受難の主日(枝の主日)C イザヤ50・4-7 フィリピ2・6-11 ルカ23・1-49 22-4-10
イエスは言われます。わたしは人の世に生まれました。天の父のみ心を語るために、み心を行うために毎日人と出会っています。人と語り合っています。父はわたしに言われました。お前は人の中に入らなければいけない。人の弱さ、人の小ささを心と体に十分受け入れなさい。人の苦しみ、人の悲しみを味わいなさい。空腹を味わう、渇きを味わうのです。教会に傷つけられる痛さ、貧しい者の苦しさを味わうのです。 そして、神様を語る、神様の心の業を示すのです。
人々は願っています。わたしたちは神様の民。わたしたちはまことの平安が与えられる。神の国の豊かさが与えられる。今こそ、わたしたちを導く方、メシアが与えられる。
メシアをエルサレムに迎えよう。ダビデの子イエスがロバに乗って、エルサレムに入られた。しかし、エルサレムは耕されていなかった。イエスは言われる。わたしは語り続けた。悪霊を追い出した。
また、わたしの指によって神の国の出発を示した。
人々はわたしにメシアを見た。メシアによって神の国に入る。
メシアは王ですか。王です。しかし、この世の王ではなく、神の国の王です。
この世の王とは、ユダヤの国土を持つ王。ユダヤの穀物、財力、住民、すべてが自分のもの。しかし、イエスは言います。わたしはこの世の王ではない。
長老たち、律法学者たち、ファリサイ派の人々は言います。この王はわたしたちの神を奪おうとしている。自分の神を、ことばによって、業によって示している。この王を取り除いてくれ。
父はイエスに言われました。人々にまことのメシアを示しなさい。イスラエルの人々も異邦人の求めているメシア像と同じメシアを求めているのに過ぎない。
メシアによって、自分が豊かになるのではない。自分が得するのではない。
まことのメシアは人々に与えることを教える方です。人のために働くことを教える方です。
抑えられ苦労していなければ、貧しくて食べるものもない生活を送ったことのない者はメシアを見る事は出来ません。
まことのメシアは、血に染まった、汗みどろになった衣を着て、いばらの冠を被せられ、十字架を担いで、ゴルコダの道を歩いている方です。苦しみの道を歩かれた方、イエスがまことのメシアです。
今、あなたの前を歩いています。
父のみ言葉がイザヤによって語られました。
わたしは神の道をまっすぐ歩みます。どんな出来事が覆いかぶさっても歩きます。わたしはこの迫害を一切逆らわず、退きません。嘲りと唾を受けます。恥ずかしめを背負っています。どんな仕打ちもわたしを辱めることはありません。わたしは神の道を歩いているのです。
十字架のイエスは神を見つめている。苦しみを受け取っている。すべての人が自分たちが何をしたのかが分かればいい。自分たちの弱さ、小ささが分かればいい。このわたしの苦しみ、わたしのいのちによって、新しい出発の時が与えられればいい。
「神様、すべてをあなたに委ねます。」