ましている、きっと緊張感があるのかなと思いました。だらしなくしててはいけない。 ふと、高校時代を思い浮かべました。授業が始まる。皆、席に着く。その時、先生に急に用が入ってくる。静かに自習でもしていなさいと先生は教室を去る。そこからが大変です。教室は授業の場ではなくなる。それぞれがお喋りをする。席を立つ。皆にとって、教室は勉強するためのものではない。面白いから勉強しているのではない。楽しいから授業を受けているのではない。

「目を覚ましていなさい。」 自然の中にいるわたしたちはふと季節を知る。枝が柔らかくなり、葉が伸びると夏の近づいたことが分かる。その様に社会の変化に気づいたらいい。今の社会はどんな社会ですか。社会はあなたに何を求め、何が与えらえていますか。あなたは社会に何をしていますか。この社会は人の命を大切にしていますか。心の健康を大切にしていますか。  

この頃思うのですが、今わたしたちの生活は機械を十分に使っているように思います。人の手を使わないで機械が行っている。スーパーマーケット、コンビニに行けば、日常必要なものは何でも揃っている。人の手よりも機械によって生産している。米、麦、野菜、果物を作る。機械がなければ出来ない。そこに土の香り、海の香りがないように思います。魚、機械によって大量に収穫する。野菜、果物、今はもう、旬が分からない。  

社会が変わって来ている。年老いた者の心は置き去りにされているように思います。機械のような速さで処理しなさいと言われているように思います。速く、正確に、行いが判断されているのではないでしょうか。ゆったりさがない。のんびりさがない。若い人たちは仲間が段々持たなくなっているように思います。会話がない。こんなことを聞きました。友だちの集まり。それぞれが小さなパソコンを持って集まる。集まって、それぞれが一人一人でゲームをしている。こんなことは本当なのですか。SNSで知り合って、結婚したと言う夫婦がいると言う。

変わった社会になっている。その出来事をすべて受け取ります。そして、自分がそこでどのように生きるか決めたいのです。 決める基準は何ですか。 社会を覆っている常識ではありません。会社の宣伝ではありません。近所の人たちの思いではありません。「神様のみ心です。」生きている命を考えるのです。人とつながる事を大切にするのです。言葉を交わすことです。

 「目を覚ましていなさい。」 わたしたちは、今この社会に思っていることを、自分で考える事よりも、テレビ、新聞で理解しているように思うのです。目を覚ます、神様のみ心の内に、社会を見るのです。 go to travel,go to eat 、旅に行きなさい、食べに行きなさい。お金を応援しますよ。出会う時はsocial distance,マスクをつけなさい、体温を測定しなさい。 社会の状態はこのようです。

神様のみ心は何ですか。今、沈黙が求められているように思います。待つ心がありますか。

今、この時、自分を静かに見つめなさい。自分の食生活を見直す。ゆっくり歩く。祈りの時間を持つてみる。静かに会話する。教会に行く。教会で自分を取り戻したいと思います。神様の前に自分がいる。神様のみ言葉を心で受け止める。 社会に引き回されない。

自然の変化を知るように、社会の変化を知るようになったらいい。わたしたちは社会に乗って生活しているのではないでしょうか。イエスは社会の荒れているこの時に言われているのです。
「目を覚ましていなさい。」神様を見つめていますか。祈りの時間を持っていますか。

神様、あなたはわたしたちの父さんです。あなたは永遠の昔から「わたしたちの贖い主」です。
わたしたちをこの混乱から救ってください。静かな、喜びの生活を送らせてください。
父さんは言われます。この混乱はあなたたち自身が作っているのではないですか。あなたたちはわたしの道を歩いていますか。
わたしの心の中にいますか。
わたしを見つめていますか。

思い直しなさい。洗礼を受けた時の心に戻りなさい。
して、出発しなさい。それが救いの歩みです。

待降節、困難、災害の時、幼子は生まれます。
幼子は優しい光のうちに、温かいものが与えられ、人の温みの中で大きくなって行きます。
幼子は与えれらて成長してゆくのです。わたしたちも幼子に自分の精一杯の心を与えて行きたいと思います。 イエス様の誕生を待ちます。

王であるキリストA  
    エゼキエル3411-1215-17 コリント1520-2628 マタイ2531-46   20-11-22

その日、終わりの日、わたしたちは一人一人神様の前に立ちます。裁きの時です。
神様は言われます。 今終わりの時です。あなたの人生、生きる喜びはありましたか。あなたの心に、捨てられないほど大切な事が残っていますか。 
あなたは自分を見つめてほしいのです。あなたにとって、毎日出会う人はあなたに何でしたか。
助けを求めている人と出会いたい、と歩いたことはありますか。 

かつて、横浜教区に浜尾大司教さんがおられました。(帰天されましたが。)浜尾大司教さんがある説教で語られました。教会は献金を求めます。災害時にはそれなりの献金が集まります。
しかし、貧しい人のため、体の不自由な人のためというと、まるで集まらない。
この間、わたしが入院しました。すると、婦人たちがこぞって病院を襲います。お見舞いがたくさん、お花がたくさん。正直なところ、わたしはそんなに婦人たちの贈り物を求めていないと叫びたい。

 今から156年前ですが、わたしはある手紙を受け取りました。その手紙は言います。わたしはキリスト教に興味を持っています。小さい頃、母と二人暮らしで、母がよくイエスの事を話してくれました。今人生について考えています。 一か月に一度でしょうか、手紙が来ます。かなり本をよく読んでいるようです。会いましょうと手紙を書くと、今ちょっと出ることが出来ないと言うのです。その人の住所を調べてみると刑務所でした。ちょっと心に重しが入ったように感じました。何か手伝ってやりたいと思い、刑務所に面会に行きました。その人は言います。わたしは悪くはない。友人の車に乗っていて、その友人が悪いことをして捕まったのです。わたしにも嫌疑がかかっています。3か月ぐらいしたら、裁判があります。その時釈放されます。そして、少年時代の苦しかった生活を話します。23回訪問しました。欲しいものを差し入れました。裁判があり、判決は北海道送りです。北海道は質の悪い、再犯者の行くところだと聞きました。詐欺罪。手紙の内容はほとんどが嘘でした。話の内容もほとんどが嘘でした。いや、全部が嘘でした。でも何か、惨めな生活を送っていたんだなと思ったのです。北海道に、靴を送ったり、ジャンバーを送りました。実は、北海道に面会にも行ったのです。お金が欲しいと何回も頼まれましたが、それだけは断りました。

そして、言いました。釈放されても、教会には来ないでほしい。その時、わたしは幼稚園の園長をやっていました。その人は口がうまい。わたしが容易に騙されたですから、婦人たちが口先で騙されたくないのです。
しかし、教会に訪ねて来ました。その時わたしは留守でした。お金が欲しいと言われたようです。 

騙すよりは騙される方がいい。しかし、深みに入ってはいけない。二人とも穴に落ちてしまうからです。 愛するという事は自分も穴に陥る事でしょうか。いや、その人が生きることです。神様のみ心を知ることではないでしょうか。その人と共に生きる。穴に落ち込んでしまってはいけない。

手助けしたいけど、かかわったら、自分の生活が、かえって苦しなって来るのではないか、心配になって来ます。その前に、その人とどれほど何を助けたいかを考えてするのがいいと思います。
手助けです。病院訪問、刑務所訪問も大切です。しかし、食べ物を与えるのも喜ばれます。 

イエスは王様です。与え続けた王様です。
わたしたちは支えられている、支える続ける王様になりたいと思います。
与え続ける王様になりたいと思います。


年間第33主日A 箴言3110-1319-2030-31 テサロニケ51-6 マタイ2514-30 20-11-15 

  天の国:夫婦が互いに助け合えればいい。天の国はそんな和やかさだと思います。夫は言います。妻は真珠よりはるかに貴い。そんな重さを持っている。妻は貧しい人、乏しい人に手を差しのべる。美しさは主のもとにあると言います。妻は主を畏れるのです。
寄りかかるのではない、支え合うのです。天の国の豊かさを自分たちで造って行くのです。
イエスは天の国の尊さをたとえで語られます。
ある人が旅に出かける時、自分の財産を僕たちに預けました。一人には3億円、一人には1億2千万円、もう一人には6千万円、途方もない金額を渡されました。このお金を「わたしのため」に自由に使いなさい。そして、わたしの喜ぶものを持って来るのです。
かなり日が立って、主人は帰って来ました。お前たちは何を造ったか教えておくれ。 

3億円貰った者は言います。わたしは人を使い、自然を使って、ものの見事に自然公園を作りました。すべてのものがここに住んでいます。動物の国、植物の国。心が癒されます。

12千万円預かった者は言います。わたしは友人たちを集め、喜びの国を造りました。子供と大人が一緒になって、協力しながら、苦しい問題、楽しい問題を解いて行きます。
協力しながら、歩いて行かなければ、いけません。協力しなければ問題は解けない。

主人は言います。お前たちは忠実な僕だ。人を研究している。自然を研究している。お前たちは自分で自分の力を見た。友人たちを見た。人々に善いものを与えることを知った。
ところが、6千万円預かった者が進み出て言います。あなたから預かった6千タラントンを地の中に隠して置きました。損をしていません。これがあなたのお金です。

何たることだ。お前はお金を自分の世界の中に隠してしまった。お前自身も自分の世界の中に閉じ込めている。お前にとって社会とは何か。自然の世界とは何か。友とは何か。お前は世界が動いているのを見ていない。 損をする? 損をすることが怖いのか。働く時、一人でいることが損失ではないか。人は一人では何も出来ない。人の中に入る。自然の中に入る。つながりの中でものは生まれるのです。新しい世界を思いつくのです。 地の中の心は腐ってしまう。地の中のお金は腐ってしまう。 この男はものを自分のものになるよう集め、そのすべてを腐らせてしまう。人を腐らせ、動いているものを止めてしまう。人と、自然と出会うことを拒否している。物を儲ける事しか考えていない。 この役に立たない僕を追い出せ。

