年間第15主日A  イザヤ5510-11 ローマ818-23 マタイ131-23         20-7-12

  イザヤの預言が心に沁みました。

「雨も雪も、ひとたび天から降れば むなしく天に戻ることはない。」

毎日、わたしたちまわりにはいろいろな出来事が起きています。出来事はすべて神様からのものだと思います。一つ一つに重さがある。出来事の豊かさがある。出来事に訴えるものがある。

善い出来事、嫌な出来事、その中でも、もう聞きたくもない出来事があります。  

ついこの間、三歳の児が飢え死にするという事件が起きました。お母さんは24歳。お母さんは外出、家にいない。その子は8日間部屋に閉じ込められて、ほったらかしにされた。誰も訪ねない。その子は飢えで死んでしまった。 

この出来事は、今、わたしたちの社会で起きた。(東京都蒲田1丁目の事件です。実は、蒲田はわたしの住んでいたところ(実家)からそれほど遠くないところです。だから余計にびっくりしました。)  わたしたちはこの事件に何を見ますか。そんなに突拍子もない出来事のように思われないのです。 社会の仲間から離れている。家庭が壊れている。親と子の関係がない。…… 

神様はいつも、命の大切さを語ります。どんなことが起こっても命を大切にしなさい。何よりも命を思う。生き方を思う、考え方を思う、それは命を大切に導くものであってほしい。

神様のみ言葉は発せられた。空しくは戻らない。わたしが与えた使命を必ず果たす。

神様のみ言葉はわたしたちに語られているのです。  

 

イエスはたとえを用いて語られる。人々はイエスのまわりに集まる。イエスの話を聞きたい。イエスは童話のような、昔話のような語り口で神様を語られる。時々神様の業を行われる。イエスが話し始めると、イエスの言葉が耳から心の中に入ってくる。その時には、皆、イエスの話の中に入っているのです。イエスの話に入った時、話の中に光が見えたように思います。

でも、今日のイエスは舟に乗り、腰を下ろされました。そして、種を蒔くの種蒔きの話をされました。この種は単数で書かれているとある神父さんが言いました。種を蒔く、全く同じ種分けることの出来ない全く同じ種です。 その種を種蒔きは手で握って、ざあーっと蒔く。あるところは、ここに種を蒔いたあって仕方がないよ。みんな会社の仕事で精一杯だ。ある人は言います。飲み屋に来て種なんかを蒔くなよ。酒がまずくなる。ある青年は言います。今試験勉強で大変なんです。この勉強が終わったら、種を受け取ってみようと思います。ある人は言いました。この種を貰います。育てるのですか。気を長く持って、種も育ち方を見ます。

種がよい土地に蒔かれたら、根を出す。育つ。木になる。茂る。そして、実を結ぶ。種が蒔かれている。それを受け取る。育てる。苦労が多い、忍耐がいる。

それを受け入れる人は大きな実を見る。とてつもなく大きな、たくさんの実を得る。 

それが神様の思いです。イエスは聞きます。あなたはどこにいますか。

でも、今、みんなは種が蒔かれている事を知りました。今、ここで聞きました。

種に、耳を傾けます。種を見ます。見つめます。 

イエスの言葉に耳を傾けます。イエスの業に心を留めます。

イエスの中に入ってみます。イエス様、種を貰いに来ました。

種蒔きはイエス様。種はみ言葉、み心。  

イエス様、わたしたちも種蒔きになりたい。


年間第14主日A ゼカリヤ99-10 ローマ8911-13 マタイ1125-30         20-7-5

 人は見える体と、見えない心を持っています。わたしたちは心で思い、体で表現します。神様が体を造られ、心を造られた。土に塵で体を造られ、神様の思いを受け入れる心を造られたのです。心に善い事を刻まれた。そして、神様は心に神様の霊を送られています。

神様のみ心がわたしたちの心になったらいい。そうであれば、わたしたちは神様のみ心のまま働きます。神様のみ心のままに語ります。み心のままに行います。

神様は言われます。あなたはわたしの道具である。わたしの思いのままに行いなさい。

 あぁ、そうか。わたしたちは神様から離れて行ってしまったんだなと思うのです。わたしたちは、今、自分の欲求のままに動いている。自分の楽しみのために動いている。じっとしていることが出来ない。静かに、おおらかに、ゆっくり過ごすことが出来ない。楽しみをいつも求めている。

この体は手助けを求めている人のために働く体です。手助けするための体です。 

「親孝行、したい時には親はなし」わたしもよく聞かされました。

中学生、高校生になると親から離れるのは当然だと思っていました。親から離れると言っても、一人で生活するのではありません。父さん、母さんのいう通りにはならないという事なのです。それはは反抗期だよと言われてしまいます。 自由になりたい。自分の思う通りにしたい。 

