年間第24主日A  シラ2730-287  ローマ147-9  マタイ1821-35        20-9-13   

  「憤りと怒りを遠ざけなさい。」と言われます。憤り、怒りは感情のうちに、自分の心をぶつけているのではありませんか。自分しか見えない。相手の心を見ようとしない。それは悪い方法です。

 兄弟がそんな事をする。そんな事をしたら憤り、怒りがあって当たり前だ。しかし、主は言われます。兄弟からのその事を静かに、おおらかに受け取りなさい。その兄弟の心を静かに受けとめなさい。その出来事の不正を見つめる、それを糺す。この兄弟のその時起こった、悪い心を受け止められたらいい。 憤り、怒りは人を離れさせ、赦しは人をつなぐのではないですか。

罪を犯す、人とのつながりを切ってしまう。どうしようもなく心が乱暴になってしまった。兄弟は自分の世界に入ってしまいます。 

その時、兄弟を罪人だと思ってしまう。あなたは裁く者になってしまった。あなたはそれほどまでに完全なのですか。人の罪を赦せない器の人がどうして主に自分の罪を赦してくださいと言えようか。

主はすべての人の罪を赦し、罪を犯した人を追い出さない。わたしのもとに戻り、回心して、新しく出発しなさい。これが主のみ心です。 主のごとく、兄弟の落ち度には寛容でありたいですね。

ペトロはイエスに問います。「兄弟と思っていた者がわたしに罪を犯したら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか。」 7は完全数です。7回赦す、それで終わればいい。それ以上は赦さない。   「ペトロ、あなたは何回赦すべきかと聞いている。それは相手のことを思って聞いているのですか。あなたは人を赦す自分の我慢の限界を言っているのですか。あなたに行っておく。770倍まで赦しなさい。永遠に赦し続けなさい。

赦すとは2人の絆が続いている事です。つながりを切ってはいけません。その人は兄弟ではないですか。一緒に食べたり、飲んだり、語り合ったりした仲なのではないですか。その人とのつながりを切ってはいけない。その人に憤り、怒り、その人を全く他人とするのですか。自分の世界から放り出し、その人の心を殺してしまうのですか。(その兄弟は、もはや、自分の世界には生きていない。) 一緒に生きるとは、支え合うこと、支えられていることを感謝し、支える者になること、赦し合うこと、赦されていることを感謝し、赦すことではないですか。赦されていること、赦すこと、それが憐れみではないですか。 自分の兄弟を憐れみの心で接しなさい。心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさる。

イエスのたとえを聞きました。

わたしたちは皆、一人一人1万タラントンの借金を背負っているかも知れない。神様はそれをじっと待っていてくださっている。1万タラントとは6千万日の賃金です。1600年、1700年くらいのとてつもない借金です。天の父はそれほどまでに、気長に待っていていてくださる。

一方、わたしたちはせっかちです。人に貸した百万円の借金を見つけたら、今すぐ返せ。待ってられないと突く。貸した人は天の父に1万タラントンの借金がある。

そんな途方もない事があるのか、いや、これがわたしたちの現実だと思います。  

年間第23主日A  エゼキエル337-9 ローマ138-10 マタイ1815-20      20-9-6

  嫌な出来事がたくさん起こっています。子供を自動車の中において、15時間も放っておいた。子供たちは暑くて、熱中症で亡くなってしまった。もっと前には、老人介護施設で、養護士の青年が何人もの老人を死にいたらめた。何も出来ない老人はこの世にいては迷惑だ。死んでしまえ。ずっと以前ですが、女子高校生を無理に誘いだし、強引に自分の部屋に押し入らせ、おもちゃのように遊び、殴り、蹴り、暴行を加えていた。45日監禁、殴り過ぎて死んでしまった。女子高校生の死体をコンクリートで箱詰めにした。若い青年たちの犯行です。  以前の教会で、あの事件は自分の家の近所だったんです、その家も知っていますと言う話を聞いたのです。

嫌な事件、出来事がわたしたちの身の回りで起こっている。今は、そんな出来事はわたしたちのまわりでは起きないと思っているとは言えないのです。子供たちが、公園で見守る人がいなければ遊べない。小学生が朝、学校へ行く時、集合して大人に案内され、行くようになっているのです。 

今日、兄弟があなたに罪を犯したなら、あなたはその人を赦すことが出来ますかと問われます。

それ以前に、あなたは今、お付き合いしている人を兄弟、姉妹と思っていますか、と問われているのではないかと思います。

青年ではないですから、人生とは何かを語ることはないかも知れません。しかし、自分が持っている人としての生き方を友として、兄弟として、語り合ったことはありませんか。 

善い出来事、悪い出来事が起こっています。出来事はわたしたちが造っている社会の中で起こっています。その社会の中にわたしたちが住んでいるのです。 

人とつながって生きている。例えば、悪いことをしてしまった人と出会う。本当のことを言えば、悪いことをしてしまった人と出会いたくない。一緒に歩きたくない。なぜなら、その人をいつも気にしていなければならないからです。自分が悪いことに利用されるのではないか、その人に心を許せないのです。

