主の晩餐の夕べ 22-4-14
主イエス・キリストの十字架のほかに、わたしたちには誇るものがない。
今日の入祭の言葉です。ガラテヤ書の言葉です。(6・14cf)
今日の日を生きる。主は言われます。あなたたちに大切なのは知識ではありません。地位、名誉、財産ではありません。神様を見つめる心です。神様のみ心を行う体です。
神様は全てのもの、見えるもの、見えないものを創られました。わたしたちを創られました。神様はわたしたちに「いのち」を注がれ、わたしたちは「いのち」によって生きるものとなったのです。「いのち」は愛。愛とは「いのち」を支えるつながりです。「いのち」を与えられた者は「いのち」を喜ぶ。生きていることを喜ぶ。広々とした青空を眺めて、大海の大らかさを見て心が生き生きとする。神様は喜びの方です。
そうならば、神様は正しい人の味方。生きる喜びを知る人しか神様は見えないのですか。神様を感じる事は出来ないのですか。
いや、そうではない。欲の塊、欲望の人、罪の人にも神様は声をかけられる。神様は苦しみを知っておられる、悲しみを知っておられるのです。人の弱さを、人の小ささを知っておられる。
イエスは十字架を担いでわたしたちの前を歩かれた。イエスは十字架に釘具付けされた。痛さから逃げられない。飢える、渇く、その苦しさを知っている。十字架につけられ大勢の人たちの見世物になっている。馬鹿にされ、悪口を浴びせられ、唾を吹きかけられ、命を奪われる。
罪の人よ。イエスの姿を見なさい。
十字架にかけられ、十字架上で命を奪われた。すべての人のすべての罪を贖うために命を献げます。そのキリストの姿のうちに神様がおられる。わたしたちはイエスの死の出来事を知った、何の悪を行っていなかったキリストの死を知ったのです。キリストのうちに永遠の命があり、復活がある。キリストのうちに罪の赦しがある。
キリストによって救われる。
弟子たちは主と共に忘れられない晩餐、最後の晩餐を味わったのです。
過越祭の前に、イエスは父からのみ旨を知りました。父がすべてをご自分に委ねられたこと、ご自分が父から来て、父のもとに帰ることを知ったのです。夕食の時、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれました。それから盥に水を汲んで、弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいで拭き始めました。イエスがペトロのところへ来ました。「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか。」「わたしのしていることは、今、あなたには分かるまいが、後で分かるようになる。」「わたしの足など決して洗わないでください。」「もし、わしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる。」
イエスは弟子たちの洗ってしまうと、席について言われた。「わたしはあなたがたの主であり、師である。わたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」
足を洗うことは奴隷の仕事である。先生があなたのために奴隷となった。人のために働く。人のために尽くす。お互いその人のいのちのために働くのです。これが精いっぱいの愛です。人が人の罪を背負うことなど出来ません。あまりの大き過ぎます。
父さんはわが子に求めています。従順であってほしい。父さんの言うことに、父さんの心に従ってほしい。
父さんが求めている従順とは、人のために働くことではないかと思います。
父さん、母さんに言われた。お前、何か人のためになりなさい。
あぁ、神様と同じことを言っていたんだ。
イエス様を見つめます。