「そんなことをしてはいけない。」「そんなのはただの我儘でしょ。」「訳の分からない事ばっかり言って。」 そんな枠の中にいるのは嫌だ。 中学生、高校生が自由とは何か。生きる命とは何かを考えているのではない。けれど、自由になりたい。自分の思う通りにしたいのです。親の言いつけから自由になりたい。学校の規則から自由になりたい。わたしは高校3年生まで坊主頭でした。制服を着なさい。帽子をかぶりなさい。教科書を教室にしまっておいて鞄の中は空っぽという者もいました。喫茶店に入ってはいけない。保護者がいなければ映画に行ってはいけない。

今から考えると、可愛いなと思います。そんな事に懸命になっていた。人生とは何か。この人生に、この命に目的はあるのか。そんな事には全く関係のない反抗期でした。しかし、人生論は文庫本で次から次へと読んでいたのです。

父さん、母さんの思いを悟りなさい。子供の生き方を大切にしている。子供よ、自分の欲求、楽しみから解放されたらいい。父さん、母さんは子供たちにそんな言葉をかけられたらいいのです。 

イエスはわたしたちに父さんの心、母さんの思いやりに心を留めなさいと言っているのだと思います。イエスは年を取ったわたしたちに言われるのです。あなたたちはまだ反抗期ですね。  

人を愛しなさい。特に、助けを求めている人たちを愛しなさい。

愛する:与え続けることです。 与え続けたから貧しくなってしまった。そうだね、貧しくなった分、助けられたね。お互いほほ笑み合えたらいいですね。 

働くことに疲れたら、イエスのところに行って休みなさい。不平を言いたかったら、イエスに向かって、ありったけ話しなさい。聞いてくださる。そして、言われます。隣人を忘れてはいけない。手助けすることを忘れてはいけない。あなたも支えられている。ありがとうの心を忘れてはいけない。  

みんな、子供のように父さん、母さんの思いを行えたらいい。

人は皆兄弟。兄弟のように助け合えたらいい。 


年間第13主日A  列王記下48-11,14-16a ローマ63-48-11 マタイ1037-42   20-6-28

  ここ木更津教会はいろいろな自然に囲まれています。すぐそこには港があります。山々が見えます。歩いて行くと、公園があります。緑に囲まれ、ゆったりとした広場です。木々がきれいだな、珍しい鳥が飛んでいる。ある人が言いました。木が生きている。木も太陽を求めて、水を求めて懸命に生きているんだよ。鳥も自然に生きているというけれど、競争で食べ物を探しているんだね。あぁ、そうか。ちょっと思いました。わたしたちには、自然は和やか、おおらかに見える。しかし、自然は生きているものには優しい以上に厳しさを求めている。

わたしたちも自然の中に生きています。考えますと、わたしたちは実にいろいろな物に、いろいろな出来事に包まれて生きているのですね。いや、それ以上にわたしたちが生きているという事は、周りにある、見えるもの、見えないものに支えられている。自然に支えられて生きているのですね。 

 今日、イエス様はわたしたちに、厳しい事を言われます。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」

わたしたち一人一人に、父がいる。母がいる。兄弟、姉妹がいる。また、毎日の生活の中で、仕事の中で、一緒に歩いている仲間、友人がいる。その人たちをわたしの思いよりも、大切にするのなら、わたしにふさわしくないと言われるのです。 まことにイエス様はそういわれたのですか。

 わたしは父さんと母さんの愛によって生まれたのではないですか。そして、父さん母さんの愛によって,家庭で育っていったのではないですか。父さん、母さんの支えによって生きている。父さん、母さんによって今、ここに生きているのではないですか。

十戒にも、父母を敬いなさいと書かれています。十戒は神様のみ心だと思います。 

 ルカはもっと厳しく言われます。父、母、妻、子供、兄弟、姉妹、を更に自分の命であろうとも、こ  れを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。(ルカ1425~ 

神様に声をあげたいと思います。 

わたしは父さん、母さんの子ではないのですか。神様、わたしはあなたにとって何なのですか。

あなたはわたしの愛する子である。わたしはあなたの父さん、母さんの愛を包んでいる。わたしは父さん、母さんを通してあなたを生んだ。あなたは父さん、母さん以上にわたしの子である。

