年間第18主日C 22-7-31
コヘレト1・2,2・21-23 コロサイ3・1-5,9-11 ルカ12・13-21
「なんという空しさ なんという空しさ、すべてが空しい。」
時の流れの中に物は生まれ、消えてゆく。わたしたたちも時の流れの中に、生まれ、消えてゆくのか。あぁ、空しい。知恵と知識と才能を尽くした結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。人間が心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。それらは自分のためにならない。人の一生は痛みと悩み、夜も心は休まらない。実に空しいことだ。
空しさを感じているあなたは今、知識の豊富さを見ている、才能ある人を見ている。遺産を手にしている運の良い人を見ている。そして、喜びのない自分の生活を見ている。
毎日が苦しみの時、悲しみの時。知識がない、才能がない、ついにはこの世を去ってゆく。
空しさを感じているあなた、自分の世界から外に出て、人に出会って見ませんか。人と出会う―それは人の姿と出会うのではありません。その人の知識、才能と出会うのではありません。出会いはつながりです。その人とつながる。その人の心とつながるのです。その人の命を感じるのです。喜んでその人と出会う。その人の生きている喜びを喜んだらいい。
人と出会っても、人の命を感じない。例えば、自分たちの子供を見て、この子は自分たちの命のうちに生きていると考えたことはありませんか。是非とも欲しいものがある。それが手に入った。その物のために働く人がいたからです。加工が難しい。人の考える知識によって、新しい方法が行われるようになったからです。その人たちの心、その人たちの労苦に感謝したいと思いませんか。つながっている安心がある。喜びを与えてくれる人がいる。人の一生はいのちの喜びを受け取るため、命の喜びの手助けすること、つながりを感謝するためではないでしょうか。
「イエス様、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」
わたしは裁判官、調停人でないから、助けられない。あなたが貰えないお金が、その人のところで有意義に使われるように願ったらいいと思います。その遺産が、その兄弟の欲求のために使われるなら残念だ。力を振るうために使われたら残念だ。自分が得をしたら、その得したお金を、人の手助けのために使ったらいい。
神様は皮肉を言われました。ある人が言います。「儲けた、儲けた。これから、毎日、思い切り食べたり飲んだりしよう。」「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前の財産は何のためか、誰のものになるのか。」
偶然のように厳しい出来事が起こる。神様、なぜいつもそういうことを起こさないのですか。その人の前にいつも、善悪の石を置きます。どちらでも選べるようにしているのです。しかし、善いものが勝つ。
まことの幸福を物によってひたすら追求している。これこそ空しい。まことの幸福は物によっては与えられない。まことの幸福は命のつながりです。