聖家族C サムエル上1・20-22,24-28 Ⅰヨハネ3・1-2,21-24 ルカ2・41-52 21-12-26
イエスが生まれた。ヨセフ、マリアは家庭を持った。
野宿していた羊飼いたちに不思議な来事が起こった。夜空に天使たちが現れ、言います。この小さな村ベツレヘムにイスラエルを救う方、全世界を救う方がお生まれになる。ベツレヘム―パンの家―ここからまことのパン、心を養うパンが生まれます。羊飼いたちの心が躍った。その方に会いに行こう。そして、その方を探しあてた。そこは小さな馬小屋。赤ちゃんが飼い葉桶に寝ている。ヨセフ、マリアは静かに赤ちゃんを見ている。ヨセフ、マリアは微笑みの内に、その子を見守っている。幼な子は温かさのうちにいる。その小屋は平安に満たされている。 聖家族の出発です。
ハンナは子供が出来なかった。熱心に祈った。無我夢中に願った。神様はハンナの願いを聞き入れられた。子が生まれた。主に捧げものをする時が来た。夫エルカナはたくさんの捧げものを用意した。しかし、ハンナは行こうとしない。お前には願いの通り、子が授かったではないか。どうしたのか。わたしは神様の深い恵みを受け取りました。わたしの捧げものは、わたしの心を受け取ってもらえた感謝の心です。男の子を授かった。この子が乳離れしてから、この子と一緒に主の御顔を仰ぎ見に行きます。ハンナの捧げものは自分の心であった。神様から授かったものは家庭です。この子の親は何ですか。子が親の温かさを知ること、いつも一緒にいてくれることではないでしょうか。そして、子に神様の心を語ること、神様の物語を語ることではないでしょうか。
イエスの両親、ヨセフ、マリアは過越祭を過ごすため毎年エルサレムに旅をしました。親類、村人、仲間を募って旅をするのです。祭りの期間が終わって帰路につきました。一日分の道のりを行きました。イエスがいない。親類、仲間の間を捜し回りました。探しながら、エルサレムに引き返しました。3日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り話をしたり、質問をしたりしているのを見つけました。「イエスはここにいたのか。」両親は驚きました。マリアはイエスに言いました。「お前はなぜ、わたしたちに何も知らせないで、ここにいるのですか。父さんも、母さんも心配して、捜し続けていたんですよ。」イエスは言います。「捜すことはないのですよ。わたしは自分の父の家にいるのです。」両親はイエスの言うことが分からなかった。マリアはこれらの出来事をすべて心に納めていた。 本人は気付いていないかも知れませんが、イエスは父さん、母さんの温かさの中にいるのです。エルサレムに戻った時、イエスは両親の心遣いを思い巡らしたのではないでしょうか。
家庭が安心の場であったらいいと思います。心がのびやかになる。見栄を張ることのない場。我儘を知る場。心から笑える場であったらいいと思います。聖家族、のびやかに生きる。小さい頃は寝る前に神様の話を聞いた。一緒に祈った。また、わがままを言って母さんマリアに咎められるそんなこともあったのではないかと思います。
家庭が与えられている。家庭を作ってゆく。
一緒に生きる。喜びの生活を送ってゆきたいと思います。
主の降誕(日中のミサ) 21-12-25
[イザヤ52・7-10]
イスラエルの民はバビロンに連れて行かれた。エルサレムは廃墟になってしまった。イスラエルは神の国ではなかったのか。アブラハムの一族、モーセによるイスラエルがイスラエルに導かれた。ここに神の国を作りなさい。わたしの思い、わたしの心が行われる国。木々が豊かに茂り、花が咲き乱れ、人々は生き生きと生きる。イスラエル喜びの国ではなかったのか。それなのに、人々は自分の欲求のために生きた。果物が、家畜が自分の儲けのものになってしまっている。エルサレムは信仰の都ではなくなった。バビロンによってイスラエルは滅ぼされ、壊された。遠いところにいて神様を求めるものよ、あなたたちは山々を巡り歩く者の声を聞いた。その者は言う。シオンの丘に戻りなさい。神様があなたたちを導く。シオンから、エルサレムから平和を作って行きなさい。エルサレムを信仰の場としなさい。主なる神が王となられたのです。主なる神がエルサレムを贖われたのです。わたしたちは神の救いを信じます。
「ヘブライ1・1-6]
今は終わりの時です。神様はアブラハムに声をかけられた。そして、モーセを通してイスラエルが始まった。イスラエルの歴史が始まった。歴史の中で神様は人を導かれたのです。聖書:神様の導きの書です。人の欲求の本です。神様と出会った人の思い、行いが書かれている。歴史の中に神様の思い、行い、人の我儘がある。そして、終わりの日、神様は裁きを示されます。善い者と悪い者が決められる。 終わりの日、御子を万物の相続者と決められた。終わりの日は出発の時です。神様のみ心のままに道が備えられている。モーセによってエジプトからイスラエルへ旅立ったように、神の子イエスによって、この世から神の国に旅立つのです。この世から離れる。この世の支配から離れて、この世を神の国にするのです。新しい出発の時が始まったのです。
[ヨハネ1・1-18]
神様は世界を、宇宙を創ろうと思われた。物がある、物が動く。それが言です。見える物、見えない物を創りだす。見える物、見えない物が動き始める。「ある」とは動いている、働いているという事です。万物は神様の思いのうちに成った。神様の思いのうちに、言のうちにないものは何一つなかった。何か、わたしたちの信仰生活に似ていると思います。祈る、深く深く祈る。自分の心を越えて、神様のみ心を感じる。聖書を読む。覚えるほど読む。深く深く読む。聖書の出来事がすべ頭の中にいる。しかし、それは信心。あなたの中にある世界。自分の扉を開く。立ち上がって、外に出るのです。自然と出会う。自然のすべての出来事と出会う。そして、人と出会う。人とつながって生きる。それが信仰です。自然とつながり合っていなければ、人とつながり合っていなければ信仰ではない。信仰のうちに世界は始まるのです。言のうちに命があった。命は光。神様は闇も創られたのです。光は闇の中で輝いている。人の歴史が始まった。光が世に入った。世に来て、すべての人を照らす。世のうちにあって力のある人たちは光を認めなかった。自分たちの中にある欲求、闇が光を拒否したのです。言は、命の光は人となってわたしたちの間に宿られた。わたしたちはその方と出会った。その方の栄光を見た。まことの人、まことの神と出会った。その方が神とは何か。人とは何かを示されたのです。
今日はクリスマスです。この方の誕生日です。心を込めて祝います。
誕生日おめでとうございます‼
主の降誕(夜半のミサ) 21-12-25
[イザヤ9・1-3,5-6]
わたしは今苦しい状態にいる。この苦しさの中にいては希望が持てない。こんな状態は自分の生まれた環境によるものではないか。父さん、母さんの生活がある。金持ち、貧乏がある。社会の制度がある。社会の常識がある。その中で生まれた。そう思ったりする。この社会の暗黙の力がわたしたちをその場に閉じ込めてしまっている。闇の中に住む民がたくさんいると思う。少年、少女が食べるために働かなければならない、その数は一億五千万人だと聞いた。日本の総人口以上より多い。闇の中に住む者、死の陰の地に住む者の上に光が輝いた。深い喜びと大きな楽しみが与えられた。その光の方は、なんと一人のみどり子だという。わたしたちにひとりの男の子が与えられた。その名は「驚くべき指導者。力ある神。永遠の父。平和の君。」その方と平和を作ってゆくのです。立ち上がって、歩む。立ち上がる:今、自分のいる所を離れて立つのです。主の熱意によって成し遂げられる。今あなたを囲んでいる力はあなた自身のものではない。それぞれ各々が自分の欲求を達成しようするため、自分の理想を肉付けするための力ではないですか。それを壊す。それを変えるのはあなた自身です。不満、批判、非難する。それはあなた自身を暗くするだけではないですか。立ち上がりなさい。命の大切さを求めて歩き出しなさい。主はそれを求めておられる。力を注いでくださる。
神様はイエスをキリストとされた。いや、始めからイエスはキリストです。神様はキリストをこの世に送られた。イエスのうちに神様のみ心がある。神様の力がある。神様の温かさ、おおらかさ、優しさ、厳しさがある。神様の涙がある。神様の笑いがある。キリスト・イエスの内に入りなさい。不信心と現世的な欲望を捨てて、キリストの道を歩みなさい。キリストの道に栄光がある。苦しみ、悲しみを越えて、神様の喜びに入るのです。
[ルカ2・1-14]
ローマ皇帝は人口調査を行った。ローマ帝国はどのくらいの力を持っているか。兵力はどのくらいか。人口はどのくらいか。収入、支出はどのくらいか。全領土の住民は各々自分の出身地へ帰り、登録した。ヨセフもマリアと共に、自分の町ベツレヘムへ旅立った。身ごもっていたマリアはベツレヘムについた時、月が満ちて子を産んだ。馬小屋での出来事である。宿屋には泊まるところがなかったからである。 羊飼いたちが野宿をしていた。主の天使たちが羊飼いたちを包んだ。天使たちは言う。「今日、ダビデの町にあなたがたのために救い主がお生まれになった。布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つけるだろう。それがあなたがたへのしるしである。」
人々を救う。全人類を救う。その方が赤ちゃんとして生まれた。その力ある方は赤ちゃんだった。その方は馬小屋で生まれた。力のない、貧相な姿で生まれた。―それが天の父の思い、天の父からのしるしである。
イエスの姿にまことの王を見るのです。まことの王とは何ですか。力がない方ですか。
まことの救いを見るのです。まことの救いとは何ですか。豊かな生活ではないのですか。
待降節第4主日C ミカ5・1-4a ヘブライ10・5-10 ルカ1・39-45 21-12-19
第一朗読のミカ書を読みます。ミカという預言者の名は「主である神のような者が誰かいるか」という意味があるそうです:。主のような者は誰もいない。どんなに大きな力を持っている王がいても、神に比べるなどとはとんでもないことだと読みました。
或る時から、彼は立って、群れを養う。神のみ名によって平安を告げる。人々を平和に導く。その力は地の果てにまで及ぶ。
罪を犯したら、律法に応じていけにえを捧げなさい。献げものを捧げなさい。神様は問われます。このいけにえは何のためですか。このささげものにあなたの心がこもっていますか。わたしはあなたがたに呼びかけます。心をいけにえとしなさい。心をささげものとしなさい。わたしはいけにえを求めているのではない。捧げものを求めているのではない。あなた自身の心を体を求めている。
わたしたちはあなたのまことの律法のうちに歩みます。
神様のみ心が行われました。罪の赦しを願い求め、悔い改めのために。イエスはご自分をいけにえ、献げものとなさいました。わたしたちはイエスの中に入ります。その時、聖なるものとされるのです。 イエスの姿に入る。イエスの道を歩む。自分をいけにえとするのではないでしょうか。
マリアはエリザベトに会いに出かけます。マリアの心はエリザベトの事だけです。エリザベトは神様から大きな恵みをいただいた。子を出来ない女と言われていたエリザベトが子を身ごもった。そして、結婚をしていないわたしも子を身ごもっている。神様の子の大きな恵みを共に喜び讃えたい。ザカリアの家に着いた。エリザベトに挨拶した。マリアの言葉がエリザベトの心に染み入った。マリアの心にエリザベトの胎内の子も喜び踊った。エリザベトはマリアの言葉に神様の祝福を感じ取った。エリザベトは言う。「神様の恵みを喜んで祝うわたしたちはなんと幸いなことでしょうか。あなたの胎内の子も祝福されています。わたしの胎内の子も喜んで踊っています。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方はなんと幸いでしょう。」
マリアの心がエリザベトを包んでいる。マリアの心は柔らかな光のうちに、温かさのうちに静かに輝いている。
マリアとエリザベト、わたしたちはまことのいけにえに出会ったのです。
待降節第3主日C ゼファニヤ3・14-17 フィリピ4・4-7 ルカ3・10-18 21-12-12
今日待降節第3主日を迎えました。待降節第3主日は喜びの主日と言われています。
でも、紫の日々です。神様がおられない日々です。苦しい生活が続く、悲しい出来事が終わらない。もう、わたしたちには平穏な生活が送れないのですか。いや、その苦しみを、その悲しみを心の芯から、受け取りなさい。十分に苦しみを味わう。悲しみを味わうのです。神様はわたしたちを見ておられる。神様は必ず、わたしたちに恵みを現される。神様はわたしたちの救い。神様は来られる。それを信じなさい。
今日語られる神様のみ言葉は喜びに満ちています。第一朗読はゼファニヤ書です。ゼファニヤという預言者の名は:「主は隠される」「主は守られる」という意味だそうです。隠れておられる主はあなたには見えない。しかし、主はあなたを見ています、守られます、そんなことを考えました。
神様のうちに歩む者よ、喜び踊れ。神様はお前の中におられる。お前の敵は追い払われた。ついに、お前に恵みが与えられた。神様からの喜びが湧いてくる。喜びを叫ばずにはいられない。わたしたちは最早、災いを恐れることはない。わたしたちはエルサレムに集まる。祈る。感謝する。喜び歌う。わたしたちの神様はエルサレム=信仰の場におられる。神様はエルサレムを喜ばれる。愛によってお前を新たにし、お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。
ヨハネは、今が、祈りの時だ、悔い改めの時だと叫びます。ヨルダン川でヨハネは神様の思いを語ります。神様の教えを語ります。ヨハネの声を聞いて、ヨハネのもとに群衆が集まって来ます。ヨハネの声が皆の心に響いたのです。
ヨハネは皆に向かって語ります。「蝮の子よ、」
蝮は毒の強い蛇の仲間でしょうか。蛇は知識によって人の上に立とうとする。世の中をうまく渡り歩く、自分生活をよいものにしようとあがく。幅を利かせる地位につきたいと思う。蛇は心に住む。
「お前たちは蛇ではないか。蛇の中でも毒の強い蝮ではないか。お前たちは自分の中に住む蛇から抜け出せないでいる。」 「どうすればいいのですか。」
わたしたちは多くの恵みが注がれている。それを思い起こし、思い巡らしなさい。そして、与える者になりなさい。徴税人も、兵士たちも洗礼を受けるために来ている。誠意をもって行いなさい。力をもって取り立ててはならない。
民衆はこのヨハネこそ、わたしたちが待ち望んでいるメシアではないか、と心の中で考えていた。
ヨハネは皆に向かって言った。わたしは水で洗礼を授けるが、わたしより優れた方が来られる。
その方は聖霊と火によってあなたがたに洗礼をお授けになる。その方は神様の力によって麦を脱穀する。殻を消えることのない火で焼き払われ、まことの身を倉にお入れになる。
わたしたちの待ち望んでいるメシアは力ある方。神様の力を持つ方。万軍の主の後ろ盾のある方です。わたしたちイスラエルを神様の力で守られる。
ヨハネは言います。わたしはあ神様のみ心を知った。人々を清めなさい。命の水によって心を清め、新しい生活の出発の時を与えなさい。
洗礼によってまことの信仰の道を歩みなさい。自分の欲求を捨てなさい。力があっても、その力を行使しない穏当に語り、行いなさい。
わたしもメシアの到来を待っている。その方は聖霊の力、火の力を持つ方。聖霊の力、火の力であなたがたを清める。その方によって新しい出発があるのです。
待降節は闇から抜け出して、新しく出発の準備の日です。
神様が来られる。
まことのいのちの方に出会います。
待降節第2主日C バルク5・1-9 フィリピ1・4-6,8-11 ルカ3・1-6 21-12-5
ユダヤの国はしっかりと治められています。皇帝の力が及んでいる。ヘロデがガリラヤの領主、アンナスとカファイアが大祭司です。ユダヤは力のうちにしっかりと支配されている。しかし、人々の心は不安に満ちているのです。我々の住んでいるこの国はイスラエルか。ローマ帝国の植民地ではないか。権力ある者が幅を利かせ、放埓な生活をしている。イスラエルの人々が神様の誉れを忘れ、安心してローマ帝国のうちにいるのか。いや、特にガリラヤ地方に、いくつものイスラエルの独立を求めるグループが動いている。時の反乱を起こしている。
この時、バルクの預言を思い起こしたのです。
「エルサレムよ、立ち上がれ。」信仰のうちに生活を送っている者よ、イエスに従って、与えられた道を歩む者よ、今こそ、立ち上がりなさい。神様の思いのうちにいて、不安のうちに躊躇している者よ。力を持て。自分の扉を開きなさい。立ち上がって、行いなさい。行い始めなさい。静かに、ゆっくりと、平穏な心のうちに歩き始めるのです。
荒れ野で叫ぶ声がする:これこそ、ヨハネの説教の声ではないか。ヨハネの叫ぶ声ではないか。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ:律法を守る道を歩みなさい。悔い改めて、洗礼の恵みのうちに生きなさい。
例えば、今、大きな力を及ぼしているコロナの事を考えます。
コロナの強さはますます大きくなっています。新しい形が出てきました。オミクロン株というそうです。あっという間に、世界中に、オムロンによる感染患者が出て来ています。
コロナが始まった時、感染が爆発的に広まった時に、感染しているかどうか、PCR検査を受けるかどうか、そして、ワクチンを打ちなさいと言われました。そして、コロナ感染の第1波から第2、第3、4波,5波までの警戒がありました。よく、くぐり抜けて来たように思いますが、5波が来ないようにと叫んでいるうちに、新しいオミクロンというが襲ってきたのです。
人の知恵でコロナを防げるとしている。薬によって、ワクチン注射によって防げると思っていた。その一方で、人々は外出禁止、飲食店閉鎖が我慢が出来ない。マスクをしたくない。政府は、病気と戦っている、一方で、経済を保ちたい。人々の外出時間を緩めた、飲食店の時間の大幅に緩めた。そして、お医者さんが、医学の先生たちが解毒の研究、、薬の研究を急いでいる。
神様は言われています。人よ、自分を戒めなさい。貧しくなることを承知で、店を閉めなさい。店に行くのをやめなさい。父さん、母さん、今このような状態が、子供に忍耐を教える時です。その前に父さん、母さん、あなたが静かに生活しなさい。
医者の研究は、人を我儘にしたいからですか。人を救うために神様と競争しようとしないでください。薬か、人の忍耐か、比べられているように思うのです。
わたしたちは救われている。み言葉を信じます。
わたしたちは今、待降節を過ごしています。
イエス様の誕生を待っています。
清い心で赤ちゃんの誕生を祝いたいと思います。
待降節第1主日C エレミヤ33・14-16 Ⅰテサロニケ3・12-4・2 ルカ21・25-28,34-36 21-11-28
待降節は神様が来られるのを待つ日々です。今、神様がおられない。だから栄光の讃歌は歌わない。神様が来られるのを心から待ちながら、今日の第一朗読・エレミヤの書を読みました。
「主は言われる。わたしがイスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす時が来る。」
正義の若枝が芽生える。公平と正義をもって人々を治める。その方の名は「主はわれらの救い」
その方の名は、ヘブライ語でヨシュア=ギリシャ語でイエスです。
神様は来られる。神様は人となって来られるのです。
神様はわたしたちを見ておられます。わたしたち一人一人を、わたしたちの社会を見ておられる。わたしたちの歩んでいる道、わたしたちの一人一人が何を求め、どのような生活を求めているかを静かに見ておられます。神様はきっと残念に思っていると思います。人はわたしを忘れている。父さん、母さんの温かさを忘れている。父さん、母さんの温かさはわたしの温かさです。人は温かさの中でしか、心のつながりの中でしか生きる事は出来ないのです。命が働かないのです。
あなたはわたしとつながっていますか。わたしに心を向けていますか。わたしに耳を傾けていますか。わたしの心の中で生きていますか。もっともっと、静かにわたしを思い巡らしてください。
「放縦や深酒や生活の煩いで心が鈍くならないように注意しなさい。」
ある人が青年の時の事を語ってくれました。 わたしは父と母のいる家で生活していました。父は昔の考えの人で、会社に入ったら一生その会社で働きなさい。周りばかり見てて、一つの会社に勤まらないそんな者は、社会では通用しない。働き口があることはいいことだ。それを忘れてはいけない。今の人たちは、それがよく分からないと思うけれど、その人の父さんの時代の日本の多くの人たちは、食べるために仕事についたのです。青年もその考えの中にいた。自分の生活のために仕事につく。自分のために学校に行く、知識を持つ。その人は言います。自分しか見ていなかったのですね。自分、自分の家族、兄弟しか見えない。会社に入った。精一杯頑張った。そして思ったのです。自分が仲間を判断している。自分の場所をいつも意識している。残業の毎日だった。滅多に顔を合わせない部長に声をかけられる。残業をやってくれているんだ。ありがとう。なんだか嬉しくなってしまう。 今も思うけれど、どこの会社が、人の幸せのため、人の精神生活のために製品を作っているだろうか。宣伝広告は言います。これは皆さんの幸せのための製品です。便利な製品です。実用的です。わたしたち会社員は与えられた仕事をして、給料をもらうために働いているのです。 わたしは親の言いつけを破って会社を辞めた。会社務めはつかれる。しばらくは寝て暮らしていた。ぶらぶらと本を読んだり、映画を見に行く。すると再就職をするのが本当に難しいことを知った。条件が悪い。青年は普通の青年。何も技術がない。自動車の部品を作る工場で働き始めた。そして、給料をためて、旅に出たのです。旅で多くの人と出会った。サラリーマンの道を離れた人たち、社会の制度から離れたい人たち、自分を見つめる人たちに出会ったのです。
わたしは自分の小ささが、自分しかいなかった自分がよく見えてきたのです。外れてもいい。皆の中にいなくてもいい。自分の目て判断しよう。歩いて進もう。北海道から、沖縄まで歩いて旅をした。
社会から離れている人がいかに多いかを知ったのです。社会から離れているとは、体の不自由な人たち、体の自由が全くきかない人たち、親と一緒に生活出来ない人たちです。
そして、そういう事を知っている人が何と少ないことか。社会に施設がある。それでいいじゃないか。でも待ってくれ、わたしは言いたいのです。その人たちの心を見ようとしないのではないですか。
わたしたちの多くの人たちは、その人たちは自分たちの世界とは別の世界だと思っている。
自分は小心者、だから大きい心で生きようとしたのです。自分の殻を破った。社会の中で、一緒にしかし、生きることを見つめながら生きよとしているのです。
放縦な生活、生活の煩いがある。それは皆、自分のために生活ではないでしょうか。
愛する=今まで、愛するとは自分の求めているものを手に入れることだと思っていた。自分の求めている物のために苦労する。愛もじぶんのためのものだと思っていた。
まことの父さんは言います。人の我儘が大きな荷物を作って来ている。もすごく大きい、巨大な大きさだ。それがいつか人に押し寄せる。この世が煉獄のようになる。
巨大な地震が起きる。島を覆ってしまうような津波が起きる。海岸の町は波の力に流される。火山が噴火し始める。太陽が狂う。月に異変が起きる。町々が壊れる。ビルは崩壊する。住宅地は火の中にある。見える物すべてが破壊される。人々は恐ろしさのあまり気を失うだろう。
主は言われる。この苦しみが起こる。
あなたに襲いかかる、この苦痛を受け取る心を持ちなさい。これが、今まで犯してきた人の罪だからです。 その時が来ても身を起こして、頭を上げなさい。
終末が近いことを忘れてはいけません。
あなたの毎日の生活は何ですか。
社会の流れに流されている生活になっていませんか。
心が鈍くならないように注意していなさい。
起ころうとしているこれらの事を静かに受け止める心を持ったらいいのです。
いつも目を覚ましていなさい。
王であるキリストB ダニエル7・13-14 黙示録1・5-8 ヨハネ18・33b-37 21-11-21
イエスはピラトの前にいます。ピラトはイエスに問います。
「お前がユダヤ人の王なのか。」
「あなたはわたしがユダヤ人の王に見えているのですか。わたしの言葉、行いがユダヤ人の王としてのものですか。それとも、ほかの者たちがわたしをユダヤ人の王と言っているのですか。」