わたしたちは何を求められているのでしょうか。 
お前たちの一生懸命働く姿をわたしは見たい。そんな言葉が返ってくると思います。
お前に力を注いだ。内気にならず、笑顔で語り合いなさい。失敗したら、元気を取り戻し、直しなさい。

障害のある人を思いました。 神様はその人に障害を与えられました。神様はその人に障害の恵みを与えられた。障害が恵みなのですか。
障害を持つ人が障害について、フランクに、人と語り合えたらいいと思うのです。
障害を持つ人のきらめき、輝きが出せればいい。今まで、障害を地の中に埋めて来た。

年間第32主日A  知恵612-16 テサロニケ413-18 マタイ251-13       20-11-8  

  「知恵は輝かしく、朽ちることがない。」 
知恵と出会った人は言います。「そうか。その通りだ。」 知恵は人の心を和ませてくれます。心と体に力を与えてくれます。知恵は神様のみ心、神様のみ心は、今も、いつも働いておられる。
「そうか、知恵はキリストの姿だ。いや、キリストの姿が知恵だと思ってしまいます。」
「知恵を愛する人には進んで自分を表し、探す人には自分を示す。」 通行税を取っているマタイは神様み心を求めている。信仰の道に戻りたい。イエスはマタイを見る。マタイの心を見る。
イエスはマタイに声をかける。そこを立ち、わたしと一緒に歩きましょう。

知恵は、神様のみ心は、キリストはわたしたちに働きかけてくださる。わたしたちはそれを受けて輝くのだと思います。知恵を求める人は自分を律しなさい。知恵の中に入って行きなさい。
「知恵は自分にふさわしい人を捜し求め、巡り歩き、思いやりの心で彼らと出会うのです。」

イエスは天の国のたとえを次のように語られます。天の国の事を知恵のうちに心に留めなさい。わたしたちは天の国への道を歩いています。その道に行く手をはばむものが現れます。天の国に行く者、それを阻むものを知恵のうちに悟るのです。

天の国は:いのちの喜びの場、柔らかい光に満ち溢れたところ、憐れみ、慈しみの場、心の平安、笑顔の絶えない場。天の国に入るのに、あなたに足りないところがあります。知恵はそれを示してくださる。 10人のおとめが花婿を迎えに出て来た。夜、皆ともし火を持って集まる。花婿が来るのが遅れた。皆、少し眠り込んだ。「さあ、花婿が来た。皆、迎えに出なさい。」おとめたちはともし火をともして、出る。賢い乙女たちは油の壺を持っていた。しかし、後のおとめたちはともし火の油を用意していなかった。「油を貸してください。」「分けるほど持っていません。店に行って、自分の分を買ってきたらいい。」愚かなおとめたちは外に出て行った。花婿が到着した。賢いおとめたちは迎えに出て、一緒に婚宴の席に着いた。油を買いに行ったおとめたちは閉まった戸をたたいた。「御主人様、開けてください。」主人は言う。「わたしはお前たちを知らない。」

おとめたちは皆、花婿の婚宴を喜んでいる。花婿を迎えるのも楽しい。一緒の花婿の婚宴に出席する。何と嬉しい事か。 知恵は問います。おとめたちは花婿を輝かす光の油を持っていますか。花婿の顔を見たい。宴にあずかりたい。婚礼の式に出席しなさいと言われた、だから出席した。

そんなのは婚礼の喜びではない。おとめの衣装は小羊の血で洗ったものですか。あなたには花婿の姿が見えない。 そんな美しいロザリオを持っている。ロザリオで祈っていますか。金の十字架をネックレスにしている。キリストは木の十字架にかかって命を落としたのではないですか。

目を覚ましていなさい。心の耳を傾けなさい。今、主があなたに声をかけられいてます。

高校生の時、試験にカンニングをする奴がいる。カンニングの常連になってしまってはいけない。学問はあなたにとって何ですか。苦し紛れにカンニングをしてしまう人がいる。

知恵はそれを見て、苦笑いをしていると思います。 実は、わたしは一度だけカンニングをしたことがあります。簿記の試験でした。難しい計算の問題です。隣の友達が見せる。それを夢中でうつしました。55年前の話です。

 喜びの前に苦しみがある。長野県に高森草庵という庵があります。秋、稲刈りがある。日本中の青年が集まる。3日、4日、一週間かかるかな、苦しい作業をする。それが終わると、みんなで一斉に乾杯。食べ物が出る。酒が出る。大いに食べる、大いに飲む、大いに語る。語り合う。苦労が十分楽しい。  

洗礼を受けた。洗礼から始まる道を歩いていますか。

諸聖人  黙示録72-49-14 ヨハネ31-3 マタイ51-12a                  20-11-1

  天使が神の刻印を持って現れた。神の刻印を押された者が神様の前に集まる。ところで、神の刻印とはなんでしょうか。

神の刻印:神様のうちに入る心に刻まれたしるし。。神様の道を歩む、神様のものとなる決意を心に刻んだものに押されるのだと思います。神の刻印が心に刻まれる。その時、その人のいのちは神様のみ心に満たされる。全く神様の道具となる。神様の刻印を押されるとは、自分の努力、自分の力、才能によるのではない。自分のすべてを捨てられた時、神様の恵みがその人に注がれ、あふれる。神様の恵みがあふれ、神様に包まれる。神様の刻印を押された者がまことのイスラエル。あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民が白い衣を身につけて、玉座の前に集まっている。彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣は小羊の血で洗ったものである。  
天の国。天の国への出発は今、ここから始まっている。

イエスに従って歩きたい。イエスと共にいたい。イエスは従う大勢の群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちがそばに座られた。そこで、イエスは口を開き、教えられた。

貧しい人々は幸い。悲しむ人々は幸い。柔和な人々は幸い。義に飢え渇く人々は幸い。

今、陥っている苦しみ、悲しみを心を開いて受け入れなさい。貧しい。この貧しさをしみじみ味わいまがら、手を取り合って生きなさい。貧しさに耐えるその心の強さを誇りなさい。苦しい、苦しさを耐え抜き、生きるのです。苦しさに耐える心の強さを誇りなさい。神様の恵みを一層願いなさい。悲しむ、思い切る悲しむのです。人の弱さを、小ささを芯から思い至りなさい。貧しい時も、苦しい時も、悲しい時も、神様はあなたを見ている。 貧しい、悲しい、それを超える。 

豊かさから、快楽から離れる。豊かさを、快楽を打ち壊す。

憐れみ深い人となりなさい。心に清い人となりなさい。平和のために働く人となりなさい。義のために働く人となりなさい。自分の欲求に対決する、それも大切なことです。しかし、目を開きなさい。自分のこと以上に、隣人のために働く者となりなさいと言われているように思うのです。

神様を見つめる。神様のために働きなさい。

 憐れみ深い:キリストの歩んだ道ではないですか。目の前に苦しんでいる人のために持っているものを与える。与え続ける。
心の清い:自分の出来事は後回し。隣人のために心を砕き、体を使いなさい。自分の思いが清くなる。自分の出来事、自分自身の心の醜さが消えてしまう。
平和を実現する、義のために働く:出会う人と語り合えればいい。平和のために語り合う。人が大切にされているか。いのちが大切にされているか。
平和を作って行くとは、物を、心を求めることではない。平和とは与えることです。与え続けることです。与えるほど物がない。それなら、笑顔を与えなさい。励ましの言葉を与えなさい。最も大切なこと、その人のために心を込めて祈りなさい。

今日、わたしたちは特に、聖人を思い起こします。人は皆、生きたい心、生きたい体を持っています。家庭で生きて来た。父さん、母さんを通して人のの温かさを知った。父さん、母さんを通して人の生きる姿を知った。そして社会に出る。力のある人が、力を自分の勝手のために使っている。力のない人を自分の思い通りに使う。弱い人に苦しみや悲しみを与える。

人は神様からいのちを貰って生きている。人は皆兄弟ではないか。自分の兄弟が弱かったら、助けりうのは当たり前。体が不自由だったら助けてあげる。当たり前だよ。兄弟じゃないか。

聖人は自分のためではなく、隣人のために自分の生活を捨てて、働いた人たちです。愛のための生活を全うした人たちです。 人のために生きる。わたしたちも聖人を思いながら、後に従って行きたいと思います。  
   

年間第30主日A  出エジプト2220-26 テサロニケ15c-10 マタイ2234-40    20-10-25

  律法の専門家がイエスに尋ねました。「律法の中でどの掟が最も重要でしょうか。」
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」 
律法の専門家は、聖書をいつも手元に置いている。聖書を覚えるほどよく読んでいる。イエスは聞いていると思います。あなたは掟について、神様のみ心を聞いているのですか。それとも掟、律法について、聖書の解釈について聞いているのですか。

イスラエルのエジプトからの脱出の旅、荒れ野の道の時、この掟は与えられた。その生活を思い起こしてほしいとイエスは言われたのです。主に導かれたイスラエルへの旅です。その旅は今のわたしたちの旅ではないですか。この世の旅路でわたしたちはたくさんの人々と出会います。外国から来ている労働者、シングルマザー、親のない子たち、また、体の不自由な人たち、そのほか、いろいろな事情で苦しんで生活している人たちと出会っています。まるで、旧約の時代の世界と同じことが起こっています。神を愛しなさいと書かれている。神様のみ旨は何ですか。

