年間第26主日C アモス6・1a、4-7 Ⅰテモテ6・11-16 ルカ16・19-31 22-9-25
この社会は資格の世界なのではないとふと思いました。大学を卒業している。大卒も資格です。大学を卒業している人も、大学には行かなかった人も、資格を持ちたいと思っている。大卒という資格、何かの検定の資格がある。資格を持たない人たちは、持つ人より安い給料で働いている。
大学を卒業している人たち、その学力は何のためですか。資格を持っている人たち、その資格は何のための資格ですか。自分が有利に生きるためですか。給料が良くなるための資格ですか。
わたしの育った家は貧しい家でした。父、母は奉公の生活を送ったのです。小さい頃から女中の生活です。父は思ったのだと思います。子供には毎日の食事ができないような生活はさせない。戦後の経済の苦しい生活の中で父母は倹約しました。その頃、駄菓子屋さんがあり、友だちはそこによく行っていました。「お母ちゃん、お小遣い頂戴。」「何するんだい。」友達と駄菓子屋さんに行くんだ。」「駄菓子屋さんになんか行ってはいけないよ。体に良くない物しか売ってないんだよ。」紙芝居があっても、お小遣いはもらえない。紙芝居のお菓子を買ったこともなかったのです。
後から考えて、あれは父、母が子供に駄菓子屋の、体に良くない物を買わせないためだったというより、倹約の生活を送っていたためだったと思うのです。
わたしの兄弟は、わたしを含めて4人いましたが、中学校から私立の学校へ行きました。私立はお金持ちの行く学校です。私立の学校を卒業すれば就職に困ることはない、その考えだったのです。
社会人になり、イエスと出会いました。そして知ったのです。生活するとは衣・食・住ではない。生活するとは生きている喜びだと思ったのです。そして、お金のある豊かな生活、金のない貧しい生活を思うのではない。日々の生活で、喜びに出会ったか、悲しみに出会ったかを考えることではないかと思ったのです。
ラザロは食べるのにも苦しかった。しかし信心はあったと思います。今日も今日の命が与えられた。残飯を食べる。ラザロの体中、傷が覆っている、その傷を犬がなめに来る。それを見た人は、あいつは犬の世界に入っている、と目を閉じてしまう。ラザロは祈る。祈ることが出来て心が安らぐ。ついに、ラザロは死にました。彼は天の国に導かれました。天の国で神様の宴が待っている。アブラハムの近くに座った。ラザロの心も体も清められている。
金持ちも死んだ。陰府に落とされた。ふと目を上げた。はるか彼方に、アブラハムとラザロを見た。アブラハムに言う。「なぜ、ラザロは『そこ』で、わたしは『ここ』なのか。
ラザロは食べるものがなかった。住む家もなかった。しかし神様を忘れなかった。
あなたには見える物がふんだんにあった。捨てるほどあった。しかし、見えない物は何もなかった。心の居場所もなかった。神様がいなかった。」
「ラザロを呼んでわたしを冷やしてほしい。わたしは炎の中にいる。」
アブラハムは言う。「こことあなたのところには、大きな淵があるのです。行き来は出来ない。」アブラハムに願った。「わたしには4人の兄弟がいます。死後の世界を知りません。
こんな場所に来ないように、兄弟たちに知らせてください。」
今の生活を考えないような者に何を言っても信じない。兄弟の生活を変えたいのなら、あなたが兄弟のために祈りなさい。何のために生活しているか。何を求めて働いているのか。
ラザロの生活と金持ちの生活の話はわたしたちに向けて語られて言われている世に思います。
あなたは何のために生活しているのですか。
あなたは何を求めて働いているのですか。