四旬節第4主日C ヨシュア5・9a,10-12 Ⅱコリント5・17-21 ルカ15・1-3,11-32 22-3-27
嫌(いや)な奴と一緒にいたくない。顔も見たくない。話なんか出来っこない。今日イエス様は言われます。新しくなったらいい。自分の思いで目が曇ってしまっている。自分の感情で人を見てしまっている。善い悪いを自分の心持で判断しまま、ているのはないですか。 自分の善悪の判断で人を見るのをやめたらいい。 コリント書は今日言います。キリストによって新しく創造された者となる。キリストの目で見る。キリストの思いでその人を見たらいい。
ファリサイ派の人々、律法学者が言います。イエスは罪人たちを迎えて食事まで一緒にしている。イエスは罪人の仲間ですか。一緒の食事をする、会食をする仲間同士の絆は強い。会食する仲間のために犠牲を払うことを惜しまない。Table band助け合うつながりがある。イエスは罪人の仲間ですか。
イエスは「放蕩息子のたとえ」を話されます。
ある父親に2人の兄弟がいた。弟が父親に言う。父さん、父さんはもう老年だ。その時には僕たちに財産を分けるのではないですか。僕は今やりたいことがあるのです。父さん、僕に今、その財産をください。父さんは弟を見た。そして言う。そうか、渡そう。その財産を大切に使いなさい。
弟は早速その財産を金に換えた。弟のやりたいこと、それは、親から離れること、家から離れることだった。自由に暮らすこと。自分の欲求のまま楽しみたい。お金で何もかも出来ると思っている。マンションに住んだ。派手な服装をした。酒を飲んだ。女遊びをした。札びらを切った。父さんからの財産が消えた。父さんが働いて、苦労して築き上げた財産が弟の欲求のうちに消えて行ってしまったのです。 弟の町に、飢饉が起こった。弟は生活できなくなった。やっと、働き口を見つけた。それは、豚の世話だった。豚の餌イナゴマメを食べたいほど空腹だったが、それをしたら自分はイスラエル人ではなくなってしまう。そんな事を思った時、父の顔が思い浮かんだのです。
父さんのところへ行こう。そして言おう。「わたしは天に対しても、また、お父さんに対しても罪を犯しました。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇人の一人にしてください。」息子は帰る。父親は遠くから、息子の姿を見つけ、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言う。「お父さん、わたしは天に対しても、お父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」「お前はわたしの息子。死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかった。こんな嬉しいことはない。」 息子はわたしのもとに帰ってきた。これからわたしのもとで新しい出発をする。弟は罪人だった。今、新しい出発を祝う。何が悪いのか。息子のために祝宴を開く、何が悪いのか。
罪人と一緒に食事をする。わたしが罪人の食事にあずかるのではない。わたしの食事に罪人を呼ぶのです。罪人が神様の喜びを味わうのです。罪人がわたしの仲間になってくれる。喜びではないか。
あなたたちは兄さんの仲間。兄さんは決められたことをきちんとする。決められた悪いことはしない。
兄さんは弟のための祝宴を見て、怒って家に入ろうとしない。父親は言う。「どうしたのだ。」「わたしは父さんの言いつけにそむいたことはありません。それなのに、友達と宴会をするのに、父さんは子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あの息子が放蕩をして無一文で帰ってくると、肥えた子牛を屠っておやりになる。何たることですか。」
兄さんは弟の心が見えない。新しい弟が見えない。弟の善の心が見えない。兄さんは律法しか見ていない。ファリサイの人々、律法学者たち、あなたたちが見ているのは律法の文字ですか、掟の規則ですか。律法の心を見たらいい。掟の心を見たらいい。そこに神様がおられるのです。
キリストによって新しく創造されたものになるのです。
神様のみ心に生きる者になりたいと思います。