復活節第6主日B 
       使徒言行録1025-2634-3544-48 ヨハネ47-10 ヨハネ159-17    21-5-9

イエスは言われます。 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。 イエスは父の独り子。父の思いの内に生きる。父の心を語る。父の憐れみを行う。わたしは父の命のうちにいる。わたしは父のうちにいる。父がいなければわたしは何も出来ない。

 こんなことがありました。
最後の晩餐が終わって、ゲッセマネでわたしは独り祈りました。
祈りのうちに、父は言われました。エルサレムでまことの神の姿を現しなさい。今こそ、人々のすべての罪を、すべての汚れを受け取り、その罪、汚れを背負って、人のためにいけにえとなりなさい。人の償いとなるのです。悪の世界に入ってしまった人々を買い戻すのです。あなたの命が人々を救う代金です。あなたが人々を贖うのです。

わたしは父に言いました。
父さん、そんな厳しい盃は飲めません。その盃をわたしから過ぎ去らせてください。
父は言われます。償いの重さ、苦しさは計り知れない。その盃は厳しい、重い。
しかし、あなたはわたしの子ではないか。父の願いを聞いておくれ。 
イエスは言いました。 み心のままに。
父を愛するがゆえに、イエスは父に従順になりました。父に思いに従順になります。

わたしの愛にとどまりなさい。わたしの思いのうちに生きてほしい。わたしの道を歩いてほしい。
それがわたしへの愛です。愛の道を歩く。わたしが与える続けたように、与え続けてほしい。 
愛はいのちの喜びです。わたしと共に歩いてほしい。一緒に歩いてほしい。一緒に歩く仲間、いや、わたしはあなたがたを友と呼ぶ。友は親しい関係のつながりです。
友が隣人であるかも知れない。隣人は助けがなければ生活出来ない人です。一人で歩けない。一人で食事が出来ない。語れない。聞こえない。見えない。体が動かない。 
隣人に言います。あなたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたを選んだ。あなたがわたしの友。わたしはあなたに命の尊さを知らせた。人は神様からいのちを注がれ、自然に支えられて、人に支えられて生きていることを知らせた。自然を支え、自然から大きな恵みを受けて、人に支えられ、支えながら生きていることを知らせた。あなたが行って、実を結び、その実が残るように、わたしの名によって願う物は何でもかなえてあげよう。

このイエスの言葉は、イエスの道を歩こうとしている人、皆に、語られたものだと思います。イエスと一緒に歩くもの、あなたはわたしの友だは友だ、と言われます。何か時いとします。自然に感謝しなさい。出会う人に感謝しながら歩きなさい。よい実を結びたいと思います。

互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令です。
わたしはいつもあなたに声をかけています。わたしに耳を傾けてください。ちょっとでもいいから、わたしに向けて、心の扉を開いてください。わたしは「ある」です。あなたはわたしの中にいる。どうしても隠れたいと思っていても、隠れるところはない。恥ずかしくて神様の顔を見られないと思っても、わたしはあなたの横にいる、あなたの後ろにいる。あなたの目の前にいる。

友よ、一緒に歩こう。

 信仰深い人に言いたいのです。
あなたの友は、隣人はどんな人ですか。


復活節第5主日B 使徒言行録926-31 ヨハネ318-24 ヨハネ151-8       21-5-2

  わたしはぶどうの木。わたしの父は農夫である。

父はわたしがよく育つよう、世話をしてくださる。水が注がれ、陽が注がれる。悪い虫を取り除き、風が注がれる。わたしは父によって生きている。わたしは父の命のうちに、父のみ心のうちに生きているのです。 そして、わたしと出会ったあなたがたは、わたしの枝となります。わたしはぶどうの木、わたしにはたくさんの枝が生えています。わたしにつながっている枝は豊かな良い実を結びます。つながっていない枝は枯れます。集められて焼かれます。

あそこに木がある。その木は茂っているように見える。枝枝に葉が茂っている。たくさんの実があるはずだ。行って見よう。近づくと葉はしおれている。こんなに大きな木なのに、こんな茂っているように見えるのに、木が枯れている。実は一つもない。
この木は大地に根をおろしていない。大地からの栄養を貰っていない。まことの命のうちにいない。強い風が吹けば、葉も散ってしまうだろう。木も倒れてしまうだろう。

パウロ、あなたの木は、あなたの神殿はそのような木、そのような神殿ではなかったのですか。イスラエルの伝統の重さを持った、イスラエルに与えられた律法によって、イスラエエルが選ばれて民と言う誇りを持った、堂々とした木、堂々とした神殿。しかし、その木は枯れ木になっている。その木は喜びに実をもたらさない。生き生きとした生活をもたらさない。 その神殿は奉納物でいっぱいです。見事に造られている。人の力によって荘厳に、人の装飾によってきれいに飾られ、聳えている。 イエスは言われる。神殿は神様の体、神殿には神様の血が流れるところではないですか。神殿は生きているものではないですか。
律法の神殿に神様はおられない。律法の神殿は法律の神殿。「やりなさい」「やってはいけない」と教える神殿。律法の神殿を造るために捨てた隅の親石が、まことの神殿を造るのです。その神殿は生きている神殿。その神殿に神様の力が働いている。憐れみの力、慈しみの力、恵みの力、愛の力が働いている。

律法に神の力を見たサウロが、律法を厳守するファリサイ派のサウロが、イエスと出会った。イエスに声をかけられた。サウロ、律法を超えなさい。生きている神様と出会いなさい。

イエスは言われます。わたしはぶどうの木。今、地上に茂っているぶどうの木。今、生きている神様の力によって生きている、愛の実をもたらすぶどうの木。その実は神様のみ心です。その実を食べなさい。そして、その実を結ぶ枝になりなさい。わたしにつながっていなければ、実が結べない。わたしにつながろうとしなければ、その木は枯れてしまう。

今、天草四郎の本を少しづつ読んでいます。1637年島原半島、天草に一揆が起こった。命を守るために、命の大切さのために戦ったのです。何年も続く飢饉があった。しかし、重税がのしかかってくる。減税をしようとする心はない。厳しい取り締まり。年貢を払えないものには重い刑罰があった。たとえば、蓑踊りと言われたものがある。雨除けの蓑を背負わされる。手を縛られ、蓑に火をつけられる。苦しくて体を動かす。それを見て役人は声をあげて笑うのです。
広い範囲の村々の人々は苦しんでいた。そして、ついに一揆が起こる。天草四郎が総大将になる。戦争になるのです。土地の城を奪う。群衆は38千人を言われています。多くは百姓、女、子供です。そして、武将が集まったと言われています。幕府は老中松平信綱を指導者にして、戦いました。125千人の兵隊です。1638年占領された。そして、一揆に加わった者は皆殺された。女も、子供も皆殺された。建物も壊され、すべてのものが土に埋められたのです。あとは何もない平地になったのです。

島原の乱を読み始めて、食べ物がない、飢え死にする、生活が出来ない。その状態が起こったら、あなたは何をしますかと問われている気がしたのです。
当時、世の終わりの考えが教えられていた。この苦しみから逃れるのに、神様のみ心を行うしかない。キリシタンにならない者は地獄に行く。その者を殺してもよい。神様のみ心のために戦おう。

命のために戦おう。戦って死ねば天の国に入れる。

キリストの名によって38千人が集まった。命のために戦った。忘れてはいけない戦いだ会ったと思います。

今、わたしたちはコロナ戦争の中にいます。
自分の身を守る為ではなく、コロナにかかっている人たちのために働きたいと思います。

四旬節第4主日B 使徒言行録48-12 ヨハネ31-2 ヨハネ1011-18       21-4-25

  時々、看護師さんの手記を読みます。死に向かう人の看護です。死に向かっている厳しい病気で入院している人の病気を癒す、治療の手伝いですが、それ以上にその人の心を癒すことに心を向けているのです。その人が生きて来た人生が幕を閉じる、その時が来る。
ずっと若い、若い青年が苦しんで、痛みを、重い痛みを受けながら死を待つこともあるのです。
いろいろな看護の話を読んでいて、時々涙を流してしまいます。
そして思います。わたしたちは健康に生きている。しかし、病気の人を忘れている。
わたしたちは日々、人と出会っている。日々、会話が出来る。自然に触れられる。
しかし、苦しい病気にいる人を全く思おうとしていないのです。

わたしたちは今緊急事態宣言下にいます。3度も緊急の時を知らされているのです。緊急を作っているのは誰ですか。わたしたちは「生きていること」をもっと真剣に考えたいのです。
外の自由に生きたい。花見に行きたい。緑の、花の公園を散歩したい。大空の春を満喫したい。友と飲みたい。仲間同士で喋りたい。集まりたい。 
そこは自分たちだけの小さな社会ではないのですか。それを今、この状態で、忍耐してほしいと頼まれているのです。強く、強く頼まれているのです。
コロナの勢いは、人が集まるだけで感染してしまう、と言う警戒宣言なのです。
緊急事態宣言を3度も出す。わたしたちに緊張がない。死が勢いよくこんなに身近に迫っているのに、構わないものにしている。わたしたちは命を見つめていないのでしょうか。

