聖金曜日・主の受難 22-4-15
イザヤ52・13-53・12 ヘブライ4・14-16、5・7-9 ヨハネ18・1-19・42
今日のイザヤ預言を読むと、この預言者はきっとイエスの姿だと思います。
その人は神様の正義を語った。神様の憐れみの業を行った。虐げられた人は解放され未ココア炉のまま飢えた人にあなたのパンを裂き与え、貧しい人をあなたの家に招き入れる。同胞の人に助けを惜しまない。(58・6~)その人は今や人とは見えぬ姿となっている。驚くほど打ち砕かれている。わたしたちは、それは神様の手にかかったものとみていた。 しかし、そうではないことを知った。人の犯した悪、人の咎、人の病、人の心の非情を背負ったのです。人の罪悪の心、我儘な心、力によって抑えつけようとする心、すべての悪い心を背負ったのです。今、お前は神様の心を語りなさい。優しさを示しなさい。光を示す。温かさを示しなさい。支え合う喜びがある。生きる喜びがある。お前はそれを語る、それを示しなさい。この世の力はこの人を迫害した。苦しめた。お前は悟った。よい業のお返しがこの苦しみか。しかし、この苦しみをすべて受け取る。彼らが、自分たちが行ったことを見て、自分たちの心を見る。その時、彼らは神様のみ心を見るのです。
イエスはゲッセマネの園で祈ります。「父よ、わたしに差し出されたこの杯をわたしから取りのけてください。」その杯はすべての人のすべての罪で満たされている。
「お前はわたしの子。素直に父さんの心を受け止めておくれ。」イエスは父のみ心のままその杯を飲みました。しばらくして、イエスを捕らえる者たちが来た。捕らえられた。イエスはアンナ、カイアファ、そしてピラトのもとに連れて行かれた。それぞれのところで尋問を受けた。
お前は何者か。 お前は何をしたのか。 お前は何を求めているのか。
イエスは答えられる。 わたしはこの世にあって、この世に属していない。ユダヤ人の王として訴えられているが、わたしはユダヤに何も求めていない。わたしは国土を求めていない。人々の支配を求めていない。ユダヤの財産を求めていない。わたしはユダヤの何物をも、ユダヤの力を求めていない。むしろわたしはイスラエルの王です。信仰の、心の王です。わたしは真理を明かしするため生まれ、この世に来たのです。
この世に何も求めていないイエスを律法学者、ファリサイ派の人たちはこの世の力によって裁こうとしている。
律法・掟が人を裁く力となっている。律法の力でその人を有罪としている。律法・掟の権威が力となっているのです。律法によってイスラエルは一つになった歴史があります。律法は強い力を持っている。イスラエル、エルサレムはイスラエルの中心。信仰の中心。エルサレムに座を置く。その方は律法・掟の力を持つ。権威を権力とする者ではないですか律法は神様のみ心です。神様のみ心は人を裁かない。神様のみ心は人の心に刻まれるもの、人を包むものです。律法で人を裁いてはいけない。律法の国が出来ているのですか。神様のみ心が律法の力に負けたのですか。
罪人よ、今、善い事をしなさい。その時、喜びの世界が来る。まことの律法は、神様を愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい。