年間第7主日C 

      サムエル上2627-912-1322-23 コリント1545-49 ルカ627-38    22-2-20     

  パウロはアダムを語ります。わたしたちは二人のアダムを知っています。

始めのアダムはエデンの園に生まれました。そこに住み、育ちました。夜、寝る。昼、働く。食べる。ゆったりと時を過ごす。毎日の生活にそよ風が注ぎ、いつも温かい陽射しを楽しみます。自然の力が心を豊かにします。しかし、ある時、自分の命に目覚めました。蛇に出会った。知識の蛇に出会ったのです。アダムに意識が生まれました。自由を知ったのです。自分は選んでここエデンの園にいるのではない。自分は生まれた。ここにいることを知った。自分は選んで、今、ここの道を歩んでいるのではない。しかし、やってはいけない事を教えられている。善悪の知識の木の実を食べてはいけない。あっ、わたしには食べる力、食べない力が与えられていたのだ。アダムは自由のうちに神様を裏切ったのです。そして、神様の恵みを退け、肉体を持つ、欲求、欲望のある自分になったのです。世は欲求、欲望の場となった。力を持つ者の争いの場になった。

主は第二のアダムを送られた。いのちのうちに生きる者、まことの知恵を持つ者、地上に生きるものを超える、豊かに生きる者、まことの自由に生きる者。地上に属している始めのアダムの命から天に属する第二のアダムに従いなさい。第二のアダムの姿に入りなさい。わたしたちは土から生まれたアダムに属しています。天からのアダムに出会った。その方の道を歩みます。

 イエスは弟子たちと共に山から降りられました。そしてまことの幸い、まことの不幸を語られました。

また、皆を見つめて語られます。わたしのもとに集まる皆よ、わたしの道を歩む者よ。わたしの言葉を心の耳で聞いてほしい。 まことの幸い、まことの不幸とは何なのでしょうか。 

まことの幸いとは:この世で起こる、あなたの出来事をすべて受け入れることです。その出来事を見つめ、その中に入って行くことです。喜びを喜ぶ。苦しみを苦しむ。悲しみを悲しむのです。そして、苦しみ、悲しみを十分味わい、仲間と一緒に、その苦しみ悲しみを乗り越えるのです。ひどい苦しみ、残酷な悲しみは神様の思いではない。まことの喜びを、仲間と一緒に作って行く、新しい世界への出発点です。

 神様のうちに生きる。すべての命を大切にするのです。わたしたちは働いています。いのちのために働くのです。働くとは喜びを作って行くことです。働いて作物が成長する、収穫する。嬉しい。物が造られる。便利になる。嬉しい。働く、みんなが喜んで生きるのです。

 生活が喜びではない。主は言われます。「敵を愛し、あなたがたを憎む者に祝福を祈りなさい。」

あなたを罵倒する、悪口を言う。その者の言葉をすべて受け入れなさい。おおらかに受け入れられたら、あなたはその人とつながれます。おっしゃる通りかも知れない。わたしの欠点です。治してゆきます。静かに聞いたらいい。聞けたらいい。頬を打たれたら、もう一方の頬を出しなさい。頬打つことは侮辱です。静かに受け取りなさい。堂々と受け取りなさい。へたばってはいけません。

求める者には全て与えなさい。返してもらおうとして与えるのではありません。徹底的に損をするのです。あなたは敵を愛する者となりなさい。憐れみ深い者となりなさい。

 集会祈願で祈りました。

「主イエスは敵対する人、自分を裏切る人をも愛し、まことの愛に生きる姿を示してくださった。」

 

つながりとは家庭のつながり、友情のつながりですか。いや、まことのつながりは、その人のために損をすることです。自分に悪いことをするもの、自分を裏切る者、敵のために損をすることです。

 損をしてみましょう。愛の出発をしてみませんか。イエス様は、その時、屹度ほほ笑んでくださっていると思います。





年間第6主日C  エレミヤ175-8 コリント151216-20 ルカ61720-26        22-2-13  





年間第
4主日C エレミヤ14-517-19 コリント1231-1313 ルカ421-30     22-1-30 

  わたしたちは主のもとに集まっている。わたしたちは洗礼を受けた。神様は言われます。
わたしがあなたを選んだ。あなたは洗礼を受けてわたしのもとにいる。あなたは勉強によってわたしのもとに来たのではない。西洋文化を考えてわたしのもとに来たのですか、宗教とは何かを考えてわたしを選んだのですか。幼児洗礼、父さん、母さんによってわたしを選んだのですか。 
いや、わたしがあなたを選んだのです。

