復活節第3主日C 22-5-1
使徒言行録5・27b-32,40b-41 黙示録5・11-14 ヨハネ21・1-19
「わたしたちはイエスの出来事の証人です。」
「お前たちはイエスの時代に生きていたのか。その時代にいないのに何故証人なのか。」
「わたしたちはイエスの出来事、イエスの言葉、行いを聞いています。心の耳で聞いています。イエスの出来事を信じているのです。イエスの姿を信じています。イエスが十字架にかけられたこと、復活があったことを信じています。わたしたちはイエスの証人です。」
大祭司は使徒たちに尋問した。
「あの男はローマによって死刑の宣告を受け、十字架につけられたのだ。わたしたちが死刑にしたわけではない。あの十字架の刑はローマの刑罰なのだ。あの男は我々にとっても罪があった。預言者と思える言葉・行いを行っているのに、律法・掟をないがしろにしていた。人々を自分の信仰うちに集めようと、扇動していた。今、イスラエルの権威のうちにある神はまことの神ではない。わたしの語るうちに、わたしの行っている業のうちにイスラエルの神はおられる。イエスは人々を自分の語る神に集めるようとしていた。
典礼よりも、苦しんでいる人のために、悲しんでいる人のために時間を使っている。
そして、お前たちはエルサレムの中にお前たちの考えを広め、イエスを宣べ伝えている。イエスの血を流したのは我々だと言っている。」
ペトロとほかの弟子たちは答える。
「わたしたちは人間に従うのではなく、神に従います。人の語られる律法より、神の律法に従います。あなたがたはイエスを木にかけて殺したのではないと言う。しかし、イエスを十字架にかけようと企んだ(たくらんだ)のはあなたたちではないですか。ローマよりあなたがたがイエスの死を求めていたのではないですか。律法で出来ないことをローマの力によって成し遂げたのではないですか。あなたがたが気にかけて殺したイエスを神は復活させられました。 【木にかける:死体を木にかけたまま夜を過ごしてはいけない。木にかけられた死体は神に呪われたものだからである。(申21・23)】
この方、イエスこそが、モーセによって荒れ野で旗竿の先に掲げられた炎の蛇ではないでしょうか。人々の罪を背負って、背負ったゆえに罪人となり、十字架につけられ、命を落とした。炎の蛇を見上げなさい。そのように教えられている。炎の蛇によって自分たちの罪を思い返すのです。十字架につけられたイエスによって自分たちの、如何に不信仰があったかを思い返すのです。この方、イエスに神は復活の命を与えられました。この方をわたしたちの救い主、導き手とされました。 わたしたちはこの出来事の証人です。
ガリラヤ湖の漁師たちは夜、釣りをします。夜、何も見えない。舟の中に灯がある。夜、湖上、暗闇にポツン、ポツンと舟の灯が見える。ガリラヤの特別な漁のやり方かも知れません。湖面に灯を近づけ魚を集める。ペトロと仲間たちが夜、漁に出た。何も取れなかった。夜が明けた。疲れ切って帰って来た。岸辺に男が立っていた。その男が言う。「子たちよ、何か食べるものがあるか。」「ありません。」この夜、漁をしました。何も取れませんでした。疲れ切っています。」「舟の右側に網を降ろしなさい、そうすれば取れる筈だ。」また、舟出した。網をうった。魚がかかった。あまりに多くの魚だったので、引き上げることが出来なかった。 もう一度舟出しなさいと言われた時、みんなはえっと思った。
その男は漁師には見えない。しかし、その言葉に重さがあった。言葉の重さ。
ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネはイエスに声を掛けられたことを思い出したのです。
「お前たちを人を釣る漁師にしよう。」その言葉に重さがあった。4人の心をつかんだ。
イエスに従った。 大漁になった。その時、ヨハネが叫んだ。「主だ。」
陸に上がって、イエスを囲んで朝の食事をした。イエスは生活の中にいるのです。
「ペトロ。、わたしを愛しているか。」「はい、愛しています。」「わたしの小羊を飼いなさい。」
「ペトロ、わたしを愛しているか。」「はい、愛しています。」「わたしの羊の世話をしなさい。」
「ペトロ、わたしを愛しているか。」「はい、愛しています。」「わたしの羊を飼いなさい。
若い時は、自分で帯を締めて行きたいところに行く。それは、自分で作った自分の世界だ。自分で自分の帯を締める。年を取ると、他の人が帯を締める。他の人の世界を知る。
人々の中で生きる。これがわたしの世界だ。
イエスの出来事がわたしたちの毎日の生活の中に起きています。
身の回りの出来事、会社の出来事、社会の出来事、そして、世界の出来事が自分の周りの出来事です。
自分を見つめる、神様を見つめる。そして、隣人を見つめて行きます。
わたしたちがイエスの証人となることが出来ますように。