聖書を覚えるほど読んでいる律法の専門家の人。神様の掟、律法とはあなたにとって何ですか。あなたの聖書はあなたに何を求めていますか。あなたの律法、掟とはあなたにとって何ですか。  

神様に心をあずけられたらいいと思います。神様の思いの内に語れたらいい。神様の思いを行われたらいいと思います。神様に祈る、祈り続ける。神様の思いの内に入れたらいい。

神様に祈る。わたしは今迄言ってきました。神様に祈ることは、自分の思いを神様に吐き出すことではない。自分の思いをすべてなくして、神様を見つめる事ではないか。自分をなくす。自分の心に捨てられない思いがあってはいけない。欲求、思想があってはいけない。自分自身を大切にする心(自我)があっていけない。無になって神様の前に座る。神様を見つめる。無になって神様を見つめるだけになった時、神様があなたの心と体に入ってくる。あなたは神様に包まれる。

そんなことは出来ません。そんな難しいことは出来ない。 そうかも知れません。

たとえば、あなたの愛する人に心を尽くすことを考えたらいい。愛する人、隣人を考えたらいい。その人は助けを求めている。見えるものを与え続ける。全力を尽くしてその人を思い、祈り、支えるのです。 その人に力を尽くす。その人を無心に受けとめることが出来るかも知れない。  

愛とは、隣人のようになるのかも知れない。不自由さを受け取る。たとえば、口のきけない人が隣人である、その人の手助けをする。自分も丸一日口を利かない。一週間、一か月口を利かない。耳が遠い。聞きたい人の話が聞けない。見えない。見たい人の顔を見えない。
その人の苦しみを静かに知る。愛するとはその人に、苦しみについて、何も言わない事かも知れません。

神様は言われます。
苦しんでいる人に温かさを与えたい。
温かさを与えるのは誰か。
それはわたしの道を歩くあなたではないか。

聖書は愛の書です。律法、掟は愛の出発です。
神様の豊かな憐れみです。生きる喜びです。


年間第29主日A  イザヤ4514-6 テサロニケ11-5b マタイ2215-21    20-10-18


  イエスは真実は何かを語ります。何かを行う。行うことに心をかけるのではなく、行おうとしているその目的に心をかけなさい。神の国を待ち望む人がこの世の国に、悪の力による国、に税金納めることが出来るか、それが律法に適っているのかが問題なのですか。この世を神の国に近づけようとすることのほうが、大切な問題ではないですか。律法はわたしたちに何を求めていると思うのですか。 わたしたちはローマの植民地となってしまった。土地はローマ皇帝のもの、家も人も、見えるものは皆、ローマ皇帝のものです。しかし、わたしたちの心は神様のものではないですか。見えるものは、土地、家、人はローマ皇帝のものですが、見えないものは皆、皆、神様のもの、神様の心に従うわたしたちのものではないですか。

わたしたちが一番大切にしているものは何か考えてみました。家庭、家族、財産ではないでしょうか。いや、教会を忘れてはいけない。家庭、家族、財産、教会は、皆、わたしたちの目の前にある。わたしたちを助けてくれている。しかし、イエス様は言われる。その中に入って、そのものに縛られてはいけない。わたしたち、わたしを助けてくれているのはそのものではないですか。そのものを感謝の思いで見てはいけないと言うのですか。見ている、感謝しているとはその中に生きると言いうことです。見て、感謝して、その中に生きる、それはその中に入ってしまうことです。家庭の中に入ってしまう、家族の中に入ってしまう。家庭を豊かにしたいと思う。善い家族でいたい。その中に入ってしまったら、ほかの人に目がいかない。体の不自由な人に目が行かない。その人に目が行かない。周りにそんな人はいないもの。働けなくなって、生活できない、苦しんでいる。そんな人は近くにいないよ。

今、あなたを囲んでいるものは、この世の出来事ではないですか。この世の出来事は人の思いによって出来ているのではないでしょうか。 イエス様は言われます。1つ1つのものは、11つの出来事は神様の思いのうちにあるのです。11つのものに心がある。11つに心がある、11つに重さがある。11つのものがほかのものにつながっている。それを忘れてはいけない。家庭は他の家庭、全部の家庭とつながっている。家族の11人は他の家族の11人とつながっている。自分の得が他人の喜びとなったらいい。自分の損も他人の善い事につながったらいい。わたしたちは助けられて生活している。神様の思いのうちにある、支え合って喜ぶ。

それを忘れてはいけないと思います。 

小さい子が言います。あっ、雨が白いものになって降って来た。

それは雪だよ。神様の贈り物かな。

年間第28主日A  イザヤ256-10a フィリピ412-141920 マタイ221-14   20-10-11

  入祭唱を黙想しました。
「神よ、あなたが悪に目を留められるなら、だれがみ前に立てよう。
 しかし神よ、あなたのもとにはゆるしがある。」 

 神様、あなたはすべてのものを包んでおられる。すべてのものはあなたの思いによって造られました。いや、今もあなたは、すべてをご自分の思いのうちに造られています。物事は新し生まれ、世を去るものはあなたのもとに帰ります。 今、あなたはこの世の出来事に目を留めておられます。善いもの、悪いものが動いている。いや、悪いものがこの世を支配している。もし、神様、悪いものを排除しようと決めておられるのなら、誰が神様の前には立てるでしょうか。

神様、あなたは造られたすべてのものを大切にしておられます。 
悪にあるものよ!悔い改めなさい。わたしの顔を見つめなさい。わたしの心に触れなさい。友と共にわたしの道を歩いてほしい。 神様の厳しさは優しい。神様の優しさは厳しい。 

種蒔きの種がその人の心に入った。その人は神様と出会った。神様と約束をした。洗礼を受けた。神様は言われます。わたしはあなたの目の前に山を造った。その山に登りなさい。登り続けなさい。道を作りながら登って行く。疲れたら休む。渇いたら水を飲む。

ふと見ると、大勢の人たちが登っている。この山は自分だけの山ではなかったのか。踏んできた道は自分の道。そうか、同じ山であっても同じ山ではない。自分の歩いている道であって、他人の道ではない。何年もかかって登って行く。 休み処で外を見る。自然の世界を見る。人の世界を見る。自分の世界を見る。静かにじっくりと見る。

わたしの登っている山は、自然の世界の山。人の世界の山。
 あぁ、休み過ぎたな。もうこんな苦労して山に登りたくない。たまに御馳走を食べたい。お酒も飲みたい。ゆっくり寝たい。 その時、あなたは平地に戻っているのです。

 主は言われた。わたしは人のために働く家を造ろう。ここで隣人のために働く、人助けをする。多くの人を集めたい。わたしの道を歩く人を集めなさい。洗礼を受けた人たちを集めなさい。
しかし、誰も来なかった。
主は驚いた。洗礼を受けているのに、わたしの道を歩く約束をしたのに、誰も来ない。もう一度誘う。行きたくない訳じゃない。自分は自分の仕事があるんだ。しつこく、誘いに来ないでくれ。
主は悲しむ。これでは、洗礼の恵みが死んでしまう。
そして、主は町を歩く人たちに声をかけた。人のために働く家があります。
ぜひ出席してください。席はいっぱいになった。でも、その中に、礼服を着ていないものが一人いた。

主は聞かれる。あなたは礼服を着ないで、どうしてここに入って来たのですか。
その人は返事をしようとしなかった。 

恵まれていることに気付いたら喜ぶ。一緒に食事をする。一緒に楽しむ。
みんなが喜んで食事が出来ればいい。一緒に語り合えたらいい。
礼服とは何でしょうか。喜ぶ心の礼服かな、語り合う礼服かな。つながる心の礼服かな。

そして思うのです。

隣人を自分の様に愛しなさい。
人の助けとなるために仕事をしなさいと教えられている。
出会う人と、まず、聞く者になれたらいい。
まず、笑い合えたらいい。 

与えられた道を忘れず、ゆっくりと日々を過ごせますように。

年間第27主日A  イザヤ51-7 フィリピ46-9 マタイ2133-43       20-10-4

  東海道線が新幹線になりました。東海道線は乗り換えながら行く、一本に続いていないようです。こだま号から光となりました。また特に   号があります。こだま号は鈍行、各駅停車の新幹線です。近いうちに、リニアカーになると聞きました。新幹線より、もっと速くなる。

「狭い日本、そんなに急いでどうするの?
 コロナの感染の中にいる日本、仕事がゆっくりできる。いや、ゆっくりしてはいけない。よい方法を見つけて、仕事を作ろう。店で待つのではなく、配達しよう。テイクアウトで売り出そう。

「そんなにお金を儲けてどうするの?
 ある家の主人がぶどう園を作りました。立派な充分設備の整ったぶどう園です。収穫の時、主人は収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところに送りました。農夫たちは僕たちを拒み、一人を袋叩きにし、一人を殺して、一人を石打で殺しました。主人は新しく僕たちを前よりも多く送りましたが、農夫たちは同じ目に合わせました。わたしの息子ならば敬ってくれるだろうと思い、主人は息子を送りました。農夫たちは息子を捕まえ、ぶどう園の外に放り出し殺してしまいました。 

おおらかな主人は息子の死を知り深く悲しみました。ぶどう園の尊さを知ってほしい。そのために息子のいのちを失った。一方、農夫たちは思ったのです。もっと収入が多くなればいい。収穫を全部自分たちのものにしたい。主人に収穫を渡さない。このぶどう園を自分たちのものにしよう。 

