四旬節第5主日C イザヤ43・16-21 フィリピ3・8-14 ヨハネ8・1-11 22-4-3
今日のみ言葉は「罪の赦しと、新しい出発」だと思います。 あなたは出エジプトの出来事を知っている。神様は憐れみの心をもって、苦しみ喘ぐイスラエルを包んだ。イスラエルよ、エジプトから脱出しなさい。イスラエルは海の中を渡った。後を追った強大なエジプト軍は海の中に沈んだ。神様は言われた。イスラエルよ、今から新しい世界が始まる。わたしに従いなさい。わたしは荒れ地に「いのち」の水を灌ぐ。わたしの選んだ人々よ、わたしの水、「いのち」水を飲みなさい。わたしに従いなさい。生き生きと生きる「いのち」を喜んで生きなさい。「いのち」の世界を造って行きなさい。
神様に従って歩いた。40年、罪の清めのための荒野の道だった。
出エジプトの出来事。罪が赦され、今、新しい出発の道が用意されたのです。
パウロはガマリエルの第一の弟子だった。イスラエルの歴史、イスラエルの伝統、信仰、典礼をよく知っている、ユダヤ教の熱心な信徒であった。今、そのすべてをキリストゆえに捨て去った。ユダヤ教の律法、掟から自由になった。その時キリストが見えた。キリストを知った。キリストの愛が見えた。キリストの愛を知った。キリストの中に入ることが出来た。すべてを捨てたことは損失ではなく、恵みだった。律法、掟を守る「義」ではなく、キリストへの信仰による「義」、神様からの義があります。信仰とは、キリストに向かって歩んで行くこと、神様に向かって歩んで行くことです。
パウロは全てを捨てて、キリストに従うものとなった。それが、新しい出発だった。
律法学者とファリサイ派の人たちは、イエスのところに姦淫を犯した女の人を連れて来た。そして言う。「この女は姦淫を犯している時に捕まりました。モーセの掟は『こういう女は石で打ち殺せ』と命じています。あなたはどうお考えになりますか。」イエスはかがみ込み、指で地面に何かを書き始められた。彼らはしつこく問い続ける。イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
律法によってこの女の罪を認める。この女は罪を背負う。その罪は死を以って償う。
律法学者、ファリサイ派の人たちはイエスに問うのです。
①本人の罪を律法によって認めてほしい。
②この女の罪を裁いてほしい。律法によって裁いてほしい。律法を行う力のある者によって、その罪にふさわしい罰を与える。その罰は罪を犯した者に苦しみを与える。悪いことをやった者が苦しんでいる。見ている人たちに教訓を与えることになる。みんなは正しいことが行われたと思う。
イエスは答えるのです。
①本人は罪を犯した。本人はなぜ罪を犯したのでしょうか。やってはいけない事と思ってもやってしまったのでしょうか。女の人よ、あなたは平静さを失っていた。あなたは今、安らぎを求めていますか。裁きが決定された時、あなたはあなたの裁きを待っている人たち皆、から離れてしまうのです。皆から仲間外れにされてしまいます。
律法学者、ファリサイ派の人たち、それをすべて、静かに思ってほしい。
②罪を裁く。皆が集まっているとこで、罪を裁いてほしいと、イエスに言って来た。皆も律法学者、ファリサイ派の人たちも、イエスがこの女に石打ちを命じるか、見ている。
律法学者、ファリサイ派の人たちは、「イエスの人情による判断」も律法にはかなわないと人々に知らせたいのです。
イエスは皆に言います。あなたたちは罪を犯した者を排除したいのです。
律法は罪を犯したものを排除するのですか。律法は神様のみ心ではないですか。罪を犯した者も神様が愛されて命を注がれ、この世に送られた一人ではないですか。
神様はエゼキエルの預言でこのように語ります。
「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。」(エゼキエル18・21-23)
律法は神様のみ心ではないですか。律法の文字から解放されなければ、まことの律法は得られない。神様の義を得られない。
周りの人たちは石を投げようとしなかった。あぁ、嬉しいなと思いました。婦人よ、誰もあなたを罪人と裁かない。誰もあなたを仲間外れにしない。もう罪を犯してはいけない。生きなさい、自分のためでなく、人のために働ければいい。喜びのうちに生きなさい。
罪の赦しは新しい出発です。