自分の思いを捨てて、度胸をもって、その人と語り合う心が持てればいい。聞き入れる心を持ったらいい。悪いことをしたその人が生きる喜びを見い出したらいい。その人が希望が持てればいい。

教皇様は回勅「ラウダート・シ」を5年前に出されました。すべてのものを、すべてのいのちを見つめる。そして、言われます。すべてのいのちを守るために祈りなさい。

「あらゆるものはつながっている」、この視点がいのちの根底にあると思います。(大塚司教)

 人は皆つながっている。生きている、だからつながっているのです。地上でつながっている人は天上でもつながれる。 

つながる。兄弟となってくれる。損をしてもいい。その人の心の奥につながればいい。その人が自分を思ってれる人がいると思えればいい。 

つながるところに神様はおられる。神様はそのつながりを見ていてくださる。

つながりこそ愛です。地上で愛を行っている人は天上でも愛の光が見える。愛の温かさのうちにいる。

年間第22主日A  エレミヤ207-9 ローマ121-2 マタイ1621-27      20-8-30

  イエスは言われる。「わたしはエルサレムで長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することのなっている。」
 それを聞いて、ペトロはイエスをわきへお連れしていさめ始めた。
「イエス様、何を言うのですか。あなたはメシア、生ける神の子。人々を救う方、わたしたちに神様の救いをもたらす方ではないですか。あなたによって平和が与えられる。あなたによってまことの、最高の喜びが与えられるのではないですか。でも、あなたは多くの苦しみを受ける、殺されると言われる。そんな事があろう筈がない。あなたはわたしたちを勝利に導かれる方。希望がなくなってしまうようなことは二度とおっしゃらないでください。そんなことがあってはなりません。」

イエスは厳しい心をもって言われた。

「サタン、引き下がれ。」 サタン:敵または反対者。反逆の天使デーモンの長をさす。 
「あなたはわたしの道を邪魔するもの。神のみ心に反対する者。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
わたしの道は人々に快楽を与えるためのものではない。経済的に豊かさを求めるものではない。
リニア・カーの新幹線で大阪まで1時間で行ける?旅する心がなくなってしまう。人と出会う、時を待たねばならない、心のときめきがなくなってしまう。
神様は言われる。苦しみを見つめなさい。何が苦しいのですか。自分を見つめなさい。手助けを求めなさい。手助けとなりなさい。苦しみを超える力を持ったらいい。 

わたしについて来たい者は自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい。

怠けた者の苦労を背負う。こんなことまでするのですか。あのおじいちゃんは同じ話を何度も何度も聞かされる。笑顔で聞いている。 神様、疲れました。 わたしのところで休みなさい。一緒にお茶を飲みましょう。
怠けている者と一緒に歩く。でも不平を言ってはいけない。ある時、どんどん荷物が増えて来る。
もうこれ以上は背負えないよ。それを一つ背負ったらどうかな。これ以上あるなら、一緒に歩けなくなってしまう。
同じ話を何度も何度も話すおじいちゃん。おじいちゃんはきっと、同じ話を聞いてくれる人がいる、それを安心しているかも知れないよ。その人はあなたと一緒にいてほしいのさ。

わたしのために苦しんでくれた人がいる。その人はわたしに恩着せがましいことを何も言わなかった。その人はわたしを大切にしてくれたのだと思う。今、考えると、涙が出るくらい嬉しい。

 イエス様は言われているのです。いのちを見つめながら一緒に歩こう。

わたしたちは、人のいのち、特に、隣人のいのちを見つめながら、手助けしながら、手助けを求めながら、イエスと一緒に歩いて行きます。

年間第21主日A  イザヤ2219-23 ローマ1133-36 マタイ1613-20     20-8-23

イエスと弟子たちはフィリポ・カイサリア地方に着きました。フィリポ・カイサリア地方は異邦人の地です。いろいろな神様が祭られています。ギリシャの神々、地域の神々、そして、ここはバール信仰の拠点となる所です。ローマ皇帝の祭壇もあります。

神とは何か。神に何を求めているのか。神にどのように従うのか。信仰とは、信仰生活とは何か。
フィリポ・カイサリアという大都市で、人々は自分の思うままに神を選んでいるのです。 

イエスは弟子たちに問います。「人々は、人の子の事を何者だと言っているのか。」
「あなたは預言者、神様のみ心を語る人、憐れみを行う人。あなたと共にいたい。あなたのことばを聞きたい。あなたの中に安心がある。平安がある。人々は、あなたを洗礼者ヨハネだと言っている人も、エリヤだと言う人も、エレミヤ、預言者の一人だと言っている人もいます。」「それでは、一緒に生活しているあなたたちは人の子、わたしを何者だと言うのか。」「わたしたちはあなたに神様の姿を見ています。あなたは神様のみ心を語る言葉を持っておられます。あなたは神様の目を、耳を持っておられます。『あなたはメシア、生ける神の子です。』」 

