年間第15主日C 申命記3010-14 コロサイ115-20 ルカ1025-37  22-7-10

 「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことが出来るでしょうか。」

「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。」

「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」

「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」

 

この間暁星国際学園の神父さんと話をする機会がありました。学園にいろいろな学問の道を作っていると言われます。その一つに、自分の研究したいことを、本当に知りたいこと自由に勉強するクラスだ。その、それぞれの問題を中心に、自分で研究する。論文のようにまとめる。担当の先生をつける。一人一人みんなが専門の知識を持つようになったらいい。勉強に勢いがつく。勉強が好きになる。研究者になる。話を聞いていて、そんな学校はいいなと思うと、同時に、高校生の時にはそんな追及したいものがなかったと思うのです。 永遠の命に入りたい、あなたはそんな生きる力を求めていますかと反省するのです。

その青年にイエス様は問います。「あなたにとって今生きている命は何ですか。」

それは、あなたは律法をどのように読んでいますか、と同じ質問のように思います。

青年は答えます。「神を愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい。」

あなたの「受け取っている律法の重さ」と「あなたの感じている命の重さ」は似ていますね。イエスはちょっと意地悪に言っているように聞こえました。

青年よ、あなたは「律法」を、「命」を頭の中で考えている。心の中で理解しようとしている。神様を光の中で、喜びの中で愛している。律法を知っているなら、律法の道を歩きなさい。愛を知っているなら、愛の道を歩みなさい。しかし、それはまことの律法ではない、まことの愛ではない。 今のあなたにとって、律法はあなたの中で輝いている、あなたの神様への愛はあなたの中で燃えている。しかし、それは扉のしまった自分の世界の中る出来事なのです。歩き始めなさい。その時から、あなたの律法が、あなたの愛が呼吸し始めます。

青年は問います。わたしの隣人とは誰ですか。隣人はどこにいるのですか。どのようにして出会い、どのようにつながるのですか。イエス様は隣人とは誰かを語られるのです。

「善きサマリア人のたとえ」を語ります。                                   

殴られて、血を出し、気を失っている青年を祭司は見捨てます。レビ人も見捨てます。

通りかかったサマリア人は近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、宿屋に連れて行きました。

費用を支払い、この青年を精一杯、介抱しました。

誰が隣人ですか。 律法をよく知っている祭司ですか。教会の仕事をしているレビ人ですか。エルサレムとは違った信仰の道を歩んでいるサマリア人ですか。

 

隣人は何を求めていますか。祭司、レビ人の信仰の道を考えたいと思います。隣人を愛する、自分のように愛する。自分の命のように大切に愛する。何よりも大切にする。「自分の生活の中で隣人を持ちなさい。」命の厳しさ、豊かさ、喜びを味わうのです。語らなければ、言葉は生きない。歩かなければ、つながらなければ命は生きない。人の命に入る。人とつながり合いながら、支えられ、支えながら生きる。命を喜びながら、歩いて行きます。

隣人とつながり合える道を歩みたいと思います。