今日のイエスの言葉は病気にかかった人たちにも言われているのではないかなと思います。
「神様がどれほどあなたを愛していることか。あなたはこれまで生きて来た。楽しい生活であった。家族と一緒に過ごした。友がいた。仲間が仲間であった。死にゆく時、誰にも会えないかも知れない。しかし、わたしはあなたの前にいます。」「この人はキリストを知りません。イエス様、あなたを知りません。」イエスは言われます。「わたしの囲いに入っていない羊もいるのです。しかし、この人はわたしの声を聞いています。わたしの声はわたしの温かさ、わたしのぬくみです。わたしのその人を包む心です。わたしは自分の羊を知っています。そして、わたしの羊はこの囲いにいなくても心を求めています。命の大切さを求めています。」
イエスは言われます。誰でも、聞く者になりなさい。受け取るものになりなさい。支えられていることを深く思いなさい。わたしはわたしの羊を知っている。わたしの羊はわたしを知っている。  

先程言いましたが、わたしたちは今、コロナ戦争に中にいます。政府が戦うのではありません。県が戦うのではありません。わたしたち自身、わたしが、あなたが戦うのです。生きるのはあなた自身です。病気になった人を手助けするのはあなた自身です。 

祈る時間を持つ。静かに黙想する。それはわたしたちの役割ではないですか。静けさを作ってゆく。緩やかに動く。それがわたしたちの造ってゆく世界ではないですか。

わたしたちは命を懸けて導いてくれた主に帰りたいのです。命とは何かをご自分の死によって示してくれた主を思います。命をは何か。祈りとは何か。憐れみとは何かをご自身の体で示してくれた。わたしたちはあなたの声を聞きます。わたしたちはあなたの羊です。隣人の力となれたらよいと思います。    


復活節第3主日B  使徒言行録313-1517-19 ヨハネ 21- 5a ルカ2435-48   21-4-18

  わたしは神様に出会った。出会ったと思った。形に見えない、声も聞こえない、触れることが出来ない。しかし、わたしは神様に出会ったと思うのです。心に響くものが入って来た。不思議なものが体に沁みている。心が静かに、穏やかになって来る。「それ」に神様を感じたのです。神様はおられます。神様はわたしたちの父さんですと聞きました。父さんに向かって喜びの声をあげます。父さん、ありがとう。今、生きている。ありがとう。快い心と体が微笑みをにじませる。

空があり、山がある。海があり、風が吹いて来る。木々の緑が生きている。
皆の命の姿にありがとう。生きている命にありがとう。その栄光を賛美します。 
わたしはイエスの証人となります。
神様の栄光とは何ですか? 

二人の青年が語りながらエルサレムからエマオへの道を歩いていた。あの優しく、おおらかな、自分たちの主イエス様が鞭打たれ、十字架を背負って、わたしたちの前を通られた。ゴルゴタの丘で十字架につけられた。苦しみのうちに、命を落された。
神様はどこにおられるのか。
こんな事を許しておられるのか。

二人は熱心に語り合っていた。すると男の人が来て、話に入った。この方は聖書を語り、解き明かすのです。まことの栄光は苦しみの中から生まれる。
まことの栄光を知りたいのなら、まことの苦しみを味わいなさい。
わたしたちはその方に不思議を感じたのです。その方は食事の時、祈り、パンを裂かれました。
わたしたちはその時、その方にイエスを見たのです。そして、それと同時に、その方は見えなくなりました。
二人の青年はイエスの証人となりました。イエスは生きておられる。
イエスはわたしたちに語っておられる。

 復活の姿は何ですか? 

イエスの出来事を語り合う。神様は、新しいイスラエルを建てるためにヨシュア(イエス)を選ばれたのではないですか。新しい指導者ヨシュア(イエス)は新しいイスラエル王となるのではなかったのですか。それが砕け散った。ヨシュア(イエス)はイスラエルの反逆者となってしまった。

ヨシュア(イエス)の神様への愛はどこに行ってしまったのですか。
わたしたちは何を求めて生きて行くのでしょうか。
まことの律法、神様のみ心をどこに求めたらいいのでしょうか。

あっ、イエス様は皆の真ん中に立っておられる。
イエスは言われます。「平和があるように」
皆はイエスの姿は亡霊だと思った。
「わたしは亡霊ではない。わたしの手、わたしの足をよく見なさい。触れてよく見なさい。わたしである。」 イエスは言われます。わたしについて書かれている聖書の言葉は必ず実現します。
あなたはその証人となりなさい。
わたしはイエスにまことの苦しみを与えた。まことの救いの力を与えた。
まことの苦しみを知らなければ、まことの救いは得られない。
あなたたちにまことの赦しを与えよう。
わたしの名によって、イエスの名によって罪の赦しを求め、悔い改めなさい。
その罪の赦しが得られる。この約束をあらゆる国の人々に宣べ伝えなさい。
あなたがたはその出来事すべの証人となりなさい。

復活節第2主日(神のいつくしみの主日)

            使徒言行録432-35 ヨハネ51-6 ヨハネ2019-31      21-4-11


  弟子たちは皆、トマスに言う。「わたしたちは主を見た。主は『新しいいのち』に生きておられる。主は復活された。」
トマスは言います。「何を言っているんだ。主は帰天された。この世を去ったんです。死んでも生きる命があると信じろというのか。復活を信じろといいのか。信仰はそんな夢物語か。わたしはこの指をあの方の手の傷跡に入れて見なければ、この手をあの方の脇腹に伸ばして見なければ決して信じない。」 教義だから信じろというのですか。こんなに多くの信徒の仲間が証人となっているから信じるのですか。それは自分の信仰ではないのではないですか。そんな事を言うのなら、命はどこにあるのか命は何なのか考えてしまいます。しかし、命について哲学的に語られても、わたしに心には入って来ないのです。

 ヨハネは正直だと思います。正直であるから自分の納得いかないものは受け入れられないと言うのだと思います。

 イエスは言います。「わたしの手の傷跡に、トマ、あなたの指を入れなさい。わたしはまた痛みを感じるが、あなたがそれでわたしがここにいると信じると言うのなら指を入れなさい。わたしの脇腹にも手を伸ばしなさい。」
は見えない。しかし、は生きる力、生きる大もとです。生活の力です。歩く姿、働く姿、喜び、悩み、悲しむ姿を作り出します。 命を大きな目で見るのです。 活動する力、生活する力、それが命です。命は神様とのつながりです。神様が命と言うつながりを与えてくださいました。
もし、神様からの出来事を一つ一つ検証していったら、その出来事全体が見えなくなってしまます。出来事の心が見えない。出来事の全体を見て、出来事の現わしている物を見る、感じる、心に留めるのです。出来事の訴えているものを受け入れるのではないでしょうか。
仲間の信仰を信じなさい。神様の出来事に忠実になりなさい。

教義を心で受け取る、聖書を心で読む。
善きサマリア人の話を思い起こしてみたいのです。
イエスは言われます。大切なことは、神様を愛すること、そして、隣人を愛すること。
隣人を愛す、隣人とはだれですか。愛とは何ですか。 そんなことを考えてはいけません。
イエスはたとえを語ります。 青年が道で倒れている。砂漠の中を走る小さな街道です。血が流れている。動かない。命があるかどうかわからない。それを見たサマリア人はあっと思い、すぐその青年に向かって駆け寄った。サマリア人は憐みに満ちていたと思います。理屈ではない。苦しんでいる人がいたら、その人のところへ走って行く。サマリア人の体が、その人のところへ行きなさい、その人のために何かしなさいと命じるのです。

 信仰:神様とのつながりです。そして、自然とのつながり、人とのつながりです。
思う、感謝する、喜ぶ、その心が出発です。心が体の働きになる。

 体で善い事を行うことが信仰ではないでしょうか。

復活の主日  使徒言行録1034a、37-43 コロサイ31-4 ヨハネ201-9      21-4-4

  ご復活おめでとうございます。

イエスは死を超えた、新しい命のうちに言葉をかけられた。あなたがたに平和があるように。

 死は悲しい出来事です。あなたともう会えない。言葉も交わせない。一緒に喜ぶことが出来ない。イエスは死なれた。あのような苦しい出来事のうちに死なれた。マグダラのマリアは週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、墓に行った。イエスに会いたい。もう一度、ご遺体に丁寧に油を塗りたい。入り口をふさぐ墓石が転がされていた。中に入った。墓を見た。墓は空だった。イエスがいない。

墓にイエスはおられない。墓は死者の、死の国への入り口。墓から死の国に入ると考えられたいた。墓はしるし。イエスは言われる。わたしの墓は、わたしのしるしはこの世にはない。わたしのしるしはあなたたちの心の中にある。わたしを心に刻みなさい。

この世にあったわたしの姿を思い起こしてほしいのです。

パウロは書きます。わたしたちは主の復活を知った。主が今、わたしのうちにおられると感じている。主と共にいる。主のうちにいたい。わたしもこの世から離れて生きたいのです。この世にある。しかし、この世には属していない。わたしたちの命はキリストと共にある。キリストの道を歩む。キリストと共に歩む。

主の復活を信じます。

復活の主日・復活の聖なる徹夜祭B                               21-4-3    

  ご復活おめでとうございます。

神様はいのちの世界を造られたとまた強く思いました。生きる、いのちを生きる。

神様がこの世界を造られたのです。見えるもの、見えないもの、すべてのものを造られた。いのちのうちに生きなさい。いのちによって生きる。その喜びを味わいなさい。希望を持つ喜び、手伝ってくれないかと呼ばれ、一緒に働く。出来上がった時、喜び合う。家庭がある、仲間がいる。自然の美しさの中にいる。時々、「山滝野」へ行きます。山道を走る。道のところどころ、桜が満開に咲いている。菜の花が道なりに咲いている。黄色が鮮やかです。館山に行く。海岸線を海が見ながら走る。自然が生きている。

