四旬節第3主日C 出エジプト3・1-8a、13-15 Ⅰコリント10・1-6,10-12 ルカ13・1-9 22-3-20
今日の聖書のみ言葉を、「出発の時が来ました」と言っているように読んだのです。
神様はモーセにご自身を示されました。柴が燃えている。炎の中からモーセを呼ぶ声が聞こえた。「モーセよ、モーセよ。イスラエルは今、エジプトで苦しみあえいでいる。わたしはこれを黙って見過ごすことはしない。あなたは、わたしのために働いてほしい。これはイスラエルの人々のエジプトからの出発になる。」
「あなたはどなたですか。」
「わたしはあなたの神。わたしは、あなたによってイスラエルの民をエジプトの地から脱出させる。そして、イスラエルの民をわたしの土地に導くのです。」
「わたしは人々の前に行きます。神様に遣わされたというと、皆は、その神の名は何かと問うでしょう。あなたの名は何でしょうか。」
「わたしはあなたたちの父の神です。イスラエルの人々の神。アブラハム、イサク、ヤコブの神です。わたしの名は『ある』と言うものです。『わたしはある。』これがわたしの名です。」
わたしはある。:わたしは見えるもの、見えないものを在らしめている。「ある」とはわたしによって「ある」のです。動いている、生きている世界がわたしの心の中にある。また、今、わたしはここに「あり、」生きている、動いている。あなたとつながっている。 「わたしはある。」とはそういう意味です。
イスラエルのエジプトでの終わりが、新しい道への出発となったのです。
災難がある。 過越祭にエルサレムの神殿に生贄をささげに来たガリラヤ人がピラトの兵士に殺された。そんな悲しい、悔しい出来事がありました。イエスは言われます。神様を静かに、深く賛美しましょう。わたしたちは今、この厳しい社会にいる。
賢明に生きる。神様をより深く、心の中に置くのです。より深く祈るのです。
シロアムの池の近くにあった塔が倒れて18人が死んだ。その者たちが罪深い者だったのですか。イエスは言われます。決してそうではない。あの人たちは、わたしたちに教訓を与えてくれているのではないでしょうか。日常、心を引き締めることを忘れてはいけない。注意がおろそかになっていませんか。ついだらしない生活を送っていませんか。
イエスがたとえを話されます。ある人がイチジクの木をぶどう園に植えていた。
実を探したが見つからない。「もう3年もの間、このイチジクの木の実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。こんなイチジクの木はいらない。切り倒せ。」
園丁は主人に答えます。「ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥料をやってみます。そうすれば、来年は実がなるかも知れません。もしこれでも駄目なら、切り倒してください。」
イチジクの木の実が出来ない。世話のやり方を変えてみましょう。肥料をやりましょう。イチジクの木の実を結ぶ環境を作りましょう。イチジクの木がわたしたちの思いを受け取って実を結ぶのではないでしょうか。
終わってしまった出来事を丁寧に見たいと思います。
これらの原因によって滅んでしまった。原因を柔らかく受け取って見るのです。
角度を変えて受け取る。おおらかに見て行くのです。
そして、それが新しい道への出発となるのではないでしょうか。