「わたしはユダヤ人ではない。お前の同胞や祭司長たちがお前をわたしに引き渡したのだ。お前は何をしたのか。」
ピラトの言いう王様とは:この世の支配者です。この世の人の支配者、この世にある物の支配者。人の生活を支配する。善悪を決める。この世のものをすべて所有する。自分のためにすべてがあると思い込む。自分の思い、考えを世に、力によって、表す人です。
イエスは言う。「わたしの国はこの世に属していない。」
「それではやはり、王なのか。」
「わたしはユダヤの領土の王ではなくぃ。わたしはイスラエルの王である。神の国の王、真理の王である。わたしは真理のために生まれ、そのために世に来た。真理を求める者、真理のうちにいる者は皆、わたしの声を聞く。」
神様は幻のうちに、神の国の姿を示されたように思います。
人の子が天の雲に乗り、「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けたのです。人の子が王座におられる王の前に来た。王がその者に権威、威光、王権をを授けた。この時から、すべての民族のもの、すべての人たち人の子に仕える。人の子が支配者になる。そして、その統治は滅びることはない。
人の子の授かった権威とはどんなものだったのでしょうか。
威光とは何でしょうか。
王権とは何を支配するのでしょうか。
わたしたちはその方に出会った。神様のみ心を語る方。神様の憐れみを、神様の慈しみを行う方、神様のおおらかさ、温かさに溢れる方に出会ったのです。その方を迎えています。しかし、その方は人の子の姿を超える方、その方こそかみさまだとわたしたちは宣言します。
神様である主に愛されている。人の子は自らの血によってわたしたちを罪から解放されました。
神である主は言われました。「わたしはアルファであり、オメガである。」
イエスはまことの王、まことの祭司。
わたしたちは王職にあずかっている、祭司職にあずかっている。そして、王職、祭司職が預言職になると思うのです。
王職、王となるとは:すべての人のために働くのです。すべての人が任されている。人の助けがなければ生きられない人がいます。仲間を作れない人、人と話せない人がいます。つながりなさい。王とは働く人です。人を率いて導く人ではない。人を後押しする人です。王様となりなさい。喜んで人の手伝いをしなさい。喜んで人のために損をしなさい。
祭司職。神様を忘れない。祈りを忘れない。自分のために祈るのではない。神様を必要としている人のために祈るのです。祈りを忘れている人のために祈るのです。祈る場所を作ったらいい。祈る時間を作ったらいい。
年間第33主日B-1 ダニエル12・1-3 ヘブライ10・11-14,18 マルコ13・24-32 21-11-14
朝、一日が始まります。今日の生活を考えます。今日、善い事が出来ますように。優しい言葉が話せますように。人のために何かできますように。祈りの時間がありますように。わたしたちの毎日の生活がそのように過ぎて行きます。
しかし、今日の聖書は「終りの日」が書かれているように思います。
えっ、と思いました。わたしたちは自分の世界のうちにいて安心を求めているように思うのです。「終りの日」がある。それを忘れてはいけない。 その日、終りの日が来る。―苦しい生活を送ってきた人にも、悪徳の数々を送ってきた人にも、正義のために働いてきた人にも、その日が来るのです。考えてみると、今日は、終りの日に向かっている一日です。
生きるとは、悪の力と戦いながら苦しむ、また、悪の力に打ち勝った喜びを味わうことかも知れません。イエスは言われます。神様を全身全霊で愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい。
しかし、自分は自分の生活を楽しみたい。全力で自分を現わしたい。自分の世界を確立したい。ある人は、悪の力を自分の手に入れて大いに楽しむ、満足する、快楽の日々を過ごすのです。
しかしながら、これは悪の力に翻弄されているのではないでしょうか。欲求のうちに、欲望のうちにいるのです。
生きる、わたしの思いのうちに生きてほしい。あなたの生活は自分の生活を豊かにするためのものではない。むしろ、自分の生活を隣人のためのものとして欲しいのです。
自分の生活は自分のためではないのですか? 人のために働くのですか。
そうです。人のために損をする生活です。
人は一緒に生活しています。支えてほしい時、支えられています。あなたも支える人となるのです。
まことの喜びは、自分の世界の喜びではありません。まことの喜びは「いのち」の喜びです。人が生きている、喜んで生きている。生きている力を与えられている。自分も支える力となる。生きている人の中で生きることが出来る。それが一番の喜びです。まことの喜びとは人のために働くことではないでしょうか。支えられることを知り、自分も支えるものになることではないでしょうか。
この世は苦しみに満ちている。力ある者が自分の世界を作っている。弱い者を自分をものとして使っている。弱いものを虐げて(しいたげて)いる。正義を求める。強いとは、隣人のために働く者ではないですか。弱い者、助け合ったらいいのです。
終りの日が来る。神様の世界が来るのでしょうか。
「終りの日」とは何か考えたいと思います。「終りの日」は神様の支配の完成の日です。この日、神様はこの世にはびこる大きな悪、小さな悪を打ち砕きます。人の善悪を裁かれるのです。終りの日は神様の支配の完成の日です。
終りの日が近づくと、苦難の日が起こります。天地が激しく動き、大地に、わたしたちの身の回りにも、破壊が起こります。
イエスは言われます。このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天地は揺り動かされる。(マルコ13・24-25)
イエスのもとに集まります。イエスと共に、わたしたちはどんな苦難も受け取ります。
この出来事がすべて起こるまでは、この時代は滅びない。滅びないとは過ぎ去らないということでだそうです。この世界を作ってきた見えるもの、見えないものは滅びてもわたしの言葉は滅びない。消え去らない。いつまでも残る。いや、いつまでも生きている。この世を超えて生きている。
その日が、いつ来るかは誰も知らない。人の子も知らない。
天の父だけがご存じです。
いつ来るかを知ってはいけないと言われているのだと思います。
そのために準備をしてはいけない。
終わりの日が来る。
それを心にとめなさい。
今日が、終わりの日に向かう一日です。
それを心にとめなさい。
年間第32主日B 列王記上17・10-16 ヘブライ9・24-28 マルコ12・38-44 21-11-7
入祭唱
「神よ、日夜わたしはあなたに叫ぶ。
あなたの前にわたしの祈りを、あなたの耳にわたしの叫びを。」
今日を死者のための祈りの日とします。世を去った人々を思い巡らします。まず、わたしたちの家族、兄弟、親戚、親しい知人を思います。母さんありがとう、父さんありがとう。皆ありがとう。特に、母さん、父さんの姿を思い浮かべます。その時代を一生懸命生きた。今と違って、物がない、食事をするのに苦労する時でした。収入の少ない社会で、良い社会を作って行こう。それでも、自分たちの子供たちが大人になって何とか生活できるように、考えながら生活したのです。
世を去った人々が豊かなこの世を作ったのです。自分たちの社会を作り変えていった。これからの日本が世界の中で活動する。戦争のない世界を作って行こう。そのための日本のために働いたと思うのです。 「神よ、日夜わたしはあなたに叫ぶ。」 神様、まことの道を歩ませてください。社会の発展、変化は自分のためのもの、自分の豊かな生活のためのものではいけない。すべての人が生き生きと生きるための社会になったらいい。そのための社会を作ったらいい。
その道はわたしたちみんなの道ではないでしょうか。わたしたちがそのために苦労して行けますように。神様そのための仲間が集まりますように。
神様、わたしたちのこの叫びを、この祈りを聞き入れてください。
神殿で、イエスはまことに厳しことを言われます。あなたがたが尊敬、敬愛している律法学者の姿に気をつけなさい。律法学者は聖書を深く、読んでいる。聖書を覚えるほど読んでいる。どんなように読んでいるのか。聖書を教科書のように読んでいる。どこに何か書いてあるか、誰が何をしたか。預言者の言葉をよく知っている。イスラエルの歴史をよく知っている。知っているから、神様の出来事をよく知っているから、その思いのうちに長い衣をまとっている。長い衣は尊敬のしるし。律法をよく知っている。律法を厳しく守っている。律法のうちにすべてが動く、その確信のうちにいる。その権威のうちにいる。 人々を律法のうちに招く。人々を自分たちの律法の世界に招いているのです。律法は見える世界ではありません。神様のみ心を律法の文字とした。
神様のみ心を現す聖所、神殿を権威を持つものが見る建物とした。神様のみ心を現す律法を文字にした。聖所、神殿に神様のみ心を見なさい。神様のみ心の入らなければ、聖所ではない。神殿ではないのです。律法の文字から離れなければ、神様のみ心に入らなければ、まことの律法ではないのです。 律法学者、ファリサイ派の人々=人の上に立つ権威をもつ者が、見えるものを支配しています。支配するように語り、行います。長い衣をまとい歩き回ります、広場で尊敬される者として挨拶されます、会堂では上席、宴会では上座に座ります。見せかけの長い祈りをし、やもめの家を食い物にするのです。
見せかけの長い祈りをする。やもめの家を食い物にすると言われる。
律法学者、あなたたちの心は何ですか。聖書を読んで、読んで知識を超えなさい。神様のみ心に入りなさい。律法の世界を知り、律法のみ心に入りなさい。律法によって裁くのを止めなさい。
人が生きている。生きているいのちを見つめなさい。
イエスは賽銭箱の向かいに座っている。大勢の金持ちが賽銭をたくさん入れる。ところが一人の貧しいやもめが来て、百円玉2枚を入れた。イエスは弟子たちを呼び寄せて言う。このやもめは乏しい生活の中から自分の持っている生活費を全部入れたのである。 賽銭はお金を入れる以上に心を献げるのである。
やもめは神様の恵みのうちに生きている。今生きている。神様のお恵みです。感謝します。
感謝の献金をします。これがわたしの全部です。明日も神様からのお恵みがありますように。
祈るとは感謝の生活を送ることです。
いのちを神様に委ねることです。
生きる。一緒に生きる。
自分を超えて。家庭を超えて。仲間を超えて。
日本を超えて生きるのではないでしょうか。
今を生きます。
世を去った人々を思い、感謝しながら、一緒に生きる世界を作ってゆく。
年間第31主日B 申命記6・2-6 ヘブライ7・23-28 マルコ12・28b-34 21-10-31
一人の律法学者が進み出て、イエスに尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」
律法学者は聖書の専門家です。忘れてはいけない律法を聖書に見つけたいと思っているのだと思います。 聖書は三つに分けて考えているようです。①律法(5書)②預言書③諸書
律法とは神様のみ言葉です。人の思い、行い、人々の思い、行いを神様が見つめている。律法学者は、人の思い、行いに神様が教えを告げられている、その教えが律法だと考えているようです。聖書全部が神様の思い行いです。特に律法の書、創世記で神様はアブラハム、モーセを直接導いておられる。 「どの掟が第一でしょうか。」イエスは言われます。「聖書の出来事を掟として読みなさい。深く深く読んで、神様のみ心に辿り着きなさい。」
聖書の出来事―掟は、律法はいのちの大切さを現わしているのではないですか。神様はいのちの尊さを律法で現している。聖書に書かれている歴史の出来事一つ一つに、人はいのちの尊さを忘れていると語っているのです。掟はいのちを見つめなさいと叫んでいるのです。
イエスは言われます。「第一の掟は、わたしたちの神様である主は唯一の主である。全身全霊をもって神である主を愛しなさい。第二の掟はこれである。隣人を自分のように愛しなさい。」
律法を守る、いのちを大切にしていますかと問うているのです。
聖書の底にいのちが流れています。いのちが律法の基本です。イエスはいのちを大切にする、それは愛ですと言われます。律法学者は言います。「先生、おしゃる通りです。神様は唯一。隣人を自分のように愛する。これはどんな焼き尽くす献げ物や、いけにえよりも優れています。」
或る教会の、少しお年寄りの神父さんを訪問しました。お昼を作りましょう。豚カツにしましょう。豚カツを買ってきます。野菜=トマト、胡瓜、キャベツを用意する。キャベツを特別にわたしの得意な千切りにします。美味しい昼食になった。キャベツの細かさが旨い。キャベツをもっとどうですか。美味しい。けれど、これで十分です。美味しさはこれで十分味わっていますよ。その神父さんは太っていない。 美味しいからもっと食べるとは違うのです。
ある所で美味しい果物が手に入った。神父さん、こんな果物を見つけました。一つ食べる。あぁ、美味しいな。もう一つどうですか。一つで十分。美味しかった。こんなに美味しいものがあるのですね。少し食べた。美味しさを味わった。美味しさを感謝するのです。
そのお母さんは癌で終わりが近かった。家族が病室に集まっている。母さん、何か食べたい物ある?家族のみんなは母さんの目を見つめている。姉さんは言う。キュウイという食べ物があるようだよ。外国のものだって。どんな味か、母さん食べて見ようよ。 青年は病院を出て、商店街を走り回った。夜の8時ころだった。なかなかない。あった。やっと見つかった。今から、50年ぐら前のことです。一つ300円ぐらいしました。病院に戻った。姉さんが皮をむいた。ちょと口に入れた。姉さんの思いは、この果物は癌に聞くと聞いている。食べてほしかったのです。
美味しいものは心を和ませる。美味しさは欲求のためのものではありません。
美味しさは神様からの贈り物です。 喜びがある。喜びも神様からの贈り物です。
美味しさ、神様ありがとう。喜び、神様ありがとう。
隣人のために働くのですか。苦しみしかありません。苦しみも神様からの贈り物です。
こんなことまでもしなければいけないのか。神様、ほほ笑んでいないでください。
あなたの神である主を愛しなさい。
年間第30主日B(1) エレミヤ31・7-9 ヘブライ5・1-6 マルコ10・46-52 21-10-24
「エレミヤ31・7-9] エレミヤ:ヤ―ウェは建設する。
エレミヤは主が選ばれた。わたしの預言者となりなさい。年若いわたしは聖書をよく知りません。若いから、わたしより年を取った人から見ればただの若造。わたしは彼らに話もできない。主は言われる。あなたはわたしの者となるのです。わたしが告げる言葉を語りなさい。自分の信仰、思いを語るのではない。エレミヤは典礼、儀式を超えて、神様のみ心を語ったのです。神様のみ心が人を包む。神様のみ心を人の心に刻み続けるのです。その道を歩んだのです。
主は言われる。イスラエルの者よ。主に向かって祈り、喜び歌え。主に向かって叫べ、「主よ、あなたの民をお救いください。イスラエルの残りの者を。」 主に何を求めるのか。主に力を求める。希望を求めるのですか。主は問われます。あなたはまことにイスラエルの者ですか。神様を求め、祈り、働く者ですか。あなたはどのような外圧にも負けない信仰の道を歩む者ですか。残りの者ですか。 わたしは残りの者を集める。地の果てからも集める。その中には体の不自由な者もいる。臨月の女もいる。彼らは泣きながら帰って来る。わたしはイスラエルの父となる。
[ヘブライ5・1-6]
キリストは大祭司です。大祭司は人のために神様に仕える職です。無知な人、迷っている人、苦しんでいる人、悲しんでいる人のために、思いを注ぎ、いけにえを献げます。キリストは主から大祭司に選ばれた。「あなたはわたしの子。わたしは今、あなたを生んだ。」
バルティマイは目の不自由な者。道端に座って物乞いをしている。ナザレのイエスがこの道を通ると聞いた。イエスを囲む人たちの足音が聞こえた。イエスが来たと思った。バルティマイは叫ぶ。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください。」イエスを囲む人たちは静かに歩いている。バルティマイのこの声を聞いて言う。「大声で叫ぶな。静かにしなさい。」彼はますます叫ぶ。「ダビデの子イエス、わたしを憐れんでください。」イエスはこの男の心を受けとめた。「その男を呼んで来なさい。」彼は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。自分の上着を脱ぎ捨て、それは今の状態のままをやめるということではないでしょうか。自分の上着を捨て、イエスの上着を身に着けるという決心ではないでしょうか。「何をしてほしいのか。」「先生、目が見えるようになりたいのです。」「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」目の見えなかったその男の人は見えるようになった。彼は道を進まれるイエスに従った。
新しい世界を知った。今の自分をやめる。自分の求めるものは、その方のもとにある。目の見えなかった男は何が見えるようになったのでしょうか。イエスの顔が見えた、仲間の顔が見えたのでしょうか。いや、イエスの心が見えたのだと思います。その時、この世界の物が見る見えない以上に、イエスの心に触れた。自分はこれ以上求めることがない、見えなくても善いと知った。見える物を在らせる力をイエスのうちに見たのです。
その時、目の見えなかった男の人は、見える者になったのです。
年間第30主日B エレミヤ31・7-9 ヘブライ5・1-6 マルコ10・46-52 21-10-24
「神に渇く者の心は喜びに満たされる。神を求め、いつもその顔を慕い求めよ。」
入祭唱を読みました。 幼い時、小学生、中学生になるまで毎日が楽しかった。朝起きる、今日が始まる。友達と会う。走ったり、追いかけっこをしたりして、遊びまわる。時に勉強する。楽しい、ただ楽しい、そんな毎日があったのです。そして、ついには、生きるとは何かを考えるようになったのです。皆に、生きる毎日があると同じように、皆に死がある。わたしは今、生きている、そして、いずれ、死んでゆく事を知るのです。すべてのものは変化してゆく。人の力によらずに変化して行く。
人はこのようなところにいる。自分は何かを知りたい。本を読む。話を聞く。分からない。全く分からない。しかし、事故があった時、神様がおられることを知ったのです。神様がわたしたちに今も声をかけられている、神様は今も働いておられると知ったのです。神様のもとにすべての命がある。神様のもとに時間、空間があると知ったのです。神様の力によって、物は生まれ「ある」となる、そして物は取り去られ、なくなるのです。神様はわたしたちの命の源。生きる、喜ぶ、命の力は神様から与えられている。神様に出会いたい。神様の心に渇いている。霊を注いでください。神様が霊を注がれる。霊に満たされると心は喜びに満たされる。自分を捨てなければ、神様は見えないと言われる。自分を無にします。霊に満たされて、神様の口になります。神様の道具となります。
エレミヤを読みました。エレミヤは神様から選ばれた。わたしの預言者となりなさい。何をおっしゃるのですか。わたしは年若い者。聖書をじっくり読んだこともありません。人を導く力もありません。神様の言葉を語る…この若いわたしが神様の言葉を語ろうとも、年取ったものは誰も聞かないでしょう。あなたは自分を信仰を語るのではない。あなたの思いを言葉にして語るのではない。わたしの語る言葉を語りなさい。エレミヤは典礼を、儀式を超えて神様のみ言葉を語りました。神様のみ心を人の心に刻みつけるのです。
主は言われる。イスラエルの者になりなさい。神様を求め、神様のために働きなさい。神様に祈り、喜び歌いなさい。どんな不幸な事態になっても、神様を忘れない。むしろ、困難な出来事、苦しさを忍耐に変えなさい。楽を選ばず、苦労を選びなさい。わたしはイスラエルを集める。残りの者を集める。わたしはイスラエルの父となる。
バルティマイは目の見えない物乞いの青年。バルティマイという名は「汚れた者」という意味のようです。毎日、道端で物乞いをしています。イエスの名を聞いています。イエスは奇跡を起こすそうだ。神様のみ心を語るそうだ。神の国のすばらしさをを語っている。そして、ナザレのイエスがこの道を通るという。バルティマイはわくわくする。イエスに会いたい。イエスに触れたい。道にイエスを囲む人たちの足音がする。バルティマイは叫ぶ。「ダビデの子イエスよ。わたしを憐れんでください。」イエスを囲む人が言う。「あの方に、お前は何を叫んでいるのか。静かにしなさい。」バルティマイはますます叫ぶ。「ダビデの子、わたしを憐れんでください。」わたしは無知で、貧しい。何も持っていません。苦しんでいるわたしに憐れみを注いでください。そんな心を叫ぶのです。
イエスはこの男の心を受けとめた。イエスは言う。「その男を呼んで来なさい。」バルティマイはイエスに呼ばれた。上着を脱ぎ捨て、イエスのもとに行く。「何をしてほしいのか。」「先生、目が見えるようになりたいのです。」イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」その時、すぐ、目の見えない人の目は開いた。目の見えない人は、なお道を進まれるイエスに従った。
上着を脱ぎ捨てる。上着は今の自分を大切にする大切なものです。今の自分を捨てます。イエスの上着をください。ついて行きます。エレミヤに言いました。イスラエルの者になりなさい。ただ神様を見つめなさい。自分を捨てなさい。自分を捨てた時、神様のみ心が見える。エレミヤは神様のものになった。目の不自由な人、自分を捨てたのです。エレミヤは神様が見えた。目の不自由な人はイエスの心が見えた。
年間第29主日B② イザヤ53・10-11 ヘブライ4・14-16 マルコ10・35-45 21-10-17
神様は弱い人を見捨てられない。弱い人―能力のない人、貧しいところの出身者、それ以上に弱く生まれた者、体の不自由な人等―社会の中で生活出来ない人たちではないでしょうか。社会が受け取ってくれない人たちがたくさんいます。社会が、その人たちを弱い人たちと決めてしまうのですね。
自分には力がない、欠点ばかり、恵まれていないと思っているあなた。あなたは今を喜びの日に変える何かを持っていますか。ある人はあなたにそう尋ねると思います。
みんな神様のうちに生まれ、神様のうちに生活しているのにこんなに差がある。神様はわたしに何をしろというんですか。
神様は、自分の足りないところを見つけなさいとおっしゃる。足りないところ、ある先生は言いました。そんな欠点は自分で努力して直しなさい。神様にそんな願いは届きません。神様はあなたをじっと見つめておられます。しかし、そのようなところを癒すように根があっても、神様にその願いは、その声は届かないのです。途中で消えてしまいます。
「わたしは吃りです。神様、わたしの吃りを直してください。」「話せるようになったら、あなたは何をするのですか。」「ただ、話せるようになりたいのです。皆と一緒の仲間になりたいのです。」
「自分が満足したいのですか。それなら、自分の力で吃音を直しなさい。わたしはあなたを豊かにするのに、十分な力を与えています。」
歩くことの出来ない人たちに車椅子が生まれた。
耳の不自由な人たちに手話が生まれた。
目の不自由な人たちに音声朗読、点字本が生まれた。
あなたたちが自分たちの力で、不自由さを助ける物を作ってほしい。皆が出会う者となりなりなさい。
出発します。不自由で出発出来なかった。今、人と出会うことが出来た。実に、今まで人と出会うのが嫌だった。人と出会うことが怖かった。
欠点がある。それを克服しなさい。自分の中に閉じ籠ってはだめだ。人と出会いなさい。
体の不自由な人で仕事のできない人。人のために何かをするのです。自分の体が不自由だからと言って、自分の世界に閉じ籠っていてはいけません。声をかけてください。必ず仲間が出来ます。社会の中で元気よく働いている人たち、その仕事が人のためのものになっていたらいいですね。その仕事が、個人の趣味のためだけであったり、美味しいお菓子の製品、製造だけのものであったりではなく、その趣味、そのお菓子が、社会の中で隅に追いやられている人のためにもなったらいいのです。
イエスは言われました。隣人を自分のように愛しなさい。人とつながりなさい。人と心のつながりを持ちなさい。今日、わたしは言います。隣人を愛せない、それは罪ですよ。
イエスは十字架にかけられました。罪人がわたしを十字架にかけた。
わたしは罪人の事を天の父に叫びます。
