聖霊降臨の主日C                            22-6-5

使徒言行録21-11 ローマ88-17 ヨハネ1415-1623b-26

 「わたしたちの内におられる聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれた。」

5旬祭の日が来た。5旬祭:イスラエルの3大祭りのひとつです。過越祭の第2日から数えて7週後、50日目に守られた「刈り入れの祭り」です。ユダヤ教では、この日を、シナイ山で十戒が与えられた日として再解釈し、律法を感謝する日となりました。

5旬祭の日、一同が集まった。刈り入れを感謝し、神様のみ言葉、律法を感謝する記念日。一同は深く祈ります。その時、一同が集まっている家に天から激しい音が響きました。炎のような舌が一人一人の上にとどまりました。一同は聖霊に満たされ語り始めました。その言葉はほかの国々の言葉でした。この大きな物音に大勢の人が集まって来ました。皆は弟子たちの語る言葉を聞きました。ふと驚いた。だれもかれも自分の故郷の言葉を聞いたのです。神様のことを語っている。懐かしい故郷の言葉。心に入って来る。胸を打つ。故郷を思い出す。父さん、母さん、兄弟、姉妹たち、故郷の仲間たち、近所の仲間たちを思い出したのです。聖霊が祈った。聖霊の言葉が祈りとなったのです。その言葉が聞く人の心に入った。聖霊のうちに皆、神様の心に入ったのだと思います。

 

イエスは弟子たちに言われます。

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」

わたしはこれが分からなかった。愛は掟なのですか。掟を守る、守らないで愛している、愛していないを判断するのですか。お前はわたしを愛していないから、わたしの言いつけを守らないのだ。お前はわたしに忠実だ。お前はわたしをそんなにも愛しているのだ。えっ!愛はそんなにも表面(おもて)に現されてしまうのですか。

 

掟なんかには愛は生まれないと思っていたのです。その時、新たに思ったのです。わたしの掟。イエスの思いのうちに掟がある。それは規則のようなものではない。規則の文字を超える、おおらかな、包む心ではないか。愛するとは、心が、その思いがその人に向かって行く。その人の命に向かって行く。愛とは、その思いがその人に純粋になって行く、無駄な、余計な思いがなくなって行く。愛の掟は、その目標のために邪魔をするもの、余計なものを削ぎ落します。掟を強めると言われたら、聖霊によってますます深く愛のうちに入って行く事ではないでしょうか。

 

聖霊を送る。聖霊のうちに生きなさい。聖霊と共に命がある。聖霊に愛がある。いや、聖霊によって命が働く。愛が働く。聖霊によって、命とつながる。愛とつながる。自然とつながる、人とつながる。

聖霊によって自然を見る。人を見る。自然とつながる、人とつながる。

 

聖霊によって神の子となる。イエスの子となる。

 

聖霊がわたしたちに注がれる。心に体に注がれる。