主の洗礼B イザヤ551-11 ヨハネ51-9 マルコ17-11            21-1-10        

  主の降誕を祝い、今日から年間B年の始まりです。新しい年は主の洗礼から始まります。

洗礼は命の出発だと思います。新しい世界の門の扉を開いた。門の扉を開いた時、世界がくっきりと、鮮明に心に入ってくる。目にはいるもの、聞こえる音が快い。今、自分の洗礼を思い出しています。  

父、母の意見を聞かない。もう大人だから、自分の人生だから自分で決める。そんな風に思っていました。今、後期高齢者になり、父、母の苦労がよく分かるように思います。

結婚して、子供を持った時、この赤ちゃんに両親は持っているものをすべて与えるんだという事を知ります。食べ物、飲み物、寝床、着替え、そのための時間を与える。安らぎ、優しさ、ほほ笑み、声をかける、呼びかける、それが子供と一緒の生きることだと知るのです。
歩き始める。言葉を話す。もう少し大きくなると、わがままを言う、生意気になる。それが子供の「自由」なんだと知るのです。父さん、母さんの苦労、大変さが分かるのです。 

ふと思いました。「洗礼」は父さん、母さんを知るという事ではないでしょうか。

自分の洗礼を思い浮かべました。
イエスの名を知っていた。聖書を読んで見た。ちっとも分からない。教会で英会話の勉強をしていたのです。キリスト教が世界を動かしているというそんな話も聞いた。 今、生活している自分が歯がゆい。不平、不満がいつもある。しかし、何をするか、決断力がない。何もしない自分がいる。
教会で礼拝に出た。続いて礼拝に出た。祈りを覚えてきた。少しずつ聖書を教わった。
そんな中、長い事、外国旅行へ行く機会があった。旅行中、事件が起きた。持っているものを全部取られて、何もない。洞窟のような所で10日過ごすことになった。この洞窟の中で、毎晩、必死に祈った。助けてください。助かったら、日本で必ず洗礼を受けます。洗礼を受けてあなたへの道を歩みます。 1年ぐらいの外国旅行を終え、日本に帰りました。教会を捜し、カトリック教会で洗礼を受けました。

洗礼、命が始まる。本当にそんな気持ちがありました。豊かな生活をするため、金を得る、そんな生活をやめよう、そんな決心をしました。
洗礼とは出発です。今の生活をやめます。新しい道を歩みます。
神様を見つめます。神様を見つめる時間を作ります。
祈ります。祈る時間を作ります。
自分を見ます。何を求めているか、どのように生きるかを考えます。 

洗礼を受けて教会の一員となります。教会の事を考えます。
教会はいろいろな人を受け入れる所ではないでしょうか。
困難な状態を助ける所、苦しい生活を助ける所ではないでしょうか。
教会は愛の出発の拠点だと思います。愛の出発の一人といなっていますか。
教会は受け入れる所、愛の出発の拠点。
あなたはその様な大きな心を持っていますかと問われているように思います。

洗礼はやはり、生まれ変わる時です。その扉が目の前にあったのです。
扉を、門を開く。新しい世界に入って行く。その道を歩んで行きます。

イエスが洗礼を受けた。
洗礼は罪を清める? 新しく出発する? イエスはそんな事は必要ではないと思います。
イエスは「神様からの救い」を求めて洗礼を受けたのではないと思います。
ヨハネの前には多くの人が集まっている。 ヨハネは神様を語ります。信仰の道を語ります。神様のみ心、律法を語ります。イスラエルへの神様の愛を語ります。
そして、強く語ります。今、イスラエルは神様を忘れている、律法を守りなさい。悔い改めなさい。
ヨハネの言葉が、叫び声になって心に入って来る。

受洗する人は列を作ります。イエスは多くの人たちと一緒に、列を作って並んで待ちます。皆と一緒に、神様への道を歩む一人です。順番を待つ姿がそこにある。列に並んで待っている人の心がイエスの心に入って来る。皆の反省の心、悔い改めの心の中にいるのです。

一緒の歩む、それがイエスの出発だと思います。
イエスの洗礼を記念する。

主の公現 イザヤ601-6 エフェソ323b5-6 マタイ21-12             21-1-3      

  今日は「主の公現」を記念し、祝います。

イスラエルの小さな村ベツレヘムの家畜小屋で男の子の赤ちゃんが生まれた。登録のためベツレヘムにも多くの人が滞在している。動物のいる家畜小屋で赤ちゃんが生まれたようだ。ちょっとしたニュースとして、その出来事が流れたかも知れない。噂の一つです。 

公現とは、キリストが自分の姿を現わされたことです。この赤ちゃんの誕生は家庭の出来事ではない。東方の三人の博士が、何日も日をかけて幼子を訪問し、ひれ伏して拝んだ。宝の箱から黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。神様の示された出来事を見た。ユダヤの新しい王と出会ったのです。この出来事が公現です。 
「キリストの洗礼」、「カナの婚礼での最初の奇跡」も公現と言ったようです。
 
公現はその姿が神様からのものである、特別な現れです。
たとえば、朝、太陽の光が地上を照らす。一日が始まる。日中は明るい。それは当たり前だと思っている。ふと、太陽とは何か、光とは何かを調べたいと思う。太陽には力がある。光には力が備わっている。光は分子、しかし、波である。色を創る。明るい、また、熱を持っている。太陽の光。
光が生命に力を与える。温かさを与える。
太陽の事を知った時、太陽は今まで知らなかった太陽ではない。太陽がなければ、光がなければ命は生きて行けない。その大きな力を知った。

  公現はまことの姿を見た、その姿を心で見た、その重さを見たという事です。
神様の出来事を見たのです。

「イエスがおとめマリアから生まれたこと。」不思議です。
「ベツレヘムで生まれたこと。」ベツレヘムは『パンの家』と言う意味です。イエスはパンとなられます。
わたしは命のパンです。わたしを食べなさい。その言葉が心に響いています。不思議です。

「家畜小屋で生まれたこと。」まことの王様が動物に囲まれて生まれました。心の王様は豪華な寝室はいらない。権力はいらない。心の大切さの中で、心の大切さに包まれて生まれました。

不思議です。
「羊飼いたちも救い主の誕生を知りました。」不思議です。
「遠い異国の博士が神様のしるしを知ったこと。ひれ伏して礼拝したことです。」不思議です。
「ヘロデ王もイエスの誕生を知ったことです。」  
わたしたちは神様と出会った。
イエスのみ心を感じている。

イエスのみ言葉を聞いている。
わたしたちはイエスと共に、イエスに従い、イエスの道を歩みます。