子供の時は毎日が楽しみだった。喧嘩もした。不貞腐れた。本当にたまに、おやつ出て来た。
毎日が、何でも楽しかった。今が全部だった。過去があったのか。未来があるのか。
大人になった。過去があって、今がある。今を大切にしなければ、よい未来は来ない。そんな事を言われる。いろいろなことに縛られているんだと思うのです。
 例えば、問われているのです。あなたはどれだけ知識がありますか。どれほどの経験がありますか。ある時、試される。この道は厳しい道です。この道を行く決断を、決心を持っていますか。

神様を知った。神様を思うこと。祈ること。聖書を黙想すること。不思議な喜びを知った。

嫌な出来事があった時、言われます。嫌な出来事があれば、素直に嫌な思いをしなさい。あなたには損をしたくない思いがあるのではないですか。見栄があるのではないですか。嫌なことがある。それはあなたの弱さが分かるのではないでしょうか。

神様は言われているように思います。お前の苦しい顔を見ているよ。自分の弱さから、自分の失敗から逃げる事はない。素直に謝りなさい。相手の方が悪いのなら、損をしなさい。失敗を受け取って歩いたらいいのです。

エジプト軍が追って来た。迫って来た時の、モーセ、イスラエルの民の驚き、恐怖があったのですよ。わたしは言った。主を信じなさい。祈りを忘れてはいませんか。どんなことも主のうちにある。それが信仰です。 

今度は善い事のために苦労したらいい。手助けする人になったらいい。
いのちの喜び、それは愛。愛は損をすることです。人のために働くことです。

イエスが十字架の上で息を引き取られた。わたしたちの主があんな形で死なれた。
弟子たちは動揺している。祈りを忘れていませんか。
わたしはガリラヤに行く。ガリラヤでまた会おう。そして、ガリラヤからエルサレムに出かけよう。

出発。日々の生活で、ある時、苦しい事、悲しい事があったとしても、始めに帰って出発するのです。 そして、エルサレムに向かう。祈りながら歩いて行きたいのです。

 新しい出発。新しい命を得る。そして歩き始めます。

聖金曜日・主の受難 
イザヤ5213-5312 ヘブライ414-1657-9 ヨハネ181-19-42  21-4-2  

  イエスは裁判を受けました。そして、死刑が宣告されました。十字架の刑。イエスが十字架を背負って、町の中を歩みます。ゴルゴタへの道を歩かれます。午前10時、イエスは十字架に釘付けにされました。午後3時、イエスは息を引き取られました。金曜日でした。金曜日にわしたちはイエスをの死を思い浮かべます。

イエスは言われます。「父がお与えになった盃は飲むべきではないか。」

わたしたちには毎日毎日いろいろな出来事が起こります。今日は善い事があったよ、今日は悪いことばかりだ。出来事はすべて神様の思いだと思います。善い出来事、悪い出来事、すべて受け入れなさいと言われていると思うのです。

 イエスは父ヨセフ、母マリアからお生まれになった。温かい家庭の中で育っていった。友だちを野原で遊んだ。お祈りを知った。青年時代に神の道を知った。神様への思いが心の奥底から沸き上がって来た。神様への道を歩む決心をする。神様を感じるのです。神様の前にいるわたしたちは何か。人とは何か。人々の生活を見る。祈りに深く入る。人々に語る、慰める。安心を与える。時に、戒める。神様は言われます。あなたは人と語り合っている。善い事です。しかし、あなたは人々の中にいない。祈りの中で人を見ている。心で人を見ている。人の本当の弱さを知らない。本当の欲求、欲望を知らない。心と体で人に接しなさい。その人とつながりなさい。 

イエスは霊によって荒れ野に導かれた。人を知りなさい。荒れ野でイエスは悪の存在を心と体で知ったのです。これもイエスの飲んだ盃でしょうか。  

イエスは人の汚れた欲求、欲望の強さの中に入って行ったのです。イエスは預言者として神様を語った、神様の業を示した。病を癒した、体の不自由さを癒した。イエスは語ります。この世から離れなさい。いや、この世から旅立ちなさい。この世からの過ぎ越しを行いなさい。
この世の力を超える神様の恵を告げ知らせたのです。新しい神の国を語り、歩み始めるのです。

第一朗読イザヤ書を読みました。受難こそ神様への道だと言っているように思います。
イエスは身に起こったすべての苦痛、体の苦しみ、心の苦しみ、悲しみを受け取りました。
「父がお与えになる杯は飲むべきではないか。」 

イエスに起こった受難を深く思い起こしたいと思います。体を張って、神様のみ心を告げ知らせた。いのちを捨てて愛を告げ知らせた。受難に愛がある、受難に生きる希望が生まれる。
受難のうちに神様の思いを知ることが出来ると思います。 

イエスに従って歩むことが出来ますように。

聖木曜日・主の晩餐の夕べのミサ                                21-4-1

  イエスは弟子たちと一緒に、「過越しの食事」をします。わたしは過越しとは何か、最初は分からなかったのです。教えてもらいました。過越しとは今あるこの世を壊すこと。そして、全く新し世界に出発することだと知ったのです。神様は言われました。わたしはこの世に「滅ぼすもの」を送る。滅ぼすものが通り過ぎて行けば、滅ぼされない。しるしを塗りなさい。いのちの約束、血によってしるしをつけなさい。血は命を大切にするしるし。命を大切にしない世界は滅ぼす。命を得たものがいのちの世界を造って行きなさい。過越しの食事をしたものが出発するのです。

イエスは言われます。この過越しはモーセの過越しを超える出発です。この過越し、ミサの指導者は神様ご自身です。神様がエルサレムでご自分の思い、いのち、憐み、愛をご自分の体を通して現わされたのです。神様・イエス様がパンを取り、言われました。これはあなたがたのためのわたしの体である。この杯はわたしの血によってたてられる新しい契約である。
あなたがたはわたしのもとによく集まってくれた。一緒に歩いてくれた。わたしはあなた方の中に入ろうとしている。あなたがたもわたしの中に入って欲しい。

 わたしは、今、あなたがたの生活しているこの世を壊します。あなたがたはこの世に生きている。この世に染まっている。頭から足の先までこの世の思いの内にある。この世を壊す、この世から出発するというのは、今のあなたを変えるのです。全く、新しくなるのです。自分を捨てなさい。自分のすべてを捨てなさい。自分の知識、経験を捨てなさい。
何と自分たちの思い、欲求がこの世を造っている。自分たちの知識を、経験を見つめたらいい。

イエスは食事の席から立ち上がり、たらいに水を汲んで、弟子たちの足を洗い始めた。腰に巻いた手拭いで足を拭き始めた。ペトロは自分の目の前に来られたイエスに言います。「先生、足を洗うのは奴隷の仕事です。わたしの足など決して洗わないでください。」「わたしはお前の足を洗いたいのだ。洗わなかったら、わたしとお前は何の係わりもなくなる。」
イエスが弟子の足を洗い終わると言われた。わたしは皆の足を洗った。わたしは皆の奴隷として働いた。奴隷の姿になった。あなたがたもお互い、わたしがしたように奴隷の姿になりなさい。

わたしが導く新しいっ世界では、奴隷にしてもらっている事はなくなります。人を奴隷とすることはなくなります。奴隷のしていた、嫌なこと、つらい事、面倒なこと、みっともない事を人がするのです。自分が奴隷のように働くのです。
わたしが奴隷の姿になった。
わたしに従う者も奴隷のように働きなさい。

 自由な人になる。それはどんな人にでも、つながることが出来る事ではないでしょうか。
奴隷、誰のためにも、どんな人のためにも働きます。
奴隷がまことの自由人ではないでしょうか。

受難の主日(枝の主日)B  イザヤ504-7 フィリピ26-11 マルコ1511-39      21-3-28

  枝の主日が受難の主日です。枝は勝利のしるしではないですか。枝が実を結ぶ。神様の実を結ぶ。イエスがエルサレムに入ると聞いた。平和の、穏やかなロバに乗って入る。それを見た人々は、喜びにあふれ、手に枝をもって見送ったのです。イスラエルの栄光を取り戻せる。ダビデの子イエスに賛美。神の都エルサレムで神様の力をわたしたちに見せてください。
イエスによって新しいイスラエルが生まれる。

 人々は今日、今、目の前で十字架を背負って歩いているイエスの姿を見ています。エルサレムで栄光のイエスの姿が見られなかった。
ピラトはイエスに問いかけた。「お前がユダヤの王か。」
「それはあなたが言っていることです。」
ピラトの心の扉は閉じている。イエスの心がピラトには通じない。 まことの王はあなたの考えている王とは全く違う。王は導く人たちのために働く、人々の世話をするのです。人々を包み込むのです。

「人々があなたの行った、あんなに多くの事を訴えている。あいつは律法を守ろうとしていない。安息日を無視している。暴力沙汰を起こしている。ある祭りの近い日、神殿境内に並んでいる店を使えないように壊したのです。そしてわたしたちの神殿を壊せとまで言ったのです。」
イエスは何も返事をしなかった。