イエスはメシア。人々はイエスに救いを求めている。イエスは人を救う方。
わたしたちは救いに何を求めていますか。・大きな病気をしないこと。・大きな事故に巻き込まれないこと。・善い出来事に会うこと。・いつも、平安でいられる事。 それが救いですか。

イエスはわたしたちに求めておられます。 救いとは、感謝を忘れない、隣人に与え続ける、人々のために働くことではないですか。 支えられて生きている、それを忘れてはいけない。
わたしに従いなさい。そうすれば生きている命が分かる。支え合う。愛が分かる。命は愛すること。生きる、あなたが生きるのではない。隣人が生きる。みんな一緒に生きる。あなたはその人のための助け手となる。それが愛ではないでしょうか。
救いとは、荷物を背負うことです。愛とは荷物を背負うことです。 

「わたしは何者か。」
「あなたはメシア。あなたのうちに救いがある。
あなたの道を歩みます。」 

イエスは、ご自分がメシアであることを誰にも話さないように、命じられた。
 メシアを知りたい、メシアとつながりたい。

年間第20主日A  イザヤ5616-7 ローマ1113-1529-32、 マタイ1521-28  20-8-16

ファリサイ派、律法学者の人々がイエスに言います。 
律法を守る、これが神様への信仰の道ではないですか。 
イエスは言います。あなたたちは自分の言い伝えのために神の掟を破っている。  
たとえば、父、母が求めているものを、これは神様への供え物ですよと言えば、父、母へあげなくてもよいと言っている。その心は父母への敬意を失くしている。神様の掟を無にしているのではないか。 「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。」(マタイ151~

イエスはそこを去って、異邦人の地に行かれた。異邦人:神を知らない人たち。しかし、異邦人も神様が造られたもの。わたしたちの兄弟ではないか。
カナンの女がイエスに向かって叫ぶ。「わたしの娘が悪霊にひどく苦しめられています。」
イエスはその叫びを無視する。この女は娘の癒しを求めているのか。イエスは何も答えない。
癒しの力を求めている。これは信仰から出るものではない。苦しみ、悲しみを癒す。その思いやりの心を信仰だと思ってはならない。慰めの力を求める。偶像に求めなさい。この女は何を求めているのか。
弟子たちが近寄って来て願う。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ます。」
イエスは弟子たち、女に言う。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない。わたしは神様に仕える者。神様のいのちを見失った羊のために働く。まことのいのちを見つめている。羊にまことのいのちを求め、負った傷を癒す。」

しかし、女はイエスのもとに来る。イエスにひれ伏す。「主よ、どうかお助け下さい。」
「子供たちのパンを小犬にやってはいけない。」 信仰のない命は消えて行く。そのいのちは何のためか。その友と何を造って行くのか。そのいのちはどのような喜びを求めているのか。
主のパンによって、主の思いのうちに生きる。支え合って、いのちが生きる。
「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
主よ、イエス様よ、主のパンを知りました。そのパンのいのちにあずかりたい。
パン屑でも拾い集めます。パン屑でも与らせてください。 
イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。」

律法を超えて神様の憐れみ、神様の慈しみを知った。
いのちが何であるかを知った。

年間第19主日A  列王記上1909a 11-13a,  ローマ91-5 マタイ1422-33    20-8-9

  エリヤは40日、40夜歩き続け、神の山ホレブに着いた。そこにあった洞窟に入り、夜を過ごした。主はエリヤに言われる。そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい。山の中に立つ。神の存在を感じる。激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いたしかし、風の中に主はおられなかった。地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。その時、全身で神様を、主を感じた。

神様は天地を従えておられる。神様の前で天地は動く。しかし、動く出来事の中に神様はおられなかった。目に訴えるもの、耳に聞こえるものの中に神様はおられない。心を神様に向ける。心を開く。その時、ささやくように神様は語られる。心にはっきりと語られる。  

神様との出会いは神様からの思いです。あなたが出会いたいからではなく、神様があなたを求める、それが神様との出会いだと思います。心をもっともっと神様に向けたいと思います。 

「群衆を解散させてください。人々は皆、村の食べ物を買いに行くでしょう。」「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」 村で売っている物ではなく、神様のパンを食べ物とするのです。神様のみ心をたらふく食べ、満腹してもらいたい。イエスは多くの群衆に賛美と感謝の祈りで祝福されたパンを弟子たちの与えられた。弟子たちはそれを配った。パンはなくならなかった。皆が食べ、満腹した。

イエスは弟子たちを舟に乗せ、向こう岸に渡らせた。群衆を解散させ、一人、祈るために山に登られた。祈った。深く祈った。 

舟は湖を渡っている。岸から1キロも行かないうちに、逆風が起こり波に悩まされている。

夜が明ける頃であった。イエスはそれを見て、湖の上を歩いて、弟子たちのところへ行かれた。

夜が明け始めている。湖の上、静かな光の中を人が歩いている。弟子たちは幽霊だと言って、脅え、恐れのあまり、叫び声をあげた。イエスは言う。「わたしだ。恐れることはない。」