神様を知った。自分に新しい世界が出来た。あなたは自分の生活を考える。社会が何を求めているか考える。その時思う、何もできない自分がいる。「我」がある事を知る。自分の中で「我」がのさばっている。「我」に勝てない。神様はどこに行ってしまったのか。

神様は言われます。あなたの敵は何ですか。あなたは本当に敵と戦いたいと思っているのですか。祈らなければいけないのですか。聖書を読まなければいけないのですか。

 こんな出来事あがありました。ある人たちは言います。神様の力を求めよう。40年ぐらい前、聖霊刷新運動というプロテスタント教会からの力強い動きが起こりました。わたしの知り合いのある人はそこに神様の力を求めました。聖霊刷新運動は言いますわたしたちは聖霊の力を軽んじている。聖霊によっていのちは動く、奇跡が起こるのです。聖霊は神様の、愛の働きです。聖霊によって天の父の、子イエスのみ心が現実になるのです。わたしたちは聖霊とのつながりをもっともっと大きくしよう。パイプを大きくしよう。祈りましょう、祈りましょう、祈りましょう。集会がある。歌う、祈る。その集会の中で、異言が語られることがあるのです聖霊の恵みを受ける。聖霊による洗礼を受けるのです。そのグループの人たちが「病人の癒しのグループ」を作ったりしました。 

ある人の母親が癌の宣告を受けました。その時に聖霊運動に入ったのです。お母さんは聖霊の洗礼を受ける前に亡くなったようです。その人は聖霊の洗礼を受けると病人の癒しの活動を始めました。ある夫婦に子が出来なかった。祈ってあげるよ。祈りました。子が生まれたのです。しかし、その子は障害をもって生まれたのです。 その人は病院に行きました。病人に手を置いて祈りました。勇気がある行為だと思います。使命感を感じていたのでしょう。
そのうちに気付きました。この癒しは自分の「我」を満足させるためのためではないか。

今日の福音をそんなことを思いながら読みました。
安息日、ナザレの会堂で、イエスによって預言者イザヤ書が読まれました。

「主の霊がわたしの上におられる。わたしは貧しい人のために、捕われている人を釈放するために、
盲人に視力の回復を告げるため、抑えつけられている者に自由を与えるために遣わされた。主の恵みを知らせるためである。」
あなたがたは神様のみ言葉を聞いた。この言葉は今、神様があなたがたに語っているのです。あなたがたが神様のみ言葉を心の耳で聞いた時、この出来事は実現します。

ある者は言う。「この人はヨセフの子ではないか。何を偉そうに言うのか。」イエスは会堂の中に漂う心を感じて言われた。「あなたがたはわたしがカファルナウムでいろいろな恵みの業をしたと聞いている。郷里のここでも神様の業を見せてくれというに違いない。ここもカファルナウムと同じイスラエルではないかと思っている。わたしは神様の業を見せるために語っているのではない。神様の業は神様の思いのうちに行われる。神様の思いはここにはない。」皆はこれを聞いて憤慨し、総立ちになった。イエスを崖まで連れて行き、突き落とそうとしたのです。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られました。

イエスはこの世に来られた。イエスは病をいやすために来たのではない。イエスの奇跡のすばらしさを見せるために来たのではない。いのちを見つめる心を与えるために来たのです。
信仰生活を送る。神様に恵みを願う。賜物をください。預言する力、教える力、奇跡を行う力、病をいやす力、そんな力で神様の栄光を現したい。神様のうちに入りたい。    
パウロは言います。もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。最高の道があるのです。
あなたが神様のそのような恵みの力を得ても、あなたの愛がなければ、無に等しい。そのような人の力を超える力を得ても、そこに愛がなければ何の善いことをしたことにならないのです。
愛はいのちの力です。自分の命を求めるのではなく、出会う人の喜びの命を求めるのです。
隣人が生きることを求めるのです。与えられたすべての賜物が失われても、愛は決して滅びない。
賜物は全て部分です。いのちと出会う。いのちと顔と顔を合わせて見るのです。いのちを正面から見るのです。信仰、希望、愛。この中で最も大いなるものは愛です。

いのちを見つめて生きて行く。隣人のいのちを見つめて、生きて行きたいと思います。

                         