今、人々は、エルサレムでまことの王の姿を見ている。まことの王の姿は人々の求めている栄光を壊している。まことの王イエスは十字架にかけられ、苦しんでいる。 

イエスは主のみ心を守ります。苦しみを受け取ります。まことの王を示すために。
エルサレム行くイエスにささげた、栄光を求める枝を踏みつけて十字架にかけられる。枝を踏みつける、人々の持っている栄光を壊さなければ、神の国は見えません。苦しみを受け取らなければまことの平安は見えません。 イエスは神様への従順の姿を現したのです。

枝の喜びを、壊す。その時にまことの喜びが来る。受難の苦しさが枝のまことの喜びとなる。

四旬節第5主日B  エレミヤ3131-34 ヘブライ57-9 ヨハネ1220-33     21-3-21     

  あなたたちは自分の欲求のうちに生活しているのではありませんか。。欲求が自由だと思っている。自由とは与えることではないですか。自由とは支えられている、支えている、それが感謝となる。それが自由はないでしょうか。貧しいうちに自由がある。助けられている、それが嬉しい。助けられる、それが自由の喜びではないですか。 あなたたちは快楽を求めている。体の欲求を満たしたいと思っている。まことの「いのち」が見えなくなっている。あなたの神様はどこにいるのですか。あなたは神様を求めていましたか。恵みばかりの異邦人の神のうちに生活しているのではないですか。物の豊かさ、便利さを求め続けている、それは罪ではないですか。神様のみ心ではない。 

来るべき日に新しい契約を結ぶと主は言われる。それはわたしの律法をあなたの胸に授け、あなたたちの心にそれを刻みます。わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。
わたしはあなたたちの中に住む。わたしはあなたたちの中にいる。わたしはあなたたちの罪を赦し、再びあなたたちの罪に心を留めることはない。

 過越祭が近づいて来ました。ユダヤ教徒となったギリシャ人がイエスに会いたいと言います。イエスは言うのです。その者はわたしの顔が見たいのか。わたしの姿が見たいのか。その者が自分の目でわたしを見ても、それはわたしの本当の姿ではない。その物が見ているのは、わたしの見える形ではないか。わたしの中に働く「人の子」を見なさい。人の子を見たい心がなければ、わたしは見えない。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」 一本の麦がある。その麦は自分の力で語る、業を行う。自分の思い、行いによって生きる。人はその人に出会う。その人の話を聞く、業を見る。その人はその言葉、行いを自分で判断する。それはその語る人、業を行う人の世界なのです。麦が自分を捨て、出会うすべての心に入って行くなら、心が語ります。言葉はいらない。人と出会う。聞く者となる。受け入れる言葉を語るのです。自分を捨てた人に永遠の命がある。

イエスは言われます。わたしを知りたいと思う者はわたしと一緒に歩きましょう。わたしを知ろうと思う者はわたしの言葉を心で聞きなさい。わたしの心を受け入れ、わたしに従いなさい。
それが天の父のみ心です。 栄光を知った者は栄光に入る。

その栄光はキリストを打ち壊すことです。そして、それを知った人々も打ち壊されます。
イエスを打ち壊すことが人々を打ち壊すことなのです。

 まことの律法は神様のみ心。神様の契約・約束はまことのいのち、愛です。
まことの律法はキリストです。生きる命、生きる愛です。 

文字による律法を超える律法それが神様のみ心。神様のみ心がまことの律法です。

芥川龍之介の杜子春という短編小説を思い起こしました。
お話ししたいと思います。

…………

仙人になるよりも、父さん、母さんを忘れてはいけない。
世俗を超えるものは、律法を自分のものとする仙人ではない、憐み、愛、命ではないでしょうか。

 


四旬節第
4主日B  歴代誌下3614-1619-23 エフェソ24-10 ヨハネ314-21    21-3-14

  何年も前40年ぐらいの前の話です。何度も思い出すのです。黙想会に行きました。

12日だと思います。始めての黙想に行ったのです。詩編の集まりで、詩編を読んで、一人一人がその中の一節を読んで、自分の心にとまったことを話すのです。静かな時を過ごす。追いかけられないのんびりした時です。2日目に昼が終わって、神父さんが施設に案内してくれました。付いて行きます。神父さんの知り合いに会いに行きました。その人は小さい頃から車椅子だそうです。世話をする人に助けられて生活している。言葉も十分ではない。「こんにちは。」「どうですか。」そんな何でもない話があります。

そして、その人が語りました。「神父さん、何で俺たちはこうなんだ。こんなに不自由。皆みたいに楽しくない。食べ物も選べない。皆みたいに喜んで祈ったことなんか一度もない。神様はこの体に何もしてくれない。」 神父さんはその話を静かに聞いています。そして、ここで祈りましょうと言って、主の祈りを唱え始めました。皆一緒に、静かに主の祈りを唱えました。

神様、今苦しんでいるこの人を心に留めてください。祈っているわたしたちの祈りを聞いてください。

 ある集まりです。車椅子の人が発言を求めました。全身で語ります。俺たちはこんな状態だ。神父さんたちは体の不自由な人たちのために祈りましょう、と言うけれど、それが何になるんだ。わたしたちの不自由さは変わらない。体で示してほしい。力で示してほしい。

父さん、母さんたちと一緒に生活できない子供たち、施設に入っている子供たちが海のそばで合宿していました。思いっきり楽しんでいる。泳ぐ、西瓜を食べる、氷を食べる。お前は来年就職の事があるから今年が最後だな。そんな会話もある。施設の中で生活している。3歳から18歳まで一緒に生活する。朝から晩まで、いつも顔を見ている。寮から外に出ると、周りは敵ばかりだ。自分たちが親と一緒に生活していないと分かってほしくない。そんな目で見てほしくない。外に出ると心が武装しているのです。 

何で寮に入らなくちゃいけないんだよ。自分から寮に入りたいと思ったわけじゃない。 

物心ついた時、自分は普通ではないと思い知らされるのです。見えない、聞こえない、話せない、体が動かない。手伝ってもらわなければ、生活できない。皆の中に入れない。

神様、何でわたしがこんな体に造られたのですか。 皆と同じように楽しく遊べない、思う通りの就職も出来ない。高校時代同級生が、目を怪我して片方が見えなくなってしまった。成績が良かったのですが、就職が難しかったのです。彼は悔しくて泣いてました。 

こんなのは不公平だ。神様、恵みを注いでくれないのですか。

一番大切なことは何ですか。 イエスは言います。第一に、神様を全身全霊で愛することです。
そして、隣人を自分自身のように愛することです。

こんな体で、ひねくれてしまっているこんな心で神様を愛する。どうやって愛するのですか。自分の様に愛する。わたしたちが隣人じゃないですか。

イエスはわたしたちに言われます。わたしはあなたたちに炎の蛇を送ります。あなたたちは自分たちを障害者という。神様はあなたたちに愛をもって命を与えたのです。今、生きている。神様の愛のうちに生きている。光りを見なさい。自然の音を聞きなさい。あなたはこんなに多くのものに包まれているのです。こんなに多くのものに支えられているのです。

見たい。見る力を与えてくだいと祈ってほしい。必死に祈ってほしい。あなたは見えるようになります。普通に見えるのではなく、物の表面を見るのではなく、その物の心が見えるのです。普通に見えている人は表面しか見ていないのです。その人たちは見えていないのです。

聞こえない人。聞こえるように祈ってほしい。真剣に祈ってほしい。
たとえば、音楽がある。激しい音のバンドがある。ベビーメタルというのでしょうか。耳が裂けるほどの音響です。それは心の響きを壊しているように思います。心の響き:心で感じる音です。
心に響きを聞き取りたい。静けさを、ゆったりとしながら生まれるリズムを感じたいのです。

 手助けを必要としている人、手助けしくれる人と出会っている。その人の心があなたに触れている。嬉しい事だと思います。その人と心がつながっていると思います。

 不自由だと思っている人。神様に不自由さからの解放を祈ってほしい。深く深く、自分の生活を変えるほど深く祈ってほしい。神様は必ず声をかけてくださいます。わたしは今、あなたの横にいる。あなたと一緒にいる。
人は小さい、弱い物です。小ささ、弱さを比べてはいけない。
前を向いて歩いてほしい。顔を大空に向けて、一歩づつ、ゆっくり、力強く歩いてほしい。

命を知る。それは喜びに生きることです。

神に感謝。
自然に感謝。


四旬節第3主日B  出エジプト201-17 コリント122-25 ヨハネ213-25      21-3-7

  田舎から来た人はエルサレムの神殿を見て、その素晴らしさに驚きます。堂々とした建物が威風を醸し出している。細やかな装飾で飾られている。そして「ささげもの」でいっぱいになっている。

 イエスは問うのです。人々は神殿に何を求めているのですか。神殿は神様の「しるし」ではないですか。神殿で神様に出会います。神殿で神様に祈ります。
人々は神様に自分の益となる、恵みを求めているのではないでしょうか。

神殿を訪問する、そして祈る。それは、良いものを貰いたい、恵みを求めているのではないでしょうか。 祭司は言います。祈りなさい、求めなさい。供え物を心からささげなさい。必ず、願うその恵みが与えられる。祈る、そして、祭司に祈ってもらう。自分の望みが叶えられるように。