父さん、母さんを憎みなさい。これはわたしの命令です。もし、あなたが父さん、母さんの世界に入り、そこに住むならば、あなたのいのちは死んでしまう。

父さん、母さんはあなたに命のまことを教え、まことの生き方を教えるのです。父さん、母さんはあなたに一番近い、一番深いつながりです。しかし、いのちに働きは父さん、母さんの世界から自由なのです。あなたのいのちは神様から注がれた神様のいのちです。まことのいのちを生きなさい。今、父さん、母さんの悪口を言っているわけではありません。

父さん、母さんの愛を超える愛、見える愛を超える愛がある。愛による命。それがあなたに注がれている。それを知ってもらいたいのです。 その愛のうちに生きるのです。  

父さん、母さんを憎め。 父さん、母さんから全く離れる。全く離れた時、父さん、母さんが見えます。父さん、母さんのいのちの姿が見えます。憎むとは自分の独立です。今迄のつながりを捨てることです。一人の人として立つ。人として父さん、母さんと対等に立つことが出来る。

憎め:未練が残る、甘えていたい、その心を憎みなさいと考えたいのです。心と体が父母と、何処かつながっていたいその思いを捨てます。それがあれば、全く神様のものとなれない。

愛は自分を捨てるという事です。神様を愛する。その時、自分の思い自分でありたい、自分の思い出、いろいろな欲求は捨てます。

 十字架を背負ってわたしに従いなさい。 イエス様の背負った十字架は人の罪。あなたは隣人のいのちのための荷物、十字架を背負って、わたしと一緒に歩きましょう。


年間第12主日A エレミヤ2010-13 ローマ512-15 マタイ1026-33     20-6-21

  人に気を使って生きている。失敗を気にして生きている。褒められたいと思って生きている。

誰に気を使っているのですか。誰のために、何のために生きているのですか。 

無意識にですけど、失敗したくないと思っている。友だちに失礼なことをしたくないと思っている、自然と日常生活でも気を使っているのです。  

イエス様は言われました。「人々を恐れてはならない。」わたしたちは人から軽んじられたくない、何も出来ないと思われたくないと思っているのでしょうか。気を使いならが生きているのではないでしょうか。 障害を持っている人は特に人の目を気にすると思います。今は差別語となっていますが、ちび、びっこ、どもりという言い方がありました。その言葉には軽蔑の心があったのです。そんな言い方に敏感に感じてしまう。恐れてはならない。気にしないふりをして、気にしているのです。  

お前は神様に愛されているのですよ。イエス様はわたしたちにそう言われています。お前は神様の子だよ。神様はお前に命を注がれてお前はこの世に生きる者となったんだ。お前が頭がよい、知識がたくさんある、頭の回転が速い、そんな子だから、わたしの子なのではない。運動が出来るからでもない、お前は心が強いからわたしの子なのです。善い事が好きだから、神様を知りたいから、わたしの子なのです。  

でも、わたしは人に言えるような善い事はやった事がない。人の見ていないところでちょこっと悪い事ばかりしている。気が弱い。誘惑に負けてしまう。皆の前でおじけづいてしまう。はっきり表現できない。自分が思っている事をうまく人に伝えられない。誠意を持ってやるけれど、嫌みに取られてしまう。  

神様は全部見ておられる。大切なのは心だ。つながっている心。つながりたい心だ。心からの行いは人に見せるものではない。神様に向かっている心じゃないかな。

欲張りの心をやめて、何も出来ないと思う心をやめて、心静かにゆったりとしよう。

こんな僕にも、お前はわたしの子だと言ってくれている。僕は、何もしない子じゃなくて、何か出来ればいいと思っている、そんな子。

一番大切なのは、何かをやってあげるのではないよ。喜びをあげるのではないよ。やってあげて喜ぶ、喜びをあげのは大切かも知れない。それ以上に、その人の話を聞いてあげることだと思う。

その人の愚痴を聞く、ずっと聞く。何時間でも聞く。ある人は人の悪口しか言わないかも知れない。

自分の欠点しか言わないかも知れない。訳の分からない事しか言わないかも知れない。それをじっと聞くのです。疲れる、それに耐えられたらいいね。相づちを打つんだ。

「あいつは何も喋らない。ただ、人の話を聞いているだけだ。」「いや、そうじゃない。あの人は相づちを打ってくれる。笑顔でじっと話を聞いてくれるよ。」  

神様は言われます。もう一度聞きなさい。わたしが選んでお前をこの世に生んだのです。わたしの子がどんなに小さい子であっても、どんなに弱い子であっても、お前はわたしの子です。

お前を愛しています。 雀もわたしが造った。雀よりはるかにお前の方がまさっている。  

覆われているものは姿を現す。隠れているものは知らされる。 あなたは何者か。わたしは小さい者、弱い者。しかし、神様の子です。