天の父よ、彼らを赦してください。自分が何をしているのか分からないのです。
イエスと出会った。イエスの十字架を見た。自分の中のわがままを見ている。自分が赦されたと思った。人と出会います。人のために働きます。
栄光は生きる喜び。仲間と共に収穫する、良いものを作る。
太陽のもと、木々が茂り、花々が咲き、青空のもとで、友と語り合う。
静かに、自然を味わう、心が自然のうちに開く。
平和とは与え合うことではないでしょうか。
年間第29主日B イザヤ53・10-11 ヘブライ4・14-16 マルコ10・35-45 21-10-17
[イザヤ53・10-11]
神様はわたしたちを見ておられる。何故、こんな不公平ながあるのか。金持ちがいる。貧しい者がいる。体が不自由に生まれついた者がいる。全く働けない者がいる。人を騙す者、人を奴隷のように扱う者を見て来ている。わたしたちは皆、神様から命を注がれた兄弟、姉妹ではないか。
「心の病、体の病に苦しむこの人を主は打ち砕こうと望まれた。」
この人は思った。弱いわたしたちが、弱い仲間のために働く者になる。弱い者のために働いて、強くなる。働くことこそわたしたち僕のいけにえではないか。わたしたち自身が、わたしたちの心と体が神様のささげものになるのではないか。これこそ主の望み、この思いが子孫に続いて行きますように。 主は言われる。わたしの望みは多くの人が隣人を自分のように愛すること。それが出来ない人は罪のうちにある。 わたしの僕は罪人の罪を自ら背負った。
償いの献げもの、傷のない子羊―それがイエス・キリスト。
[ヘブライ4・14-16]
イエスに出会った。イエスを知った。イエスには神様が働かれている。イエスの中に神様がおられる。イエスの言葉は神様のみ心、イエスの業は神様の憐れみ。イエスこそ神様の姿。イエスと共に祈る、イエスと共に働く。わたしたちがイエスの歩いた道を歩き、試練、迫害k俺を聞いてヤコブ、ヨハネに耐え、大胆に神様のもとに行こうではありませんか。
[マルコ10・35-45]
ヤコブとヨハネの兄弟はゼベダイの子。雷の子と呼ばれるほど激しい気性にあると考えてしまいます。ヤコブとヨハネがイエスに言います。「先生が栄光をお受けになる時、わたしたちをあなたの右、あなたの左に座らせてください。」「誰がわたしの右、わたしの左に座らせるかはわたしの決めることではない。あなたたちはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることが出来るのか。」イエスは思うのです。わたしたちの歩むこの道は、自分の満足の行く地位、権力を得るためのものではない。わたしの座はこの世にはないことを、その時、知ることになる。あなたがたはわたしの道を歩む苦しさを知ることになる。」ほかの10人はヤコブ、ヨハネのことで腹を立て始めた。イエスは12人を呼び寄せて言われた。「あなたがたは異邦人の考える支配者になりたいのか。わたしの道はそうではない。偉くなりたい人は皆に仕える者になりなさい。一番上になりたい者は全ての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく、仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
わたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることが出来るか。わたしが受ける杯は何か、考えたことがあるのか。わたしの受ける洗礼―父からの清めを受けることが出来るのか。
わたしの栄光とは、人の求めている栄光とは全く違う。わたしの栄光は見えない。あなたがたが求めるこの世の力ではない。わたしの栄光は人の中に入って行く光である。
わたしの歩いているこの道は、わたしの決めた道ではない。天の父の思いのうちにある。天の父の思いをわたしは話している、業を行っている。
年間第28主日B 知恵7・7-11 ヘブライ4・12-13 マルコ10・17-30 21-10-10
祈ることは易しいようですが、祈りの世界は厳しいものを持っているように思います。祈り求めることがある。何かのために祈る。心の騒ぎを静めるために祈る―平安でありたい。そして、見えないものに集中するために祈ることもあります。 ただ祈る。自分の奥の奥に入るために祈る。自分を超えて、自分の命を超えて、命を支えてくださる方に出会うために祈る。
第一朗読・知恵の書の人は言います。 わたしは祈りました。祈りがわたしを支えている。祈り続けています。深く深く祈ります。悟りが与えられました。悟りとは煩悩から離れること。煩悩が消えることです。自分を捨てる。自分のない世界に入ることではないでしょうか。その時、神様のみ心が心に流れ込んでくる。自分が神様の命のままにあると知らされる。
知恵が霊に語られた―これは神様の働きです。「何者か」が霊に語られた。「何者か」が知恵です。あなたは人のための力となりなさい。知恵は命の力。命を生かす力。自分が人の命を生かすものとなるのです。王笏、王座、名誉、権力、溢れる富、宝石、見える物の豊かさのない世界に入るの掟はです。知恵の前では金も砂粒、銀も泥です。健康や容姿も見える物。見える物を超える霊の力、知恵の富は見えない輝き。知恵は全ての善。知恵は愛です。
この世は物の世界ではないですか。王笏、王座、権力、富の世界。信仰の世界も物に飲み込まれようとしている。いけにえも富に関わっている。富を求める祈り。幸運を求める祈り。出世する祈り。信仰をつかさどる権威も物の世界に入ってしまう。
イエスは青年に尋ねます。あなたにとって律法とは何ですか。律法の力はどこからきているのですか。律法の掟は生活の掟ですか。なすべき事、してはいけない事が書かれているのですか。それを守ることが律法なのですか。律法は書かれた掟ではありません。まことの律法は神様のみ心です。み心のうちに律法が定められたのです。あなたは律法を守るという善を、この世、物の世界に積んでいます。あなたは物の世界にいるのではないですか。力の世界。権力の世界。神様のみ心が見えない世界です。
物から離れなさい。あなたの守っている世界は物の世界の出来事です。物から自由になる。物をすべて捨てなさい。その時、神様のみ心が見えます。
「物の世界を大切にする者が神の国に入るのは難しい。」弟子たちは言います。「それでは誰が救われるのだろう。」
人は小さい者、弱い者として造られている。小さいから少しでも大きくなろうとする。弱いから少しでも強くなろうとする。人はその道を歩むのです。心を、力をもっと大きくして、強くして助けを求めている人たちに与える者になる。持っている物を捨てることが出来ますように。
その道が神の国への道です。
イエスは言われます。自分の命を懸けても守りたいもの、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑がある。それを捨てなさい。これらに捕われてはいけない。与えられていることを感謝しなさい。この感謝の心を人のために働く力としなさい。
年間第27主日B(2) 創世記2・18-24 ヘブライ2・9-11 マルコ10・2-16 21-10-3
何の制約も受けず、自由に生きたい。わたしたち若いころは、そんな夢を持っていました。絵描き、音楽家、小説家、詩人、そんな人たちが憧れでした。卒業したらサラリーマンとして働く。時間の中に閉じ込められている。残業がある。自分の時間なんかない。 今のよう越え、フリーターという言葉があります。どこにも所属しない。自由に仕事を見つけて働く。ずっとアルバイトの生活をする。フリーター、昔のわたしにはそれが最高の自由な生活に見えたのです。生活のために働く時間以上に自分の能力を示す。 絵のために田舎から出てきた青年がいました。貧しくても絵を描いていた。土方をしながら絵をかいていた。わたしも同人雑誌のようなものを作ったことがありました。自分の文章のプリント本を出したこともありました。
何をしたかったか、今、考えると足の速い人が、走って、走って皆の前を走って名前を知られたい、そのように思います。自分のために走りたい。自分のために名を知られたい。
昔の夢であったフリーターは、今は、就職しなかった者というイメージしかしなくなってしまいました。原稿用紙を前にして書き続ける、絵を道路で売っている姿ではない。
小生も何もできない夢の中の青年だったのです。前にも話したと思いますが、小説家になりたくて会社を辞め、小説を毎日30冊読みました。毎日毎日読みました。しかし、一か月にあと何日、読み付かれたのです。ある人が、小説家になるのなら、一か月30冊以上の本を読んで2、3年。そのような小説の世界に入らなければ、小説家にはなれない、という話を聞いたのです。その言葉を聞いて、やってみようと思ったのです。
他人に制約されない自由とは、小生にとっては自分の枠の中にいることだったのです。他人が見えなくても構わない世界です。他人を見ようともしない。今ある自分はほかの人に支えられている。そんなことなど考えようともしなかった。
何が出来るか。自分の生活に役立つ何が出来るか。結局何もできない。支えれている自分が、全くどの人の支えにもならない。それに気付かなかったのです。
何が正しいか。何が悪かも考えない。
昨日台風で雨風が強かった。部屋の中にいるしかない。夕方、高校い時代の友人から電話があったのです。その友人は静岡県三島市というところに住んでいます。こちらも午前中、台風で土砂降りだったけど、テレビのニュースで房総半島も台風の被害が大きいと聞いた。どうだ?そんな話から、今、俺の自宅では、内孫、外孫で賑やかだ。中学一年から、高校3年までいる。でも、子供、孫に俺たちの話をしようとすると、全く話が通じない。おじちゃんの世界は大昔の話だよと言われる。話の通じない世界になっている。
神父の話が昔話になってしまっていないか。
動物を飼う。可愛がる。動物は人とは全く違う世界だよと言ってもそれを受け取ってもらえないのではないだろうか。動物を人の世界に入れてしまっているように思うのです。人が動物の食べ物を作って、缶詰のようなものにする。美味しい味付けをする。服を着せる。人が抱く習慣をつける。人の思いのうちに動かすように躾ける。どうぶつを可愛がるとは、動物をこわしてしまっているように思うのです。
人の世界の中に生きる。自分の生き方を見据える。人の苦しみを見る。人の悲しみを見る。人と一緒にいる時間を作る。一人でいる時間を作る。
わたしたちはイエスに出会った。イエスの姿に神様を見た。その神様は悪の人たちの中に入っていった。そして、苦しめられた。苦しめられてもほほ笑んで立ち向かった。
その人たちはわたしたちです。イエスを苦しめたのはわたしたちです。イエスを殺したのもわたしたちです。 わたしたち、ある者は金を設けている。或る者は労働者となって苦しい生活を送っている。或る多くのものは職がない。食べ物がない。飢饉のところにいる。これが、今の世界の状態です。
イエスは言われます。
一緒に生きなさい。支え合って生きなさい。支えられていることを感謝しなさい。
神様の思いを感じ取りなさい。
わたしの姿を見なさい。
わたしは十字架に向かって歩いています。
十字架の苦しみを味わいたくなかった。
父さんである神様が言いました。
お前が十字架にかからなければ、生きる苦しみの意味が人々に見えない。
神様苦しまなければ、苦しみは馬鹿な人だけだと思ってしまう。
苦しむ者が神様が見える。十字架が見える。神の愛が見える。
わたしは父さんの言いつけ通りに十字架の苦しみを背負いました。
イエスという神様は挫折の神様です。
イエスがまことの神様です。
年間第26主日B 民数記11・25-29 ヤコブ5・1-6 マルコ9・38-43,45,47-48 21-9-26
皆が善い人であったらいい。
主のみ心を求め、祈ります。そして、主のみ心に接します。
心の耳でみ言葉を聞きます。み言葉が心に刻まれます。そして、主のみ心を語ります。
信仰の道を歩む者、皆が、そうなればいい。主のみ心のうちに語り合い、与える者になる。人のために働くのです。 皆がそれほどまでに主を求めている。それは喜ばしい事、善いことをする人になってゆくことではないでしょうか。
ヨハネがイエスに言いました。「あなたの名を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言います。「やめさせてはいけない。悪霊を追い出していた。善い事を行う者はわたしたちの味方です。一緒に歩こうとしないとか、わたしたちに従おうとしない者を悪い者と決めつけてはいけない。その人たちにわたしたちの善い行いを見てもらったらいい。わたしたちもその人たちの善い行いを喜ぼうではありませんか。」
あなたたちが、その人の言葉、行いを見て、悪と決めつけたい、あなたの心を見つめなさい。あなたがたがその人を受け入れたくない思いがある。その思いは何かを静かに見つめなさい。そして、その思いを切り捨てなさい。あなたが悪い人を受け入れないその思いの一つずつを切り捨てるのです。捨て過ぎて、立てなくなってしまったら、その自分を受け入れなさい。小さくて、弱い、それがまことの自分です。
その時、あなたは温かい陽射しが自分を包んでいる、ゆったりとした心が自分を包んでいる事を知るでしょう。そして、一緒に生きる、喜び、和やかさを知るでしょう。
あなたは善い人ですか。
善い人になる道を、今、歩んでいますか。
悪い人たちを受け入れる寛容、柔和さを求めていますか。
神様の忠実な道具となれますように。
年間第25主日B 知恵2・12,17-20 ヤコブ3・16-4・3 マルコ9・30-37 21-9-19
神様は言われます。この困難な時代を生きる。あなたがたに不安が押し寄せています。あなたがたの信仰は、今、メシアを求めています。
あなたがたの信仰をもう一度見つめなおしなさい。
人の思いは、人の希望は、あなたがたの考えは「神の民であるわたしたちが、神様の恵みのうちにあり、毎日の生活が平安に過ごすこと」ではないですか。神様がわたしたちを包んでおられる。
必ず、神様はわたしたちを守る方を送られる。救いを与えてくれる方を送ってくださる。その方はメシア。メシアは神様の力を持ち、わたしたちを悪の力から守ってくださる。その方、メシアによって毎日の生活が喜びに満たされる。毎日、生きる力が与えられる。
神様の恵みのうちに生きる。神様の愛のうちに生きる。神に感謝。 そうかなぁ。
しかし、まことの恵みは与えられるものではない。神様からのまことの愛は与えられるものではない。
まことの感謝は天から降ってくるものではないのです。
「人の子は、神様から送られるメシアは人の手に渡される。人の手にかかり殺される。そして、三日目に復活する。」 神様の恵みはこのように与えられるのです。
あなたがたを救うのはあなたがた自身です。 あなたがたが正義のために働く。平和のために働くのです。飢饉に会って食べられない人のために、一人では生きてゆけない人たちのために働く。助けを求めている人のために働くのです。
神様の恵みは、天から降って来るのではありません。何もしないで、神様の恵みを待つ、それ不届きな思いではありませんか。父さん、母さんに子供が我儘を言う。子供の信仰ではありませんか。
イエスと弟子たちはカファルナウムに着いた。イエスは弟子たちに尋ねる。「途中で何を議論していたのですか?」弟子たちは黙っていた。何を話していたかが分かってしまったら、叱られると思ったのです。イエスは弟子たちの思いを知っていた。そして言うのです。「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべて人に仕える者になりなさい。」
一番先になる。天の国に一番に行きたい者の事ですか。いや、違うと思います。一番先に手伝いを始める人ではないでしょうか。一番先に人のために働く人です。友は、仲間は、兄弟たちは生きるために、助けを求めています。
イエスは子供の手を取って、真ん中に立たせました。その子供を抱き上げて、弟子たちに言われました。隣人を、友を、仲間を、兄弟たちを自分の子として助けなさい。
子供は両親に支えられて、生活している。子供は両親の助けがなければ、寝るところもない、食べることも、飲むこともできない。自分の子供を精一杯支えるのは当たり前。隣人、友、仲間は兄弟ではないですか。兄弟を自分の子のように愛しなさい、働きなさい。
わたしの名のために助けを求める人を受け入れるのです。
イエスは小さい子、幼子を抱き上げました。抱かれた子は、抱いてくれた大人に温かさを感じる。両手で天に上げられ、嬉しくて喜ぶ。或る子は抱かれて、天に上げられた。それが怖くて、泣いてしまう。手伝う。その子と心が通じ合っていますか。助ける人と心が通じ合っていますか。
その子にとってあなたは何者ですか。手伝ってもらっている人にとってあなたは何者ですか。
働くものに神様は恵みをくださる。本当の恵みは神様の喜びです。
年間第24主日B イザヤ50・5-9a ヤコブ2・14-18 マルコ8・27-35 21-9-12
イエスと弟子たちはフィリポ・カイサリア地方の村々を歩いています。エルサレムから遠い、ガリラヤからも離れている。イエスと弟子たちは自由に話している。
イエスは弟子たちに問います。「人々はわたしのことを何者だと言っているか。」
「多くの預言者の名をあげています。その預言者の再来ではないか。イエス様、あなたは力強い預言者、人々はあなたに希望を持っています。」
「それでは、あなた方はわたしを何者だと言うのか。」
人々はイエスの働く姿を見ている。イエスは病をいやす、悪霊を追い出す。死者を生き返らせたとも聞いている。また、人の心を包む言葉、励ます言葉、力づける言葉、慰める言葉を語る。
弟子たちはイエスと一緒に生活している。朝から晩まで一緒にいる。一緒にいると、親しみを持ち始めると、神秘性がなくなって行くのではないでしょうか。
イエスは弟子たち一人一人に聞くのです。「あなたにとってわたしは何だ。」
ペトロは言います。「あなたはメシアです。」
イエスはペトロの返事を聞いて、神様のみ旨を話されます。まことのメシアは何かを話されます。「救い主であるメシアは必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになってメシアいる。」イエスは弟子たちに、メシアとは何かをはっきりと語られ、教えられたのです。するとペトロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めました。
ペトロが先生を叱った。「何をおっしゃっているのですか。メシアは神様の力を持ったわたしたちの指導者です。メシアが苦しみを受けて、殺されるのですか。そんなことはあってはなりません。そんなものはメシアではありません。そんなことは決して言わないでください。」
イエスは弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われます。「サタン引き下がれ。あなたは神の事を思わず、人間のことを思っている。」
わたしに従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
自分の命を救いたい者はそれを失うが、わたしのため、また福音のために命を失うものは、それを救うのである。」
自分を捨てなさい。自分の十字架を背負いなさい。
メシアは、独り子は苦しみを受け取りました。すべての苦しみを受けとりました。苦しみが、命を捨てることが自分に与えられた、メシアに与えられた十字架です。
自分の思いのうちに歩くのではありません。自分が得をするために歩くのではありません。自分が生きている。みんな生きている。力がなく生きることが出来ない人がいる。食べ物がない人がいる。体が不自由で一人では生活できない人がいる。助けてもらわなければ生きることが出来ない人がいる。神様は言われます。その人たちのために働きなさい。働く、自分のためでなく、人のために働きなさい。命を求める。自分の命を求めるのではなく、隣人の命のために働きなさい。
仲間が生きる。その命を喜ぶのです。
人を愛すとは人のために苦しむことではないですか。人が生きるために働きます。
皆が生き生きと生きる。それがまことの喜びではないでしょうか。
年間第23主日B イザヤ35・4-7a ヤコブ2・1-5 マルコ7・31-37 21-9-5
第一朗読イザヤ書を読みました。『心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。」』
何をそれほど心配しているのか。何にそれほど脅えているのか。そんなに苦しみを抱えているのか。心をおののかせるほど、あなたを煩わせている。それは何か。 静かな時を持ったらいい。静かな時に自分を見つめる。いや、それ以上に神様を見つめるのです。あなたは自分の周りに、すべてのものが動いていると思っていたのではないですか。あなたは神様から造られた一つなのです。あなたもすべてのものの一つなのです。あなたもこの世に生きている。神様につくられ、神様の支えられてこの世に生きているのです。
神様は今もわたしたちのために働いておられます。神様は今も、人に害を加える悪を打ち倒しています。平安を求め続けています。わたしたちに平安とは何かと問い続けています。
神様のうちにおおらかに歩く。ゆったりと歩く。 神様は言われています。わたしを求めなさい。わたしのうちにいる者にはいのちの水を与えます。荒れた地、乾いた地に水が注がれる。あなた方が水を注ぎます。木々が茂る、花が咲く。この世を神の国とするのです。
苦しみや悲しみが自分を傷つけるものではなく、新しいものとするための苦しみになる、悲しみになるのです。苦しみ、悲しみを超えるぞ。雄々しくあります。恐れません。
貧しくても、力がない人でも「富んでいる人」はいるのですか。そんな事を聞いてみたいと思ってしまいました。 グレゴリオを見たいと思います。9月3日に聖グレゴリオをお祝いしました。グレゴリオは裕福な貴族の家に生まれました。信仰深い家族です。お母さんは列聖されたと聞きました。お父さんは政府の要職を退いて聖職者になったのです。お父さんは30歳で帰天しました。グレゴリオに莫大な遺産さんが入りました。グレゴリオはこのお金はわたしのものではない、神様のものだ、と修道院を6つ建てました。自分の屋敷を修道院に改築しました。グレゴリオは裕福であった。もっと裕福になった。グレゴリオは持っている物をすべて捨てた。何もなくなった。貧しくなった。グレゴリオは裕福であったが貧しい者になったのです。グレゴリオは神父になりました。そして、教皇さんになりました。
10月4日はフランシスコの記念日です。家族の絆、財を捨て、清貧の生活に入りました。すべてのものは神様のもの。自分のものは何もない。誰が、これは自分のものだ、と主張できようか。
ある人がフランシスコに言いました。あなたは何も持っていない。貧しい人ですね。食べ物はあるのですか。毎日食べられるのですか。食べられなくなったら、お腹がすきます。本当に必要になったら神様が食べ物を与えてくださるでしょう。あなたには、わたしのポケットは空に見えるでしょう。しかし、わたしのポケットの中には世界中のものが入っています。アシジのフランシスコは何も持っていない。しかし、一番豊かな者です。
物を持っている。それは何をするためですか。豊かな知識を持っている。その知識は何のためのものですか。
イエスのところに、耳の聞こえない、舌が回らない人が連れて来られました。友人が、その人の上に手を置いてくださるように頼みました。イエスはその人を群衆から連れ出しました。そして、癒された。イエスは人々に、このことは誰にも話してはいけないと言われました。
①なぜイエス様はこの人を群衆の中から連れ出されたのですか。
②何故、神様は体の不自由な人を造られるのですか。
③イエスの思い、体の不自由な人の思い、そして、群衆の思いはどんなだったでしょうか。
イエスの癒しは何のためでしょうか。イエスの癒しは体のためではないと思います。心を癒すため。その人の心と体が神様に向くためだと思います。
年間第22主日B
申命記4・1-2,6-8 ヤコブ1・17-18,21b-22,27 マルコ7・1-8,14-15,21-23 21‐8-29
主は言われる。イスラエルよ、わたしの思いのうちに心を開き、行いなさい。わたしの掟と法があなたの道しるべとなります。あなたはわたしの言葉をそのまま受け入れ、忠実に行いなさい。
神様の豊かさがあなたの恵みとなります。あなたの思い、行いがわたしの思い、行いです。神様がいつも共におられます。いつ呼び求めても近くにおられる。父親のような神様を持つ国民がどこにいるでしょうか。わたしの語る言葉をそのまま守りなさい。自分の都合で、自分たちの考えで変えてはならない。