神様は祈る人に恵みを与える方ではない。むしろ、苦しみを与える方なのだ。

過越祭が近づきました。大勢の人たちがエルサレムに集まります。
過越祭をエルサレムで過ごすように勧められているのです。  
イエスはエルサレムに来ました。神殿の境内に入りました。神殿の境内には店が並んでいます。牛、羊、鳩を売る店が並んでいます。両替の店が並んでいます。店が人を引き付けています。
遠くからささげものを持ってくる事はない。ここで買えばいいんだ。たくさん供え物が用意できる。
神殿は供え物でいっぱいになる。境内で買った供え物でいっぱいになる。
神殿が商売の家となっている。  

ふと、バレンタインの祝日を思い出しました。バレンタインの祝日は商売の日ではないでしょうか。バレンタインの記念日はバレンタインを思い巡らす日ではなく、好きな人のためにチョコレートを渡す日になっているのです。バレンタインの日にバレンタインの祈りは全くされません。
バレンタインはチョコレートを食べたことがないと思います。  

神殿を商売の家にしてはいけない。供え物をする以前に、神様を見つめなさい。心を神様に向けなさい。 このエルサレムの神殿は律法によって包まれている。律法によって飾られている。
そして神殿は供え物によって豊かさを示している。 そんな神殿に神様はおられない。

 ユダヤ人たちはイエスに問い詰めます。「あなたはこんな激しい事をする。その力はどこから来るのですか。威厳のしるしをわたしたちに見せてください。」
イエスは答えます。「この神殿を壊して見よ。3日で建て直して見せる。」 

あなたの心の中にある神殿を壊しなさい。あなたの心はその神殿の枠に閉じ込められている。
あなたの願いは自分の健康を願う、家族の健康を願う。 平安な生活を願う。 人との付き合いがうまく行きますように。 事故が起こりませんように。

神様はあなたの家の相談役ですか。

そんな扉を壊しなさい。
自分のために働くのではない。人のために働く事が出来ますように。
自分のために祈るのではない。人のためにもっともっと深く祈ることが出来ますよう。
苦しんでいる人が神様のみ心に励まされますように。  

まことの供え物はわたしの体、わたしの血です。
わたしの神殿は祈りで満たされる。

供え物は賛美の歌です。 わたしの神殿は神様の憐れみ、慈しみ、愛に満ちたところです。 

四旬節第2主日B 創世記221-29a10-1315-18 ローマ831b-34 マタイ92-10 21-2-28

  主はアブラハムに声をかけられた。主はアブラハムを選ばれた。わたしはあなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。
そして、アブラハムは100歳で子を得た。長い間待ち望んでいた子が生まれた。アブラハムは子イサクを何にも増して可愛がった。
ある日、主はアブラハムに命じられた。「アブラハム、あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼く尽くす献げ物としてささげなさい。」

 アブラハムわたしはあなたを選んだ。わたしの言葉に、一層、従順になりなさい。わたしの思いを行う者になる。迷いがあってはなりません。
信仰とは、神様のために自分を捨てること、全く神様の道具となることではないですか。

アブラハムは命じられた場所に着くと、そこに祭壇を築き、薪を並べた。そして、アブラハムが手を伸ばし、刃物を取り、息子イサクを屠ろうとした。その時、天からの使いがアブラハムに叫んだ。
「その子に手を出すな。」

 アブラハム、あなたは、これ程までに忠実に、わたしに従う者であると知った。あなたの愛する独り子イサクをわたしにささげることを惜しまなかった。

 主はわたしたちに、アブラハムのこの出来事を通して、言われているのです。
あなたの一番大切なもの、一番愛しているものを捨てなさい。 
しかし、それが正当な要求でしょうか。わたしたちは生きています。毎日の生活を支えてくれている両親がいます。一緒に生活をしている兄弟姉妹がいます。それを奪い取るのですか。
一番苦しんでいる時、支えてくれた先生、先輩がいます。その有り難さを忘れろというのですか。
アブラハムには息子をいけにえにしろとい言われたのです。どこに愛があるのですか。

 あなたの命はどこから来ているのですか。あなたを支えてくれているその人たちの命はどこから来ているのでしょうか。人は人の思いの内に生きているのではありません。あなたは自分が見える人々の中にいるのではないでしょうか。自分を係わりのある人たちの中にいる、自分の周りにいる人々の中にいる、それは自分の世界の中で見ているのではないでしょうか。

 命は一人一人のうちに働いている。周りの人、一人一人は生きている。また同じように、命はすべての人に与えられている。自分の命は自分にかかわりのある人たち、自分の世界の中にあるのではありません。自分の扉を開いて、外に出て行く。自分が係わりを造って行くのではないでしょうか。

 自分の目の前で、亡くなった命を見る。その人の命にとどまっていては、ほかが見えなくなります。
悲しい、苦しい、だから閉じ籠ってしまうのですか。悲しさ、苦しさを十分味わって、その人を見直すのです。
父さん、母さんが死んだ。息子が死んだ。愛する人が死んだ。人には言えない苦しみがある。十分悲しむ、苦しむ。涙がなくなるまで泣く。その出来事を静かに受けとめたいのです。

 イエスとペトロ、ヤコブ、ヨハネの弟子たちが山に登った。山頂でイエスン姿が変わった。イエスの服は、どんなさらし職人の手に及ばぬほど、真っ白に輝き始めた。そして、エリヤ、モーセが現れた。イエスと語り始めた。ペトロは目の前に起こったその光景に我を忘れた。わたしは今、不思議な世界にいる。今起こっている出来事がわたしたちの社会に起こったらいい。あの人たちと一緒に住みたい。あぁ、そうだ。仮小屋を3つ作ろう。一つはイエスのため、一つはエリヤのため、もう一つはモーセのためです。
一同が山を下りる時、イエスは弟子たちに命じられた。
「人に子が死者の中から復活するまでは、今見たことを誰にも話してはいけない。」

 主は言われる。わたしは命の主である。わたしの命のもとに戻りなさい。
命は生きる喜びです。
生きるとは、見ること、聞くこと、触れることです。そして、生きるとは働くことです。
働く、見えるものを作りだす。見えないものを作りだすのです。

生きるとは、生きているもの、すべてと喜びを一緒の味わうことです。
働く、自分のために働くのではありません。
支えられていることを感謝しながら、支えることが出来ればいいと働くのです。

 わたしたちは今、四旬節の道を歩いています。
出来事を見ています。聞いています。
そして、自粛の生活を送っています。
その中で、何を見ていますか。何を聞いていますか。わたしは何が出来ますか。
喜びを作ることが出来ますか。静けさを、穏やかさを作ることが出来ますか。
優しさ、おおらかさで人と接すすことが出来ますか。

 今何もするなと求められているのでしょうか。
いや、違います。
人と出会うことがない、もし出会ったら、静かな喜びを伝えたらいいのではないでしょうか。

 独り、静かに時を味わう。
祈りの時を作ったらいい。
神様を静かに見つめる時を作ったらいい。
自分を静かに見つめる時を作ったらいいと思います。

 自粛、お客さんにならないことだと思います。

四旬節第1主日B  創世記98-15 ペトロ318-22 マルコ112-15       21-2-21

  神様はノアと彼の息子たちに言われた。「わたしは、あなたと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。」 神様はノアに言われたのです。わたしはあなたの神を思う心見た。神のために働く、神の言いつけに熱心に従う心を見た。あなたはわたしの心の中にいる。あなたと箱舟にいる他7人と契約を立てる。(ノアとノアの妻、息子たち3人、息子たちの妻3人、全部で8人です)
そして、あなたたちの子孫、地に住むすべてのものと契約を立てる。契約は契約を立てた相手を大切にすることです。契約とは:神様の約束です。約束を立てたあなたたちと深くつながる。愛のうちにつながる。いのちのうちにつながる。

契約、わたしはあなたの心を買う。あなたはわたしに従って歩みます。
その代金は、愛です。愛するつながりです。いのちのつながりです。わたしはあなたとつながっている、あなたはいつでも、わたしの心のうちに歩み続けなさい。
わたしの契約のしるしはこれである。神様は雲の中に虹を置かれた。この虹によってわたしの愛を思い巡らしてほしい。虹は弓の姿をしている。弓によって放たれる矢は動物を殺します。人を射殺します。わたしはこの虹、弓矢によって恵みの矢を降らせます。憐れみの矢を降らせます。何百万本も、何千万本も降らせます。天の虹は希望のしるしです。 

ペトロは言います。ノアの8人は水の中を通って救いを受けました。 この水は洗礼の水。洗礼の水は心と体を清めます。心と体が神様のおられるところとなるのです。

ノアは山の中腹で、大きな箱舟を造ったのです。「山で水に浮かぶ、どでかい舟を造っている奴がいる。見ていると、手伝ってくれ、って言われたよ。」 「手伝うものか。お前は何を馬鹿なことをしてるんだ。ここは山の中だよ。あんな大きな舟を造ってどうするんだ。神様の言いつけだ?」「あいつは馬鹿な奴よ。」   

ノアは黙々と仕事を続けた。箱舟は完成した。

神様は言われた。この箱舟の中に、家族と清い動物、清くない動物を入れなさい。4040夜、雨が降った。箱舟を造り始めた時から、雨の日々、4040夜、過ごした。苦しみの日々、忍耐の日々だったと思います。地上に降りた時から、その日から全く新しい日が始まったのです。