年間第2主日C   イザヤ621-5 コリント124-11 ヨハネ21-11           22-1-16  

  ガリラヤのカナで婚礼がありました。カナはナザレから約13㎞ほど北のある町です。ナタナエルの出身地です。ナザレから歩いて3時間ぐらいのところです。イエスも弟子たちも婚礼に招かれていました。イエスのお母さんは配膳係をやっていたようです。婚礼がたけなわになっている。しかし、ぶどう酒がなくなってきているな。そんな声が聞こえてきます。マリアは見渡します。そして、イエスのところへ行って声を掛けます。「ぶどう酒がなくなりました。」イエスは母マリアに言います。「婦人よ、わたしにぶどう酒を用意しろ、不思議を行うよう求めるのですか。わたしの時はまだ来ていません。」イエスが不思議を行う。これは神様のみ心のうちに行われることです。わたしと神様のかかわりですよ。母さんだからわたしに頼むのですか。母さんと子のつながりは神様の思いによるものではないですか。あなたはその神秘を心にとめておられない。

イエスは閉じられた。主は言われる。人の心があなたに訴えている。その心を感謝しなさい。その人の思いはほかに何も求めていない。その心を受け止めなさい。

母は召使たちに言った。「この人が何か言いつけたら、その通りにしてください。」
そこには、石の水がめが六つ置いてあった。イエスは言われた。「石の水がめに水を満たし、それを世話役のところへ持って行きなさい。」 

ヨハネ福音書では聖母は「マリア」という名では呼ばれず、母という名で呼ばれます。 

イエスへの願いを求める言葉は母だからではないと言っているようなのです。その人の心が、その人の言葉が婚礼の席に喜びをもたらすものとなったのです。
人の婚礼の宴が神様の喜びの婚礼の宴となったのです。

何故、新しいぶどう酒が出されたか、誰も知らない。声をかけた母はイエスの何であるかをまた知ったと思います。弟子たちはその出来事を自分たちの目の前で見た。

水がめを用意した召使たちは、目の前で起こった。その不思議な出来事を知ったのです。

母はイエスにとって何なのでしょうか。イエスにとって母は何なのでしょうか。
母だから聞き入れたのではありません。イエス思いを知っている方が母です。母のようにイエスの心を知りたいと思います。
母は言われました。「この人が言いつけたら、その通りにしてください。」
母の心:わたしは願いました。受け入れる、受け入れない、それはあなたの判断です。

 神様に願う、必死に願うことがある。そのとき、神様、この願いを聞き入れてくださるのはあなたの判断ですと言えたらいいと思います。願うとは一番の努力をしましたという報告ではないでしょうか。 

カナの婚礼でイエスは最初のしるしを行われた。
神様の喜びの時、神様の集いの喜びを祝うのです。皆に見守られ、出発をする。
神様のうちに出発する。新しい年を神様のみ心のうちに出発したいと思います。

主の洗礼C  イザヤ401-59-11 テトス211-1434-7 ルカ315-1621-22      22-1-9

  イエス様が洗礼を受けた。よく理解できなかった。イエスは「まことの神」、「まことの人」であると教えられている。なぜイエス様は洗礼を受けたのでしょうか。

イエス様はまことの神:人の小ささ、弱さを超えて、人を包む力を持たれ、人を導く方。そして、人を罪から解放する方ではないのですか。その人の弱さをその人と一緒に見つめ、その人の苦しみを一緒に考える。そして、おおらかな心のうちに神様に祈る。弱いから、苦しいから、本当の自分を知ったらいい。弱い、苦しんでいる本当の自分から出発して歩いて行く。神様の恵みを祈りながら、歩き出そう。神様は人を超える方ではないですか。
イエス様はまことの人:イエス様は聞く方でした。イエス様は語る人でした。イエス様はたくさんの人と出会う方でした。疲れます。疲れたら体を休めます。のどが渇く、お腹がすきます。大いに飲みます。大いに食べます。しかし、殴られれば痛い。高いところから飛び降りることが出来ない。

その時、イエス様は思ったのでしょう。今日、わたしの生活の出発の時としよう。皆の前で神様の道を歩む宣言をしよう。そして、ヨハネの洗礼を選んだのではないでしょうか。
ヨハネは修道者の生活をしている。仲間を集めて修道生活をしていると思います。仲間と共に祈る。皆と一緒に聖書を読む。弟子の前で神様を語る。そして、毎日のようにヨルダン川の川辺に立ち、神様を語り、律法を語るのです。         
イエス様は皆と一緒に列に並びます。洗礼の儀式を待つ。ヨハネは一人一人の告解を聞き、頭を川に沈めます。この水になかで今までの自分の欲求、生活姿勢を殺すのです。今までのあなたを洗い清める。この命の水を受けて新しい命に生きるのです。
イエス様がヨハネの前に立った。イエス様の頭が川に沈んだ。
川から上がると、天が開け聖霊がイエスに降ってきた。
すると、天から声が聞こえた。「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者。」