「わたしだ。」これはギリシャ語で「エゴ、エイミー」です。わたしはある。モーセが神様の名を聞いた時、神様は言われました。「わたしはある」。イエスはその名を語ったのです。

 ペトロは言う、「主よあなたでしたか。わたしも水の上を歩きたい。わたしに命令して、水の上を歩いて、そちらに行かせてください。」「来なさい。」ペトロは舟から降りた。水の上を歩いた。イエスの方に向かって行く。強い風が吹いている。ペトロは強い風に気づいて怖くなった。ペトロは沈みかけた。イエスは言う。「信仰の薄い者よ。なぜ疑ったのか。」 

ペトロ、何を恐れるのか。死ぬことを恐れているのか。あなたはわたしにつながっている。あなたはわたしの中にいる。死ぬことはない。 

船が湖を進みます。舟は教会、湖は社会のたとえです。教会が語る、教会が行う。社会は教会の心の反対する。教会はへこたれてしまう。社会の中で信仰生活できない。苦しい、悲しい。イエスが来られる。皆を包む。静かに、ゆったりと、ほほ笑みをもって、語りなさい、行いなさい。教会は社会の皆に敵対するのではない。社会を生きるものとするのです。

年間第18主日A  イザヤ551-3  ローマ83537-39  マタイ1413-21      20-8-2

  イエスはヨハネが首を切断されて死んだことを知った。舟に乗り、そこを去って、人里離れた所に退かれた。ヨハネは幼い頃からの友達だった。マリアとエリザベトは親戚かも知れません。成人になって、ヨハネは信仰の道を歩いた。イエスも信仰を生きる。ヨハネがヨルダン川で神様を語っている。神の道を歩む決心を表す洗礼を授けている。イエスは人々のそんな話を聞いた。ヨハネのもとには大勢の人たちが集まっている。人々はヨハネのもとに行き、話を聞く、そして洗礼を受けるのです。ヨハネの宣教はイスラエルを動かしている。イエスはヨハネのもとに行き、洗礼を受けた。

 イエスは町や村に出かけて行きます。町や村で神様の話を語ります。イエスの顔を見ると人々は集まってくる。イエスの話を聞きたい。神様の話を聞きたい。聖書物語を聞きたい。イエスは集まったみんなの中に入り、生きる喜びを語ります。神様の恵みについて語ります。時に、イエスは病人を癒されます。それを見た人々はよけい驚きます。

人々はイエスの温かい話を喜ぶ。穏やかな口調を喜ぶ。イエスの叱る言葉が心に突き刺さる。

 イエスはヨハネの死を知り、思います。預言者はこのように世を去る。多くの預言者は、常に迫害され、追放され、そして惨めに死んでいった。友ヨハネが世を去った。人里離れた所に行き、祈られた。深く深く祈られた。神様のみ心のうちに入られた。 

群衆はついにイエスを見つけた。イエスは群衆を見て、深く憐れまれた。生きている人たちの生きている姿を見た。動いている命を見たのです。そして、その中の病人を癒された。生きなさい。生きる命の喜びを見出しなさい。

夕暮れになった。「人々を解散させてはどうでしょうか。それぞれが村に買い物に行くでしょう。」「いや、行かせることはない。あなたたちが食べ物を与えなさい。今、人々は神様のみ心のうちにいる。わたしの言葉のうちにいる。人々にわたしが食べものを与えよう。」

イエスはパンを取った。賛美の祈りを唱えてから、パンを裂き、弟子たちにお与えになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人がパンを食べて満腹した。

飢えが満たされた。人々はイエスを食べることが出来た。飢えが満たされ、渇きが癒された。人々はイエスを求めた。イエスが心の中に入った。体の中に入った。

 渇いている者は皆、水のところに来なさい。

飢えている者は皆、穀物のところに来なさい。 

まことの渇き、飢えは魂の渇き、飢えではないでしょうか。命が見えない、正義が見えない、憐みが分からない。何のために生きているか、何に向かって生きているのか分からない。自分を打ちのめす命の力に出会っていない。 まことの水はあるのか。どこにあるのか。

心を空にして、目を閉じ、耳を傾けなさい。

その方は言われる。わたしに聞き従いなさい。わたしはあなたに命を与えた、与えている。わたしの水を心行くまで飲み、わたしの穀物を心行くまで食べなさい。わたしの中に入りなさい。わたしはいつもあなたを見ている。あなたを包んでいる。出来事に心身を投じなさい。その時、もっともっと渇く、飢える。

神様を求める時、飢えがある、渇きがある。

もっともっと神様を求めなさい。神様を食べなさい、神様を飲みなさい。

 