今日、イエス様は申命記の言葉をそのままファリサイ派の人々と数人の律法学者たちの言われます。ファリサイ派の人々、律法学者の人たちは会食を楽しんでいるイエスの弟子たちの姿を見てイエスに咎めるように言うのです。
「なぜあなたの弟子たちは手を洗わないで食事をするのですか。わたしたちは昔の人たちの伝える通り、念入りに手を洗ってからでないと食事をしません。市場から帰った時などは、身を清めてからでないと食事をしません。何故、あなたの弟子たちは昔の人たちの言いついけを全く守ろうとしないのですか。」
食事の前に手を洗うとは、汚れた手を清めるということではない、のではないですか。食事を行う、神様の恵みを感謝する行いです。昔の人たちの言い伝えが間違って受け取られている。心を清くして食事を味わう。感謝の心で食事を味わうのです。昔の人たちの言い伝え以上に、神様のみ心を思ったらいいのです。
外から人に入るもので人を汚すものは何一つない。外で造られたものとは神様が造られたものではないですか。人の中から、人の心の中から出るものが人を汚すのです。人の心、欲求の思いのうちにある言葉が人を汚すのです。
あなたたちは昔の人たちの言い伝え、律法を守れという。律法の心を、昔の人たちの心を、守りましょう。手を清め、心を清めて神様の食事にあずかる。神様の支えに感謝します。神様の恵みに感謝します。喜んで食事にあずかります。
律法の文字を守れ、言い伝えを守れ。手を洗っても心は清くなりません。
人の心から出るものが人を汚す。
悪は皆、心の中から出てきて人を汚すのです。
わたしたちを囲んでいるもの、わたしたちを支えているものは全て神様から来るものです。すべての出来事が神様から来る。わたしたち自身も神様のみ心によって、命が与えられ、今も支えられて生きているのではないでしょうか。わたしたちは、命が与えられている、必要なものは全て与えられてえいる、神様の愛によって生きているのです。
年間第21主日B ヨシュア24・1-2a、15-17、18b エフェソ5・21-32 ヨハネ6・60-69 21-8-22
イエスは告げられます。「わたしは天から降って来た生けるパンである。このパンを食べる人は永遠に生きる。しかも、わたしが与えるパンは、この世に命を与えるためのわたしの肉である。」
「はっきり言っておく。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲まなければ、あなたたちのうちに命はない。」弟子たちの多くの者はこれを聞いて驚いて言うのです。「実にひどい話だ。誰がこんな話を聞いていられますか。」 イエスは皆が、呆れた顔で不平をつぶやいているのを知った。
食べ物の話で、わたしがよく行く、気功師マッサージの先生が言います。パンとかうどん、小麦を使っているものを食べてはいけないよ。パン、うどんが美味しくなるように、改良してあるから、体に良くない。全く別な人も言います。小麦をつくっているグルコサミンが体に良くないっていいますよ。聞き違いかも知れないけれど、まじめに言われると信じてしまいます。
人の苦しみ、悲しみを受けとめてくださっている方が、神様のみ言葉を語られる方が、まじめに、深刻に、わたしの肉を食べなさい。わたしの血を飲みなさいと語られる。
「生きている、今、話をしているあなたの体を食べるのですか。血を飲むのですか。そんな事は出来っこないじゃないですか。」「わたしの肉を食べるのです。わたしの血を飲むのです。」
弟子たちは、イエスの言っていることが分からないと思っているのです。わたしたちもイエスが理解できないと思ってしまう。でも、思います。イエスを理解できなくても構わない。理解するとはイエスを自分の世界に引き入れることだと思うのです。イエスの世界が自分の世界に入らなくても構わない。だから、イエスの言葉をそのまま受け止めるのです。
イエスの言葉が体です。だから、「イエスの言葉」を「自分の体が理解する」のです。自分の体で受け止めるのです。イエスの言葉を心の耳で聞くのではなく、イエスの言葉を食べるのです。イエスの血を飲む。イエスの生活を飲むのです。
例えば、イエスが語る。その言葉を受け取る。その言葉の意味を理解し、イエスの心を感じて受け止める―のではないのです。イエスの言葉を聞くのではなくて、イエスが体に入って来るのです。言葉がわからなくても、その言葉の意味に反対であっても、その言葉が相手の人に損をさせるかも知れなくても、その言葉を全部受け取るのです。
イエスの態度が全部の人たちの反対であっても、イエスの心と体は神様の善のうちにあると信じるのです。
イエスは天の父のもとにいた。天の父の命の中にいた。天の父からこの世に送られた。この世に生まれ、生活した。社会に出た。毎日、人々と出会って、語り合った。業を行った。
その全部がイエスの言葉、イエスの姿です。毎日、イエスは語られる。わたしたちはそれを食べる。自分の状態がどんなであれイエスを食べ続けます。イエスを食べ続けると、自分がひっくり返ってしまいます。自分がそのためにひっくり返ってもそれがいい。いや、むしろひっくり返ったらいいのです。
イエスは12人に問います。「あなたたちもわたしから離れたいか。」
「主よ、誰のところへ行きましょう。あなたのみ言葉は永遠の命です。」
聖母の被昇天 21-8-15
今日は聖母の被昇天をお祝いします。神様が母マリアを天の国に召されたのです
。
マリアは明るい子です、働き者の少女です。父さん、母さんの言いつけを素直に受け取ります。
ある日、天からの御使いがマリアを訪れます。天使はマリアに言います。
「マリア、神様はあなたに大きな恵みを注がれました。あなたは身ごもって、男の子を生みます。その子をイエスと名付けなさい。主はその子にダビデの王座をお与えになります。」
「どうしてそんなことがあるのでしょうか。わたしはまだ結婚していません。」
「神様はあなたを見ておられます。この出来事は神様のみ心です。聖霊があなたに注がれる。生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。あなたの親戚のエリザベトも不妊の女と呼ばれていましたが、高齢でありながら、今、男の子を身ごもっています。はや六か月になっています。」
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」
マリアはエリザベトに会いたかった。会いに行きたい。神様の恵みがわたしに注がれ、わたしは身ごもった。エリザベトも不妊の女と呼ばれていたのに、神様の恵みが注がれた。エリザベトも身ごもっている。半年もたっているというのです。この喜びを一緒に喜びたい。
マリアは山里の道をひたすら歩きました。ついに、ザカリアの家に着きました。
「シャローム」主の恵みをたたえましょう。主によって生きている。主の恵みのうちに歩みましょう。「主の恵み、おめでとう。」マリアの挨拶をエリザベトが聞いたとき、エリザベトの心が弾みました。「あなたは女の中で祝福された方。あなたの挨拶を聞いた時、わたしの胎内の子が喜んで踊りました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方はなんと幸いでしょう。」
エリザベトは言います。神様をこんなにも深く信じられるあなたは幸いな方です。
マリアの返答は祈りとなって口が開きました。祈りの言葉が流れ出たのです。
わたしの霊は、わたしの魂は主をあがめ讃えます。こんな何も出来ないわたしに目をとめてくださった。力ある方、主がわたしに偉大なことをなさいました。主の憐れみは主を畏れる者に及びます。権力ある者は引き降ろされ、飢えた者を善い物で満たされます。力ある者、富める者は与える者になりなさい。貧しくなるほど与え続けなさい。
天の父はマリアに天の国という、喜びの恵みを与えられたのです。
マリアを思います。マリアは喜びの方です。出かけて行く方です。
そして、出会った方と誰でもつながる方だと思います。
幼子イエスは母マリアのうちにいました。母マリアをいつも見ています。働くマリア、人々の話を聞くマリア、人々に語りかけるマリア。家の中で、マリアはイエスと一緒に祈ります。
そして、イエスは深く祈りに入るマリアを見ます。毎日、夜、寝る前に神様の話をしてくださる。
村の集まりの中で、重い役割を果たします。生活の中に生きる。仲間と一緒に働く、人のために働く母マリア。苦しみが入ってくる。あぁ、幸いなこと、この時、イエスに苦しみ打ち勝つ努力を示します。 人々の中にマリアの誠実さの心が入ってゆくのだと思います。
神様は母マリアを天の国に呼ばれました。
マリア様を母の手本としたいですね。
いや、わたしたちの心構え、人と接する手本です。
年間第19主日B 列王記上19・4-8 エフェソ4・30-5-2 ヨハネ6・41-51 21-8-8
エリヤはバールの神々と対決した。そして勝った。エリヤはバールの祭司たち(450人)を剣で殺した。エリヤはイザベルが自分の命を狙っていることを知り、逃げ、荒れ野に入った。逃げ歩いた。えにしだの木の下に横になった。眠s小野保美は。 「わたしはもう十分です。主よ、わたしの命を取ってください。」御使いが彼に触れた。「起きて食べよ。焼いたパンと水の入った瓶があった。」パン菓子を食べ水を飲んだ。また寝た。御使いがもう一度戻って来てエリヤに触れた。「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐えがたいからだ。」エリヤは食べ飲んだ。エリヤはそこから40日40夜歩き続け、神の山ホレブに着いた。
神様から恵みを受け、力づけられる。食べる、飲む。自分の持っている力では耐えられない。歩けないほど疲れている。神様は言われます。今、歩くことだけを考えなさい。苦労して歩くのです。
歩いても歩いても逃げられないことがあるのです。休みたい。休みなさい。しかし、放棄してはいけない、それは出発の休みです。 旅は終わりません。わたしたちは毎日会歩き続けています。生きる、歩くことです。もう年を取った。体が疲れやすくなった。無理が出来ない。
理由はどうであっても、旅は終わらない。 今日そんなことを言われたように思うのです。
40数年前、神学生の時、フィリピンにホームステイに行きました。英語を勉強する。社会を見る。教会を見るためでした。ある農村に行きました。村に水がない。その村の人たちは地主から水を買うのです。村の青年たちは、皆で井戸を作る決心をしました。日本か井戸を掘る技術を学ぶ。井戸の技術者を呼ぶ。長い時間とお金が必要だった。しかし、見える目的がある。毎日の苦しい生活の上に苦しさが重なってきた。皆が励まし合って、その目的を果たす。長い道のりです。完成まじかです。 その青年の家の泊まったのです。2階で、一階は鶏のための場所でした。塩をかけてご飯を食べた、そんなことを思い出します。日本に帰って、その年のクリスマスカードを書きました。返事が来ない。じきにクリスマスカードが戻ってきた。そこにはいませんと書かれていた。どうしたのかと思い聞いてみると、地主が井戸を壊した。そして、青年は地主の持っている兵隊たちに殺されたと聞いたのです。本当に若い青年だった。力があった。希望があった。苦しくても、歩き続けて、完成させたのだと思ったのです。
希望を持って歩いてゆく。その青年の事を思い出しました。
あなたの旅は終わっていない。今日の聖書を読んで、そんな声を聴いたのです。
わたしの体を食べなさい。
わたしの考えを、わたしの憐れみ思うのではなく、わたしの考え、わたしの憐れみを行うのです。
あなたはキリストを食べていますか。キリストの水を飲んでいますか。
年間第18主日B 出エジプト16・2-4,12-15 エフェソ4・17,20-24 ヨハネ6・24-35 21-8-1
エジプトから脱出して2か月たちました。イスラエルはシンの荒れ野に入りました。イスラエルの共同体はモーセとアロンに不平を述べ伝えます。「我々はエジプトにいた方がよかった。生活は苦しかったけれど、肉が食えた。パンも腹いっぱい食べられた。あなたたちはわたしたち全会衆をこの荒れ野に連れ出し、飢え死にさせようとしている。毎日がこのような状態ならば、エジプトで死んだ方がましだった。」
あなたたちイスラエルにとってエジプトの生活は何だったのか。イスラエルはエジプトで十分な食事を取っていたのか。いや、若い男の人だけは食べた。年老いた者は、また、弱い者は生活に耐えられなかった。奴隷の生活にどんな希望があるのか。
共同体の皆は不平を言うのです。食べものがない。水がない。我々の前には砂漠しかない。
イスラエルは今の状態しか見ていない。今しか見えない。神様が見えない。恵みが見えない。希望がない。我々は生きている、我々は歩いている、困難の中で生活を作り出してゆこうという思いがなくなってしまっている。希望する明日がない。
生きるとは恵みを感謝すること。希望を持つ事ではないか。生きている喜びを味わうことではないか。仲間と一緒に生きていることを喜ぶことではないか。
主は言われます。「わたしはあなたたちのために天からパンを降らせる。夕暮れには、肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちは主によって生きる。主によって明日がある事を知りなさい。」夕方になると、うずらが飛んできた。朝には露が降りた。この降りた露が蒸発すると薄くて壊れやすいものが残っていた。イスラエルに人たちは、それを見てこれは一体何なのだろうと口々に言った。これは何か―マンナ。これこそ主があなたたちに食物として与えられたパンである。
「肉、パンが神様から与えられているものだ」と忘れていませんかと問われているのだと思います。もう一度言います。生きるとは恵みを感謝すること。希望を持つこと。生きている喜びを味わうこと。神様を見つめること。仲間を見つめること。自分を見つめること。
肉、パンは体の食べ物、それ以上に、心の食べ物という事を忘れてはいけないのです。
神様から恵みであると知った時、まことのパン、まことの肉となるのです。
イエスはその場所を離れて、宣教の旅を続けます。しかし。大勢の群衆がイエスの後を追い、ついてくる。イエスはその群衆に言います。あなたがたがわたしについて来るのは、わたしを捜し求めるのはわたしのしるしを見たからではなく、パンを食べ満腹したからではないか。空腹が満たされた。しかし、わたしはあなたたちにパンを与えるために来たのではない。病気を癒すために来たのではない。 朽ちることのないパン、永遠の命に至るパンを求めなさい。これこそ天の父が与えられるまことのパンである。人の子があなたがたに与える食べ物である。神様は認証されました。天の父からのパンは、人の子を通して与えられるのである。
「人の子と出会うためには、永遠の命に至るパンを得るためには何をしたらいいのでしょうか。」
「神様がお遣わしになった者を信じる事です。」
「 そのパンをいつもわたしたちにください。」「わたしが命のパンである。」
わたしを食べなさい。わたしを飲みなさい。
あなたも人のためのパンとなりなさい。
人のために働く。自分を愛するように隣人を愛する。
そして、ついには人に食べられるパンとなるのですのです。
年間第17主日B 列王記下4・42-44 エフェソ4・1-6 ヨハネ6・1-15 21-7-25
ある男の人がエリシャに初物を持って来た。その季節に出来た始めての収穫物が初物です。初物を感謝のうちに神様への献げものとするのです。エリシャを通して神様への献げものとする。
その地は飢饉に見舞われていました。エリシャは言います。「これを人々食べさせなさい。」
召し使いは言います。「これを100人の人々に分け与えることが出来ましょうか。」
「主は言われているではないか。彼らは食べきれずに残す。」 彼らは食べきれずに残しました。
食べる物がない。お金がないから、長い間食べていない。昼間に教会によく男の人が来ました。教会の暗黙の約束なのですが、お金は貸してはいけない。食べ物は出しましょう。
お昼の食事を用意しました。スパゲティーをよく作りました。
ふと、ヴィクトル・ユゴーの「レ・ミゼラブル」を思い出しました。空腹のためパンを一つ盗んだ。そのため、牢屋に入れられた。
食物は神様からのもの、神様のお恵み。食べられない人がいたら応援する。空腹をなくす。
旧約聖書には寄留者、やもめ、親のない子たちのために心使いがあります。
列王記のこの話は預言者エリシャの心です。
イエスがわたしたちの目の前で病人を癒された。また、悪霊に取りつかれている若者を清められた、癒された。病は神様の罰、悪いもの、汚れたものだと思っている。イエスは汚れた霊を追い出された、悪霊を追い出された。イエスに神様の力がある。イエスと共にいたい。イエスの後を追い、イエスのもとに集まる。
イエスが向こう岸、ティベリアス湖向こう岸に渡られると、大勢の人々が後を追って来た。
イエスは山に登られた。弟子たちはイエスを囲んだ。イエスは目をあげ、大勢の群衆が自分の方へ来るのを見ておられた。群衆は空腹である、体と心が空腹であると見たのです。
「フィリポ、この人たちに食べさせたい。何処でパンを買えばよいだろうか。」「めいめいが少しずつ食べたとしても、200デナリオン分のパンでは足りないでしょう。」トラック何台分のパンが必要です。この田舎ではそのような店はありません。そんな大金もありません。
アンデレがイエスに言います。「ここに、大麦のパン5つと魚2匹を持っている少年がいます。」
イエスは言います。「人々を座らせなさい。」座ることは1つの事に集中することのように思います。静かに腰を落ち着かせることです。座ってわたしを、わたしの行いを見つめなさい。イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、人々に分け与えられた。人々はイエスのパンに満腹した。
残ったパンは12籠一杯になった。
人々は空腹を癒された。しかし、心の空腹は癒されていない。
人々が自分を王にするために連れて行こうとするのを知り、一人でまた山に登られた。
パウロは言います。わたしは主に結ばれて囚人になっています。もっともっと主に結ばれている。
パウロは、わたしたちに問われているのではないでしょうか。
イエスはあなたにとって何ですか。生活の中でイエスは何ですか。
あなたはイエスに囚われていますか。
イエスが自分の中に生きていますか。
イエスの心を、体を食べている。
年間第16主日B エレミヤ23・1-6 エフェソ2・13-18 マルコ6・30-34 21-7-18
イエスは言われます。人の群衆は、飼い主のいない羊のような有様だ。
自分の中にいないで、人と出会いなさいと言われます。立ち上がりなさい。自然と出会う。人と出会いに行くのです。 人は様々です。考え方の全く違う人がいる。性格が全く違う。許せないことを平然とする人がいる。口汚い事を喋る人がいる。初めて出会ったのだから、礼儀をわきまえろと言いたくなってしまう。そんな人がいる。 ほかの国の人たちの事を思うと、更に、人にはいろいろな人がいるのだと思うのです。
しかし、人と出会って自分が何かを知るのだと思います。支えられている自分がいる。支える者になりたいと思うのです。出会うとは聞く者になるという事だと思います。語りたい…出会って語る、語るとは自分を示すことではないでしょうか。その人に自分の印象を与えることになると思います。
出会った人つながる。友となる。それ以上に、考え方の全く違う人がいる。性格の全く違う人がいる。人の悪口を言う人。「ずるい事」をしようとする人。そんな人とつながって行きたくない。つながりたい人とは、心広く、おおらかで、ほほ笑みを持つ人、安心できる人ではないでしょうか。
どのように付き合ったら良いか分からない。その人の心が全く分からない。
イエスは言われると思います。自分を捨てなさい。自分が守りたいものを捨てなさい。
相手が何を求めているか、何を大切にしているか。その人の生活を見るのです。その人の規則を見るのです。
イエスは人と出会います。特に貧しい人たち、苦しい思いをしている人たちに出会います。聞きます。不満を、不平を聞きます。心にわだかまりを聞きます。何を求めているのですか、何をしていますかと聞きます。その人は自分を聞いてくれたことを感謝します。今まで、自分をこんなに受け入れてくれた人はいなかった。善いものを求めましょう。悪いことを悔い改めましょう。
人と出会うとは、その人の大切に思っていることを、その人の振る舞いにではなく、その人の心の中に見出すのです。出会い、そしてつながりは自分の新しい出発です。出会ってその人を知ろうとする時、自分が新しく変わらなければ、その人を知ることが出来ないと思うからです。
敵がいる。敵を理解することが出来ない。そんな時は、自分の規則を変えたらどうでしょうか。その人の居場所が自分の中にある。違いを受け入れることです。違いの中に相手を見出すのです。悪いことがある、どのようにそれを受け入れるか。もし、受け入れたら、自分の大切なものがなくなってしまう、それを考えたらいいのです。違いを確認する。敵ではなくなると思います。
たとえば、ある神父さんたちは労働問題、社会問題を追及する、ある神父さんたちは祈りの生活を大切にする。祈りか、社会問題か。大論争になる。しかし、面白いことに、神学校で同期だった神父さんたちは言います。「労働問題をやっているのか、俺たちはお前たちのために祈るぞ。」
「あぁ、祈ってくれ、俺たちは社会をよくするために社会問題のために働く。」
相手を受け入れる。命を見つめるのです。規則、戒律は規則のために、戒律のために、人の命を奪い取ってしまうことがあります。敵意が人の命を奪うことにならないように。
神様とつながる。命のうちにつながるのです。
イエスは12人に言われます。わたしはあなたがたを派遣する。人々に会いに行きなさい。神様のみ心を語りなさい。神様のみ心を行いなさい。悪霊を追い出し、病人を癒しなさい。神様は今も働いておられる。今も語りかけておられる。人とつながるのです。
使徒たちは宣教を終えた。イエスの所に集まって来た。「ご苦労さん。さあ、あなたたちだけで人里離れたところに行って、しばらく休みなさい。」静かに神様を思い巡らす。自分を見つめるのです。人々は、弟子たちが自分たちから離れて行くのを見て、弟子たちの行こうとしている所に、一斉に駆け付けた。イエスは大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れまれた。
人々はイエスの姿を見ている。イエスを知っている。イエスの話を聞いている。弟子たちの話を聞いている。何度も何度も聞いている。
しかし、イエスの話が心に入っていない。安心が心に根付いていない。
宣教、語り続けなさい。どこであっても、何度でも、語り続けなさい。
年間第15主日B アモス7・12-15 エフェソ1・3-14 マルコ6・7-13 21-7-11
イエス様は特に12人を選ばれました。①自分のそばに置くため、②派遣させるため、③悪霊を追い出す権能を持たせるためです。(マルコ3・13~) イエス様は12人を呼び寄せ、2人ずつ派遣します。人と出会いに行きなさい。そして、神様の喜びを語るのです。神様のほほ笑み、神様の憐れみ、慈しみを語ります。神様からの清さが注がれますと語りなさい。
イエス様は2人ずつ組みにして遣わすことにされました。2人は一緒に歩く。一緒に生活する。
2人の心がつながり合う。お互いが分かる。お互いが助けになるのです。それと同時に、必ず意見相違が現れる。感情の相違が現れます。しかし、逃げることが出来ない。この時知るのです。自分分と全く違う人を受け入れる。相手を発見することになる。自分を発見するのです。
ある家に入れてもらえたら、その土地から旅立つ時まで、その家にとどまりなさい。あなたがたを受け入れず、あなたがたに耳を傾けようとしない所があったら、そこを出て行く時、足の裏の埃を払い落としなさい。
人々は飼い主のいない羊のように、神様のみ言葉を求めている。自分たちの本当の安心を求めている。救いを求めているのです。人々の不満を聞きなさい。人々の苦しみ、悲しみを聞きなさい。
そして、神様のみ心で包むのです。相手が自分を受け入れてくれたらいい。その人の心と語り合ったらいいのです。 弟子たちは宣教した。人と出会った。人々と出会った。神様のみ心を語った。 そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒した。
毎日祈りをしている人が言いました。一回の祈りに、熱心に祈ると、一時間ぐらいかかってしまう。
心が燃えている時はいい。そうでない時、今から祈りの時かなと思ってしまう。祈りが好きになりますようにと祈っているよ、と冗談まじりに言っていました。