愛する者よ、神様の恵みが現れました。それはわたしたちにとってイエス様の降誕、そして、洗礼ではないでしょうか。イエスはインマヌエルです。
イエスという名前は「主は救い」、「救いは主から」という意味があります。
インマヌエルは「神は我々と共におられる」という意味です。
「主は救い」ということは「神が共におられる」ということです。
わたしたち、わたしが神様と共にいることが出来れが、それが救いです。
イエス様がわたしと一緒にいる、それが救いです。

洗礼も洗礼の道を歩まなければ、ただの儀式です。成人洗礼を受けた方々、洗礼を受けた時の緊張を思い起こしてください。洗礼によって新しい世界に入ってゆく。その世界の中の道を歩んで行く決心があったように思います。 洗礼:出発です。人生の出発です。洗礼で心と体が新しく拭われ、清められます。新しい驚き、新しい発見があったらいい。
ロザリオの祈りの光の神秘、第1奥儀はイエスの洗礼です。大切な道を行く、生活をこの道にかける決心の儀式だと思います。神様が人となった。人の弱さを背負う、人の小ささを背負う救いをもたらす儀式のように思います。

以前にも話しましたが、洗礼の3つの道を思い起こしたいと思います。
祭司職 預言職 王職 です。



 主の公現  イザヤ
601-6 エフェソ323b5-6 マタイ21-12             22-1-2    

  今日は主の公現を祝います。公現:神様のみ旨の業がこの世に現れたことを記念する日です。

この祭日は東方から来たようです。イエスの受洗、カナの婚礼の最初の奇跡、そして東方の学者の幼子イエスへの訪問、この3つを記念したそうです。4C末に東方の学者のイエス様訪問が「主の公現」になっていったそうです。

すべての出来事に神様のみ心がある。
今日わたしたちに示された聖書の出来事を考えてみたいと思います。

 第一にエルサレムの出来事です。バビロニアによってユダ王国が滅ぼされた。力を持っていた王、官僚、政治家、商人、祭司たちがバビロンに連れて行かれました。エルサレム神殿は壊された。指導者がいない。人々は祈ることを忘れていった。信仰が消えてしまった。しかし、イザヤ書は言います。人々はバビロンから解放された。エルサレムを神様のおられる、信仰の都としよう。神殿を立てよう。エルサレムに戻った人々の中にある信仰の灯が集まったのです。エルサレムに光が生まれた。主の栄光がエルサレムの人々に現れた。主の栄光の光が輝いた。エルサレムが光の都になったのです。  



神の母聖マリア                                            
22-1-1

  明けましておめでとうございます。

新しい出発が始まる。扉が開かれた。歩き始めよう。今から、善い未来を造って行くのです。 

寒い冬の夜、羊飼いたちは野宿をしていた。空を見上げる。星が広がっている。神様はこんなに多くの星を造られたんだ、満天の星。その時、アッと思った。突然、光が広がった。天使たちが見えた。天使たちの声が心に響いた。「今日、ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになる。」羊飼いたちは言う。行ってみよう。神様の出来事を見よう。 

神様はみ心を知らせる人々に羊飼いたちを選ばれた。羊飼い、あなたたちは地位もない、お金もない、能力もない。しかし、あなたがたはいつも、神様を心に持っている。律法を知っているかい?神様のみ心が律法だと聞いている。けれど、ちゃんと話を聞いたことがないよ。
神様から離れてはいけない。あなたがたは神様と一番近いところにいる。

羊飼いたちはベツレヘムについた。小屋に入った。飼い葉おけに寝ている赤ちゃんを見た。父ヨセフ、母マリアを見た。小屋には平安があった。静けさがあった。喜びの光を感じた。羊飼いたちは天使の出来事を話した。マリアは熱心に聞き入った。マリアはこれらの出来ごとをすべて思い巡らします。  八日たった。幼子はイエスと名付けられた。

今日は世界平和の日です。
マリアの姿に平和があるのではないでしょうか。
 天使ガブリエルはマリアに主のみ言葉を伝えました。
マリアは答える。「わたしは主のはしためです。お言葉通りなりますように。」
マリアの言葉は信仰宣言だと思います。
わたしは聞く者です。主の道具です。おっしゃってください。いつでも、どこにいても主のみ心に耳を傾けています。

平和とは聞くことだと思うのです。
あなたたちの不満は何ですか。あなたたちの武力は何のためですか。
不満のある人は武力を誇る。ミサイルの数を誇ります。
まことの力は心の中にあるのではないですか。
聞く者になるのではないでしょうか。

新しい年を迎えました。
今日から、ゆったりと、静かに、力強く、一歩ずつ歩んでゆきたいと思います。