イエスは言われる。「祭司長、民の長老たち、あなたたちはこの出来事どう思いますか。
この主人は損をした。この農夫たちをひどい目に合わせて殺し、ほかのよい農夫たちに貸すに違いない。」 イエスは言われます。「それは神様のみ心ではない。『家を建てる物の捨てた石、これが隅の親石となった。これは主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』 ぶどう園は何のために作られたのですか。ぶどう園、この家は人々のためではないですか。人々に心を込めた、上等なものをなるたけ安く、なるたけ多く作って、なるたけ多くの人に分かち合うための家ではないですか。
祭司長、民の長老たち、あなたたちは農夫と同じところにいるのではないですか。同じ思い、同じ目で見ているのではないですか。
悔い改めなければ、ぶどう園が見えない。神様のみ心が見えない。

 イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑。(イザヤ57
家の主人の思いを大切にしてほしい。
家を建てる者がこの大きな石を捨てる。こんな大きな石は不用だ。この石があっては仕事が順調に行かない。こんな石はいらない。この家の仕事は、無駄をなくし、節約して物を安く作る。大量生産しよう。この家をそのような工場にしよう。

働く喜びが消えてしまう。

心を尽くして作る喜びが消えてしまう。

皆のために作ろうと言う心が消えてしまう。

家の主人はこの石を中心とした家を造りました。これこそ、働きたくなってしまう畑、果物の、穀物の成長にますます見入ってしまう畑。心を込めて善いものを作りたくなってしまう、たくさん作りたくなってしまう畑。この畑で、皆の事を思って働く。

ぶどう園で作ったこのぶどうを見てください。味わってください。

年間第26主日A  エゼキエル1825-28 フィリピ21-11 マタイ2128-32     20-9-27

  神の国への道を歩みます。このわたしたちの世界が神の国へと続いている。祈ってますかと問われます。善い事をしていますかと問われます。
パウロは今日、信仰生活について書いているように思います。祈りましょう。しかし、わたしたちにとって、祈るとは何でしょうか。わたしたちは深い祈りに何を求めているのでしょうか。
 祈る、神様の前に立ち、全く自分の思いをなくして、神様のみ言葉を待つ。神様の前で空っぽになる。神様が心の入ってくる。神様の力が入ってくる。祈りが深くなればなるほど、神様の思いを知るようになる。 それは特別な人たちの世界ではないですか。
霊の交わりを求める。霊の交わりによってわたしたちは何を求めるのですか。
慈しみの、憐みの心を持つ。 わたしたちは慈しみの心、憐みの心によって何をするのですか。

パウロは、わたしたちにキリストの道を歩む、キリストの姿のうちに歩みなさいと言っているように思うのです。 しかし、わたしたちは神様の道具であるという事は忘れてはいけないように思います。神様のみ心をふと思い起せるようになればいい。わがままを捨てて、人のために働けるようになればいい。自分がなくなって、人の心がよく見えるようになればいい。神様の思いが感じられればいいと思うのです。 皆と生活している。一緒に働く、一緒に歩く、皆と一緒に喜ぶ。一つの心に入る、キリストの心に入るのです。  

父さんが兄さんの所へ行き、言います。「子よ、今日、ぶどう園に行って働きなさい。」
「父さん、今日はこれとこれをやり終えなければいけません。だから、今日は行けません。」
しかし、兄は思い直して、ぶどう園に行った。 父さんは弟のところへも行って、同じことを言った。弟は素直に、「父さん、承知しました。」と言った。しかし、弟は行かなかった。どちらが父さんの望み通りにしたのか。 

ぶどう園は一緒に働く場所です。体の不自由な人も、力があり、手先の器用な人も、一緒に働く場です。賃金は一緒です。急に自分の用が入り、定時間働けない人も、ぶどう園で働いた人は皆、同じ賃金です。善いものを、精一杯作る。みんなに喜んでもらうために作る、そんな場です。父さん一家はそんなように働く場、ぶどう園が好きだった。兄さんは、自分の仕事があるからと断った。しかし、父さんの勧めだ、父さんの思いだ。行こうと決めた。行った。ぶどう園の仕事が、働くことが分かった気がした。言ってよかった。
弟は元気よく、行きますと言った。素直な心の返事だった。でも、行きたくない。行かなくても、誰にもとがめられない。

どちらが父さんの望みどおりでしたか。皆、自分の思いを持っている。父さんの思いが、自分の思いを越えることが出来ますか。自分の欲を抑えて、父さんの望みを行うことが出来ますか。
そんなことを問われているように思います。

神学校に神学生が生活しています。朝起きる。朝の祈り、黙想、続いてミサがあります。食堂で、朝食。軽い掃除。部屋に帰る。勉強の時間となる。自由時間。晩の祈り、夕食、睡眠。神学校全体の掃除があります。講話があります。その他、いろいろ行事があります。すべての出来事が神学校の中で行われます。自由がない。  黙想がある。ミサがある。祈りがある。自分の霊性のために黙想ですか。自分を深めるための祈りですか。典礼のミサは深まるのですか。 霊性のために神学校があるのですか。

これは、ぶどう園の働きに似ていると思ったのです。ぶどう刈り取る。ぶどうの実をぶどうの船に入れる。ぶどう酒を作るため、ぶどうの舟のぶどうを足で踏み続ける。 

神学校の生活は何のためですか。神学生になるためですか。いや、そうではない。神様のみ心をもっと知るためです。神様のみ心の道具となるためです。一緒に祈りことを知る、一緒に黙想することを知る、一緒に食事をするためです。一緒の中の自分を見出すためです。自分のために一緒にいるのです。 父さんの望みを行うために、父さんの道具となるために神学校で生活するのです。

ぶどう園で働く。自分の生活のためですか。いや、隣人の生活のために働くのです。一生懸命、善いものを作ろうとし、たくさん作ろうとして、働くのです。 

祈ろうとしても自分の内に祈ってしまう。自分をなくそうとしても、なかなか自分がなくならない。自分をなくして、神様の前に座れない。深く祈れない。うまく黙想できない。心で聖書が読めない。

神学生になれるかな。踏みとどまれ。父への希望を忘れるな。自分がなくなった時、祈りがある。自分がなくなった時、善い行いが出来る。 これが兄さんの心ではないでしょうか。 

神学校の先生が求めていることが出来ればいいよ。出来なかったらごまかせばいい。6年、7年神学校で生活すれば、神学生の落ち着きが生まれるよ。神父になるために道のりだ。堂々と神父になったらいい。 これが弟の心ではないでしょうか。 

洗礼を受けた。神様の子として生きる。神様の道具として生きる。

キリストは十字架の死に至るまで従順でした。人のために生活した。人のために、苦しんだ。人のために、わたしたちのために十字架で死んだ。

 

年間第25主日A  イザヤ556-9 フィリピ120c-2427a マタイ201-16      20-9-20

  イエスは天の国ついて、多くのたとえを話されます。イエスが語られる天の国のたとえを聞きいつも思います。天の国はこの世から出発しているのだ。この世の出来事が天の国で起きている。同じ出来事を天の国ではどのように判断しているのかと思うのです。  ぶどう園がありました。主人は労働者を雇うため、夜明けに出かけて行きます。出会う人皆に声をかけます。「ぶどう園の仕事です。午後6時まで働いて、1デナリオンの賃金です。」 夜明けに人を集める。南千住の山谷を思い浮かべました。冬など、まだ薄暗い早朝、トラックのおじさんが声をあげる。そこに人集まる。日雇いの労働者の場です。 そして、主人は9時頃にまた出かけ、人を呼び集めます。12時頃、また3時頃そして、5時頃にも外に出て行き、人に声をかけます。「なぜ、何もしないで、一日中ここに立っているのか。」彼らは言う。「誰も雇ってくれないのです。」 夕方になった。賃金の支払いの時です。5時に来た人に1デナリオン支払われた。次から次へと1デナリオンづつ支払われる。夜明けから来て働いている人へも1デナリオンであった。「なぜ同じ賃金なんだ。1時間しか働かなくても1デナリオン貰える。だったら、夜明けから10時間以上働いているわれわれにもっとおくれよ。」主人は言う。「あなたに1デナリオンの約束だったよね。働いてくれてありがとう。わたしは彼らにも1デナリオン支払ってやりたかったんだ。気前がよくて悪かったね。」

聖書勉強会でこのたとえを勉強しました。「聖書だからこんなことが出来るんだ。この世でこんなことはあり得ない。こんなことは本当にあろう筈がない。労働問題になる。働いた分だけもらえる。それが公平だ。」おじさんが言いました。

この世ではぶどう園は造れないのでしょうか。この世の人たちは主人の気前の良さをねたむだけなのでしょうか。ぶどう園は求める人たちへ、心のこもったもの、最高の製品を作り、届けます。 主人は言います。賃金は製品を作った、製品が売れた見返りではない。生活のための賃金、自分の十分豊かさのための賃金です。このぶどう園で善いものを、たくさん作って行こう、ぶどう園は恵みの場です。働く恵みがある、善いものを作る恵みがある。一緒に働く、仲間を得る恵みがある。自分の力が皆の喜びになったらいい。

5時にしか来られなかった。その人は奥さんが熱を出して、精一杯看病していたのです。収入がなければ、食べ物が手に入らない。やっと外に出られた。5時ごろだった。ぶどう園で働かないかと誘われた。賃金の時1デナリオンもらえた。嬉しかった。息子がいた。お父ちゃんよかったね。お父ちゃん嬉しいね。息子の顔が明るくなった。 ぶどう園に感謝。恵みのぶどう園に感謝。

神様の気前の良さに感謝、感謝、感謝。

年間第24主日A  シラ2730-287  ローマ147-9  マタイ1821-35        20-9-13   

  「憤りと怒りを遠ざけなさい。」と言われます。憤り、怒りは感情のうちに、自分の心をぶつけているのではありませんか。自分しか見えない。相手の心を見ようとしない。それは悪い方法です。

