年間第30主日C シラ3515b-17,20-22a Ⅱテモテ46-81618 ルカ189-14 22-10-23

 昼間でしょう。神殿の境内には人がいない。

ファリサイ派の人が神殿に上ります。「神様、祈るためにあなたの前に立っています。わたしは律法のうちに厳しい生活を送っています。悪から離れ、律法を厳しく守り、あなたのみ心に心を向けています。わたしは犯罪人でないことを感謝しています。奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に2度断食し、全収入の10分の1を献げています。」

 ファリサイ派の人の祈りは自分が正しい道を行く者であることを感謝しています。自分は悪の者と決して交わりません。この徴税人は哀れです。豊かな生活を選んで、イスラエルを裏切る者になってしまっている。神様、感謝します。この道を歩んでいることを感謝します。

 

徴税人がひっそりと神殿に上ります。遠くに立って、静かに一人で祈ります。胸を打ちながら、目を天にあげようとせず祈るのです。「神様、罪びとのわたしを憐れんでください。」

 

神様にファリサイ派の人の祈りは聞こえませんでした。

ファリサイ派の祈りは、悪い事をしていない、自分が聖なる道を歩んでいるそんな報告です。断食していています、献金をたくさんしています、よい信者ですと思っている。  

イエスは言われます。あなたのそのような、見える「いけにえ」は要らない。あなたの心を「いけにえ」としなさい。 徴税人は必死に祈っています。自分と自分の家族、親類のために徴税人となっている。高額の収入は同居している者のために使っている。自分の生活は同居している仲間しか見ていなかった。神様を見ていない。貧しい人を見ていない。苦しんでいる人を見ていない。

悪人のわたしを憐れんでください。わたしは今苦しんできます。会堂に行けない。会堂で皆と一緒に祈れない。お金があるから、欲求の生活をしている。あなたの体の中に入れてください。

 

イエスはファリサイ派の人に言います。

あなたの祈りは何ですか。悪の世界にいないことを喜ぶ。悪から遠く離れている事を喜んでいる。

徴税人を悪の人と思っている。あなたは自分の喜びを祈っている。

ファリサイ派の人、あなたは謙虚になりなさい。 謙虚とは、自分が小さい者、弱い者だと知ることです。自分が支えられていることを感謝することです。

神様のみ心を受け取るのです。み心のうちに語りなさい。み心のうちに行いなさい。

 

わたしはこんな事を思い起こしました。ある小説からの発想ですが聞いてください。

ある少女が「青」の世界にいます。砂浜を歩いている。海に舟があります。

気が付くと、舟に向かって歩いている。舟をうごかす男の人が言います。

「この舟に乗りなさい。あなたを待っていました。」 少女は何か、乗りたくない気がする。

舟主は言います。「この舟で向こう岸へ行きます。向こう岸に着いたら、今までの事はすべて忘れて、新しく生きるのですよ。」「わたしは死んだのですか。」「そうです。」 

少女は思います。―わたしは誰にも愛されていなかった。わたしは皆に捨てられた者だった。何も出来ない。楽しいことは何もなかった。毎日苦しんだ。今、この青い光に包まれている。自分を見つめている。―

「もう考えることはないよ。早く、この舟に乗りなさい。」

「もう少し時間を下さい。考えたい。」

「実はあなたを引っ張っている力が、今、働いている。あなたの事を思って、たくさんの友だちが祈ってくれている。その力がここまで届いている。」

「わたしのために祈ってくれている? わたしを待っている人がいるのですか? 」

「人が生活していて嫌いなこと、苦しいことがある、それは当たり前だよ。でも、あなたと一緒に歩いている友がいるんだよ。あなたは自分の「楽」しか見ようとしないから、その人たちが見えない。その人たちはあなたを見ている。」

「わたしはこの舟に乗らない。神様、わたしを赦してください。もう一度、わたしを戻してください。生活の道を歩ませてください。しっかりと歩みます。」

 

徴税人を思い起こしました。

徴税人は言います。「神様、安心の道を歩ませてください。あなたへの道を歩むことが出来ますように。神様、力を注いで下さい。その日、その時を与えてください。」

 

祈り、それは心の奉献です。

「今」を素直に受け取る。

静かに、一歩ずつ、」神様に向かって歩んでゆきたいと思います。