イエスは神様の霊によって、荒れ野に導かれますます。40日間、荒れ野にとどまりました。40、イスラエルがエジプトから脱出した40年の荒れ野での生活を思い起こしました。荒れ野は命のない世界です。荒れ野れ野で自分を見つめる。いのちを見つめる。自分の欲求を見つめる。
神様を見つめる。そして、欲求と対決する。
そして、自分の小さい、弱い事を知るのです。人は小さい者、弱い者だと知るのです。

今、苦難の社会生活の中にいます。
この苦難を乗り越えて生きなさい。忍耐をもって、静けさを保って、遊び心を抑えて、家庭の温かさを味わうのです。心のつながりを味わうのです。  

四旬節、今から、小さい、弱い自分の新しい出発です。


灰の水曜日 ヨエル
212-18 コリント520-62 マタイ61-616-18        21-2-17 

  人は自分のうちに「いのち」を見ている。知識を習得する。経験を積む。自然を感じながら、自分の命を見ている。自分のあり方を見ている。そして、忘れてはいけないこと、人は共同体の中で生きているのです。共同体と言いうのがいやなら、人はつながり合って生きているのです。つながらなかったら生きて行けない。支えられなければ生きて行けない。人は独りで生きたい。しかし、一緒につながって生きている。

人とは何かと考える時を持つのです。そして言われています。
善行を行いなさい。施しなさい。祈りなさい。そして断食しなさい。

善行:善行は何のためにするのですか。善いことをして褒められたい。善い事は、一緒の生きている喜びが善い事になって行く、善い事をするのではないと思うのです。善い事をしなければいけない先生になってはいけない。支えられているのだから支える者になりたいのです。

施し:施しは手助けすることです。自分のものを与えることです。余っているから与えるとはちょっと違うと思います。心を与えるのだと思うのです。手助けし貰わなければ、生きて行けない人がいます。神様がそのようにお造りになった。その人に手助けする。一緒に生きるのだから手助けするのは当たり前だと思います。働く。自分のために働くのですか。支えられてる、それを思い出してほしい。人のために働けたらいい。その人とつながって行けたらいい。もし、その人が肉親の兄弟姉妹だったら、その人を手助けする、当たり前のことではないでしょうか。

断食:食べ物は当たり前にある。食べたかったら食べる。満腹するまで食べられる。野菜も食べる、肉も食べる。こんなに支えられているんだ。主に支えられている。人に支えられている。

でも、一日3食食べられない人がいるのです。地球上に8億の人が3食食べられないと聞きました。食べる、生きる。皆、一緒につながって生きている。断食、食べられない苦しみを知る。支えられてることを知る、支えることが出来たらいいと思うのです。

祈る:人のために祈る。嫌な人がいる。その人とつながれない。その人のために祈る。また、自分がつながれない弱さのために祈る。善い事が出来るように、善い事のために働けるように祈る。

まことの祈りは神様の前に裸になることではないでしょうか。神様の前に立つ。自分をなくして座る。神様のみ心のうちにいる。み心に満たされたらいい。み心を語れたらいい。み心を行うことが出来ればいい。

生きる。一緒に生きる。つながって生きる。
手助けする者になる。いや、もうあなたは手助けされているんだと思います。
静かに、その人と生きる。
人とは何ですか。
支えらえて生きている。
支えながら生きている。
皆、兄弟、つながって生きている。
感謝のうちに生きている。


年間第6主日B  創世記316-19 コリント1031-111 マルコ140-45      21-2-14    

  創世記を読みます。 神様はアダムに言われた。「アダム、」お前は取って食べるなと命じた木から食べた。それゆえ、土地は呪われるものとなった。」
大地は命を受けとめ、育てて行くものではないですか。大地に種を蒔く、水を与えられる、陽が注ぐ。種が芽となる。成長する。大地は神様の祝福のうちにあるのではないですか。
大地が呪われるものになったのですか。良い草、よい木が育たないのですか。
大地に悪い心が入った。食べてはいけないものが生まれる。育って行く。人の心のうちに、人の力によって、悪いものが植えられる。
人の力によって、大地が変わって行く?ちょっと分からなかった。あぁ、そうかと思ったのです。昔、トルコに行ったことがありました。農村でりんごを見ました。小さい、野球のボールよりも小さい。「小さいんですね。」「これが自然のリンゴだよ。」トルコの人は言う。「日本のりんごはいじって、薬をやって大きいりんごにしている。何十種類もの大きなりんごを作っている。あれは神様のりんごじゃないよ。 南の国々で、太陽の強い、水の豊富な所で作られる米が、北海道で作られている。
南の果物が日本で、ビニールハウスで温度を計りながら、灯油ですか、ハウスを温めながら作られている。野菜も肥料を使って育てているようです。土地を改良しなければ育てられないようになっているようです。

土地は善いもの、人に力をつける善いものを、また、人が育てたいものを育てる所。お前は人の思いのままに大地を使いたいと思った。お前の目の前の土地は自然の力を失なっている。
お前は土地を開墾し、畑とする。善いものを植える。お前は汗を流して食物を得る。
お前は土に何をしているのか。もう一度、思い浮かべなさい。
「お前は土からとられた塵に過ぎないお前は塵に帰る。」

人は自分自身でありたいと思う、自分の欲求のうちに生きたいのです。自分の快楽のために、自分の自由のために、損をしない道を選ぶ。自分のために生きる。力を持つ者、能力のある者が大いに自分自身を楽しむ。力のない者は力のある者のために働くことになる。力のある者は力のない者の世界が見えない。いや、見ない。見ようとしない。
力のない者:能力のない者、体の不自由な者、父さん、母さんのいない子供たち、夫のいない母さん、収入がない。不自由な生活をしなくてはならない。豊かさを求める生活から弾き飛ばさられている。

重い皮膚病を患っている人がイエスのところに来て、膝まづいて願った。「わたしのこの病を見て下さい。み心のうちに見てください。この病の中にいるわたしの心を見てください。家族から全く離れています。仲間に捨てられている。社会から遠ざけれらている。会堂に行って祈りたい。わたしは生きたいのです。イエス様、わたしを生きる者にしようという心がありますように。(神様に見捨てられたわたしたちにも、心を留めてほしいのです。)」
イエスはその人を見た。その人の心を見た。その人の心がイエスに響いた。イエスは手を差し伸べて、その人に触れた。そして言われた。「よろしい。清くなれ。」たちまち重い皮膚病は去った。
イエスはその人に言われた。神様の思い、み心があなたに注がれた。神様があなたを見ておられる。神様のうちに生きる者となりなさい。神様の道を歩む者となりなさい。

神様が、イエス様が求めておられるのは、体の癒しではないと思います。体が不自由で心が閉じてしまった。心を開きなさい。神様に向かって開きなさい。


年間第5主日B ヨブ71-46-7 コリント916-1922-23 マタイ129-39      21-2-7  

  コロナ感染の危険な状態はまだまだ続きそうです。いや、いつ終わるのか分からない。どんどん新しい、変形コロナが出ている。外出自粛が続けて求められている。県外に出ることができない。手首の消毒、マスク着用、会合、会話も規制されている。今のわたしたちは自由に生活することが出来ない。 今日の第一朗読、ヨブ記は言います。わたしたちの生活は兵役のあるようなものだ。全くの雇人だ。自由を得ることができない。生活に苦労だけがある。希望がない。ヨブの記事とわたしたちの今の状態が何と似ている事かと思ったのです。

 通勤混雑の電車はもうないのでしょか。しかし、多くの人たちは通勤する。仕事に行き、多くの時間を会社で過ごす。そして、帰る。夜、居酒屋によっては行けません。居酒屋で会合してはいけません。家に帰る。家庭で過ごす。奥さんは買い物で、ちょっとした時間しか、外に出るほかは家にいる。家に閉じ込められている。土曜日、日曜日、家族で公園やちょっとした休み場所にも行けなくなってしまった。毎日、閉じ込められている。コロナ感染はいつ終わるのか、全く分からない。こんな生活はもう我慢が出来ない。みんなの不満がこのようになってしまっているように思います。

もう一度、静かに考えたいのです。
わたしたちの命は、毎日の生活は何のためですか。
今迄の「生きている」とは自分の日常の生活、家庭の生活に中にある。その中で安定する。時に、閉じ籠りから、自分を解放するために、夜、飲みに行く。家族で旅行する。
自粛期間で旅行に出られない。飲みに行けない。婦人たちはどのように過ごしているのか分かりませが、閉じ込められてるのだと思います。
わたしたちは自分の世界を守ろうとしているのではないでしょうか。自由な時間を自分の楽しみに使いたい。外出できない。飲んで騒げない。だから不安だ、不満だ。 

生きるとは自分の世界から出て行きなさいと言われているのではないですか。
支えられている、支える者になる。一緒に生きるのです。隣の家、近所の家、町の人々が一緒に生きている。病が癒される。自分の病気を心配する以上に、隣人の病気に気を使うのです。
生きるとはつながり合って、一緒に生きるのではないですか。
静かな時を持つ。人の思いを受け取って行く。笑顔で接することができる。もし、他人の過ちに腹を立てるとき、腹を立てている自分を思ったらいいのです。