 兄弟がそんな事をする。そんな事をしたら憤り、怒りがあって当たり前だ。しかし、主は言われます。兄弟からのその事を静かに、おおらかに受け取りなさい。その兄弟の心を静かに受けとめなさい。その出来事の不正を見つめる、それを糺す。この兄弟のその時起こった、悪い心を受け止められたらいい。 憤り、怒りは人を離れさせ、赦しは人をつなぐのではないですか。

罪を犯す、人とのつながりを切ってしまう。どうしようもなく心が乱暴になってしまった。兄弟は自分の世界に入ってしまいます。 

その時、兄弟を罪人だと思ってしまう。あなたは裁く者になってしまった。あなたはそれほどまでに完全なのですか。人の罪を赦せない器の人がどうして主に自分の罪を赦してくださいと言えようか。

主はすべての人の罪を赦し、罪を犯した人を追い出さない。わたしのもとに戻り、回心して、新しく出発しなさい。これが主のみ心です。 主のごとく、兄弟の落ち度には寛容でありたいですね。

ペトロはイエスに問います。「兄弟と思っていた者がわたしに罪を犯したら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか。」 7は完全数です。7回赦す、それで終わればいい。それ以上は赦さない。   「ペトロ、あなたは何回赦すべきかと聞いている。それは相手のことを思って聞いているのですか。あなたは人を赦す自分の我慢の限界を言っているのですか。あなたに行っておく。770倍まで赦しなさい。永遠に赦し続けなさい。

赦すとは2人の絆が続いている事です。つながりを切ってはいけません。その人は兄弟ではないですか。一緒に食べたり、飲んだり、語り合ったりした仲なのではないですか。その人とのつながりを切ってはいけない。その人に憤り、怒り、その人を全く他人とするのですか。自分の世界から放り出し、その人の心を殺してしまうのですか。(その兄弟は、もはや、自分の世界には生きていない。) 一緒に生きるとは、支え合うこと、支えられていることを感謝し、支える者になること、赦し合うこと、赦されていることを感謝し、赦すことではないですか。赦されていること、赦すこと、それが憐れみではないですか。 自分の兄弟を憐れみの心で接しなさい。心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさる。

イエスのたとえを聞きました。

わたしたちは皆、一人一人1万タラントンの借金を背負っているかも知れない。神様はそれをじっと待っていてくださっている。1万タラントとは6千万日の賃金です。1600年、1700年くらいのとてつもない借金です。天の父はそれほどまでに、気長に待っていていてくださる。

一方、わたしたちはせっかちです。人に貸した百万円の借金を見つけたら、今すぐ返せ。待ってられないと突く。貸した人は天の父に1万タラントンの借金がある。

そんな途方もない事があるのか、いや、これがわたしたちの現実だと思います。  

年間第23主日A  エゼキエル337-9 ローマ138-10 マタイ1815-20      20-9-6

  嫌な出来事がたくさん起こっています。子供を自動車の中において、15時間も放っておいた。子供たちは暑くて、熱中症で亡くなってしまった。もっと前には、老人介護施設で、養護士の青年が何人もの老人を死にいたらめた。何も出来ない老人はこの世にいては迷惑だ。死んでしまえ。ずっと以前ですが、女子高校生を無理に誘いだし、強引に自分の部屋に押し入らせ、おもちゃのように遊び、殴り、蹴り、暴行を加えていた。45日監禁、殴り過ぎて死んでしまった。女子高校生の死体をコンクリートで箱詰めにした。若い青年たちの犯行です。  以前の教会で、あの事件は自分の家の近所だったんです、その家も知っていますと言う話を聞いたのです。

嫌な事件、出来事がわたしたちの身の回りで起こっている。今は、そんな出来事はわたしたちのまわりでは起きないと思っているとは言えないのです。子供たちが、公園で見守る人がいなければ遊べない。小学生が朝、学校へ行く時、集合して大人に案内され、行くようになっているのです。 

今日、兄弟があなたに罪を犯したなら、あなたはその人を赦すことが出来ますかと問われます。

それ以前に、あなたは今、お付き合いしている人を兄弟、姉妹と思っていますか、と問われているのではないかと思います。

青年ではないですから、人生とは何かを語ることはないかも知れません。しかし、自分が持っている人としての生き方を友として、兄弟として、語り合ったことはありませんか。 

善い出来事、悪い出来事が起こっています。出来事はわたしたちが造っている社会の中で起こっています。その社会の中にわたしたちが住んでいるのです。 

人とつながって生きている。例えば、悪いことをしてしまった人と出会う。本当のことを言えば、悪いことをしてしまった人と出会いたくない。一緒に歩きたくない。なぜなら、その人をいつも気にしていなければならないからです。自分が悪いことに利用されるのではないか、その人に心を許せないのです。

自分の思いを捨てて、度胸をもって、その人と語り合う心が持てればいい。聞き入れる心を持ったらいい。悪いことをしたその人が生きる喜びを見い出したらいい。その人が希望が持てればいい。

教皇様は回勅「ラウダート・シ」を5年前に出されました。すべてのものを、すべてのいのちを見つめる。そして、言われます。すべてのいのちを守るために祈りなさい。

「あらゆるものはつながっている」、この視点がいのちの根底にあると思います。(大塚司教)

 人は皆つながっている。生きている、だからつながっているのです。地上でつながっている人は天上でもつながれる。 

つながる。兄弟となってくれる。損をしてもいい。その人の心の奥につながればいい。その人が自分を思ってれる人がいると思えればいい。 

つながるところに神様はおられる。神様はそのつながりを見ていてくださる。

つながりこそ愛です。地上で愛を行っている人は天上でも愛の光が見える。愛の温かさのうちにいる。

年間第22主日A  エレミヤ207-9 ローマ121-2 マタイ1621-27      20-8-30

  イエスは言われる。「わたしはエルサレムで長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することのなっている。」
 それを聞いて、ペトロはイエスをわきへお連れしていさめ始めた。
「イエス様、何を言うのですか。あなたはメシア、生ける神の子。人々を救う方、わたしたちに神様の救いをもたらす方ではないですか。あなたによって平和が与えられる。あなたによってまことの、最高の喜びが与えられるのではないですか。でも、あなたは多くの苦しみを受ける、殺されると言われる。そんな事があろう筈がない。あなたはわたしたちを勝利に導かれる方。希望がなくなってしまうようなことは二度とおっしゃらないでください。そんなことがあってはなりません。」

イエスは厳しい心をもって言われた。

「サタン、引き下がれ。」 サタン:敵または反対者。反逆の天使デーモンの長をさす。 
「あなたはわたしの道を邪魔するもの。神のみ心に反対する者。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
わたしの道は人々に快楽を与えるためのものではない。経済的に豊かさを求めるものではない。
リニア・カーの新幹線で大阪まで1時間で行ける?旅する心がなくなってしまう。人と出会う、時を待たねばならない、心のときめきがなくなってしまう。
神様は言われる。苦しみを見つめなさい。何が苦しいのですか。自分を見つめなさい。手助けを求めなさい。手助けとなりなさい。苦しみを超える力を持ったらいい。 

わたしについて来たい者は自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい。

怠けた者の苦労を背負う。こんなことまでするのですか。あのおじいちゃんは同じ話を何度も何度も聞かされる。笑顔で聞いている。 神様、疲れました。 わたしのところで休みなさい。一緒にお茶を飲みましょう。
怠けている者と一緒に歩く。でも不平を言ってはいけない。ある時、どんどん荷物が増えて来る。
もうこれ以上は背負えないよ。それを一つ背負ったらどうかな。これ以上あるなら、一緒に歩けなくなってしまう。
同じ話を何度も何度も話すおじいちゃん。おじいちゃんはきっと、同じ話を聞いてくれる人がいる、それを安心しているかも知れないよ。その人はあなたと一緒にいてほしいのさ。

わたしのために苦しんでくれた人がいる。その人はわたしに恩着せがましいことを何も言わなかった。その人はわたしを大切にしてくれたのだと思う。今、考えると、涙が出るくらい嬉しい。

 イエス様は言われているのです。いのちを見つめながら一緒に歩こう。

わたしたちは、人のいのち、特に、隣人のいのちを見つめながら、手助けしながら、手助けを求めながら、イエスと一緒に歩いて行きます。

年間第21主日A  イザヤ2219-23 ローマ1133-36 マタイ1613-20     20-8-23

イエスと弟子たちはフィリポ・カイサリア地方に着きました。フィリポ・カイサリア地方は異邦人の地です。いろいろな神様が祭られています。ギリシャの神々、地域の神々、そして、ここはバール信仰の拠点となる所です。ローマ皇帝の祭壇もあります。

神とは何か。神に何を求めているのか。神にどのように従うのか。信仰とは、信仰生活とは何か。
フィリポ・カイサリアという大都市で、人々は自分の思うままに神を選んでいるのです。 

イエスは弟子たちに問います。「人々は、人の子の事を何者だと言っているのか。」
「あなたは預言者、神様のみ心を語る人、憐れみを行う人。あなたと共にいたい。あなたのことばを聞きたい。あなたの中に安心がある。平安がある。人々は、あなたを洗礼者ヨハネだと言っている人も、エリヤだと言う人も、エレミヤ、預言者の一人だと言っている人もいます。」「それでは、一緒に生活しているあなたたちは人の子、わたしを何者だと言うのか。」「わたしたちはあなたに神様の姿を見ています。あなたは神様のみ心を語る言葉を持っておられます。あなたは神様の目を、耳を持っておられます。『あなたはメシア、生ける神の子です。』」 

イエスはメシア。人々はイエスに救いを求めている。イエスは人を救う方。
わたしたちは救いに何を求めていますか。・大きな病気をしないこと。・大きな事故に巻き込まれないこと。・善い出来事に会うこと。・いつも、平安でいられる事。 それが救いですか。