年間第17主日A    列王記上357-12 ローマ828-30 マタイ1344-52      20-726

  イエスは天の国を語ります。物語のように、童話のように語ります。まるで、この世から、今ここから天の国は始まっているのですと言うように、イエスは語られるのです。  

畑があります。その畑に宝が隠されている。その畑を見た者は、畑のその宝を見た者は持ち物をすべて売り払ってその畑を買います。 畑の中に宝が隠されている。それを見つけたのですか。       この畑に麦、野菜、果物がどんな具合に実るか。その畑の地質はどうか。 申し分のない豊かな土地だ。その畑はどのようなところにあるのか。 水はある、陽は充分照り付ける。必ず大きな収穫がある。あぁ、その土地を手に入れたい。 今迄持っていたものをすべて売り払ってその畑を買う。

すぐに働きます。精魂込めて働きます。実りを信じて働きます。働いた。働いた。働きで得た収穫物、麦、野菜、果物はみんなのもの。みんなの収穫。みんなの笑顔が生まれる。 

働いて天の国が見えるようになる。そのすべての出来事が天の国の出来事ではないでしょうか。 

天の国にこんな別なたとえがあります。 商人が善い真珠を探している。ついに善い真珠を見つけた。その真珠はまことの真珠。真珠は何ミクロンかの膜で造られている。何万回も、何十万回も、何百万回もの薄い膜で造られている。動物、鉱物の命が時間のなかで、つながって膜となる。その膜が命の輝き。時間の中で過ごした命が膜となって神様の恵みによって輝いている、言葉を超えて輝いている。その真珠の中に神様のまことの憐れみを見る、憐れみを知る。

真珠こそ神様のみ言葉、神様の愛。 持ち物をすっかり売り払って、それを買う。

天の国は湖に網を降ろして、漁をしている様相です。網がいっぱいになるほど魚が取れた。天使たちが来てより分ける。善い魚は喜びの器に入れられる。悪い魚は燃え盛る炉の中に投げ入れられる。 湖はこの社会。魚は神様の呼びかけに歩きまわります。しかし、一人一人に決断の時が来る。 あなたは神様の言葉をどのように受け取っていましたか。あなたは毎日の生活をどのように過ごしていましたか。  

もう一度思います。天の国はこの世から始まっているのではないでしょうか。

目の前の出来事を自分の心で判断しなさいと言われているようです。

今、あなたはどんな畑を持っていますか。収穫をどのように使っていますか。

隣人のために働いていますか。あなたの隣人はどんな人ですか。

まことの真珠を見つけましたか。 それは祈りの中にありましたか。聖書の中にありましたか。奉仕活動の中にありましたか。  

自分の思いを捨てた時に、まことの畑、まことの真珠を見つけられるのではないでしょうか。

心の目で見る。心の耳で聞く。  

年間第16主日A  知恵121316-19 ローマ826-27 マタイ1324-43     20-7-19

  イエスは天の国をたとえで語られます。

「良い種を蒔いたのに毒麦が生えてきました。どこから毒麦が現れたのでしょうか。」

「敵の仕業だ。」 「毒麦を抜き集めましょうか。」 「いや、刈り入れの時まで両方とも育つままにしておきなさい。」

農家のお手伝いをしています。 「そこに毒麦が育っています。あそこにもあります。早いとこ抜き取りましょうか。」「いや、育つまで待とう。」 善い種を蒔いたのに毒麦が育ってしまった。善い種が蒔かれた。芽を出した。 その時、赤ちゃんが生まれた時の事を思ったのです。赤ちゃんの目は澄んでいる。透きとおっている。キラキラ輝いている。この子はきっと良い子になるよ。子どもは成長して、青年になる。大人になる。

良い種はよい麦になる。心の透きとおった赤ちゃん子はよい青年になる。そうかなー。

ある青年は自分の欲求のうちに生きる道を選んでいる。わがままになった。悪いことをするようになった。 「毒麦だ、今のうちに刈り取ってしまおう。」「いや、待とう。」「その青年はまことの温かさを知らないで成長したんだ。まことの優しさ、穏やかさをもって接してみよう。わたしのもとに戻ってほしい。能力のない人を馬鹿にしたり、ものを知らない人を馬鹿にする。お金のない人を軽視する。馬鹿にされたくないから、暴力を振るう、悪口を言う、妬む。ある人は自分の中に閉じこもる。苦しんでいる人たちが毒麦になってしまう。良い麦として育てたい。」

毒麦を静かに受け入れたい。つながれたらいい。温かさを伝えられたらいい。もしかすると、他人の目におがくずを見つけたあなたの目に丸太があるかも知れない。

天の国は動いていると思うのです。もしかすると、わたしたちはこの世に生まれた時から天の国にいるのかも知れません。神様のいのちで生きる。神様の恵のうちにいる。わたしたちの父さんは神様です。天の国の出発が与えられている。わたしたちは、まだ、天の国を受け取っていないのです。

人の命を大切にするために働くことが出来ない。求めている人たちのために与え続けるて行くことが出来ない。自分の思いがあったら、神様が見えない。わたしたちは神様の道具として造られた。