 安息日、礼拝を終わったイエスは会堂を出てペトロ、アンデレの家に向か会った。ペトロのしゅうとめが熱を出して、寝込んでいると聞いたのです。ペトロの家に入った。イエスは寝ているしゅうとめのそばに行き、祈り、手を取って起こされた。熱は去りった。ペトロのしゅうとめは喜んで皆に会食を用意した。夕方になり、安息日は終わった。人々は病人、悪霊に取りつかれた者をイエスのもとに連れて来た。イエスは病人を癒された。悪霊を追い出した。翌朝、朝早く、まだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所に出て行き、祈っておられた。ペトロとその仲間はイエスを捜し、見つけると「皆が捜しています。」と言った。イエスは言われた。「わたしは近くの町や村に行こう。そこでも宣教する。わたしはそのために歩いているのである。」

あなたたちは自分の健康、家族の健康を求めているのですか。わたしはあなたたちに福音を宣べ伝えているのです。自分の安心満足を求めたら、隣人が見えなくなってしまう。


年間第4主日B 申命記1815-20 コリント732-35 マルコ121-28      21-1-31

  集会祈願で、「人々を回心に導かれる神よ、」と祈りました。あっ、そうかと思ったのです。

神様を思った時、神様のみ言葉に気付いた時、回心の心が起きるのだと思ったのです。出来事があると、いつも自分の思いの内に判断してしまっている、話をしてしまっている。自分の中に人の心がない。心に余裕がないのかな。人のために働く、その思いがないのではないかと思うのです。

神様を思う、祈る時間がある。それは特別な時間ではない、日常生活の中にあることではないでしょうか。  

神様は預言者をたてられる。モーセのような力ある預言者を立てられると同時に、神様のみ言葉を語る多くの預言者を立てられるのです。神様の喜びのうちにいる人を預言者とされ、その人の口に神様はご自分の言葉を与えるのです。実はわたしたちは預言職にあずかっているのです。みことばを大切に聞きます、語ります。  

安息日に会堂に集まる。司式する人は祈りに導きます、聖書を読みます、そして説教をします。会堂にいる人たちは祈ります、聖書を聞きます。そして説教を聞きます。説教は難しい聖書の分かりやすい解説です、時には律法の説明です。そして、賛美の歌を歌います。会堂で自分たちがイスラエルである事を、また、神の道を歩んでいることを確認するのです。  

イエスが会堂で祈りを導き、聖書を読み、説教をしました。みんなは驚いた。その説教は今迄どおりとは違う。神様のみ心が語られる。神様は今も生きておられる。今もわたしたち一人一人に声をかけておられる。わたしたち一人一人を見つめておられる。神様の声が聞こえない。あなたがたは神様に心を閉じているのではないですか。神様は人の世界に入って来られている。すぐそばにおられる。あなたの横におられる。あなたの目の前におられる。 苦しんでいる人、悲しんでいる人、罪を犯した人、あなたたちは一人ではありません。神様はあなたたちを子供として見ておられる。あなたたちは、わたしたちは神様のみ心の中にいるのです。神様と共にいる。喜びましょう。

この街道に汚れた霊に取りつかれている男がいて叫んだ。

「ナザレのイエス構わないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。」 自分が罪を犯している者はイエスが見える。イエスの力が自分に向かってくる、イエスの思いが自分に迫ってくる。それを感じるのです。イエスの語る言葉が心に体にぐさっと刺さってくる。

イエスは汚れた霊に言います。「黙れ、この人から出て行け。」  

イエスが見えない。もし、イエスが見えない、聞こえないならば、正義に無関心である、普通に損得で生活している、自分の生活に精一杯、隣人に関心がないのではないですか。無意識に言葉を語っている、無意識に行っているのではないでしょうか。  

「イエスの教えは新しい教えだ。」
回心した時、目覚めた時、神様が見えると思います。
神様に支えられているんだという事が分かる。支える者になるという事が分かる。
神様とのつながりがあって嬉しい。
自然とつながっている。自然に支えられている。こんなに支えられている。
人とつながっている。一緒に生きている。兄弟となるんだ。その思いに生きる。

年間第3主日B (神のことばの主日)                       21-1-24
           ヨナ31-510 コリント729-31 マルコ114-20

今日、年間第3主日を祝います。 
新しい年はまず、13日 主の公現を祝いました。
主の降誕の出来事は田舎の村、静かな冬の空の下で起きた出来事ではなく、全世界へ送られた主の喜びの出来事です。  
110日 主の洗礼、イエスがヨルダン川のほとりで、ヨハネの説教を人々と一緒に聞いている。 そして、ヨハネの洗礼を受ける。その時、天から声があった。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」 神様は言われるのです。イエス、ヨハネ、それぞれ神様のみ言葉、神様のみ業を行い、神様を告げ知らせなさい。

1月17日 年間第2主日、イエスの活動の始まりです。
ヨハネは2人の弟子と一緒にいた。歩いているイエスを見つけた。ヨハネはイエスを見つめながら言う。「見よ、神のの小羊だ。」 一緒にいたアンデレ、ヨハネはイエスについて行った。
今日、年間第3主日を祝います。神のことばの主日です。「神のことばを祝い、学び、広めることにささげる」 フランシスコ教皇の宣言です。

今日、みことばを思い巡らし聖書を読んで行きたいと思います。
神様は言われます。「ヨナ、ニネべに行きなさい。」ヨナは行きたくない。ヨナは神様から、神様のことばから逃げた。逃げた、逃げようとした。しかし、どこまで行っても逃げ切れるものではない。ヨナは神様の囲いの中にいる。ヨナはニネべに行った。ニネべで3日間歩き続け、神様のみ言葉を告げ知らせた。ヨナは人々と出会った。語り続けた。ヨナは一心に語った。人々はヨナの姿を見た。ヨナに預言者を見た。人々は言葉のうちに神様の心を感じたのです。ニネべの人々は回心した。ことばが人々を回心に招いたのです。

ヨナは神様を体で感じた。神様がわたしを使ってみことばを見えるものにした。ヨナは神様を知ったのです。神様を心と体で感じているのです。ことばのうちに神様の心を感じたのです。 

ヨハネが捕らえられた。ヘロデ王、あなたは神様のみ心、律法に背いている。悔い改めなさい。ヨハネはヘロデに迫った。 ヨハネは牢に閉じ込められる。そして、ついに首をはねられるのです。
イエスは預言者の最期を見た。しかし、その時、ことばの力を知るのです。何も持っていないヨハネに王であるヘロデが負かされた。王は国を持っている、人々を持っている、権力を持っている。王はみことばに負けた。みことばに勝つためにヘロデはヨハネを牢に入れ、首をはねたのです。
イエスも預言者の道を歩みます。 
みことばが人の命を救う。人の持つ悪を退ける。みことばのうちに生きるのです。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

あなたたちに与えた時は満ちた。今、出発の時です。神の国はあなたたち向かって進んでいます。神の国があなたの前で待っている。神の国に向かって歩み始めなさい。あなたが歩んで行かなければ、神の国に入れない。神の国があなたを包み込むのではないのです。あなたが生き生きと生きた時、神の国に一歩近づく。自分の欲求を捨てた時、隣人に与え続けている時、隣人のため苦しみを引き受け、悲しみを引き受けた時、神の国にもう一歩近づいているのです。
福音:神様の喜び、神の国の到来です。悔い改めて歩み続ける。今迄の自分をやめることです。 

ペトロとアンデレが湖で網を打っている。イエスは言う。わたしについて来なさい。「人間をとる漁師にしよう。」二人は網を捨ててイエスに従った。ヤコブをヨハネが舟の中で網の手入れをしている。イエスは二人を呼ばれた。二人は父を残し、舟を残していイエスに従った。
神の「ことば」、まことの「ことば」:わたしたちは「ことば」と聞くとイエスを思い浮かべます。
イエスは神のことばである。みことばが人となった。その方イエスは神様のみ心で満たされている。
イエスは神様のみ心を語る、行うのです。

今日のカトリック新聞でドミニコ会の吃もる助祭、佐藤了師が紹介されていました。
聞こえる言葉によって神様を説明するのですか。見える文字によって物語はあるのですか。
聞こえる言葉、見える文字は神様のみ心の見える律法です。まことの律法はみ心です。
言葉は何かと考え続けて行くと、心に思い至るのではないでしょうか。
語っている心、行っている心です。
神様を一心に思う心です。それが聞こえる言葉になる。
それが行いになるのではないでしょうか。
言葉がうまく話せない、うまく人の手伝いができない。人はその人の心を見ていると思います。
ことばは神様を思う心です。人を思う心です。特に隣人を思う心です。

「魚を取る以上に人を取る漁師になりなさい。」
「みことばで漁に出よう。」(主に水辺で会った。)

年間第2主日B 
        サムエル上33b-1019 コリント613c-15a17-20  ヨハネ135-42    21-1-17

  ヨハネは2人の弟子体と共にいた。イエスが歩いておられた。ヨハネはイエスを見つめて言う。「見よ、神の小羊だ。」 あの方こそ、小羊のように従順に神の道を行く者だ、と聞いた。
2人の心に響くものがあった。 2人の弟子たちはヨハネのもとで修道士の生活を送っていたのだと思います。

あの方に神様のみ心が生きている。あの方が神様の憐れみの業を行われる。2人は自分たちの心に火がついたように思ったのではないでしょうか。あの方を知りたい。あの方の歩いている道を知りたい。あの方のどこに神様はおられるのか知りたい。
わたしたちは神様と出会っていた、神様のうちにいると思っていた。
毎日の祈りの時間を大切にしている。神様のみ言葉を思い巡らしてい
しかし、神様と出会っていなかった。神様に近づいて行こうと思っていなかった。
イエスが神の小羊。イエスのうちに神様は燃えておられる。イエスのうちに神様の道がある。
神様のみ心に入りたい。神様のみ心のために働きたい。 