イエスはわたしたちに求めておられます。 救いとは、感謝を忘れない、隣人に与え続ける、人々のために働くことではないですか。 支えられて生きている、それを忘れてはいけない。
わたしに従いなさい。そうすれば生きている命が分かる。支え合う。愛が分かる。命は愛すること。生きる、あなたが生きるのではない。隣人が生きる。みんな一緒に生きる。あなたはその人のための助け手となる。それが愛ではないでしょうか。
救いとは、荷物を背負うことです。愛とは荷物を背負うことです。 

「わたしは何者か。」
「あなたはメシア。あなたのうちに救いがある。
あなたの道を歩みます。」 

イエスは、ご自分がメシアであることを誰にも話さないように、命じられた。
 メシアを知りたい、メシアとつながりたい。

年間第20主日A  イザヤ5616-7 ローマ1113-1529-32、 マタイ1521-28  20-8-16

ファリサイ派、律法学者の人々がイエスに言います。 
律法を守る、これが神様への信仰の道ではないですか。 
イエスは言います。あなたたちは自分の言い伝えのために神の掟を破っている。  
たとえば、父、母が求めているものを、これは神様への供え物ですよと言えば、父、母へあげなくてもよいと言っている。その心は父母への敬意を失くしている。神様の掟を無にしているのではないか。 「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。」(マタイ151~

イエスはそこを去って、異邦人の地に行かれた。異邦人:神を知らない人たち。しかし、異邦人も神様が造られたもの。わたしたちの兄弟ではないか。
カナンの女がイエスに向かって叫ぶ。「わたしの娘が悪霊にひどく苦しめられています。」
イエスはその叫びを無視する。この女は娘の癒しを求めているのか。イエスは何も答えない。
癒しの力を求めている。これは信仰から出るものではない。苦しみ、悲しみを癒す。その思いやりの心を信仰だと思ってはならない。慰めの力を求める。偶像に求めなさい。この女は何を求めているのか。
弟子たちが近寄って来て願う。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ます。」
イエスは弟子たち、女に言う。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない。わたしは神様に仕える者。神様のいのちを見失った羊のために働く。まことのいのちを見つめている。羊にまことのいのちを求め、負った傷を癒す。」

しかし、女はイエスのもとに来る。イエスにひれ伏す。「主よ、どうかお助け下さい。」
「子供たちのパンを小犬にやってはいけない。」 信仰のない命は消えて行く。そのいのちは何のためか。その友と何を造って行くのか。そのいのちはどのような喜びを求めているのか。
主のパンによって、主の思いのうちに生きる。支え合って、いのちが生きる。
「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
主よ、イエス様よ、主のパンを知りました。そのパンのいのちにあずかりたい。
パン屑でも拾い集めます。パン屑でも与らせてください。 
イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。」

律法を超えて神様の憐れみ、神様の慈しみを知った。
いのちが何であるかを知った。

年間第19主日A  列王記上1909a 11-13a,  ローマ91-5 マタイ1422-33    20-8-9

  エリヤは40日、40夜歩き続け、神の山ホレブに着いた。そこにあった洞窟に入り、夜を過ごした。主はエリヤに言われる。そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい。山の中に立つ。神の存在を感じる。激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いたしかし、風の中に主はおられなかった。地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。その時、全身で神様を、主を感じた。

神様は天地を従えておられる。神様の前で天地は動く。しかし、動く出来事の中に神様はおられなかった。目に訴えるもの、耳に聞こえるものの中に神様はおられない。心を神様に向ける。心を開く。その時、ささやくように神様は語られる。心にはっきりと語られる。  

神様との出会いは神様からの思いです。あなたが出会いたいからではなく、神様があなたを求める、それが神様との出会いだと思います。心をもっともっと神様に向けたいと思います。 

「群衆を解散させてください。人々は皆、村の食べ物を買いに行くでしょう。」「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」 村で売っている物ではなく、神様のパンを食べ物とするのです。神様のみ心をたらふく食べ、満腹してもらいたい。イエスは多くの群衆に賛美と感謝の祈りで祝福されたパンを弟子たちの与えられた。弟子たちはそれを配った。パンはなくならなかった。皆が食べ、満腹した。

イエスは弟子たちを舟に乗せ、向こう岸に渡らせた。群衆を解散させ、一人、祈るために山に登られた。祈った。深く祈った。 

舟は湖を渡っている。岸から1キロも行かないうちに、逆風が起こり波に悩まされている。

夜が明ける頃であった。イエスはそれを見て、湖の上を歩いて、弟子たちのところへ行かれた。

夜が明け始めている。湖の上、静かな光の中を人が歩いている。弟子たちは幽霊だと言って、脅え、恐れのあまり、叫び声をあげた。イエスは言う。「わたしだ。恐れることはない。」

「わたしだ。」これはギリシャ語で「エゴ、エイミー」です。わたしはある。モーセが神様の名を聞いた時、神様は言われました。「わたしはある」。イエスはその名を語ったのです。

 ペトロは言う、「主よあなたでしたか。わたしも水の上を歩きたい。わたしに命令して、水の上を歩いて、そちらに行かせてください。」「来なさい。」ペトロは舟から降りた。水の上を歩いた。イエスの方に向かって行く。強い風が吹いている。ペトロは強い風に気づいて怖くなった。ペトロは沈みかけた。イエスは言う。「信仰の薄い者よ。なぜ疑ったのか。」 

ペトロ、何を恐れるのか。死ぬことを恐れているのか。あなたはわたしにつながっている。あなたはわたしの中にいる。死ぬことはない。 

船が湖を進みます。舟は教会、湖は社会のたとえです。教会が語る、教会が行う。社会は教会の心の反対する。教会はへこたれてしまう。社会の中で信仰生活できない。苦しい、悲しい。イエスが来られる。皆を包む。静かに、ゆったりと、ほほ笑みをもって、語りなさい、行いなさい。教会は社会の皆に敵対するのではない。社会を生きるものとするのです。

年間第18主日A  イザヤ551-3  ローマ83537-39  マタイ1413-21      20-8-2

  イエスはヨハネが首を切断されて死んだことを知った。舟に乗り、そこを去って、人里離れた所に退かれた。ヨハネは幼い頃からの友達だった。マリアとエリザベトは親戚かも知れません。成人になって、ヨハネは信仰の道を歩いた。イエスも信仰を生きる。ヨハネがヨルダン川で神様を語っている。神の道を歩む決心を表す洗礼を授けている。イエスは人々のそんな話を聞いた。ヨハネのもとには大勢の人たちが集まっている。人々はヨハネのもとに行き、話を聞く、そして洗礼を受けるのです。ヨハネの宣教はイスラエルを動かしている。イエスはヨハネのもとに行き、洗礼を受けた。

 イエスは町や村に出かけて行きます。町や村で神様の話を語ります。イエスの顔を見ると人々は集まってくる。イエスの話を聞きたい。神様の話を聞きたい。聖書物語を聞きたい。イエスは集まったみんなの中に入り、生きる喜びを語ります。神様の恵みについて語ります。時に、イエスは病人を癒されます。それを見た人々はよけい驚きます。

人々はイエスの温かい話を喜ぶ。穏やかな口調を喜ぶ。イエスの叱る言葉が心に突き刺さる。

 イエスはヨハネの死を知り、思います。預言者はこのように世を去る。多くの預言者は、常に迫害され、追放され、そして惨めに死んでいった。友ヨハネが世を去った。人里離れた所に行き、祈られた。深く深く祈られた。神様のみ心のうちに入られた。 

群衆はついにイエスを見つけた。イエスは群衆を見て、深く憐れまれた。生きている人たちの生きている姿を見た。動いている命を見たのです。そして、その中の病人を癒された。生きなさい。生きる命の喜びを見出しなさい。

夕暮れになった。「人々を解散させてはどうでしょうか。それぞれが村に買い物に行くでしょう。」「いや、行かせることはない。あなたたちが食べ物を与えなさい。今、人々は神様のみ心のうちにいる。わたしの言葉のうちにいる。人々にわたしが食べものを与えよう。」

イエスはパンを取った。賛美の祈りを唱えてから、パンを裂き、弟子たちにお与えになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人がパンを食べて満腹した。

飢えが満たされた。人々はイエスを食べることが出来た。飢えが満たされ、渇きが癒された。人々はイエスを求めた。イエスが心の中に入った。体の中に入った。

 渇いている者は皆、水のところに来なさい。

飢えている者は皆、穀物のところに来なさい。 

まことの渇き、飢えは魂の渇き、飢えではないでしょうか。命が見えない、正義が見えない、憐みが分からない。何のために生きているか、何に向かって生きているのか分からない。自分を打ちのめす命の力に出会っていない。 まことの水はあるのか。どこにあるのか。

心を空にして、目を閉じ、耳を傾けなさい。

その方は言われる。わたしに聞き従いなさい。わたしはあなたに命を与えた、与えている。わたしの水を心行くまで飲み、わたしの穀物を心行くまで食べなさい。わたしの中に入りなさい。わたしはいつもあなたを見ている。あなたを包んでいる。出来事に心身を投じなさい。その時、もっともっと渇く、飢える。

神様を求める時、飢えがある、渇きがある。

もっともっと神様を求めなさい。神様を食べなさい、神様を飲みなさい。

 

年間第17主日A    列王記上357-12 ローマ828-30 マタイ1344-52      20-726

  イエスは天の国を語ります。物語のように、童話のように語ります。まるで、この世から、今ここから天の国は始まっているのですと言うように、イエスは語られるのです。  

畑があります。その畑に宝が隠されている。その畑を見た者は、畑のその宝を見た者は持ち物をすべて売り払ってその畑を買います。 畑の中に宝が隠されている。それを見つけたのですか。       この畑に麦、野菜、果物がどんな具合に実るか。その畑の地質はどうか。 申し分のない豊かな土地だ。その畑はどのようなところにあるのか。 水はある、陽は充分照り付ける。必ず大きな収穫がある。あぁ、その土地を手に入れたい。 今迄持っていたものをすべて売り払ってその畑を買う。