人と出会いに行く。出会った人を言い負かすために行くのでしょうか。いいえ、その人に負けるために行くのだと思います。鮮やかに負けたいですね。もう一度会いたいと思ってほしいですね。
その人と出会い、その人の語る話で心がいっぱいになる。話した人は、こんなに話せたと思って、きっと満足していると思います。その人に、こんな好い事がありますよとちょっと話してみる。その話が相手の心を打ったらいいのです。もっと安心を与える。
前に幼稚園の園長をしていました。子供たちの前で話をする。どうもうまく話せない。子供たちがこちらを向いてくれない。そうだ、アンパンマンの話をしよう。そう思った。アンパンマンは自分の体を取って、人にあげるんだよ。それがとっても美味しい。アンパンマン、ありがとう。そこから話は続かない。またもとに戻ってしまう。
教えようと思ってはいけないのです。話をしようと思ってはいけないのです。
年間第14主日B エゼキエル2・2-5 Ⅱコリント12・7b-10 マルコ6・1-6 21-7-4
イエスは故郷に帰られた。弟子たちも従った。故郷の人々の中で、安息日、会堂で教え始められた。皆の顔はイエスの姿を懐かしがっています。しかし、イエスの話に、イエスの説教にみんなは驚いた。「イエスは神様の心を語っている。イエスの言葉が心に入ってくる。こんな事があるのか。わたしたちは今、奇跡を見ている。しかし、待てよ。イエスは大工の子。母さんはマリア。兄弟、親戚を知っている。マリアも兄弟たちも今、我々と一緒に住んでいるではないか。」
人々はイエスの立ち振る舞いに心を奪われている。イエスの中に入って行こうとしない。イエスの心にこれ以上入って行こうとしない。イエスを理解しようとしなかった。イエスに躓いた。霊は入って来ようとしなかった。イエスは何も奇跡を行うことは出来なかった。
イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。
故郷はイエスにとって消えてしまった。イエスは思います。この世は、消えてしまった故郷、思い出を持って帰るところではない。 わたしはアブラハムの出来事を思い出しました。主はアブラハムに声をかけられました。ここを離れ、わたしが示す地に行きなさい。アブラハムは生まれ故郷を離れて、主の導かれる地に向かって出発した。今迄の地、故郷との地は人の力による社会、そこから脱出して、神の国に向かいなさい。神の国が故郷になったらいい。
また、老年になったアブラハムは僕に言います。イサクの嫁を探してほしい。その子はこの土地、
カナンの子であってはならない。そして、イサクをわたしの故郷に帰してはならない。今、ここにいて、神の国に向かって歩く、共に歩くのです。
イエスを理解しない、イエスに躓いたのです。
故郷は強い者が住んでいた。いや、皆、強い者だった。だから、イエスが見えなかった。
主はパウロに言われたのです。パウロ、弱い者であることを感謝しなさい。
主はわたしに刺を与えられた。わたしはこの刺を取り去ってくださいと主に、3度も願いました。主は言われました。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ、十分発揮されるのだ。」わたしは人を小さい者、弱い者として造った。小さいからもっと大きくなるように働きなさい。弱いからもっと強くなるように働きなさい。
人は、自分が小さい者、弱い者であることをまことに知るものになりなさい。だから、あなたが苦しんで当たり前、悲しんで当たり前、行き詰まって当たり前。しかし、壁にぶちあたっても、投げ出さない。意気消沈しない。かえって、目の前にある出来事を受け止めるのです。苦しみを、悲しみを、無能さを、行き詰まりを受け取るのです。それが、キリストを呼び求める大きな時となります。
パウロは言います。「わたしは弱い時にこそ、強いからです。
体に不自由なところがある。精神的にもろい。欠陥がある。主は言われます。今のあなたの不自由さから、周りを見つめなさい。父さん、母さん、兄弟を見る、仲間を見る、他人を見なさい。
何が見えますか。他人の良いところと、自分の不自由さ、自分への不満ですか。今のあなたが神様を見つめなさい。何故、わたしがこんな体なのか。わたしは何も出来ない者なのか。
あなたは、神様の前であなたの不満をぶつけるのですか。
神様は言われます。自分の弱さを誇りなさい。弱さは強さへの出発です。弱いから見える。兄弟の優しさ、思いやり、他人の我儘。わたしは支えられている。神様の中で生きている。父さん、母さん、兄弟、人々に感謝。神様に感謝。弱い者が神様を知る。人の優しさ、思いやりを知る。
年間第13主日B 知恵1・13-15,2・23-24 Ⅱコリント8・7,9,13-15 マルコ5・21-43 21-6-27
「神様が死を造られたわけではない。命あるものの滅びを喜ばれるわけでもない。」わたしは、命あるものすべてが生き生きと生きるために造ったのです。まことの喜び、生き生きと生きている、清らかな命の光を味わいたいのです。 主は、死は望んでおられないと言われる。
神様は人を造られた。わたしの似姿として人を造る。人に命を注がれ、わたしの注いだ命のうちに生きなさい。生きる喜びを精一杯味わいなさい。
その時、神様は人に、最も大きな喜び、自由に生きる力を与えられたのです。
自分に与えられた命を喜びの命として生かす、それはあなた自身の決断です。
主は言われます。わたしはあなたの目の前に善と悪を置きます。あなたは善の道を歩みなさい。
悪は、その人の欲求の喜びです。その人の求める豊かさを選ぶ。自分の豊かな贅沢を選ぶ。
そして思う。この豊かさは自分の力によるものだ。自分の有能さによるものだと誇る。
その時、自分が自分の世界を造ってしまう。その人は他の人の貧しさは見えない。
他の人の苦しみは見えない。他の人とつながろうとしない。
善と求めなさい。善は人の喜びを喜ぶのです。人の生きている姿、生き生きと生きる姿を喜ぶのです。人は皆、神様から力を与えられている。その力は一人では生きて行けない人のために働く力です。その人が生きることが出来る、それを喜ぶのです。
個人の欲求の力がこの世を支配してはいけない。わたしたちは、「神様は人を小さい者として造られた。人は弱い者をして造られた」ことを知らなければいけないのです。人は支え合って生きる。与える者になりなさい。今、わたしたちは生きている。既に与えられているから生きているのです。
悪魔の妬みによって死がこの世に入った。自分がすすんで与える者になる、すすんで損をする、そんなことは考える必要がない。自分のために自分の力で生きなさいと言うのです。
悪魔の世界は自分が生きるのです。友はいない。他人は苦労しても、貧しくてもかまわない。
死ぬようなことが起こってもかまわない。 その世界に平安はどこにあるのでしょうか。
自由に生きる、善を選んで生きる。その道が命への道。
人のために働く。支えられていることに感謝し、支える者になる。
神様いのちの内に、生きるものになるのです。
イエスは、ガリラヤ湖東南の地方デカポリスのゲラサ人の地で働かれた後、湖を渡り向こう岸に行かれた。イエスを見て大勢の群衆がそばに集まって来た。会堂長の一人ヤイロという名の人来て、イエスにひれ伏し、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうかおいでになって、手を置いてやってください。」イエスはヤイロと一緒に出かけて行った。途中、ヤイロの家から人が来て、子供が死んでしまったと言う。イエスは言われる。「恐れることはない。ただ信心なさい。」
会堂長の家では人々が大声で泣き叫んでいる。「なぜ泣き騒ぐのか。子供は眠っているのだ。」
イエスは両親と弟子三人だけを連れて、子供の部屋に入った。子供の手を取って言われた。
「タリタ、クム」少女はすぐ起き上がって歩き出した。
少女は12歳になっていたからである。 この出来事は神様の深い恵みである。両親、子供に与えられた命の出来事。命は人のものではありません。神様のみ心です。少女のこれからの生活を思う時、神様に愛されていることを忘れてはいけません。そのように言われているように思うのです。
(12歳は結婚の適齢期と言われています。大人になる。命の尊さを知る時です。)
12年間も出血の止まらない女の人がいた。祭儀的に汚れている。会堂に行けない。祭りを祝えない。行事に出られない。社会で一緒に働けない。(レビ15・25-30)癒すために全財産を使い果たした。その日、イエスの事を聞いて、町に出た。イエスを囲む大勢の人たちの中にそっと紛れ込み、イエスの服に触れた。この方の服にでも触れれば、癒していただけると思ったのです。
[力のある方の服に触れるとその方の力が病を癒す。そんな言い伝えがあるのです。]
女の人はイエスの服に触れた。イエスは自分の内から力が出て行くのに気付き、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのは誰か」と言われた。その女の人は癒しを、激しく、激しく求めていたのだと思います。イエスに触れた、その時、女の人の体にイエスの癒しの力が注がれ込んだのです。女の人は自分に起こったことを知って、心が震えた。感動した。震えながら、イエスの前に進み出た。ひれ伏した。そして、すべてをありのまま話した。
イエスは言われます。あなたの信仰があなたを救った。安心してゆきなさい。
生活の中で、悪に出会う。命を見つめる。
自分を見つめる時を持ちたいと思います。
命のうちに、自分の生活を見つめる、自分の兄弟、仲間を見つめるのです。
神様によって生きている。
年間第12主日B ヨブ38・1,8-11 Ⅱコリント5・14-17 マルコ4・35-41 21-6-20
ヨブは苦しみの中にいる。わたしは神様の思いに忠実であった。神様の誉のうちに出来事が起こるのならわたしは大いに喜ぶ。しかし、わたしには苦労ばかりが押し寄せる。憤懣やるかたなしだ。 主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。海は定められたところからほとばしり出た。母の胎から溢れだしたのだ。わたしはそこにまた限界の扉を置いた。「ここまで来てもよいが越えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ。」 お前は海の力を知っているか。深淵の底を歩き回ったことがあるか。お前は暗黒の門を見たことがあるか。悪の力、海は思い切りその力を示したいと思っている。海の高ぶりに扉を造り、枠の中に押しとどめたのはわたしである。
神様は言うのです。「黙れ。静まれ。」
お前は何者か。
お前は、自分の苦労、自分の努力、自分の従順、隣人に対する愛を語っている。お前はそれを誇りとしている。そしてお前はわたしに褒美を求めているのか。お前は言う。これだけやったのに、褒美どころか、苦しみを与えている。
わたしは言う。わたしの与えた苦しみをそのまま受け取りなさい。まことのいけにえ、まことの献げものは苦労を受け取る事でないですか。しかし、あなたは大いに不満を語った。「黙れ、静まれ。」
語るのをやめて、静かに自分を見つめなさい。あなたはあなたに出来る事をした。それに不平を言っている。あなたはそれだけの者です。
向こう岸は新しい世界です。舟は教会です。湖は社会です。突風が起こった。波が荒れた。舟が激しく揺れ動く。水浸しになる。このままだと舟は沈んでしまいます。
教会は働くことが出来なくなります。働かない教会、教会は死んでしまいます。わたしたちも教会で働くことが出来ない。死んだと同じです。「なぜ、そのように怖がるのか。」教会のまことのに姿は建物ではない。教会が働いている心ではないか。教会のまことの姿は生き生きと働く心です。教会が生きるとは、教会につながっている人たちの生きている心ではないでしょうか。建物を超えて生きるのです。沈んでしまう?また舟を造ったらいい。
向こう岸に渡る。西方浄土。エルサレムが浄土なのですか。神殿が神様なのですか。
エルサレムを特別の思う心、エルサレムに信仰の証を求める心。神様の憐れみを求める心。信仰の都を思う、多くの人の熱い思い、エルサレムに信仰を求める心がエルサレムを造っているのではないでしょうか。信仰をそこに求める心がなかったら、エルサレムはただの土地です。
黙れ。静まれ。
信仰の道です。
口で語ってはいけません。
受け取ります。
年間第11主日B エゼキエル17・22-24 Ⅱコリント5・6-10 マルコ4・26-34 21-6-13
イスラエルの有力な人々は今、バビロンで生活している。わたしたちはバビロニアに負けた。バビロニアの神様がわたしたちイスラエルの神様より強かったのだ。わたしたちの神様が最高の神様ではなかったのだ。 ファリサイ派の人々や律法学者の人々は言う。今ようやく分かった。わたしたちの生活は神様への義のうちになかった。神様を求めていなかった。神様に従順ではなかった。わたしたちの社会は、神様を無視した生活、欲求、暴力の社会だった。バビロン捕囚、これは試練です。神様はわたしたちに、わたしのもとに戻れと言われているのです。
エルサレムの神殿は壊されてしまった。エルサレムに信仰の民は残っていない。
全く何もなくなってしまったのです。神様を大切にする見えるものは何もない。
エゼキエルが神様の言葉を聞いたのです。(エゼキエル:神が強くする)
まことの木に集まる時、まことが現れる。わたしがそれを語り、それを実行する。(17・24)
イスラエルの名のもとに集まります。神様を求め、神様に従う民となります。
人は何もしなかった。
大地にからし種を蒔いた。からし種は小さい。どんな種よりも小さい。からし種はどんな木になるのか。どんな実を結ぶのか。楽しみだと思いながらその成長を見ていた。芽が出た。成長した。すると、どんな野菜よりも大きくなった。大きな枝を張った。
₊目の見えない人がピアノを弾きたいと言ってきた。お母さんは言う。この子は音楽の才能があります。先生は言う。あなたは何をおっしゃっているのですか。
⁺色盲の人が絵を描きたいと言って来た。絵の先生は駄目だと言う。あなたは何を考えているのですか。色盲の人が絵の具を使って絵が描ける筈がない。
⁺吃りの人が弁論大会に挑戦したいと言ってきた。
全部受け止めたらいい。目の見えない人の心はどうなのですか。色盲の人の心はどうなのですか。吃りの人の心はどうなのですか。それが一番大事なことではないでしょうか。その人がその出来事に真剣に向かい合うのです。そして、わたしたちはその人に手助けをするのです。
神様を見つめる。
自分を見つめる。
出来事を見つめるのです。
イスラエルが神様のもとに帰った。
目の見えないピアニストがいると聞いた。
色盲の絵描きがいると聞いた。
神様のみ心のうちに生きることが出来ますように。
キリストの聖体B (初聖体のために) 21-6-6
神父さんは旅行が大好きで、昔、サイパンという所へ行きました。サイパンは太平洋に浮かぶ島です。海に潜りたいと思ったのです。シュノーケルをつけて、潜水眼鏡をして、珍しい魚と一緒に泳ぎたい。シュノーケルをつけました。潜水眼鏡をつけました。潜りました。熱帯魚のような珍しい魚がいっぱい泳いでいる。目の前に、周りにいっぱい泳いでいる。嬉しかった。楽しかった。
珍しい果物があると聞いていた。レストランに入って、果物の大盛りを注文した。見たこともない果物がたくさんあった。嬉しくて、一生懸命食べた。
熱帯魚も、果物も、そうだ、みんな神様がお造りになったんだと思ったのです。神様は素晴らしい世界をお造りになった、そう思って、また嬉しくなりました。
僕たちは毎日食事をします。ご飯を食べたり、パンを食べます。
みんな神様がお造られたんだと思うのもいいと思います。
神様は言われます。
食物を食べて元気になる。
きちんと食事をしたらいい。
おやつも、時間を決めてたらいい。
今日は、教会の特別な日だ。キリストの聖体のお祝い日。
特別な、大切なパンを心で深く思い、食べるのです。
心もお腹が空くのです。心にもお腹があって、心のお腹が空くのです。
心のお腹が空いている人はすぐに怒ったり、わがままを言ったり、
言うことを聞かなかったりする。
このパンの中には、優しさがある、温かさがある、喜びがある、我慢する力がある。人の思いを聞いてやる心があるのです。
心の中に光がともる。大きな心になる。
人のために善い事をしたいと思うのです。
だって、皆も勉強したと思うけれど、このパンはイエス様だからです。
イエス様を知らなかったら、このパンが分からない。
イエス様を知れば知るほど、パンの味が分かるんだ。
今日はキリストの聖体のお祝い日です。ご聖体のお祝い日。
今日、初めてご聖体をいただく。
おめでとうございます。
イエス様の体を食べた。イエス様が自分の心と体に入って来た。
イエス様が自分のうちにいる、その思いを忘れてはいけません。
キリストの聖体B 出エジプト24・3-8 ヘブライ9・11-15 マルコ14・12-16,22-26 21-6-6
今日の、第一朗読を読んで、言葉の大切さ、契約の大切さを考えたいのです。
イスラエルはエジプトから脱出して、荒れ野を歩いてきた。3ヶ月目にシナイの荒れ野に着いた。荒れ野に天幕を張った。神様はモーセを山に呼ばれた。モーセは神様の前に立った。神様はモーセに言葉を語られた。モーセは下に降り、民に神様のすべての言葉を、すべての法を民に読み聞かせた。民は声を一つにして答えた。「わたしたちは主が語られた言葉をすべて行います。」主のみ言葉、法を心に留めます。心に刻みます。そして、み心をおこなって行きます。モーセは主のみ言葉をすべて書き記した。 山の麓に祭壇を築いた。そして、焼き尽くす献げ物、和解のいけにえを献げさせた。 モーセは血の半分を取って鉢に入れ、残りの半分を祭壇に振りかけ、契約の書を民に読み聞かせた。民は言う。わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります。」モーセは鉢の血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」(出エジプト24・1~)
「もし、わたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の中にあってわたしの宝となる。」(出エジプト19・9)
イスラエルよ、わたしの道を歩みなさい。
神様はある時にはバビロン捕囚(BC587)を行われた。ある時は、申命記改革(BC522)を行わた。数多くの預言者を送られた。主の約束をわたしたちは何度も何度も守りますと約束しました。
しかし、わたしたちは道に迷ってしまうのです。
神様は独り子イエスをわたしたちに送られました。
イエスはまことの神、まことの神の姿をエルサレムで示されるのです。
イエスは言われました。わたしは今、過ぎ越しの食事を行います。この過越しは今迄の過越し、モーセによる過越しとは全く違います。
あなたがたは神様にあれほど深く愛されているのに、全く神様のみ言葉を聞こうとしなかった。神様の掟を守ろうとしなかった。 神様の言葉を聞いている?→聖書を覚えるほど読んでいます。
掟を守っている?→律法を全部暗唱している。神様のみ心を心に刻む、それは神様のみ心を理解するのではない。み心を行うことではないですか。
イエスは言われます。わたしの言葉はわたしの業です。わたしの行いです。わたしの言葉はわたしの内にあるのではありません。その人とつながる心です。その人とつながるわたしの業です。
愛する:愛するとはつながる、命がつながっている事です。互いに愛し合いなさい。互いに支え合う、支えられていることを感謝することです。命を支え合うのです。生きられない兄弟のために全力を尽くすのです。
わたしを食べなさい。わたしの命のパンを食べなさい。わたしのパンはわたしの姿です。天の父からこの世で生きる命を注がれた。この世で人として生きた。人の苦しみを知った。人の悲しみを知った。人の小ささ、人の弱さを知った。神様は人にみ心、恵み、慈しみ、憐みを示してきた。命の尊さ、愛の大切さを示した。神様のみ心を体で知ってほしかったのです。
このパンを食べなさい。このパンの中にわたしの命がある。このパンにわたしの言葉がある。わたしの愛がある。神様への従順がある。
わたしのあなたたちへの愛を体で受け止めてください。このパンがあなたの命を生かす食べ物です。
もう一度言います。
イエスは神様です。イエスのうちに天の父がおられる。イエスのうちで聖霊が働いておられる。
キリストの聖体:イエスの命です。イエスのわたしたちへの愛です。イエスのみ言葉、憐み、愛がパンとなったのです。
カトリック教会は全世界に開かれています。様々な人たちがいます。言葉が違う、文化、伝統が違う、生活習慣が違う。議論がたくさんある。どうしても受け入れたくない、そんな考えもある。
しかし、カトリック教会は一つ。何によって一つになれるのか。
ご聖体によって一つ。どんな議論があっても、一緒にご聖体を受ける。キリストのうちに一つになるのです。
三位一体の主日B 申命記4・32-34,39-40 ローマ8・14-17 マタイ28・16-20 21-5-30
「神様の本名は三位一体だよ。」「三位一体って何。」 「三人のお方が本当はお一人だっていう事なんだ。」「別々な人たちが実は一人だなんておかしいよ。」「神様っていう時、それは三人の方を指しているんだ。 車がここにあるとする。車によっていろいろなものを運ぶ。見えるもの、見えないものを運ぶ。恵みを運ぶ、温かさを運ぶ、励ましの言葉、慰め、時には叱りの言葉、愛の力、命を運ぶ。病気を癒され、悪の力を退ける。この車は何万キロのスピードで光りのように走る。でも、車が走るのには、運転する人が必要です、不思議な燃料のガソリンが必要です。 この不思議な車、不思議な運転する人、不思議な燃料が一つになって神様なんだ。そう考えたらいいと思うのです。何一つなくてもだめだ。三つがなければ働けない、用は果たせない。天の御父は、一番偉い、運転する人かもしれないね。そんな事を言っても、車と人が一体にならなければ、不思議な燃料がなければ父は何も出来ない。
モーセが神様に言います。「わたしはイスラエルの民のところに行き、あなたの言葉を伝え、あなたの語られたことを行います。彼らは問います。お前を遣わすその神の名はなんというのか。神様、あなたの名は何でしょうか。」神様はモーセに言われた。「わたしの名は『ある』である。」
神様によってあるが実現します。神様が「あれ」と言えば、物がそこに現れます。
神様が時間を造られた。空間を造られた。
神様が見えるもの、見えないものを造られた。人を造られた。
神様によってあるがあるのです。
わたしはあなたを造った。あなたに命を与えた。わたしはあなたの神です。
父とイエス様配置しています。
わたしたちの神様はイエス様ではないのですか。
イエス様は、先程ほどのたとえで言うと車かな。車は運転する人の思いがなければ動けない。右に曲がれない。ブレーキをかけられない。車は運転手の言うままです。不思議な燃料がなければ動かない。 イエスは、「父のふところにいる独り子である神、この方が神を示された。」(ヨハネ1・18)
子は父のなさることを見なければ、自分からは何も出来ない。…父は子を愛して、ご自分のなさることをすべて子に示されるからである。(ヨハネ5・19-20)「わたしには自分では何も出来ない。ただ父から聞くままに裁く。」(ヨハネ5・30)
神は愛です。(Ⅰヨハネ4・16)
愛は支え合うことではないでしょうか。生きるためにつながっている。父は世を愛するために御子イエスをいけにえとして献げられた。人を、わたしたちを愛するためにイエスの命を渡されたのです。イエスの命はご自分の命です。わたしたちに対する御父の愛とイエス様の愛は同じです。
御父とイエス様の愛は一致しています。いのちは一致しています。み心は一致しています。
聖霊様は不思議な燃料のようです。御父、イエス様を運ぶ力です。
御父、イエス様のところにいつも一緒にいます。いつも三方は一緒です。イエス様が働くます。その時、聖霊様は父の思い、力をイエス様に注がれます。イエス様が語るとき、父のみ言葉を聖霊様がイエス様に注ぎます。父と子は聖霊様によって、つながっているのです。
イエスはガリラヤの山に登り、弟子たちに会った。イエスは復活のいのちのうちに弟子たちと出会ったのです。あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい。 洗礼とは沈めることだそうです。父と子と聖霊の名の中に沈めなさい。
まことの命のうちい沈められる。まことの愛のうちに、まことの平安のうちに、まことの慈しみ、まことの光のうちに沈められる。 三位一体の神様の。