わたしは洗礼を受けて、キリストを近くに感じます。 今日、コリント書で言われます。わたしたち一人一人の体がイエスの体を造っています。イエスの体となるのです。わたしたちは聖霊によって神殿となるのです。わたしたちは神殿。そうか、わたしたちはイエスの御体をいただいています。イエスがわたしたちの中に、神殿に住むと考えたらいいのではないでしょうか。 

神様に出会う。 わたしの個人的な話を聞いて下さい。わたしが洗礼を受けた直接の原因は、今から45年前、長い外国旅行の時の出来事です。ヨーロッパを見て歩いた。そして、トルコ、イスタンブールに着いた。ヨーロッパ最後の地、イスタンブールで酒を飲んだ。明日から、アジアを廻る。ついお酒を飲み過ぎた。見ると、パスポート、隠し現金、トラベラーズチェック、これからの航空券、全部取られてしまっていた。そんなことが起こった。モスクの広場の奥に洞窟のような洞穴があった。犬の糞の匂い、しょんべんの匂いがした。寝袋を持っていたので、そこで寝た。腹がすいた。水を飲んだ。10日間その洞穴にいた。 しかし、10日間毎日、神様に祈った。神様、助けてください。助けがなければ、この浮浪者が名もなく、死んでゆくのです。誰にも気づかれないで死んでゆく。神様、助けてください。日本に帰ったら、必ず洗礼を受けます。神様のために働きます。毎日祈ります。 旅行前、12年間プロテスタントの教会で英会話を習っていたのです。礼拝に出ていた。聖書を少し教わっていた。

10日目にヒッピー風の青年に出会った。今、困っている、助けてくれないか。
その青年たちはわたしに1万円貸してくれた。

わたしは今迄、神様について考えたことはあった。でも、それは「知識で神様を見ている人の目で神様を見ていた。神様に助けられた話を聞く。でもそれは物語のように聞いていた。
自分の世界に神様はいない。神様を感じることができなかったのです。
神様と出会うとは、神様によって生きている事が分かった時だと思います。
神様は書物の中におられるのではありません。聖書の中に閉じこもっていません。
今も、神様は働かれておられる。 今も、神様はわたしたちに声をかけられている。
神様に心を開いていない人には、神様の声が聞こえない。

神様と出会いたいと思います。今の自分を打ち破って、神様の道を歩む時、神様が見えるのではないでしょうか。  イエスの道を歩みたい。イエスの心の中に入りたい。

わたしたちはメシアに出会っている。神様の道を歩み続けて行けますように。

主の洗礼B イザヤ551-11 ヨハネ51-9 マルコ17-11            21-1-10        

  主の降誕を祝い、今日から年間B年の始まりです。新しい年は主の洗礼から始まります。

洗礼は命の出発だと思います。新しい世界の門の扉を開いた。門の扉を開いた時、世界がくっきりと、鮮明に心に入ってくる。目にはいるもの、聞こえる音が快い。今、自分の洗礼を思い出しています。  

父、母の意見を聞かない。もう大人だから、自分の人生だから自分で決める。そんな風に思っていました。今、後期高齢者になり、父、母の苦労がよく分かるように思います。

結婚して、子供を持った時、この赤ちゃんに両親は持っているものをすべて与えるんだという事を知ります。食べ物、飲み物、寝床、着替え、そのための時間を与える。安らぎ、優しさ、ほほ笑み、声をかける、呼びかける、それが子供と一緒の生きることだと知るのです。
歩き始める。言葉を話す。もう少し大きくなると、わがままを言う、生意気になる。それが子供の「自由」なんだと知るのです。父さん、母さんの苦労、大変さが分かるのです。 

ふと思いました。「洗礼」は父さん、母さんを知るという事ではないでしょうか。

自分の洗礼を思い浮かべました。
イエスの名を知っていた。聖書を読んで見た。ちっとも分からない。教会で英会話の勉強をしていたのです。キリスト教が世界を動かしているというそんな話も聞いた。 今、生活している自分が歯がゆい。不平、不満がいつもある。しかし、何をするか、決断力がない。何もしない自分がいる。
教会で礼拝に出た。続いて礼拝に出た。祈りを覚えてきた。少しずつ聖書を教わった。
そんな中、長い事、外国旅行へ行く機会があった。旅行中、事件が起きた。持っているものを全部取られて、何もない。洞窟のような所で10日過ごすことになった。この洞窟の中で、毎晩、必死に祈った。助けてください。助かったら、日本で必ず洗礼を受けます。洗礼を受けてあなたへの道を歩みます。 1年ぐらいの外国旅行を終え、日本に帰りました。教会を捜し、カトリック教会で洗礼を受けました。

洗礼、命が始まる。本当にそんな気持ちがありました。豊かな生活をするため、金を得る、そんな生活をやめよう、そんな決心をしました。
洗礼とは出発です。今の生活をやめます。新しい道を歩みます。
神様を見つめます。神様を見つめる時間を作ります。
祈ります。祈る時間を作ります。
自分を見ます。何を求めているか、どのように生きるかを考えます。 

洗礼を受けて教会の一員となります。教会の事を考えます。
教会はいろいろな人を受け入れる所ではないでしょうか。
困難な状態を助ける所、苦しい生活を助ける所ではないでしょうか。
教会は愛の出発の拠点だと思います。愛の出発の一人といなっていますか。
教会は受け入れる所、愛の出発の拠点。
あなたはその様な大きな心を持っていますかと問われているように思います。

洗礼はやはり、生まれ変わる時です。その扉が目の前にあったのです。
扉を、門を開く。新しい世界に入って行く。その道を歩んで行きます。

イエスが洗礼を受けた。
洗礼は罪を清める? 新しく出発する? イエスはそんな事は必要ではないと思います。
イエスは「神様からの救い」を求めて洗礼を受けたのではないと思います。
ヨハネの前には多くの人が集まっている。 ヨハネは神様を語ります。信仰の道を語ります。神様のみ心、律法を語ります。イスラエルへの神様の愛を語ります。
そして、強く語ります。今、イスラエルは神様を忘れている、律法を守りなさい。悔い改めなさい。
ヨハネの言葉が、叫び声になって心に入って来る。

受洗する人は列を作ります。イエスは多くの人たちと一緒に、列を作って並んで待ちます。皆と一緒に、神様への道を歩む一人です。順番を待つ姿がそこにある。列に並んで待っている人の心がイエスの心に入って来る。皆の反省の心、悔い改めの心の中にいるのです。

一緒の歩む、それがイエスの出発だと思います。
イエスの洗礼を記念する。

主の公現 イザヤ601-6 エフェソ323b5-6 マタイ21-12             21-1-3      

  今日は「主の公現」を記念し、祝います。

イスラエルの小さな村ベツレヘムの家畜小屋で男の子の赤ちゃんが生まれた。登録のためベツレヘムにも多くの人が滞在している。動物のいる家畜小屋で赤ちゃんが生まれたようだ。ちょっとしたニュースとして、その出来事が流れたかも知れない。噂の一つです。 

公現とは、キリストが自分の姿を現わされたことです。この赤ちゃんの誕生は家庭の出来事ではない。東方の三人の博士が、何日も日をかけて幼子を訪問し、ひれ伏して拝んだ。宝の箱から黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。神様の示された出来事を見た。ユダヤの新しい王と出会ったのです。この出来事が公現です。 
「キリストの洗礼」、「カナの婚礼での最初の奇跡」も公現と言ったようです。
 
公現はその姿が神様からのものである、特別な現れです。
たとえば、朝、太陽の光が地上を照らす。一日が始まる。日中は明るい。それは当たり前だと思っている。ふと、太陽とは何か、光とは何かを調べたいと思う。太陽には力がある。光には力が備わっている。光は分子、しかし、波である。色を創る。明るい、また、熱を持っている。太陽の光。
光が生命に力を与える。温かさを与える。
太陽の事を知った時、太陽は今まで知らなかった太陽ではない。太陽がなければ、光がなければ命は生きて行けない。その大きな力を知った。

  公現はまことの姿を見た、その姿を心で見た、その重さを見たという事です。
神様の出来事を見たのです。

「イエスがおとめマリアから生まれたこと。」不思議です。
「ベツレヘムで生まれたこと。」ベツレヘムは『パンの家』と言う意味です。イエスはパンとなられます。
わたしは命のパンです。わたしを食べなさい。その言葉が心に響いています。不思議です。

「家畜小屋で生まれたこと。」まことの王様が動物に囲まれて生まれました。心の王様は豪華な寝室はいらない。権力はいらない。心の大切さの中で、心の大切さに包まれて生まれました。

不思議です。
「羊飼いたちも救い主の誕生を知りました。」不思議です。
「遠い異国の博士が神様のしるしを知ったこと。ひれ伏して礼拝したことです。」不思議です。
「ヘロデ王もイエスの誕生を知ったことです。」  
わたしたちは神様と出会った。
イエスのみ心を感じている。

イエスのみ言葉を聞いている。
わたしたちはイエスと共に、イエスに従い、イエスの道を歩みます。