すぐに働きます。精魂込めて働きます。実りを信じて働きます。働いた。働いた。働きで得た収穫物、麦、野菜、果物はみんなのもの。みんなの収穫。みんなの笑顔が生まれる。 

働いて天の国が見えるようになる。そのすべての出来事が天の国の出来事ではないでしょうか。 

天の国にこんな別なたとえがあります。 商人が善い真珠を探している。ついに善い真珠を見つけた。その真珠はまことの真珠。真珠は何ミクロンかの膜で造られている。何万回も、何十万回も、何百万回もの薄い膜で造られている。動物、鉱物の命が時間のなかで、つながって膜となる。その膜が命の輝き。時間の中で過ごした命が膜となって神様の恵みによって輝いている、言葉を超えて輝いている。その真珠の中に神様のまことの憐れみを見る、憐れみを知る。

真珠こそ神様のみ言葉、神様の愛。 持ち物をすっかり売り払って、それを買う。

天の国は湖に網を降ろして、漁をしている様相です。網がいっぱいになるほど魚が取れた。天使たちが来てより分ける。善い魚は喜びの器に入れられる。悪い魚は燃え盛る炉の中に投げ入れられる。 湖はこの社会。魚は神様の呼びかけに歩きまわります。しかし、一人一人に決断の時が来る。 あなたは神様の言葉をどのように受け取っていましたか。あなたは毎日の生活をどのように過ごしていましたか。  

もう一度思います。天の国はこの世から始まっているのではないでしょうか。

目の前の出来事を自分の心で判断しなさいと言われているようです。

今、あなたはどんな畑を持っていますか。収穫をどのように使っていますか。

隣人のために働いていますか。あなたの隣人はどんな人ですか。

まことの真珠を見つけましたか。 それは祈りの中にありましたか。聖書の中にありましたか。奉仕活動の中にありましたか。  

自分の思いを捨てた時に、まことの畑、まことの真珠を見つけられるのではないでしょうか。

心の目で見る。心の耳で聞く。  

年間第16主日A  知恵121316-19 ローマ826-27 マタイ1324-43     20-7-19

  イエスは天の国をたとえで語られます。

「良い種を蒔いたのに毒麦が生えてきました。どこから毒麦が現れたのでしょうか。」

「敵の仕業だ。」 「毒麦を抜き集めましょうか。」 「いや、刈り入れの時まで両方とも育つままにしておきなさい。」

農家のお手伝いをしています。 「そこに毒麦が育っています。あそこにもあります。早いとこ抜き取りましょうか。」「いや、育つまで待とう。」 善い種を蒔いたのに毒麦が育ってしまった。善い種が蒔かれた。芽を出した。 その時、赤ちゃんが生まれた時の事を思ったのです。赤ちゃんの目は澄んでいる。透きとおっている。キラキラ輝いている。この子はきっと良い子になるよ。子どもは成長して、青年になる。大人になる。

良い種はよい麦になる。心の透きとおった赤ちゃん子はよい青年になる。そうかなー。

ある青年は自分の欲求のうちに生きる道を選んでいる。わがままになった。悪いことをするようになった。 「毒麦だ、今のうちに刈り取ってしまおう。」「いや、待とう。」「その青年はまことの温かさを知らないで成長したんだ。まことの優しさ、穏やかさをもって接してみよう。わたしのもとに戻ってほしい。能力のない人を馬鹿にしたり、ものを知らない人を馬鹿にする。お金のない人を軽視する。馬鹿にされたくないから、暴力を振るう、悪口を言う、妬む。ある人は自分の中に閉じこもる。苦しんでいる人たちが毒麦になってしまう。良い麦として育てたい。」

毒麦を静かに受け入れたい。つながれたらいい。温かさを伝えられたらいい。もしかすると、他人の目におがくずを見つけたあなたの目に丸太があるかも知れない。

天の国は動いていると思うのです。もしかすると、わたしたちはこの世に生まれた時から天の国にいるのかも知れません。神様のいのちで生きる。神様の恵のうちにいる。わたしたちの父さんは神様です。天の国の出発が与えられている。わたしたちは、まだ、天の国を受け取っていないのです。

人の命を大切にするために働くことが出来ない。求めている人たちのために与え続けるて行くことが出来ない。自分の思いがあったら、神様が見えない。わたしたちは神様の道具として造られた。

良い種が蒔かれた。世に生まれた。天の国はじっとしていない。悪い麦を切り捨てない。善い麦になるようにわたしたちを使って、働きかけている。  

じっと自分を見つめる。自分の心を見つめる。そして、自分の欲求を消す。自分の思いを消す。

祈る。自分が祈る。祈る、祈る、祈る。自分を捨てて神様の前に座る。祈るのは自分ではない、神様の霊が祈りを導いてくれる。

天の国を知るために、神様はパンを捏ねらせる。畑を耕させる。見えないくらい小さい種を蒔かせ、育てさせる。働かなければ天の国は見えない。天の国は心と体に入って来ない。

たとえば、洗礼を受けた。神の子となった。教会の仲間となった。神様につながっているから天の国に入れる。洗礼の道を歩かなければ、天の国が分からないと思います。洗礼の道を歩きながら、天の国が何かが分かってくる。せんれいは天の国の出発です。もう、天の国に入っている。でも、横道に入ってしまうと、天の国が見えなくなってしまう。

 神様のいのちを注がれてこの世に生まれた。しかし、この自分の命は自分のものではないですかと思ってしまう。自分の心と体、だから自分のために働く。なぜ悪いのかと思ってしまう。

年間第15主日A  イザヤ5510-11 ローマ818-23 マタイ131-23         20-7-12

  イザヤの預言が心に沁みました。

「雨も雪も、ひとたび天から降れば むなしく天に戻ることはない。」

毎日、わたしたちまわりにはいろいろな出来事が起きています。出来事はすべて神様からのものだと思います。一つ一つに重さがある。出来事の豊かさがある。出来事に訴えるものがある。

善い出来事、嫌な出来事、その中でも、もう聞きたくもない出来事があります。  

ついこの間、三歳の児が飢え死にするという事件が起きました。お母さんは24歳。お母さんは外出、家にいない。その子は8日間部屋に閉じ込められて、ほったらかしにされた。誰も訪ねない。その子は飢えで死んでしまった。 

この出来事は、今、わたしたちの社会で起きた。(東京都蒲田1丁目の事件です。実は、蒲田はわたしの住んでいたところ(実家)からそれほど遠くないところです。だから余計にびっくりしました。)  わたしたちはこの事件に何を見ますか。そんなに突拍子もない出来事のように思われないのです。 社会の仲間から離れている。家庭が壊れている。親と子の関係がない。…… 

神様はいつも、命の大切さを語ります。どんなことが起こっても命を大切にしなさい。何よりも命を思う。生き方を思う、考え方を思う、それは命を大切に導くものであってほしい。

神様のみ言葉は発せられた。空しくは戻らない。わたしが与えた使命を必ず果たす。

神様のみ言葉はわたしたちに語られているのです。  

 

イエスはたとえを用いて語られる。人々はイエスのまわりに集まる。イエスの話を聞きたい。イエスは童話のような、昔話のような語り口で神様を語られる。時々神様の業を行われる。イエスが話し始めると、イエスの言葉が耳から心の中に入ってくる。その時には、皆、イエスの話の中に入っているのです。イエスの話に入った時、話の中に光が見えたように思います。

でも、今日のイエスは舟に乗り、腰を下ろされました。そして、種を蒔くの種蒔きの話をされました。この種は単数で書かれているとある神父さんが言いました。種を蒔く、全く同じ種分けることの出来ない全く同じ種です。 その種を種蒔きは手で握って、ざあーっと蒔く。あるところは、ここに種を蒔いたあって仕方がないよ。みんな会社の仕事で精一杯だ。ある人は言います。飲み屋に来て種なんかを蒔くなよ。酒がまずくなる。ある青年は言います。今試験勉強で大変なんです。この勉強が終わったら、種を受け取ってみようと思います。ある人は言いました。この種を貰います。育てるのですか。気を長く持って、種も育ち方を見ます。

種がよい土地に蒔かれたら、根を出す。育つ。木になる。茂る。そして、実を結ぶ。種が蒔かれている。それを受け取る。育てる。苦労が多い、忍耐がいる。

それを受け入れる人は大きな実を見る。とてつもなく大きな、たくさんの実を得る。 

それが神様の思いです。イエスは聞きます。あなたはどこにいますか。

でも、今、みんなは種が蒔かれている事を知りました。今、ここで聞きました。

種に、耳を傾けます。種を見ます。見つめます。 

イエスの言葉に耳を傾けます。イエスの業に心を留めます。

イエスの中に入ってみます。イエス様、種を貰いに来ました。

種蒔きはイエス様。種はみ言葉、み心。  

イエス様、わたしたちも種蒔きになりたい。


年間第14主日A ゼカリヤ99-10 ローマ8911-13 マタイ1125-30         20-7-5

 人は見える体と、見えない心を持っています。わたしたちは心で思い、体で表現します。神様が体を造られ、心を造られた。土に塵で体を造られ、神様の思いを受け入れる心を造られたのです。心に善い事を刻まれた。そして、神様は心に神様の霊を送られています。