良い種が蒔かれた。世に生まれた。天の国はじっとしていない。悪い麦を切り捨てない。善い麦になるようにわたしたちを使って、働きかけている。  

じっと自分を見つめる。自分の心を見つめる。そして、自分の欲求を消す。自分の思いを消す。

祈る。自分が祈る。祈る、祈る、祈る。自分を捨てて神様の前に座る。祈るのは自分ではない、神様の霊が祈りを導いてくれる。

天の国を知るために、神様はパンを捏ねらせる。畑を耕させる。見えないくらい小さい種を蒔かせ、育てさせる。働かなければ天の国は見えない。天の国は心と体に入って来ない。

たとえば、洗礼を受けた。神の子となった。教会の仲間となった。神様につながっているから天の国に入れる。洗礼の道を歩かなければ、天の国が分からないと思います。洗礼の道を歩きながら、天の国が何かが分かってくる。せんれいは天の国の出発です。もう、天の国に入っている。でも、横道に入ってしまうと、天の国が見えなくなってしまう。

 神様のいのちを注がれてこの世に生まれた。しかし、この自分の命は自分のものではないですかと思ってしまう。自分の心と体、だから自分のために働く。なぜ悪いのかと思ってしまう。

年間第15主日A  イザヤ5510-11 ローマ818-23 マタイ131-23         20-7-12

  イザヤの預言が心に沁みました。

「雨も雪も、ひとたび天から降れば むなしく天に戻ることはない。」

毎日、わたしたちまわりにはいろいろな出来事が起きています。出来事はすべて神様からのものだと思います。一つ一つに重さがある。出来事の豊かさがある。出来事に訴えるものがある。

善い出来事、嫌な出来事、その中でも、もう聞きたくもない出来事があります。  

ついこの間、三歳の児が飢え死にするという事件が起きました。お母さんは24歳。お母さんは外出、家にいない。その子は8日間部屋に閉じ込められて、ほったらかしにされた。誰も訪ねない。その子は飢えで死んでしまった。 

この出来事は、今、わたしたちの社会で起きた。(東京都蒲田1丁目の事件です。実は、蒲田はわたしの住んでいたところ(実家)からそれほど遠くないところです。だから余計にびっくりしました。)  わたしたちはこの事件に何を見ますか。そんなに突拍子もない出来事のように思われないのです。 社会の仲間から離れている。家庭が壊れている。親と子の関係がない。…… 

神様はいつも、命の大切さを語ります。どんなことが起こっても命を大切にしなさい。何よりも命を思う。生き方を思う、考え方を思う、それは命を大切に導くものであってほしい。

神様のみ言葉は発せられた。空しくは戻らない。わたしが与えた使命を必ず果たす。

神様のみ言葉はわたしたちに語られているのです。  

 

イエスはたとえを用いて語られる。人々はイエスのまわりに集まる。イエスの話を聞きたい。イエスは童話のような、昔話のような語り口で神様を語られる。時々神様の業を行われる。イエスが話し始めると、イエスの言葉が耳から心の中に入ってくる。その時には、皆、イエスの話の中に入っているのです。イエスの話に入った時、話の中に光が見えたように思います。

でも、今日のイエスは舟に乗り、腰を下ろされました。そして、種を蒔くの種蒔きの話をされました。この種は単数で書かれているとある神父さんが言いました。種を蒔く、全く同じ種分けることの出来ない全く同じ種です。 その種を種蒔きは手で握って、ざあーっと蒔く。あるところは、ここに種を蒔いたあって仕方がないよ。みんな会社の仕事で精一杯だ。ある人は言います。飲み屋に来て種なんかを蒔くなよ。酒がまずくなる。ある青年は言います。今試験勉強で大変なんです。この勉強が終わったら、種を受け取ってみようと思います。ある人は言いました。この種を貰います。育てるのですか。気を長く持って、種も育ち方を見ます。

種がよい土地に蒔かれたら、根を出す。育つ。木になる。茂る。そして、実を結ぶ。種が蒔かれている。それを受け取る。育てる。苦労が多い、忍耐がいる。

それを受け入れる人は大きな実を見る。とてつもなく大きな、たくさんの実を得る。 

それが神様の思いです。イエスは聞きます。あなたはどこにいますか。

でも、今、みんなは種が蒔かれている事を知りました。今、ここで聞きました。

種に、耳を傾けます。種を見ます。見つめます。 

イエスの言葉に耳を傾けます。イエスの業に心を留めます。

イエスの中に入ってみます。イエス様、種を貰いに来ました。

種蒔きはイエス様。種はみ言葉、み心。  

イエス様、わたしたちも種蒔きになりたい。


年間第14主日A ゼカリヤ99-10 ローマ8911-13 マタイ1125-30         20-7-5

 人は見える体と、見えない心を持っています。わたしたちは心で思い、体で表現します。神様が体を造られ、心を造られた。土に塵で体を造られ、神様の思いを受け入れる心を造られたのです。心に善い事を刻まれた。そして、神様は心に神様の霊を送られています。

