年間第27主日C                           22-10-2 

(ハバクク12-322-4 Ⅱテモテ16-813-14 ルカ175-10

 第一朗読・ハバククを読みました。主よ、わたしを助けてください。何度お願いしても、こんなにお祈りしても神様、あなたはわたしを助けてくださらない。何故、こんな事がわたしにあるのですか。わたしは昔の事を思い出しました。わたしは正平協の集まりに出ていたことがありました。ある会合の時、車椅子の人が議長に聞きました。わたしは神様に聞きたいのです。何故わたしたちはこんな体で生まれたのですか。神様は完全な愛のお方、恵みのお方ではないのですか。わたしは生まれた時からこんな状態だった。人がいなければ立てない、歩けない、食事が出来ない、便所に行けない。言葉もよく喋れない。皆と同じ様になりたい。どんなにお願いしても、神様は聞き入れてくださらない。司教様教えてください。その時の正平協の担当司教は浜尾司教様だった。

体の不自由な人はいつも思っています。何故わたしがこんな体なのか。これは神様の思い。そう思うしかないのです。

 

またある時、こんな事がありました。1泊の詩篇の黙想会がありました。皆で病院に行きました。その神父さんがたびたび行く病院だそうです。そこに車椅子の人がいました。その人もやっと口が利けるほどです。生まれた時から体が不自由だった。父さん、母さんが育てた。今この病院にいる。神父さんに会った。洗礼を受けた。神父さん、やっぱり苦しい。神様の愛が分からない。時々涙が出てしまう。皆と同じ体にしてほしかった。神父さんは言った。祈りましょう。一緒にいたわたしたちに言った。一緒に祈りましょう。主の祈りを唱えた。アヴェ・マリアの祈りを唱えた。

 

体の不自由な人は言います。神様に祈ります。本当に聞き入れてもらいたい。わたしたちは、すこしも贅沢は言いません。ただ、皆と同じ体の自由を持ちたいのです。

神の道を歩む信仰があります。信仰の道を歩みましょうと教えられています。神様の道を行く信仰とは何なのですか。皆に、同じ恵みが与えられることではないのですか。

 

使徒たちがイエスに言います。「わたしたちの信仰を増してください。」イエスは弟子たちに問います。「信仰を増す?何をもらえば信仰が増えると思っているのですか。あなたがたは何が欲しいのですか。それでは、あなたがたは信仰に何を求めているのですか。信仰で何をしようと思っているのですか。あなたの言っている、あなたの信仰とは何なのですか。」

イエスは言われます。「信仰はあなたが今持っているものを与えることではありませんか。信仰とは神様のみ心があなたを包んでいることです。あなたの「我」がなくなった時、あなたは神様のみ心に包まれる。その時、あなたはいない、あなたの心はないのです。

信仰の道は、あなたが自然のために働く、人のために自分の全部を出して働くことです。あなたは自然のために働く、人のために働く、その時のあなたの願うことは神様の願いなのです。―神様のために働きたい。わたしは自分のために何も求めない。わたしは何も不足していない。わたしのために働きたいのなら、わたしがあなたたちのために造った自然のために、人のために働きなさい。―

あなたが願うことは、神様の願いです。あなたの利益にならない。あなたの行うことはその人のためになる。あなたの願いは、神様の願いは成就する。

もう一度言う。信仰とは自分を捨てること。信仰とは自然のため、人のために働くこと。

信仰とは愛を行うことです。 

 

自然のために働いた、人のために働いた。何故、誰もこの俺に感謝しないんだ。無償で働いたのに、無料で働いたのに。

あなたは信仰のうちに行ったのではないですか。お礼はなくて当たり前。無視されて当たり前。しなければならない事をしたまでです。

 

わたしたたちは神様と出会った。信仰の道を知った。そして言います。

「わたしどもはとるに足りない僕です。しなければならないことをしただけです。」

 

わたしたちは神様から命を注がれて生まれた。

その体が不自由だと思った。人の思いのうちに不自由だと決められた。

神様が父さん、母さん。父さん、母さんは自分の子供を愛する。人が見て、人が判断して、どんな子であっても父さん、母さんは愛する。心から愛する。神様の心を知ることが出来ますように。兄さんの体が不自由だよ、助けなさい。姉さんの足が悪いよ、歩くのを手伝いなさい。ありがとう、いつも悪いね。当たり前だよ、兄さんだもの。姉さんだもの。

一緒に歩く。一緒に歌う。兄さんの、姉さんの温かさを味わうのです。もっと嬉しい。