神様のみ心がわたしたちの心になったらいい。そうであれば、わたしたちは神様のみ心のまま働きます。神様のみ心のままに語ります。み心のままに行います。

神様は言われます。あなたはわたしの道具である。わたしの思いのままに行いなさい。

 あぁ、そうか。わたしたちは神様から離れて行ってしまったんだなと思うのです。わたしたちは、今、自分の欲求のままに動いている。自分の楽しみのために動いている。じっとしていることが出来ない。静かに、おおらかに、ゆっくり過ごすことが出来ない。楽しみをいつも求めている。

この体は手助けを求めている人のために働く体です。手助けするための体です。 

「親孝行、したい時には親はなし」わたしもよく聞かされました。

中学生、高校生になると親から離れるのは当然だと思っていました。親から離れると言っても、一人で生活するのではありません。父さん、母さんのいう通りにはならないという事なのです。それはは反抗期だよと言われてしまいます。 自由になりたい。自分の思う通りにしたい。 

「そんなことをしてはいけない。」「そんなのはただの我儘でしょ。」「訳の分からない事ばっかり言って。」 そんな枠の中にいるのは嫌だ。 中学生、高校生が自由とは何か。生きる命とは何かを考えているのではない。けれど、自由になりたい。自分の思う通りにしたいのです。親の言いつけから自由になりたい。学校の規則から自由になりたい。わたしは高校3年生まで坊主頭でした。制服を着なさい。帽子をかぶりなさい。教科書を教室にしまっておいて鞄の中は空っぽという者もいました。喫茶店に入ってはいけない。保護者がいなければ映画に行ってはいけない。

今から考えると、可愛いなと思います。そんな事に懸命になっていた。人生とは何か。この人生に、この命に目的はあるのか。そんな事には全く関係のない反抗期でした。しかし、人生論は文庫本で次から次へと読んでいたのです。

父さん、母さんの思いを悟りなさい。子供の生き方を大切にしている。子供よ、自分の欲求、楽しみから解放されたらいい。父さん、母さんは子供たちにそんな言葉をかけられたらいいのです。 

イエスはわたしたちに父さんの心、母さんの思いやりに心を留めなさいと言っているのだと思います。イエスは年を取ったわたしたちに言われるのです。あなたたちはまだ反抗期ですね。  

人を愛しなさい。特に、助けを求めている人たちを愛しなさい。

愛する:与え続けることです。 与え続けたから貧しくなってしまった。そうだね、貧しくなった分、助けられたね。お互いほほ笑み合えたらいいですね。 

働くことに疲れたら、イエスのところに行って休みなさい。不平を言いたかったら、イエスに向かって、ありったけ話しなさい。聞いてくださる。そして、言われます。隣人を忘れてはいけない。手助けすることを忘れてはいけない。あなたも支えられている。ありがとうの心を忘れてはいけない。  

みんな、子供のように父さん、母さんの思いを行えたらいい。

人は皆兄弟。兄弟のように助け合えたらいい。 


年間第13主日A  列王記下48-11,14-16a ローマ63-48-11 マタイ1037-42   20-6-28

  ここ木更津教会はいろいろな自然に囲まれています。すぐそこには港があります。山々が見えます。歩いて行くと、公園があります。緑に囲まれ、ゆったりとした広場です。木々がきれいだな、珍しい鳥が飛んでいる。ある人が言いました。木が生きている。木も太陽を求めて、水を求めて懸命に生きているんだよ。鳥も自然に生きているというけれど、競争で食べ物を探しているんだね。あぁ、そうか。ちょっと思いました。わたしたちには、自然は和やか、おおらかに見える。しかし、自然は生きているものには優しい以上に厳しさを求めている。

わたしたちも自然の中に生きています。考えますと、わたしたちは実にいろいろな物に、いろいろな出来事に包まれて生きているのですね。いや、それ以上にわたしたちが生きているという事は、周りにある、見えるもの、見えないものに支えられている。自然に支えられて生きているのですね。 

 今日、イエス様はわたしたちに、厳しい事を言われます。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」

わたしたち一人一人に、父がいる。母がいる。兄弟、姉妹がいる。また、毎日の生活の中で、仕事の中で、一緒に歩いている仲間、友人がいる。その人たちをわたしの思いよりも、大切にするのなら、わたしにふさわしくないと言われるのです。 まことにイエス様はそういわれたのですか。

 わたしは父さんと母さんの愛によって生まれたのではないですか。そして、父さん母さんの愛によって,家庭で育っていったのではないですか。父さん、母さんの支えによって生きている。父さん、母さんによって今、ここに生きているのではないですか。

十戒にも、父母を敬いなさいと書かれています。十戒は神様のみ心だと思います。 

 ルカはもっと厳しく言われます。父、母、妻、子供、兄弟、姉妹、を更に自分の命であろうとも、こ  れを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。(ルカ1425~ 

神様に声をあげたいと思います。 

わたしは父さん、母さんの子ではないのですか。神様、わたしはあなたにとって何なのですか。

あなたはわたしの愛する子である。わたしはあなたの父さん、母さんの愛を包んでいる。わたしは父さん、母さんを通してあなたを生んだ。あなたは父さん、母さん以上にわたしの子である。

父さん、母さんを憎みなさい。これはわたしの命令です。もし、あなたが父さん、母さんの世界に入り、そこに住むならば、あなたのいのちは死んでしまう。

父さん、母さんはあなたに命のまことを教え、まことの生き方を教えるのです。父さん、母さんはあなたに一番近い、一番深いつながりです。しかし、いのちに働きは父さん、母さんの世界から自由なのです。あなたのいのちは神様から注がれた神様のいのちです。まことのいのちを生きなさい。今、父さん、母さんの悪口を言っているわけではありません。

父さん、母さんの愛を超える愛、見える愛を超える愛がある。愛による命。それがあなたに注がれている。それを知ってもらいたいのです。 その愛のうちに生きるのです。  

父さん、母さんを憎め。 父さん、母さんから全く離れる。全く離れた時、父さん、母さんが見えます。父さん、母さんのいのちの姿が見えます。憎むとは自分の独立です。今迄のつながりを捨てることです。一人の人として立つ。人として父さん、母さんと対等に立つことが出来る。

憎め:未練が残る、甘えていたい、その心を憎みなさいと考えたいのです。心と体が父母と、何処かつながっていたいその思いを捨てます。それがあれば、全く神様のものとなれない。

愛は自分を捨てるという事です。神様を愛する。その時、自分の思い自分でありたい、自分の思い出、いろいろな欲求は捨てます。

 十字架を背負ってわたしに従いなさい。 イエス様の背負った十字架は人の罪。あなたは隣人のいのちのための荷物、十字架を背負って、わたしと一緒に歩きましょう。


年間第12主日A エレミヤ2010-13 ローマ512-15 マタイ1026-33     20-6-21

  人に気を使って生きている。失敗を気にして生きている。褒められたいと思って生きている。

誰に気を使っているのですか。誰のために、何のために生きているのですか。 

無意識にですけど、失敗したくないと思っている。友だちに失礼なことをしたくないと思っている、自然と日常生活でも気を使っているのです。  

イエス様は言われました。「人々を恐れてはならない。」わたしたちは人から軽んじられたくない、何も出来ないと思われたくないと思っているのでしょうか。気を使いならが生きているのではないでしょうか。 障害を持っている人は特に人の目を気にすると思います。今は差別語となっていますが、ちび、びっこ、どもりという言い方がありました。その言葉には軽蔑の心があったのです。そんな言い方に敏感に感じてしまう。恐れてはならない。気にしないふりをして、気にしているのです。  

お前は神様に愛されているのですよ。イエス様はわたしたちにそう言われています。お前は神様の子だよ。神様はお前に命を注がれてお前はこの世に生きる者となったんだ。お前が頭がよい、知識がたくさんある、頭の回転が速い、そんな子だから、わたしの子なのではない。運動が出来るからでもない、お前は心が強いからわたしの子なのです。善い事が好きだから、神様を知りたいから、わたしの子なのです。  

でも、わたしは人に言えるような善い事はやった事がない。人の見ていないところでちょこっと悪い事ばかりしている。気が弱い。誘惑に負けてしまう。皆の前でおじけづいてしまう。はっきり表現できない。自分が思っている事をうまく人に伝えられない。誠意を持ってやるけれど、嫌みに取られてしまう。  

神様は全部見ておられる。大切なのは心だ。つながっている心。つながりたい心だ。心からの行いは人に見せるものではない。神様に向かっている心じゃないかな。

欲張りの心をやめて、何も出来ないと思う心をやめて、心静かにゆったりとしよう。

こんな僕にも、お前はわたしの子だと言ってくれている。僕は、何もしない子じゃなくて、何か出来ればいいと思っている、そんな子。

一番大切なのは、何かをやってあげるのではないよ。喜びをあげるのではないよ。やってあげて喜ぶ、喜びをあげのは大切かも知れない。それ以上に、その人の話を聞いてあげることだと思う。

その人の愚痴を聞く、ずっと聞く。何時間でも聞く。ある人は人の悪口しか言わないかも知れない。

自分の欠点しか言わないかも知れない。訳の分からない事しか言わないかも知れない。それをじっと聞くのです。疲れる、それに耐えられたらいいね。相づちを打つんだ。

「あいつは何も喋らない。ただ、人の話を聞いているだけだ。」「いや、そうじゃない。あの人は相づちを打ってくれる。笑顔でじっと話を聞いてくれるよ。」  

神様は言われます。もう一度聞きなさい。わたしが選んでお前をこの世に生んだのです。わたしの子がどんなに小さい子であっても、どんなに弱い子であっても、お前はわたしの子です。

お前を愛しています。 雀もわたしが造った。雀よりはるかにお前の方がまさっている。  

覆われているものは姿を現す。隠れているものは知らされる。 あなたは何者か。わたしは小さい者、弱い者。しかし、神様の子です。