神様のみ心がわたしたちの心になったらいい。そうであれば、わたしたちは神様のみ心のまま働きます。神様のみ心のままに語ります。み心のままに行います。

神様は言われます。あなたはわたしの道具である。わたしの思いのままに行いなさい。

 あぁ、そうか。わたしたちは神様から離れて行ってしまったんだなと思うのです。わたしたちは、今、自分の欲求のままに動いている。自分の楽しみのために動いている。じっとしていることが出来ない。静かに、おおらかに、ゆっくり過ごすことが出来ない。楽しみをいつも求めている。

この体は手助けを求めている人のために働く体です。手助けするための体です。 

「親孝行、したい時には親はなし」わたしもよく聞かされました。

中学生、高校生になると親から離れるのは当然だと思っていました。親から離れると言っても、一人で生活するのではありません。父さん、母さんのいう通りにはならないという事なのです。それはは反抗期だよと言われてしまいます。 自由になりたい。自分の思う通りにしたい。 

「そんなことをしてはいけない。」「そんなのはただの我儘でしょ。」「訳の分からない事ばっかり言って。」 そんな枠の中にいるのは嫌だ。 中学生、高校生が自由とは何か。生きる命とは何かを考えているのではない。けれど、自由になりたい。自分の思う通りにしたいのです。親の言いつけから自由になりたい。学校の規則から自由になりたい。わたしは高校3年生まで坊主頭でした。制服を着なさい。帽子をかぶりなさい。教科書を教室にしまっておいて鞄の中は空っぽという者もいました。喫茶店に入ってはいけない。保護者がいなければ映画に行ってはいけない。

今から考えると、可愛いなと思います。そんな事に懸命になっていた。人生とは何か。この人生に、この命に目的はあるのか。そんな事には全く関係のない反抗期でした。しかし、人生論は文庫本で次から次へと読んでいたのです。

父さん、母さんの思いを悟りなさい。子供の生き方を大切にしている。子供よ、自分の欲求、楽しみから解放されたらいい。父さん、母さんは子供たちにそんな言葉をかけられたらいいのです。 

イエスはわたしたちに父さんの心、母さんの思いやりに心を留めなさいと言っているのだと思います。イエスは年を取ったわたしたちに言われるのです。あなたたちはまだ反抗期ですね。  

人を愛しなさい。特に、助けを求めている人たちを愛しなさい。

愛する:与え続けることです。 与え続けたから貧しくなってしまった。そうだね、貧しくなった分、助けられたね。お互いほほ笑み合えたらいいですね。 

働くことに疲れたら、イエスのところに行って休みなさい。不平を言いたかったら、イエスに向かって、ありったけ話しなさい。聞いてくださる。そして、言われます。隣人を忘れてはいけない。手助けすることを忘れてはいけない。あなたも支えられている。ありがとうの心を忘れてはいけない。  

みんな、子供のように父さん、母さんの思いを行えたらいい。

人は皆兄弟。兄弟のように助け合えたらいい。 


年間第13主日A  列王記下48-11,14-16a ローマ63-48-11 マタイ1037-42   20-6-28

  ここ木更津教会はいろいろな自然に囲まれています。すぐそこには港があります。山々が見えます。歩いて行くと、公園があります。緑に囲まれ、ゆったりとした広場です。木々がきれいだな、珍しい鳥が飛んでいる。ある人が言いました。木が生きている。木も太陽を求めて、水を求めて懸命に生きているんだよ。鳥も自然に生きているというけれど、競争で食べ物を探しているんだね。あぁ、そうか。ちょっと思いました。わたしたちには、自然は和やか、おおらかに見える。しかし、自然は生きているものには優しい以上に厳しさを求めている。

わたしたちも自然の中に生きています。考えますと、わたしたちは実にいろいろな物に、いろいろな出来事に包まれて生きているのですね。いや、それ以上にわたしたちが生きているという事は、周りにある、見えるもの、見えないものに支えられている。自然に支えられて生きているのですね。 

 今日、イエス様はわたしたちに、厳しい事を言われます。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」

わたしたち一人一人に、父がいる。母がいる。兄弟、姉妹がいる。また、毎日の生活の中で、仕事の中で、一緒に歩いている仲間、友人がいる。その人たちをわたしの思いよりも、大切にするのなら、わたしにふさわしくないと言われるのです。 まことにイエス様はそういわれたのですか。

 わたしは父さんと母さんの愛によって生まれたのではないですか。そして、父さん母さんの愛によって,家庭で育っていったのではないですか。父さん、母さんの支えによって生きている。父さん、母さんによって今、ここに生きているのではないですか。

十戒にも、父母を敬いなさいと書かれています。十戒は神様のみ心だと思います。 

 ルカはもっと厳しく言われます。父、母、妻、子供、兄弟、姉妹、を更に自分の命であろうとも、こ  れを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。(ルカ1425~ 

神様に声をあげたいと思います。 

わたしは父さん、母さんの子ではないのですか。神様、わたしはあなたにとって何なのですか。

あなたはわたしの愛する子である。わたしはあなたの父さん、母さんの愛を包んでいる。わたしは父さん、母さんを通してあなたを生んだ。あなたは父さん、母さん以上にわたしの子である。