聖霊降臨B 使徒言行録2・1-11 ガラテヤ5・16-25 ヨハネ15・26-27,16・12-15 21-5-23
今日、聖霊について考えたいと思います。神様についてわたしたちはしばしば考えます。神様によってこの大自然が造られた。空がある、大地がある、そして海がここにある。そして、時がこんなにも速く流れている。愛について考える。イエス様を思う。命の大切さを教えるために、愛の尊さを教えるために、イエス様、神様はいのちを捨てられた。しかし、聖霊についてはあまり考えないのではないでしょうか。
神様の本名は父と子と聖霊です。聖霊は父と子の道具のように思ってしまっているのではないでしょうか。
聖霊はつながりの神様、力を持って働く神様だと思うのです。
父と子は一体である。聖霊は父と子を結ぶ神様です。父と子を包む神様です。
初めに、神は天と地をお造りになった。
父である神は子であるイエスに言われます。わたしは万物を創造する。天、地、海、見えるもの、見えないもの、すべてを造りなさい。わたしの思いの通り造りなさい。イエスは父の思いをすぐに受け取って、聖霊によって父の思いを、思いのまま造ります。 聖霊は子イエスを通して、天の父の思いを受け取っています。聖霊の思い行いは父のみ心のまま、イエスのみ心のままです。
過越祭の50日目に「刈り入れの祭り」が祝われます。穀物の収穫を祝います。神様の恵みに支えられ、収穫を祝うことが出来る、神様への感謝です。この祭りは出席しなければならない大切な祭りです。大勢の巡礼者がエルサレムに集まっている。
弟子たちが一同、一つになって家に集まっていると、突然激しい風が吹き付ける音が家中に響いた。炎のような舌が分かれ分かれに現れ、弟子の一人一人の上にとどまった。
大勢の人たちはこの物音に驚いて集まって来た。
家の中で、弟子たちは聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、語り始めている。集まった人たちは驚いた、あっけにとられた。家の中の、この人たちはわたしたちの故郷の言葉を話している。全く違う国から来ている人たちは、自分たちの故郷の言葉で神様の偉大な業を聞こうとは思わなかったのです。そして、集まった人々は懐かしげに、その言葉に聞き入っていたのです。
イエスは言われます。わたしはあなた方から去って行く。わたしは父からのみ旨のままに、エルサレムでまことの神様のまことの姿を見せる。どのような出来事であっても、それを決して忘れてはならない。これがわたしたちの最後の別れではないのだ。わたしは去って行く、天に昇り、父のもとから弁護者、真理の霊を遣わす。弁護者、真理の霊、その方は初めからわたしのうちにおられた方。わたしの心、わたしの命、わたしの憐れみの中におられた方です。わたしを包んでおられた方です。その方がわたしを証します。あなたがたも初めからわたしと一緒にいた。わたしと一緒に生活し、一緒に歩いた。あなたがたも、あなたがたの方法で、わたしを証しをしてほしい。
あなたがたも、エルサレムで起こったわたしの出来事を悟ります。
聖霊によって、愛が働く力となる。憐れみ、慈しみが力となる。
わたしたちが聖霊によって信仰の道を歩む。
教会が生きる。教会が働くのです。
主の昇天B 使徒言行録1・1-11 エフェソ4・1-13 マルコ16・15-20 21-5-16
パウロは言います。「わたしは主と結ばれた故に囚人となった。」
囚人とは閉じ込められて自由に動けない人です。人と会うことが出来ない。食べ物も飲み物も与えられるだけ。自由に出来ない。パウロは思ったのです。わたしは神様によって不自由なものにされた。神様は言われるのです。あなたを囚人にしたのはわたしの招きです。囚人の苦しみ、悲しみ、不自由さを味わいなさい。
あなたは、あなたの喜び、平和を求めているのではないですか。自分の力で喜び、平和を作って行きたい。自分の豊かさを喜びたい。困難がある。そんな事が起こったらいやだ。そんな厄介なことは嫌だ。そんな苦しい事をしなくてもいいのに。能率よく、邪魔が入らず、仕事ができたらいい。
行きたい時に、気軽に旅行に行けたらいい。そして、ゆっくり自分の時間を過ごせたらいい。自分は不幸になりたくない。よい生活を送る、それが神様の恵ではないですか。
あなたは今、苦しんでいる人たちを心に留めていない。貧しい人たち、体の不自由な人たち、不器用ような人たち、能力のない人たちを見ようとしていない。貧しい人たち、体の不自由な人たち、不器用な人たち、能力のない人たちは、社会の中で、仲間外れにされている。 「お前たちは俺の友じゃない。」 その人たちは友だちに不自由なのです。
自由とは何か。本当の自由とは、誰かにつながっていること。自由とは本当の友がいることではないでしょうか。生きる。一緒に生きる友がいない。力のある人たちも友がいないと思います。
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」
人と出会いに行きなさい。人の住むところには道がある。わたしたちには見えない世界があった。自分のまわりが見えていなかった。わたしたちの周りには閉じ込められた人たちがいるのだと思います。出会いに行きなさい。いのちの大切だを語りなさい。
いや、それより前に、聞く者になりなさい。その人とつながりなさい。つながりが生きる喜びです。
あなたも囚人になりなさい。人と出会いなさい。一緒に生きる者となる。
復活節第6主日B
使徒言行録10・25-26,34-35,44-48 Ⅰヨハネ4・7-10 ヨハネ15・9-17 21-5-9
イエスは言われます。 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。 イエスは父の独り子。父の思いの内に生きる。父の心を語る。父の憐れみを行う。わたしは父の命のうちにいる。わたしは父のうちにいる。父がいなければわたしは何も出来ない。
最後の晩餐が終わって、ゲッセマネでわたしは独り祈りました。
祈りのうちに、父は言われました。エルサレムでまことの神の姿を現しなさい。今こそ、人々のすべての罪を、すべての汚れを受け取り、その罪、汚れを背負って、人のためにいけにえとなりなさい。人の償いとなるのです。悪の世界に入ってしまった人々を買い戻すのです。あなたの命が人々を救う代金です。あなたが人々を贖うのです。
わたしは父に言いました。
父さん、そんな厳しい盃は飲めません。その盃をわたしから過ぎ去らせてください。
父は言われます。償いの重さ、苦しさは計り知れない。その盃は厳しい、重い。
しかし、あなたはわたしの子ではないか。父の願いを聞いておくれ。
イエスは言いました。 み心のままに。
父を愛するがゆえに、イエスは父に従順になりました。父に思いに従順になります。
わたしの愛にとどまりなさい。わたしの思いのうちに生きてほしい。わたしの道を歩いてほしい。
それがわたしへの愛です。愛の道を歩く。わたしが与える続けたように、与え続けてほしい。
愛はいのちの喜びです。わたしと共に歩いてほしい。一緒に歩いてほしい。一緒に歩く仲間、いや、わたしはあなたがたを友と呼ぶ。友は親しい関係のつながりです。
友が隣人であるかも知れない。隣人は助けがなければ生活出来ない人です。一人で歩けない。一人で食事が出来ない。語れない。聞こえない。見えない。体が動かない。
隣人に言います。あなたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたを選んだ。あなたがわたしの友。わたしはあなたに命の尊さを知らせた。人は神様からいのちを注がれ、自然に支えられて、人に支えられて生きていることを知らせた。自然を支え、自然から大きな恵みを受けて、人に支えられ、支えながら生きていることを知らせた。あなたが行って、実を結び、その実が残るように、わたしの名によって願う物は何でもかなえてあげよう。
このイエスの言葉は、イエスの道を歩こうとしている人、皆に、語られたものだと思います。イエスと一緒に歩くもの、あなたはわたしの友だは友だ、と言われます。何か時いとします。自然に感謝しなさい。出会う人に感謝しながら歩きなさい。よい実を結びたいと思います。
互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令です。
わたしはいつもあなたに声をかけています。わたしに耳を傾けてください。ちょっとでもいいから、わたしに向けて、心の扉を開いてください。わたしは「ある」です。あなたはわたしの中にいる。どうしても隠れたいと思っていても、隠れるところはない。恥ずかしくて神様の顔を見られないと思っても、わたしはあなたの横にいる、あなたの後ろにいる。あなたの目の前にいる。
友よ、一緒に歩こう。
あなたの友は、隣人はどんな人ですか。
復活節第5主日B 使徒言行録9・26-31 Ⅰヨハネ3・18-24 ヨハネ15・1-8 21-5-2
わたしはぶどうの木。わたしの父は農夫である。
父はわたしがよく育つよう、世話をしてくださる。水が注がれ、陽が注がれる。悪い虫を取り除き、風が注がれる。わたしは父によって生きている。わたしは父の命のうちに、父のみ心のうちに生きているのです。 そして、わたしと出会ったあなたがたは、わたしの枝となります。わたしはぶどうの木、わたしにはたくさんの枝が生えています。わたしにつながっている枝は豊かな良い実を結びます。つながっていない枝は枯れます。集められて焼かれます。
あそこに木がある。その木は茂っているように見える。枝枝に葉が茂っている。たくさんの実があるはずだ。行って見よう。近づくと葉はしおれている。こんなに大きな木なのに、こんな茂っているように見えるのに、木が枯れている。実は一つもない。
この木は大地に根をおろしていない。大地からの栄養を貰っていない。まことの命のうちにいない。強い風が吹けば、葉も散ってしまうだろう。木も倒れてしまうだろう。
パウロ、あなたの木は、あなたの神殿はそのような木、そのような神殿ではなかったのですか。イスラエルの伝統の重さを持った、イスラエルに与えられた律法によって、イスラエエルが選ばれて民と言う誇りを持った、堂々とした木、堂々とした神殿。しかし、その木は枯れ木になっている。その木は喜びに実をもたらさない。生き生きとした生活をもたらさない。 その神殿は奉納物でいっぱいです。見事に造られている。人の力によって荘厳に、人の装飾によってきれいに飾られ、聳えている。 イエスは言われる。神殿は神様の体、神殿には神様の血が流れるところではないですか。神殿は生きているものではないですか。
律法の神殿に神様はおられない。律法の神殿は法律の神殿。「やりなさい」「やってはいけない」と教える神殿。律法の神殿を造るために捨てた隅の親石が、まことの神殿を造るのです。その神殿は生きている神殿。その神殿に神様の力が働いている。憐れみの力、慈しみの力、恵みの力、愛の力が働いている。
律法に神の力を見たサウロが、律法を厳守するファリサイ派のサウロが、イエスと出会った。イエスに声をかけられた。サウロ、律法を超えなさい。生きている神様と出会いなさい。
イエスは言われます。わたしはぶどうの木。今、地上に茂っているぶどうの木。今、生きている神様の力によって生きている、愛の実をもたらすぶどうの木。その実は神様のみ心です。その実を食べなさい。そして、その実を結ぶ枝になりなさい。わたしにつながっていなければ、実が結べない。わたしにつながろうとしなければ、その木は枯れてしまう。
今、天草四郎の本を少しづつ読んでいます。1637年島原半島、天草に一揆が起こった。命を守るために、命の大切さのために戦ったのです。何年も続く飢饉があった。しかし、重税がのしかかってくる。減税をしようとする心はない。厳しい取り締まり。年貢を払えないものには重い刑罰があった。たとえば、蓑踊りと言われたものがある。雨除けの蓑を背負わされる。手を縛られ、蓑に火をつけられる。苦しくて体を動かす。それを見て役人は声をあげて笑うのです。
広い範囲の村々の人々は苦しんでいた。そして、ついに一揆が起こる。天草四郎が総大将になる。戦争になるのです。土地の城を奪う。群衆は3万8千人を言われています。多くは百姓、女、子供です。そして、武将が集まったと言われています。幕府は老中松平信綱を指導者にして、戦いました。12万5千人の兵隊です。1638年占領された。そして、一揆に加わった者は皆殺された。女も、子供も皆殺された。建物も壊され、すべてのものが土に埋められたのです。あとは何もない平地になったのです。
島原の乱を読み始めて、食べ物がない、飢え死にする、生活が出来ない。その状態が起こったら、あなたは何をしますかと問われている気がしたのです。
当時、世の終わりの考えが教えられていた。この苦しみから逃れるのに、神様のみ心を行うしかない。キリシタンにならない者は地獄に行く。その者を殺してもよい。神様のみ心のために戦おう。
命のために戦おう。戦って死ねば天の国に入れる。
キリストの名によって3万8千人が集まった。命のために戦った。忘れてはいけない戦いだ会ったと思います。
今、わたしたちはコロナ戦争の中にいます。
自分の身を守る為ではなく、コロナにかかっている人たちのために働きたいと思います。
四旬節第4主日B 使徒言行録4・8-12 Ⅰヨハネ3・1-2 ヨハネ10・11-18 21-4-25
時々、看護師さんの手記を読みます。死に向かう人の看護です。死に向かっている厳しい病気で入院している人の病気を癒す、治療の手伝いですが、それ以上にその人の心を癒すことに心を向けているのです。その人が生きて来た人生が幕を閉じる、その時が来る。
ずっと若い、若い青年が苦しんで、痛みを、重い痛みを受けながら死を待つこともあるのです。
いろいろな看護の話を読んでいて、時々涙を流してしまいます。
そして思います。わたしたちは健康に生きている。しかし、病気の人を忘れている。
わたしたちは日々、人と出会っている。日々、会話が出来る。自然に触れられる。
しかし、苦しい病気にいる人を全く思おうとしていないのです。
わたしたちは今、緊急事態宣言下にいます。3度も緊急の時を知らされているのです。緊急を作っているのは誰ですか。わたしたちは「生きていること」をもっと真剣に考えたいのです。
外の自由に生きたい。花見に行きたい。緑の、花の公園を散歩したい。大空の春を満喫したい。友と飲みたい。仲間同士で喋りたい。集まりたい。
そこは自分たちだけの小さな社会ではないのですか。それを今、この状態で、忍耐してほしいと頼まれているのです。強く、強く頼まれているのです。
コロナの勢いは、人が集まるだけで感染してしまう、と言う警戒宣言なのです。
緊急事態宣言を3度も出す。わたしたちに緊張がない。死が勢いよくこんなに身近に迫っているのに、構わないものにしている。わたしたちは命を見つめていないのでしょうか。
今日のイエスの言葉は病気にかかった人たちにも言われているのではないかなと思います。
「神様がどれほどあなたを愛していることか。あなたはこれまで生きて来た。楽しい生活であった。家族と一緒に過ごした。友がいた。仲間が仲間であった。死にゆく時、誰にも会えないかも知れない。しかし、わたしはあなたの前にいます。」「この人はキリストを知りません。イエス様、あなたを知りません。」イエスは言われます。「わたしの囲いに入っていない羊もいるのです。しかし、この人はわたしの声を聞いています。わたしの声はわたしの温かさ、わたしのぬくみです。わたしのその人を包む心です。わたしは自分の羊を知っています。そして、わたしの羊はこの囲いにいなくても心を求めています。命の大切さを求めています。」
イエスは言われます。誰でも、聞く者になりなさい。受け取るものになりなさい。支えられていることを深く思いなさい。わたしはわたしの羊を知っている。わたしの羊はわたしを知っている。
先程言いましたが、わたしたちは今、コロナ戦争に中にいます。政府が戦うのではありません。県が戦うのではありません。わたしたち自身、わたしが、あなたが戦うのです。生きるのはあなた自身です。病気になった人を手助けするのはあなた自身です。
祈る時間を持つ。静かに黙想する。それはわたしたちの役割ではないですか。静けさを作ってゆく。緩やかに動く。それがわたしたちの造ってゆく世界ではないですか。
わたしたちは命を懸けて導いてくれた主に帰りたいのです。命とは何かをご自分の死によって示してくれた主を思います。命をは何か。祈りとは何か。憐れみとは何かをご自身の体で示してくれた。わたしたちはあなたの声を聞きます。わたしたちはあなたの羊です。隣人の力となれたらよいと思います。
復活節第3主日B 使徒言行録3・13-15,17-19 Ⅰヨハネ 2・1- 5a ルカ24・35-48 21-4-18
わたしは神様に出会った。出会ったと思った。形に見えない、声も聞こえない、触れることが出来ない。しかし、わたしは神様に出会ったと思うのです。心に響くものが入って来た。不思議なものが体に沁みている。心が静かに、穏やかになって来る。「それ」に神様を感じたのです。神様はおられます。神様はわたしたちの父さんですと聞きました。父さんに向かって喜びの声をあげます。父さん、ありがとう。今、生きている。ありがとう。快い心と体が微笑みをにじませる。
空があり、山がある。海があり、風が吹いて来る。木々の緑が生きている。
皆の命の姿にありがとう。生きている命にありがとう。その栄光を賛美します。
わたしはイエスの証人となります。
神様の栄光とは何ですか?
二人の青年が語りながらエルサレムからエマオへの道を歩いていた。あの優しく、おおらかな、自分たちの主イエス様が鞭打たれ、十字架を背負って、わたしたちの前を通られた。ゴルゴタの丘で十字架につけられた。苦しみのうちに、命を落された。
神様はどこにおられるのか。
こんな事を許しておられるのか。
二人は熱心に語り合っていた。すると男の人が来て、話に入った。この方は聖書を語り、解き明かすのです。まことの栄光は苦しみの中から生まれる。
まことの栄光を知りたいのなら、まことの苦しみを味わいなさい。
わたしたちはその方に不思議を感じたのです。その方は食事の時、祈り、パンを裂かれました。
わたしたちはその時、その方にイエスを見たのです。そして、それと同時に、その方は見えなくなりました。
二人の青年はイエスの証人となりました。イエスは生きておられる。
イエスはわたしたちに語っておられる。
イエスの出来事を語り合う。神様は、新しいイスラエルを建てるためにヨシュア(イエス)を選ばれたのではないですか。新しい指導者ヨシュア(イエス)は新しいイスラエル王となるのではなかったのですか。それが砕け散った。ヨシュア(イエス)はイスラエルの反逆者となってしまった。
ヨシュア(イエス)の神様への愛はどこに行ってしまったのですか。
わたしたちは何を求めて生きて行くのでしょうか。
まことの律法、神様のみ心をどこに求めたらいいのでしょうか。
あっ、イエス様は皆の真ん中に立っておられる。
イエスは言われます。「平和があるように」
皆はイエスの姿は亡霊だと思った。
「わたしは亡霊ではない。わたしの手、わたしの足をよく見なさい。触れてよく見なさい。わたしである。」 イエスは言われます。わたしについて書かれている聖書の言葉は必ず実現します。
あなたはその証人となりなさい。
わたしはイエスにまことの苦しみを与えた。まことの救いの力を与えた。
まことの苦しみを知らなければ、まことの救いは得られない。
あなたたちにまことの赦しを与えよう。
わたしの名によって、イエスの名によって罪の赦しを求め、悔い改めなさい。
その罪の赦しが得られる。この約束をあらゆる国の人々に宣べ伝えなさい。
あなたがたはその出来事すべの証人となりなさい。
復活節第2主日(神のいつくしみの主日)
使徒言行録4・32-35 Ⅰヨハネ5・1-6 ヨハネ20・19-31 21-4-11
弟子たちは皆、トマスに言う。「わたしたちは主を見た。主は『新しいいのち』に生きておられる。主は復活された。」トマスは言います。「何を言っているんだ。主は帰天された。この世を去ったんです。死んでも生きる命があると信じろというのか。復活を信じろといいのか。信仰はそんな夢物語か。わたしはこの指をあの方の手の傷跡に入れて見なければ、この手をあの方の脇腹に伸ばして見なければ決して信じない。」 教義だから信じろというのですか。こんなに多くの信徒の仲間が証人となっているから信じるのですか。それは自分の信仰ではないのではないですか。そんな事を言うのなら、命はどこにあるのか、命は何なのか、考えてしまいます。しかし、命について哲学的に語られても、わたしに心には入って来ないのです。
命は見えない。しかし、命は生きる力、生きる大もとです。生活の力です。歩く姿、働く姿、喜び、悩み、悲しむ姿を作り出します。 命を大きな目で見るのです。 活動する力、生活する力、それが命です。命は神様とのつながりです。神様が命と言うつながりを与えてくださいました。
もし、神様からの出来事を一つ一つ検証していったら、その出来事全体が見えなくなってしまいます。出来事の心が見えない。出来事の全体を見て、出来事の現わしている物を見る、感じる、心に留めるのです。出来事の訴えているものを受け入れるのではないでしょうか。
仲間の信仰を信じなさい。神様の出来事に忠実になりなさい。
教義を心で受け取る、聖書を心で読む。
善きサマリア人の話を思い起こしてみたいのです。
イエスは言われます。大切なことは、神様を愛すること、そして、隣人を愛すること。
隣人を愛す、隣人とはだれですか。愛とは何ですか。 そんなことを考えてはいけません。
イエスはたとえを語ります。 青年が道で倒れている。砂漠の中を走る小さな街道です。血が流れている。動かない。命があるかどうかわからない。それを見たサマリア人はあっと思い、すぐその青年に向かって駆け寄った。サマリア人は憐みに満ちていたと思います。理屈ではない。苦しんでいる人がいたら、その人のところへ走って行く。サマリア人の体が、その人のところへ行きなさい、その人のために何かしなさいと命じるのです。
思う、感謝する、喜ぶ、その心が出発です。心が体の働きになる。
復活の主日 使徒言行録10・34a、37-43 コロサイ3・1-4 ヨハネ20・1-9 21-4-4
ご復活おめでとうございます。
イエスは死を超えた、新しい命のうちに言葉をかけられた。あなたがたに平和があるように。
墓にイエスはおられない。墓は死者の、死の国への入り口。墓から死の国に入ると考えられたいた。墓はしるし。イエスは言われる。わたしの墓は、わたしのしるしはこの世にはない。わたしのしるしはあなたたちの心の中にある。わたしを心に刻みなさい。
この世にあったわたしの姿を思い起こしてほしいのです。
パウロは書きます。わたしたちは主の復活を知った。主が今、わたしのうちにおられると感じている。主と共にいる。主のうちにいたい。わたしもこの世から離れて生きたいのです。この世にある。しかし、この世には属していない。わたしたちの命はキリストと共にある。キリストの道を歩む。キリストと共に歩む。
主の復活を信じます。
復活の主日・復活の聖なる徹夜祭B 21-4-3
ご復活おめでとうございます。
神様はいのちの世界を造られたとまた強く思いました。生きる、いのちを生きる。
神様がこの世界を造られたのです。見えるもの、見えないもの、すべてのものを造られた。いのちのうちに生きなさい。いのちによって生きる。その喜びを味わいなさい。希望を持つ喜び、手伝ってくれないかと呼ばれ、一緒に働く。出来上がった時、喜び合う。家庭がある、仲間がいる。自然の美しさの中にいる。時々、「山滝野」へ行きます。山道を走る。道のところどころ、桜が満開に咲いている。菜の花が道なりに咲いている。黄色が鮮やかです。館山に行く。海岸線を海が見ながら走る。自然が生きている。
子供の時は毎日が楽しみだった。喧嘩もした。不貞腐れた。本当にたまに、おやつ出て来た。
毎日が、何でも楽しかった。今が全部だった。過去があったのか。未来があるのか。
大人になった。過去があって、今がある。今を大切にしなければ、よい未来は来ない。そんな事を言われる。いろいろなことに縛られているんだと思うのです。
例えば、問われているのです。あなたはどれだけ知識がありますか。どれほどの経験がありますか。ある時、試される。この道は厳しい道です。この道を行く決断を、決心を持っていますか。
神様を知った。神様を思うこと。祈ること。聖書を黙想すること。不思議な喜びを知った。
嫌な出来事があった時、言われます。嫌な出来事があれば、素直に嫌な思いをしなさい。あなたには損をしたくない思いがあるのではないですか。見栄があるのではないですか。嫌なことがある。それはあなたの弱さが分かるのではないでしょうか。
