年間第20主日C 22-8-14
エレミヤ38・4-6,8-10 ヘブライ12・1-4 ルカ12・47-53
イエスは厳しく言われます。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」
わたしはあなた方の心にある屑を燃やすために火を投じます。自分の心を見つめなさい。あなた方の心に入らないものが多すぎる。自分の中に本物だけを取っておきなさい。
わたしたちは生きている。あなたがたは本当に、真剣に命の大切さをかんがえ、命の大切さの中で生きていますか。平和を求め、平和のために働いていますか。命を生きる。平和を築く。その出来事は神様が与えるものではない。生きている、平和を求めている、あなたがたの問題です。命とは何か、平和とは何か、始めから考えなさい。
神様は万物を造られた。そのなかでも、自然世界を造られた。動物、植物に命を与えられた。そして、最後に人を造られた。人に命を与えられた。愛するお前に命を注ぐ。一人一人に命を与える。わたしが与えた命に生きなさい。生き生きと生きる。命が輝いている。そこに、生きる喜びがある。その姿はわたしに響く。わたしの喜び。わたしは体の不自由な者を、心の不自由な者を造っている。お前たちは兄弟姉妹。支え合って生きなさい。だから、お前が生きる、その命はお前がための生きる命ではない。兄弟姉妹たちと、支え合って生きる命です。人のために苦労をする命です。
人は集まって社会を作っている。一人一人が皆、違った心を、違った体を持っている。社会はその大人が一緒に生活している。力がある人、ない人、能力のある人、ない人、癖のある人、まろやかな人、強力な思想を持っている人、平凡な人。
自由とは何でしょうか。人は自由によって、規則を外せるという。自由によって思いの通りの欲求を楽しめる。きちんとした生活から離れることができる。寝坊ができる、掃除をしない。食べ散らかす、毎晩酒を飲みすぎる。
そんなのは自由ではない。自分の世界、自分の欲求の世界ではないか。そんな思いを火につけて燃やしたい。自由とは、貧しくなれること。ゆっくり歩むこと。人のために働くこと、奉仕することではないでしょうか。人の命について考えること。人の苦しみを考えること。悲しみについて考えることではないでしょうか。
自由とは隣人のために働くことではないでしょうか。隣人とは抑圧されている人たち、苦しみにあっている人たち、悲しみにあっている人たち。また、体の不自由な人たちではないでしょうか。
自由とは自分の不平、不満を解消することができること、だから、人の不平不満を聞くことができる。何時間でも聞くことができるのです。
今のわたしたちの社会は平穏に動いている。家庭が平穏である。不自由な面はそれほどありませんよ。だから平和ですと言ってしまう。 イエスは言います。あなたがたは何の不自由な面がないように思わされている。噓の生活を送っているのではないですか。自分の中にある嘘の出来事を見つけ出しなさい。父さん、母さんの嘘を見つけるのです。その嘘は大切な嘘ですという。その嘘は社会を良いものとするため、社会の中にある家庭を維持するために必要だと言います。
父さん、母さんには不満を言うことができない。言いつけにそむけない。父さん、母さんには姑がいる。父さん、母さんは姑の言葉を聞く。