父さん、母さんを憎みなさい。これはわたしの命令です。もし、あなたが父さん、母さんの世界に入り、そこに住むならば、あなたのいのちは死んでしまう。

父さん、母さんはあなたに命のまことを教え、まことの生き方を教えるのです。父さん、母さんはあなたに一番近い、一番深いつながりです。しかし、いのちに働きは父さん、母さんの世界から自由なのです。あなたのいのちは神様から注がれた神様のいのちです。まことのいのちを生きなさい。今、父さん、母さんの悪口を言っているわけではありません。

父さん、母さんの愛を超える愛、見える愛を超える愛がある。愛による命。それがあなたに注がれている。それを知ってもらいたいのです。 その愛のうちに生きるのです。  

父さん、母さんを憎め。 父さん、母さんから全く離れる。全く離れた時、父さん、母さんが見えます。父さん、母さんのいのちの姿が見えます。憎むとは自分の独立です。今迄のつながりを捨てることです。一人の人として立つ。人として父さん、母さんと対等に立つことが出来る。

憎め:未練が残る、甘えていたい、その心を憎みなさいと考えたいのです。心と体が父母と、何処かつながっていたいその思いを捨てます。それがあれば、全く神様のものとなれない。

愛は自分を捨てるという事です。神様を愛する。その時、自分の思い自分でありたい、自分の思い出、いろいろな欲求は捨てます。

 十字架を背負ってわたしに従いなさい。 イエス様の背負った十字架は人の罪。あなたは隣人のいのちのための荷物、十字架を背負って、わたしと一緒に歩きましょう。


年間第12主日A エレミヤ2010-13 ローマ512-15 マタイ1026-33     20-6-21

  人に気を使って生きている。失敗を気にして生きている。褒められたいと思って生きている。

誰に気を使っているのですか。誰のために、何のために生きているのですか。 

無意識にですけど、失敗したくないと思っている。友だちに失礼なことをしたくないと思っている、自然と日常生活でも気を使っているのです。  

イエス様は言われました。「人々を恐れてはならない。」わたしたちは人から軽んじられたくない、何も出来ないと思われたくないと思っているのでしょうか。気を使いならが生きているのではないでしょうか。 障害を持っている人は特に人の目を気にすると思います。今は差別語となっていますが、ちび、びっこ、どもりという言い方がありました。その言葉には軽蔑の心があったのです。そんな言い方に敏感に感じてしまう。恐れてはならない。気にしないふりをして、気にしているのです。  

お前は神様に愛されているのですよ。イエス様はわたしたちにそう言われています。お前は神様の子だよ。神様はお前に命を注がれてお前はこの世に生きる者となったんだ。お前が頭がよい、知識がたくさんある、頭の回転が速い、そんな子だから、わたしの子なのではない。運動が出来るからでもない、お前は心が強いからわたしの子なのです。善い事が好きだから、神様を知りたいから、わたしの子なのです。  

でも、わたしは人に言えるような善い事はやった事がない。人の見ていないところでちょこっと悪い事ばかりしている。気が弱い。誘惑に負けてしまう。皆の前でおじけづいてしまう。はっきり表現できない。自分が思っている事をうまく人に伝えられない。誠意を持ってやるけれど、嫌みに取られてしまう。  

神様は全部見ておられる。大切なのは心だ。つながっている心。つながりたい心だ。心からの行いは人に見せるものではない。神様に向かっている心じゃないかな。

欲張りの心をやめて、何も出来ないと思う心をやめて、心静かにゆったりとしよう。

こんな僕にも、お前はわたしの子だと言ってくれている。僕は、何もしない子じゃなくて、何か出来ればいいと思っている、そんな子。

一番大切なのは、何かをやってあげるのではないよ。喜びをあげるのではないよ。やってあげて喜ぶ、喜びをあげのは大切かも知れない。それ以上に、その人の話を聞いてあげることだと思う。

その人の愚痴を聞く、ずっと聞く。何時間でも聞く。ある人は人の悪口しか言わないかも知れない。

自分の欠点しか言わないかも知れない。訳の分からない事しか言わないかも知れない。それをじっと聞くのです。疲れる、それに耐えられたらいいね。相づちを打つんだ。

「あいつは何も喋らない。ただ、人の話を聞いているだけだ。」「いや、そうじゃない。あの人は相づちを打ってくれる。笑顔でじっと話を聞いてくれるよ。」  

神様は言われます。もう一度聞きなさい。わたしが選んでお前をこの世に生んだのです。わたしの子がどんなに小さい子であっても、どんなに弱い子であっても、お前はわたしの子です。

お前を愛しています。 雀もわたしが造った。雀よりはるかにお前の方がまさっている。  

覆われているものは姿を現す。隠れているものは知らされる。 あなたは何者か。わたしは小さい者、弱い者。しかし、神様の子です。