神様は言われているように思います。お前の苦しい顔を見ているよ。自分の弱さから、自分の失敗から逃げる事はない。素直に謝りなさい。相手の方が悪いのなら、損をしなさい。失敗を受け取って歩いたらいいのです。
エジプト軍が追って来た。迫って来た時の、モーセ、イスラエルの民の驚き、恐怖があったのですよ。わたしは言った。主を信じなさい。祈りを忘れてはいませんか。どんなことも主のうちにある。それが信仰です。
今度は善い事のために苦労したらいい。手助けする人になったらいい。
いのちの喜び、それは愛。愛は損をすることです。人のために働くことです。
イエスが十字架の上で息を引き取られた。わたしたちの主があんな形で死なれた。
弟子たちは動揺している。祈りを忘れていませんか。
わたしはガリラヤに行く。ガリラヤでまた会おう。そして、ガリラヤからエルサレムに出かけよう。
出発。日々の生活で、ある時、苦しい事、悲しい事があったとしても、始めに帰って出発するのです。 そして、エルサレムに向かう。祈りながら歩いて行きたいのです。
聖金曜日・主の受難
イザヤ52・13-53・12 ヘブライ4・14-16,5・7-9 ヨハネ18・1-19-42 21-4-2
イエスは裁判を受けました。そして、死刑が宣告されました。十字架の刑。イエスが十字架を背負って、町の中を歩みます。ゴルゴタへの道を歩かれます。午前10時、イエスは十字架に釘付けにされました。午後3時、イエスは息を引き取られました。金曜日でした。金曜日にわしたちはイエスをの死を思い浮かべます。
イエスは言われます。「父がお与えになった盃は飲むべきではないか。」
わたしたちには毎日毎日いろいろな出来事が起こります。今日は善い事があったよ、今日は悪いことばかりだ。出来事はすべて神様の思いだと思います。善い出来事、悪い出来事、すべて受け入れなさいと言われていると思うのです。
イエスは父ヨセフ、母マリアからお生まれになった。温かい家庭の中で育っていった。友だちを野原で遊んだ。お祈りを知った。青年時代に神の道を知った。神様への思いが心の奥底から沸き上がって来た。神様への道を歩む決心をする。神様を感じるのです。神様の前にいるわたしたちは何か。人とは何か。人々の生活を見る。祈りに深く入る。人々に語る、慰める。安心を与える。時に、戒める。神様は言われます。あなたは人と語り合っている。善い事です。しかし、あなたは人々の中にいない。祈りの中で人を見ている。心で人を見ている。人の本当の弱さを知らない。本当の欲求、欲望を知らない。心と体で人に接しなさい。その人とつながりなさい。
イエスは霊によって荒れ野に導かれた。人を知りなさい。荒れ野でイエスは悪の存在を心と体で知ったのです。これもイエスの飲んだ盃でしょうか。
イエスは人の汚れた欲求、欲望の強さの中に入って行ったのです。イエスは預言者として神様を語った、神様の業を示した。病を癒した、体の不自由さを癒した。イエスは語ります。この世から離れなさい。いや、この世から旅立ちなさい。この世からの過ぎ越しを行いなさい。
この世の力を超える神様の恵を告げ知らせたのです。新しい神の国を語り、歩み始めるのです。
第一朗読イザヤ書を読みました。受難こそ神様への道だと言っているように思います。
イエスは身に起こったすべての苦痛、体の苦しみ、心の苦しみ、悲しみを受け取りました。
「父がお与えになる杯は飲むべきではないか。」
イエスに起こった受難を深く思い起こしたいと思います。体を張って、神様のみ心を告げ知らせた。いのちを捨てて愛を告げ知らせた。受難に愛がある、受難に生きる希望が生まれる。
受難のうちに神様の思いを知ることが出来ると思います。
イエスに従って歩むことが出来ますように。
聖木曜日・主の晩餐の夕べのミサ 21-4-1
イエスは弟子たちと一緒に、「過越しの食事」をします。わたしは過越しとは何か、最初は分からなかったのです。教えてもらいました。過越しとは今あるこの世を壊すこと。そして、全く新し世界に出発することだと知ったのです。神様は言われました。わたしはこの世に「滅ぼすもの」を送る。滅ぼすものが通り過ぎて行けば、滅ぼされない。しるしを塗りなさい。いのちの約束、血によってしるしをつけなさい。血は命を大切にするしるし。命を大切にしない世界は滅ぼす。命を得たものがいのちの世界を造って行きなさい。過越しの食事をしたものが出発するのです。
イエスは言われます。この過越しはモーセの過越しを超える出発です。この過越し、ミサの指導者は神様ご自身です。神様がエルサレムでご自分の思い、いのち、憐み、愛をご自分の体を通して現わされたのです。神様・イエス様がパンを取り、言われました。これはあなたがたのためのわたしの体である。この杯はわたしの血によってたてられる新しい契約である。
あなたがたはわたしのもとによく集まってくれた。一緒に歩いてくれた。わたしはあなた方の中に入ろうとしている。あなたがたもわたしの中に入って欲しい。
何と自分たちの思い、欲求がこの世を造っている。自分たちの知識を、経験を見つめたらいい。
イエスは食事の席から立ち上がり、たらいに水を汲んで、弟子たちの足を洗い始めた。腰に巻いた手拭いで足を拭き始めた。ペトロは自分の目の前に来られたイエスに言います。「先生、足を洗うのは奴隷の仕事です。わたしの足など決して洗わないでください。」「わたしはお前の足を洗いたいのだ。洗わなかったら、わたしとお前は何の係わりもなくなる。」
イエスが弟子の足を洗い終わると言われた。わたしは皆の足を洗った。わたしは皆の奴隷として働いた。奴隷の姿になった。あなたがたもお互い、わたしがしたように奴隷の姿になりなさい。
わたしが導く新しいっ世界では、奴隷にしてもらっている事はなくなります。人を奴隷とすることはなくなります。奴隷のしていた、嫌なこと、つらい事、面倒なこと、みっともない事を人がするのです。自分が奴隷のように働くのです。
わたしが奴隷の姿になった。
わたしに従う者も奴隷のように働きなさい。
奴隷、誰のためにも、どんな人のためにも働きます。
奴隷がまことの自由人ではないでしょうか。
受難の主日(枝の主日)B イザヤ50・4-7 フィリピ2・6-11 マルコ15・11-39 21-3-28
枝の主日が受難の主日です。枝は勝利のしるしではないですか。枝が実を結ぶ。神様の実を結ぶ。イエスがエルサレムに入ると聞いた。平和の、穏やかなロバに乗って入る。それを見た人々は、喜びにあふれ、手に枝をもって見送ったのです。イスラエルの栄光を取り戻せる。ダビデの子イエスに賛美。神の都エルサレムで神様の力をわたしたちに見せてください。
イエスによって新しいイスラエルが生まれる。
ピラトはイエスに問いかけた。「お前がユダヤの王か。」
「それはあなたが言っていることです。」
ピラトの心の扉は閉じている。イエスの心がピラトには通じない。 まことの王はあなたの考えている王とは全く違う。王は導く人たちのために働く、人々の世話をするのです。人々を包み込むのです。
「人々があなたの行った、あんなに多くの事を訴えている。あいつは律法を守ろうとしていない。安息日を無視している。暴力沙汰を起こしている。ある祭りの近い日、神殿境内に並んでいる店を使えないように壊したのです。そしてわたしたちの神殿を壊せとまで言ったのです。」
イエスは何も返事をしなかった。
今、人々は、エルサレムでまことの王の姿を見ている。まことの王の姿は人々の求めている栄光を壊している。まことの王イエスは十字架にかけられ、苦しんでいる。
イエスは主のみ心を守ります。苦しみを受け取ります。まことの王を示すために。
エルサレム行くイエスにささげた、栄光を求める枝を踏みつけて十字架にかけられる。枝を踏みつける、人々の持っている栄光を壊さなければ、神の国は見えません。苦しみを受け取らなければまことの平安は見えません。 イエスは神様への従順の姿を現したのです。
枝の喜びを、壊す。その時にまことの喜びが来る。受難の苦しさが枝のまことの喜びとなる。
四旬節第5主日B エレミヤ31・31-34 ヘブライ5・7-9 ヨハネ12・20-33 21-3-21
あなたたちは自分の欲求のうちに生活しているのではありませんか。。欲求が自由だと思っている。自由とは与えることではないですか。自由とは支えられている、支えている、それが感謝となる。それが自由はないでしょうか。貧しいうちに自由がある。助けられている、それが嬉しい。助けられる、それが自由の喜びではないですか。 あなたたちは快楽を求めている。体の欲求を満たしたいと思っている。まことの「いのち」が見えなくなっている。あなたの神様はどこにいるのですか。あなたは神様を求めていましたか。恵みばかりの異邦人の神のうちに生活しているのではないですか。物の豊かさ、便利さを求め続けている、それは罪ではないですか。神様のみ心ではない。
来るべき日に新しい契約を結ぶと主は言われる。それはわたしの律法をあなたの胸に授け、あなたたちの心にそれを刻みます。わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。
わたしはあなたたちの中に住む。わたしはあなたたちの中にいる。わたしはあなたたちの罪を赦し、再びあなたたちの罪に心を留めることはない。
イエスは言われます。わたしを知りたいと思う者はわたしと一緒に歩きましょう。わたしを知ろうと思う者はわたしの言葉を心で聞きなさい。わたしの心を受け入れ、わたしに従いなさい。
それが天の父のみ心です。 栄光を知った者は栄光に入る。
その栄光はキリストを打ち壊すことです。そして、それを知った人々も打ち壊されます。
イエスを打ち壊すことが人々を打ち壊すことなのです。
まことの律法はキリストです。生きる命、生きる愛です。
文字による律法を超える律法それが神様のみ心。神様のみ心がまことの律法です。
芥川龍之介の杜子春という短編小説を思い起こしました。
お話ししたいと思います。
…………
仙人になるよりも、父さん、母さんを忘れてはいけない。
世俗を超えるものは、律法を自分のものとする仙人ではない、憐み、愛、命ではないでしょうか。
四旬節第4主日B 歴代誌下36・14-16,19-23 エフェソ2・4-10 ヨハネ3・14-21 21-3-14
何年も前40年ぐらいの前の話です。何度も思い出すのです。黙想会に行きました。
1泊2日だと思います。始めての黙想に行ったのです。詩編の集まりで、詩編を読んで、一人一人がその中の一節を読んで、自分の心にとまったことを話すのです。静かな時を過ごす。追いかけられないのんびりした時です。2日目に昼が終わって、神父さんが施設に案内してくれました。付いて行きます。神父さんの知り合いに会いに行きました。その人は小さい頃から車椅子だそうです。世話をする人に助けられて生活している。言葉も十分ではない。「こんにちは。」「どうですか。」そんな何でもない話があります。
そして、その人が語りました。「神父さん、何で俺たちはこうなんだ。こんなに不自由。皆みたいに楽しくない。食べ物も選べない。皆みたいに喜んで祈ったことなんか一度もない。神様はこの体に何もしてくれない。」 神父さんはその話を静かに聞いています。そして、ここで祈りましょうと言って、主の祈りを唱え始めました。皆一緒に、静かに主の祈りを唱えました。
神様、今苦しんでいるこの人を心に留めてください。祈っているわたしたちの祈りを聞いてください。
父さん、母さんたちと一緒に生活できない子供たち、施設に入っている子供たちが海のそばで合宿していました。思いっきり楽しんでいる。泳ぐ、西瓜を食べる、氷を食べる。お前は来年就職の事があるから今年が最後だな。そんな会話もある。施設の中で生活している。3歳から18歳まで一緒に生活する。朝から晩まで、いつも顔を見ている。寮から外に出ると、周りは敵ばかりだ。自分たちが親と一緒に生活していないと分かってほしくない。そんな目で見てほしくない。外に出ると心が武装しているのです。
何で寮に入らなくちゃいけないんだよ。自分から寮に入りたいと思ったわけじゃない。
物心ついた時、自分は普通ではないと思い知らされるのです。見えない、聞こえない、話せない、体が動かない。手伝ってもらわなければ、生活できない。皆の中に入れない。
神様、何でわたしがこんな体に造られたのですか。 皆と同じように楽しく遊べない、思う通りの就職も出来ない。高校時代同級生が、目を怪我して片方が見えなくなってしまった。成績が良かったのですが、就職が難しかったのです。彼は悔しくて泣いてました。
こんなのは不公平だ。神様、恵みを注いでくれないのですか。
一番大切なことは何ですか。 イエスは言います。第一に、神様を全身全霊で愛することです。
そして、隣人を自分自身のように愛することです。
こんな体で、ひねくれてしまっているこんな心で神様を愛する。どうやって愛するのですか。自分の様に愛する。わたしたちが隣人じゃないですか。
イエスはわたしたちに言われます。わたしはあなたたちに炎の蛇を送ります。あなたたちは自分たちを障害者という。神様はあなたたちに愛をもって命を与えたのです。今、生きている。神様の愛のうちに生きている。光りを見なさい。自然の音を聞きなさい。あなたはこんなに多くのものに包まれているのです。こんなに多くのものに支えられているのです。
見たい。見る力を与えてくだいと祈ってほしい。必死に祈ってほしい。あなたは見えるようになります。普通に見えるのではなく、物の表面を見るのではなく、その物の心が見えるのです。普通に見えている人は表面しか見ていないのです。その人たちは見えていないのです。
聞こえない人。聞こえるように祈ってほしい。真剣に祈ってほしい。
たとえば、音楽がある。激しい音のバンドがある。ベビーメタルというのでしょうか。耳が裂けるほどの音響です。それは心の響きを壊しているように思います。心の響き:心で感じる音です。
心に響きを聞き取りたい。静けさを、ゆったりとしながら生まれるリズムを感じたいのです。
人は小さい、弱い物です。小ささ、弱さを比べてはいけない。
前を向いて歩いてほしい。顔を大空に向けて、一歩づつ、ゆっくり、力強く歩いてほしい。
命を知る。それは喜びに生きることです。
神に感謝。
自然に感謝。
四旬節第3主日B 出エジプト20・1-17 Ⅰコリント1・22-25 ヨハネ2・13-25 21-3-7
田舎から来た人はエルサレムの神殿を見て、その素晴らしさに驚きます。堂々とした建物が威風を醸し出している。細やかな装飾で飾られている。そして「ささげもの」でいっぱいになっている。
人々は神様に自分の益となる、恵みを求めているのではないでしょうか。
神殿を訪問する、そして祈る。それは、良いものを貰いたい、恵みを求めているのではないでしょうか。 祭司は言います。祈りなさい、求めなさい。供え物を心からささげなさい。必ず、願うその恵みが与えられる。祈る、そして、祭司に祈ってもらう。自分の望みが叶えられるように。
神様は祈る人に恵みを与える方ではない。むしろ、苦しみを与える方なのだ。
過越祭が近づきました。大勢の人たちがエルサレムに集まります。
過越祭をエルサレムで過ごすように勧められているのです。
イエスはエルサレムに来ました。神殿の境内に入りました。神殿の境内には店が並んでいます。牛、羊、鳩を売る店が並んでいます。両替の店が並んでいます。店が人を引き付けています。
遠くからささげものを持ってくる事はない。ここで買えばいいんだ。たくさん供え物が用意できる。
神殿は供え物でいっぱいになる。境内で買った供え物でいっぱいになる。
神殿が商売の家となっている。
ふと、バレンタインの祝日を思い出しました。バレンタインの祝日は商売の日ではないでしょうか。バレンタインの記念日はバレンタインを思い巡らす日ではなく、好きな人のためにチョコレートを渡す日になっているのです。バレンタインの日にバレンタインの祈りは全くされません。
バレンタインはチョコレートを食べたことがないと思います。
神殿を商売の家にしてはいけない。供え物をする以前に、神様を見つめなさい。心を神様に向けなさい。 このエルサレムの神殿は律法によって包まれている。律法によって飾られている。
そして神殿は供え物によって豊かさを示している。 そんな神殿に神様はおられない。
イエスは答えます。「この神殿を壊して見よ。3日で建て直して見せる。」
あなたの心の中にある神殿を壊しなさい。あなたの心はその神殿の枠に閉じ込められている。
あなたの願いは―自分の健康を願う、家族の健康を願う。 平安な生活を願う。 人との付き合いがうまく行きますように。 事故が起こりませんように。
神様はあなたの家の相談役ですか。
そんな扉を壊しなさい。
自分のために働くのではない。人のために働く事が出来ますように。
自分のために祈るのではない。人のためにもっともっと深く祈ることが出来ますよう。
苦しんでいる人が神様のみ心に励まされますように。
まことの供え物はわたしの体、わたしの血です。
わたしの神殿は祈りで満たされる。
供え物は賛美の歌です。 わたしの神殿は神様の憐れみ、慈しみ、愛に満ちたところです。
四旬節第2主日B 創世記22・1-2,9a、10-13、15-18 ローマ8・31b-34 マタイ9・2-10 21-2-28
主はアブラハムに声をかけられた。主はアブラハムを選ばれた。わたしはあなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。
そして、アブラハムは100歳で子を得た。長い間待ち望んでいた子が生まれた。アブラハムは子イサクを何にも増して可愛がった。
ある日、主はアブラハムに命じられた。「アブラハム、あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼く尽くす献げ物としてささげなさい。」
信仰とは、神様のために自分を捨てること、全く神様の道具となることではないですか。
アブラハムは命じられた場所に着くと、そこに祭壇を築き、薪を並べた。そして、アブラハムが手を伸ばし、刃物を取り、息子イサクを屠ろうとした。その時、天からの使いがアブラハムに叫んだ。
「その子に手を出すな。」
あなたの一番大切なもの、一番愛しているものを捨てなさい。
しかし、それが正当な要求でしょうか。わたしたちは生きています。毎日の生活を支えてくれている両親がいます。一緒に生活をしている兄弟姉妹がいます。それを奪い取るのですか。
一番苦しんでいる時、支えてくれた先生、先輩がいます。その有り難さを忘れろというのですか。
アブラハムには息子をいけにえにしろとい言われたのです。どこに愛があるのですか。
悲しい、苦しい、だから閉じ籠ってしまうのですか。悲しさ、苦しさを十分味わって、その人を見直すのです。
父さん、母さんが死んだ。息子が死んだ。愛する人が死んだ。人には言えない苦しみがある。十分悲しむ、苦しむ。涙がなくなるまで泣く。その出来事を静かに受けとめたいのです。
一同が山を下りる時、イエスは弟子たちに命じられた。
「人に子が死者の中から復活するまでは、今見たことを誰にも話してはいけない。」
命は生きる喜びです。
生きるとは、見ること、聞くこと、触れることです。そして、生きるとは働くことです。
働く、見えるものを作りだす。見えないものを作りだすのです。
生きるとは、生きているもの、すべてと喜びを一緒の味わうことです。
働く、自分のために働くのではありません。
支えられていることを感謝しながら、支えることが出来ればいいと働くのです。
出来事を見ています。聞いています。
そして、自粛の生活を送っています。
その中で、何を見ていますか。何を聞いていますか。わたしは何が出来ますか。
喜びを作ることが出来ますか。静けさを、穏やかさを作ることが出来ますか。
優しさ、おおらかさで人と接すすことが出来ますか。
いや、違います。
人と出会うことがない、もし出会ったら、静かな喜びを伝えたらいいのではないでしょうか。
祈りの時を作ったらいい。
神様を静かに見つめる時を作ったらいい。
自分を静かに見つめる時を作ったらいいと思います。
四旬節第1主日B 創世記9・8-15 Ⅰペトロ3・18-22 マルコ1・12-15 21-2-21
神様はノアと彼の息子たちに言われた。「わたしは、あなたと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。」 神様はノアに言われたのです。わたしはあなたの神を思う心見た。神のために働く、神の言いつけに熱心に従う心を見た。あなたはわたしの心の中にいる。あなたと箱舟にいる他7人と契約を立てる。(ノアとノアの妻、息子たち3人、息子たちの妻3人、全部で8人です)
そして、あなたたちの子孫、地に住むすべてのものと契約を立てる。契約は契約を立てた相手を大切にすることです。契約とは:神様の約束です。約束を立てたあなたたちと深くつながる。愛のうちにつながる。いのちのうちにつながる。
契約、わたしはあなたの心を買う。あなたはわたしに従って歩みます。
その代金は、愛です。愛するつながりです。いのちのつながりです。わたしはあなたとつながっている、あなたはいつでも、わたしの心のうちに歩み続けなさい。
わたしの契約のしるしはこれである。神様は雲の中に虹を置かれた。この虹によってわたしの愛を思い巡らしてほしい。虹は弓の姿をしている。弓によって放たれる矢は動物を殺します。人を射殺します。わたしはこの虹、弓矢によって恵みの矢を降らせます。憐れみの矢を降らせます。何百万本も、何千万本も降らせます。天の虹は希望のしるしです。
ペトロは言います。ノアの8人は水の中を通って救いを受けました。 この水は洗礼の水。洗礼の水は心と体を清めます。心と体が神様のおられるところとなるのです。
ノアは山の中腹で、大きな箱舟を造ったのです。「山で水に浮かぶ、どでかい舟を造っている奴がいる。見ていると、手伝ってくれ、って言われたよ。」 「手伝うものか。お前は何を馬鹿なことをしてるんだ。ここは山の中だよ。あんな大きな舟を造ってどうするんだ。神様の言いつけだ?」「あいつは馬鹿な奴よ。」
ノアは黙々と仕事を続けた。箱舟は完成した。
神様は言われた。この箱舟の中に、家族と清い動物、清くない動物を入れなさい。40日40夜、雨が降った。箱舟を造り始めた時から、雨の日々、40日40夜、過ごした。苦しみの日々、忍耐の日々だったと思います。地上に降りた時から、その日から全く新しい日が始まったのです。
イエスは神様の霊によって、荒れ野に導かれますます。40日間、荒れ野にとどまりました。40、イスラエルがエジプトから脱出した40年の荒れ野での生活を思い起こしました。荒れ野は命のない世界です。荒れ野れ野で自分を見つめる。いのちを見つめる。自分の欲求を見つめる。
神様を見つめる。そして、欲求と対決する。
そして、自分の小さい、弱い事を知るのです。人は小さい者、弱い者だと知るのです。
今、苦難の社会生活の中にいます。
この苦難を乗り越えて生きなさい。忍耐をもって、静けさを保って、遊び心を抑えて、家庭の温かさを味わうのです。心のつながりを味わうのです。
四旬節、今から、小さい、弱い自分の新しい出発です。
灰の水曜日 ヨエル2・12-18 Ⅱコリント5・20-6・2 マタイ6・1-6,16-18 21-2-17
人は自分のうちに「いのち」を見ている。知識を習得する。経験を積む。自然を感じながら、自分の命を見ている。自分のあり方を見ている。そして、忘れてはいけないこと、人は共同体の中で生きているのです。共同体と言いうのがいやなら、人はつながり合って生きているのです。つながらなかったら生きて行けない。支えられなければ生きて行けない。人は独りで生きたい。しかし、一緒につながって生きている。
人とは何かと考える時を持つのです。そして言われています。
善行を行いなさい。施しなさい。祈りなさい。そして断食しなさい。
善行:善行は何のためにするのですか。善いことをして褒められたい。善い事は、一緒の生きている喜びが善い事になって行く、善い事をするのではないと思うのです。善い事をしなければいけない先生になってはいけない。支えられているのだから支える者になりたいのです。
施し:施しは手助けすることです。自分のものを与えることです。余っているから与えるとはちょっと違うと思います。心を与えるのだと思うのです。手助けし貰わなければ、生きて行けない人がいます。神様がそのようにお造りになった。その人に手助けする。一緒に生きるのだから手助けするのは当たり前だと思います。働く。自分のために働くのですか。支えられてる、それを思い出してほしい。人のために働けたらいい。その人とつながって行けたらいい。もし、その人が肉親の兄弟姉妹だったら、その人を手助けする、当たり前のことではないでしょうか。
断食:食べ物は当たり前にある。食べたかったら食べる。満腹するまで食べられる。野菜も食べる、肉も食べる。こんなに支えられているんだ。主に支えられている。人に支えられている。
でも、一日3食食べられない人がいるのです。地球上に8億の人が3食食べられないと聞きました。食べる、生きる。皆、一緒につながって生きている。断食、食べられない苦しみを知る。支えられてることを知る、支えることが出来たらいいと思うのです。
祈る:人のために祈る。嫌な人がいる。その人とつながれない。その人のために祈る。また、自分がつながれない弱さのために祈る。善い事が出来るように、善い事のために働けるように祈る。
まことの祈りは神様の前に裸になることではないでしょうか。神様の前に立つ。自分をなくして座る。神様のみ心のうちにいる。み心に満たされたらいい。み心を語れたらいい。み心を行うことが出来ればいい。
生きる。一緒に生きる。つながって生きる。
手助けする者になる。いや、もうあなたは手助けされているんだと思います。
静かに、その人と生きる。
人とは何ですか。
支えらえて生きている。
支えながら生きている。
皆、兄弟、つながって生きている。
感謝のうちに生きている。
年間第6主日B 創世記3・16-19 Ⅰコリント10・31-11・1 マルコ1・40-45 21-2-14
創世記を読みます。 神様はアダムに言われた。「アダム、」お前は取って食べるなと命じた木から食べた。それゆえ、土地は呪われるものとなった。」
大地は命を受けとめ、育てて行くものではないですか。大地に種を蒔く、水を与えられる、陽が注ぐ。種が芽となる。成長する。大地は神様の祝福のうちにあるのではないですか。
大地が呪われるものになったのですか。良い草、よい木が育たないのですか。
大地に悪い心が入った。食べてはいけないものが生まれる。育って行く。人の心のうちに、人の力によって、悪いものが植えられる。
人の力によって、大地が変わって行く?ちょっと分からなかった。あぁ、そうかと思ったのです。昔、トルコに行ったことがありました。農村でりんごを見ました。小さい、野球のボールよりも小さい。「小さいんですね。」「これが自然のリンゴだよ。」トルコの人は言う。「日本のりんごはいじって、薬をやって大きいりんごにしている。何十種類もの大きなりんごを作っている。あれは神様のりんごじゃないよ。 南の国々で、太陽の強い、水の豊富な所で作られる米が、北海道で作られている。
南の果物が日本で、ビニールハウスで温度を計りながら、灯油ですか、ハウスを温めながら作られている。野菜も肥料を使って育てているようです。土地を改良しなければ育てられないようになっているようです。
土地は善いもの、人に力をつける善いものを、また、人が育てたいものを育てる所。お前は人の思いのままに大地を使いたいと思った。お前の目の前の土地は自然の力を失なっている。
お前は土地を開墾し、畑とする。善いものを植える。お前は汗を流して食物を得る。
お前は土に何をしているのか。もう一度、思い浮かべなさい。
「お前は土からとられた塵に過ぎないお前は塵に帰る。」
人は自分自身でありたいと思う、自分の欲求のうちに生きたいのです。自分の快楽のために、自分の自由のために、損をしない道を選ぶ。自分のために生きる。力を持つ者、能力のある者が大いに自分自身を楽しむ。力のない者は力のある者のために働くことになる。力のある者は力のない者の世界が見えない。いや、見ない。見ようとしない。
力のない者:能力のない者、体の不自由な者、父さん、母さんのいない子供たち、夫のいない母さん、収入がない。不自由な生活をしなくてはならない。豊かさを求める生活から弾き飛ばさられている。
重い皮膚病を患っている人がイエスのところに来て、膝まづいて願った。「わたしのこの病を見て下さい。み心のうちに見てください。この病の中にいるわたしの心を見てください。家族から全く離れています。仲間に捨てられている。社会から遠ざけれらている。会堂に行って祈りたい。わたしは生きたいのです。イエス様、わたしを生きる者にしようという心がありますように。(神様に見捨てられたわたしたちにも、心を留めてほしいのです。)」
イエスはその人を見た。その人の心を見た。その人の心がイエスに響いた。イエスは手を差し伸べて、その人に触れた。そして言われた。「よろしい。清くなれ。」たちまち重い皮膚病は去った。
イエスはその人に言われた。神様の思い、み心があなたに注がれた。神様があなたを見ておられる。神様のうちに生きる者となりなさい。神様の道を歩む者となりなさい。
神様が、イエス様が求めておられるのは、体の癒しではないと思います。体が不自由で心が閉じてしまった。心を開きなさい。神様に向かって開きなさい。
年間第5主日B ヨブ7・1-4,6-7 Ⅰコリント9・16-19,22-23 マタイ1・29-39 21-2-7
コロナ感染の危険な状態はまだまだ続きそうです。いや、いつ終わるのか分からない。どんどん新しい、変形コロナが出ている。外出自粛が続けて求められている。県外に出ることができない。手首の消毒、マスク着用、会合、会話も規制されている。今のわたしたちは自由に生活することが出来ない。 今日の第一朗読、ヨブ記は言います。わたしたちの生活は兵役のあるようなものだ。全くの雇人だ。自由を得ることができない。生活に苦労だけがある。希望がない。ヨブの記事とわたしたちの今の状態が何と似ている事かと思ったのです。
もう一度、静かに考えたいのです。
わたしたちの命は、毎日の生活は何のためですか。
今迄の「生きている」とは自分の日常の生活、家庭の生活に中にある。その中で安定する。時に、閉じ籠りから、自分を解放するために、夜、飲みに行く。家族で旅行する。
自粛期間で旅行に出られない。飲みに行けない。婦人たちはどのように過ごしているのか分かりませが、閉じ込められてるのだと思います。
わたしたちは自分の世界を守ろうとしているのではないでしょうか。自由な時間を自分の楽しみに使いたい。外出できない。飲んで騒げない。だから不安だ、不満だ。
生きるとは自分の世界から出て行きなさいと言われているのではないですか。
支えられている、支える者になる。一緒に生きるのです。隣の家、近所の家、町の人々が一緒に生きている。病が癒される。自分の病気を心配する以上に、隣人の病気に気を使うのです。
生きるとはつながり合って、一緒に生きるのではないですか。
静かな時を持つ。人の思いを受け取って行く。笑顔で接することができる。もし、他人の過ちに腹を立てるとき、腹を立てている自分を思ったらいいのです。
あなたたちは自分の健康、家族の健康を求めているのですか。わたしはあなたたちに福音を宣べ伝えているのです。自分の安心満足を求めたら、隣人が見えなくなってしまう。
年間第4主日B 申命記18・15-20 Ⅰコリント7・32-35 マルコ1・21-28 21-1-31
集会祈願で、「人々を回心に導かれる神よ、」と祈りました。あっ、そうかと思ったのです。
神様を思った時、神様のみ言葉に気付いた時、回心の心が起きるのだと思ったのです。出来事があると、いつも自分の思いの内に判断してしまっている、話をしてしまっている。自分の中に人の心がない。心に余裕がないのかな。人のために働く、その思いがないのではないかと思うのです。
神様を思う、祈る時間がある。それは特別な時間ではない、日常生活の中にあることではないでしょうか。
神様は預言者をたてられる。モーセのような力ある預言者を立てられると同時に、神様のみ言葉を語る多くの預言者を立てられるのです。神様の喜びのうちにいる人を預言者とされ、その人の口に神様はご自分の言葉を与えるのです。実はわたしたちは預言職にあずかっているのです。みことばを大切に聞きます、語ります。
安息日に会堂に集まる。司式する人は祈りに導きます、聖書を読みます、そして説教をします。会堂にいる人たちは祈ります、聖書を聞きます。そして説教を聞きます。説教は難しい聖書の分かりやすい解説です、時には律法の説明です。そして、賛美の歌を歌います。会堂で自分たちがイスラエルである事を、また、神の道を歩んでいることを確認するのです。
イエスが会堂で祈りを導き、聖書を読み、説教をしました。みんなは驚いた。その説教は今迄どおりとは違う。神様のみ心が語られる。神様は今も生きておられる。今もわたしたち一人一人に声をかけておられる。わたしたち一人一人を見つめておられる。神様の声が聞こえない。あなたがたは神様に心を閉じているのではないですか。神様は人の世界に入って来られている。すぐそばにおられる。あなたの横におられる。あなたの目の前におられる。 苦しんでいる人、悲しんでいる人、罪を犯した人、あなたたちは一人ではありません。神様はあなたたちを子供として見ておられる。あなたたちは、わたしたちは神様のみ心の中にいるのです。神様と共にいる。喜びましょう。
この街道に汚れた霊に取りつかれている男がいて叫んだ。
「ナザレのイエス構わないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。」 自分が罪を犯している者はイエスが見える。イエスの力が自分に向かってくる、イエスの思いが自分に迫ってくる。それを感じるのです。イエスの語る言葉が心に体にぐさっと刺さってくる。
イエスは汚れた霊に言います。「黙れ、この人から出て行け。」
イエスが見えない。もし、イエスが見えない、聞こえないならば、正義に無関心である、普通に損得で生活している、自分の生活に精一杯、隣人に関心がないのではないですか。無意識に言葉を語っている、無意識に行っているのではないでしょうか。
「イエスの教えは新しい教えだ。」
回心した時、目覚めた時、神様が見えると思います。
神様に支えられているんだという事が分かる。支える者になるという事が分かる。
神様とのつながりがあって嬉しい。
自然とつながっている。自然に支えられている。こんなに支えられている。
人とつながっている。一緒に生きている。兄弟となるんだ。その思いに生きる。
年間第3主日B (神のことばの主日) 21-1-24
ヨナ3・1-5,10 Ⅰコリント7・29-31 マルコ1・14-20
今日、年間第3主日を祝います。
新しい年はまず、1月3日 主の公現を祝いました。
主の降誕の出来事は田舎の村、静かな冬の空の下で起きた出来事ではなく、全世界へ送られた主の喜びの出来事です。
1月10日 主の洗礼、イエスがヨルダン川のほとりで、ヨハネの説教を人々と一緒に聞いている。 そして、ヨハネの洗礼を受ける。その時、天から声があった。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」 神様は言われるのです。イエス、ヨハネ、それぞれ神様のみ言葉、神様のみ業を行い、神様を告げ知らせなさい。
1月17日 年間第2主日、イエスの活動の始まりです。
ヨハネは2人の弟子と一緒にいた。歩いているイエスを見つけた。ヨハネはイエスを見つめながら言う。「見よ、神のの小羊だ。」 一緒にいたアンデレ、ヨハネはイエスについて行った。
今日、年間第3主日を祝います。神のことばの主日です。「神のことばを祝い、学び、広めることにささげる」 フランシスコ教皇の宣言です。
今日、みことばを思い巡らし聖書を読んで行きたいと思います。
神様は言われます。「ヨナ、ニネべに行きなさい。」ヨナは行きたくない。ヨナは神様から、神様のことばから逃げた。逃げた、逃げようとした。しかし、どこまで行っても逃げ切れるものではない。ヨナは神様の囲いの中にいる。ヨナはニネべに行った。ニネべで3日間歩き続け、神様のみ言葉を告げ知らせた。ヨナは人々と出会った。語り続けた。ヨナは一心に語った。人々はヨナの姿を見た。ヨナに預言者を見た。人々は言葉のうちに神様の心を感じたのです。ニネべの人々は回心した。ことばが人々を回心に招いたのです。
ヨナは神様を体で感じた。神様がわたしを使ってみことばを見えるものにした。ヨナは神様を知ったのです。神様を心と体で感じているのです。ことばのうちに神様の心を感じたのです。
ヨハネが捕らえられた。ヘロデ王、あなたは神様のみ心、律法に背いている。悔い改めなさい。ヨハネはヘロデに迫った。 ヨハネは牢に閉じ込められる。そして、ついに首をはねられるのです。
イエスは預言者の最期を見た。しかし、その時、ことばの力を知るのです。何も持っていないヨハネに王であるヘロデが負かされた。王は国を持っている、人々を持っている、権力を持っている。王はみことばに負けた。みことばに勝つためにヘロデはヨハネを牢に入れ、首をはねたのです。
イエスも預言者の道を歩みます。
みことばが人の命を救う。人の持つ悪を退ける。みことばのうちに生きるのです。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
あなたたちに与えた時は満ちた。今、出発の時です。神の国はあなたたち向かって進んでいます。神の国があなたの前で待っている。神の国に向かって歩み始めなさい。あなたが歩んで行かなければ、神の国に入れない。神の国があなたを包み込むのではないのです。あなたが生き生きと生きた時、神の国に一歩近づく。自分の欲求を捨てた時、隣人に与え続けている時、隣人のため苦しみを引き受け、悲しみを引き受けた時、神の国にもう一歩近づいているのです。
福音:神様の喜び、神の国の到来です。悔い改めて歩み続ける。今迄の自分をやめることです。
ペトロとアンデレが湖で網を打っている。イエスは言う。わたしについて来なさい。「人間をとる漁師にしよう。」二人は網を捨ててイエスに従った。ヤコブをヨハネが舟の中で網の手入れをしている。イエスは二人を呼ばれた。二人は父を残し、舟を残していイエスに従った。
神の「ことば」、まことの「ことば」:わたしたちは「ことば」と聞くとイエスを思い浮かべます。
イエスは神のことばである。みことばが人となった。その方イエスは神様のみ心で満たされている。
イエスは神様のみ心を語る、行うのです。
今日のカトリック新聞でドミニコ会の吃もる助祭、佐藤了師が紹介されていました。
聞こえる言葉によって神様を説明するのですか。見える文字によって物語はあるのですか。
聞こえる言葉、見える文字は神様のみ心の見える律法です。まことの律法はみ心です。
言葉は何かと考え続けて行くと、心に思い至るのではないでしょうか。
語っている心、行っている心です。
神様を一心に思う心です。それが聞こえる言葉になる。
それが行いになるのではないでしょうか。
言葉がうまく話せない、うまく人の手伝いができない。人はその人の心を見ていると思います。
ことばは神様を思う心です。人を思う心です。特に隣人を思う心です。
「魚を取る以上に人を取る漁師になりなさい。」
「みことばで漁に出よう。」(主に水辺で会った。)
年間第2主日B
サムエル上3・3b-10,19 Ⅰコリント6・13c-15a,17-20 ヨハネ1・35-42 21-1-17
ヨハネは2人の弟子体と共にいた。イエスが歩いておられた。ヨハネはイエスを見つめて言う。「見よ、神の小羊だ。」 あの方こそ、小羊のように従順に神の道を行く者だ、と聞いた。
2人の心に響くものがあった。 2人の弟子たちはヨハネのもとで修道士の生活を送っていたのだと思います。
あの方に神様のみ心が生きている。あの方が神様の憐れみの業を行われる。2人は自分たちの心に火がついたように思ったのではないでしょうか。あの方を知りたい。あの方の歩いている道を知りたい。あの方のどこに神様はおられるのか知りたい。
わたしたちは神様と出会っていた、神様のうちにいると思っていた。
毎日の祈りの時間を大切にしている。神様のみ言葉を思い巡らしている。
しかし、神様と出会っていなかった。神様に近づいて行こうと思っていなかった。
イエスが神の小羊。イエスのうちに神様は燃えておられる。イエスのうちに神様の道がある。
神様のみ心に入りたい。神様のみ心のために働きたい。
わたしは洗礼を受けて、キリストを近くに感じます。 今日、コリント書で言われます。わたしたち一人一人の体がイエスの体を造っています。イエスの体となるのです。わたしたちは聖霊によって神殿となるのです。わたしたちは神殿。そうか、わたしたちはイエスの御体をいただいています。イエスがわたしたちの中に、神殿に住むと考えたらいいのではないでしょうか。
神様に出会う。 わたしの個人的な話を聞いて下さい。わたしが洗礼を受けた直接の原因は、今から45年前、長い外国旅行の時の出来事です。ヨーロッパを見て歩いた。そして、トルコ、イスタンブールに着いた。ヨーロッパ最後の地、イスタンブールで酒を飲んだ。明日から、アジアを廻る。ついお酒を飲み過ぎた。見ると、パスポート、隠し現金、トラベラーズチェック、これからの航空券、全部取られてしまっていた。そんなことが起こった。モスクの広場の奥に洞窟のような洞穴があった。犬の糞の匂い、しょんべんの匂いがした。寝袋を持っていたので、そこで寝た。腹がすいた。水を飲んだ。10日間その洞穴にいた。 しかし、10日間毎日、神様に祈った。神様、助けてください。助けがなければ、この浮浪者が名もなく、死んでゆくのです。誰にも気づかれないで死んでゆく。神様、助けてください。日本に帰ったら、必ず洗礼を受けます。神様のために働きます。毎日祈ります。 旅行前、1,2年間プロテスタントの教会で英会話を習っていたのです。礼拝に出ていた。聖書を少し教わっていた。
10日目にヒッピー風の青年に出会った。今、困っている、助けてくれないか。
その青年たちはわたしに1万円貸してくれた。
わたしは今迄、神様について考えたことはあった。でも、それは「知識で神様を見ている人」の目で神様を見ていた。神様に助けられた話を聞く。でもそれは物語のように聞いていた。
自分の世界に神様はいない。神様を感じることができなかったのです。
神様と出会うとは、神様によって生きている事が分かった時だと思います。
神様は書物の中におられるのではありません。聖書の中に閉じこもっていません。
今も、神様は働かれておられる。 今も、神様はわたしたちに声をかけられている。
神様に心を開いていない人には、神様の声が聞こえない。
神様と出会いたいと思います。今の自分を打ち破って、神様の道を歩む時、神様が見えるのではないでしょうか。 イエスの道を歩みたい。イエスの心の中に入りたい。
わたしたちはメシアに出会っている。神様の道を歩み続けて行けますように。
主の洗礼B イザヤ55・1-11 Ⅰヨハネ5・1-9 マルコ1・7-11 21-1-10
主の降誕を祝い、今日から年間B年の始まりです。新しい年は主の洗礼から始まります。
洗礼は命の出発だと思います。新しい世界の門の扉を開いた。門の扉を開いた時、世界がくっきりと、鮮明に心に入ってくる。目にはいるもの、聞こえる音が快い。今、自分の洗礼を思い出しています。
父、母の意見を聞かない。もう大人だから、自分の人生だから自分で決める。そんな風に思っていました。今、後期高齢者になり、父、母の苦労がよく分かるように思います。
結婚して、子供を持った時、この赤ちゃんに両親は持っているものをすべて与えるんだという事を知ります。食べ物、飲み物、寝床、着替え、そのための時間を与える。安らぎ、優しさ、ほほ笑み、声をかける、呼びかける、それが子供と一緒の生きることだと知るのです。
歩き始める。言葉を話す。もう少し大きくなると、わがままを言う、生意気になる。それが子供の「自由」なんだと知るのです。父さん、母さんの苦労、大変さが分かるのです。
ふと思いました。「洗礼」は父さん、母さんを知るという事ではないでしょうか。
自分の洗礼を思い浮かべました。
イエスの名を知っていた。聖書を読んで見た。ちっとも分からない。教会で英会話の勉強をしていたのです。キリスト教が世界を動かしているというそんな話も聞いた。 今、生活している自分が歯がゆい。不平、不満がいつもある。しかし、何をするか、決断力がない。何もしない自分がいる。
教会で礼拝に出た。続いて礼拝に出た。祈りを覚えてきた。少しずつ聖書を教わった。
そんな中、長い事、外国旅行へ行く機会があった。旅行中、事件が起きた。持っているものを全部取られて、何もない。洞窟のような所で10日過ごすことになった。この洞窟の中で、毎晩、必死に祈った。助けてください。助かったら、日本で必ず洗礼を受けます。洗礼を受けてあなたへの道を歩みます。 1年ぐらいの外国旅行を終え、日本に帰りました。教会を捜し、カトリック教会で洗礼を受けました。
洗礼、命が始まる。本当にそんな気持ちがありました。豊かな生活をするため、金を得る、そんな生活をやめよう、そんな決心をしました。
洗礼とは出発です。今の生活をやめます。新しい道を歩みます。
神様を見つめます。神様を見つめる時間を作ります。
祈ります。祈る時間を作ります。
自分を見ます。何を求めているか、どのように生きるかを考えます。
洗礼を受けて教会の一員となります。教会の事を考えます。
教会はいろいろな人を受け入れる所ではないでしょうか。
困難な状態を助ける所、苦しい生活を助ける所ではないでしょうか。
教会は愛の出発の拠点だと思います。愛の出発の一人といなっていますか。
教会は受け入れる所、愛の出発の拠点。
あなたはその様な大きな心を持っていますかと問われているように思います。
洗礼はやはり、生まれ変わる時です。その扉が目の前にあったのです。
扉を、門を開く。新しい世界に入って行く。その道を歩んで行きます。
イエスが洗礼を受けた。
洗礼は罪を清める? 新しく出発する? イエスはそんな事は必要ではないと思います。
イエスは「神様からの救い」を求めて洗礼を受けたのではないと思います。
ヨハネの前には多くの人が集まっている。 ヨハネは神様を語ります。信仰の道を語ります。神様のみ心、律法を語ります。イスラエルへの神様の愛を語ります。
そして、強く語ります。今、イスラエルは神様を忘れている、律法を守りなさい。悔い改めなさい。
ヨハネの言葉が、叫び声になって心に入って来る。
受洗する人は列を作ります。イエスは多くの人たちと一緒に、列を作って並んで待ちます。皆と一緒に、神様への道を歩む一人です。順番を待つ姿がそこにある。列に並んで待っている人の心がイエスの心に入って来る。皆の反省の心、悔い改めの心の中にいるのです。
一緒の歩む、それがイエスの出発だと思います。
イエスの洗礼を記念する。
主の公現 イザヤ60・1-6 エフェソ3・2,3b、5-6 マタイ2・1-12 21-1-3
今日は「主の公現」を記念し、祝います。
イスラエルの小さな村ベツレヘムの家畜小屋で男の子の赤ちゃんが生まれた。登録のためベツレヘムにも多くの人が滞在している。動物のいる家畜小屋で赤ちゃんが生まれたようだ。ちょっとしたニュースとして、その出来事が流れたかも知れない。噂の一つです。
公現とは、キリストが自分の姿を現わされたことです。この赤ちゃんの誕生は家庭の出来事ではない。東方の三人の博士が、何日も日をかけて幼子を訪問し、ひれ伏して拝んだ。宝の箱から黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。神様の示された出来事を見た。ユダヤの新しい王と出会ったのです。この出来事が公現です。
「キリストの洗礼」、「カナの婚礼での最初の奇跡」も公現と言ったようです。
公現はその姿が神様からのものである、特別な現れです。
たとえば、朝、太陽の光が地上を照らす。一日が始まる。日中は明るい。それは当たり前だと思っている。ふと、太陽とは何か、光とは何かを調べたいと思う。太陽には力がある。光には力が備わっている。光は分子、しかし、波である。色を創る。明るい、また、熱を持っている。太陽の光。
光が生命に力を与える。温かさを与える。
太陽の事を知った時、太陽は今まで知らなかった太陽ではない。太陽がなければ、光がなければ命は生きて行けない。その大きな力を知った。
神様の出来事を見たのです。
「イエスがおとめマリアから生まれたこと。」不思議です。
「ベツレヘムで生まれたこと。」ベツレヘムは『パンの家』と言う意味です。イエスはパンとなられます。
わたしは命のパンです。わたしを食べなさい。その言葉が心に響いています。不思議です。
「家畜小屋で生まれたこと。」まことの王様が動物に囲まれて生まれました。心の王様は豪華な寝室はいらない。権力はいらない。心の大切さの中で、心の大切さに包まれて生まれました。
不思議です。
「羊飼いたちも救い主の誕生を知りました。」不思議です。
「遠い異国の博士が神様のしるしを知ったこと。ひれ伏して礼拝したことです。」不思議です。
「ヘロデ王もイエスの誕生を知ったことです。」
わたしたちは神様と出会った。
イエスのみ心を感じている。
イエスのみ言葉を聞いている。
わたしたちはイエスと共に、イエスに従い、イエスの道を歩みます。