王であるキリストC サムエル下5・1-3 コロサイ1・12-20 ルカ23・35-43 22-11-20
わたしたちは今日、王となったキリストをお祝いします。王様、わたしたちを導く方。キリストが神様の力をもっている。天地創造、すべてを造られた、その大きな力を持っておられる、すべての人の心を包んでおられる。すべての人の心を見通される。
キリストが王様であることには何の不思議もありません。
えっ、あなたはキリストが何なのか全く知らない。
まず、キリストはあなたに苦しい生活を考えなさいと言われる。あなたの持っているものを、人に「ただ」で与える者になりなさい。裕福な道を歩むのですか。むしろ貧しくなる道を歩めるよう心掛けなさいと言うのです。 このような人が王となったら、豊かな、快い、笑顔の喜びはどこに行ってしまうのですか。隣人のために、身も心も与える者になりなさいと言っている。隣人とは他の人の助けがなければ生活出来ない人たちです。そう言うことは国がやればよい事ではないですか。自分の思いつくままに手助けしたらいい。人の中で、争いのないように優しく振舞ったらいいのではないですか。
第一朗読・サムエル書を読みました。イスラエルの全部族がヘブロンのダビデのところに来て言います。 イスラエルを守る方はあなたのほかにいません。イスラエルの王となって、わたしたちを守って下さい。あなたには力が備わっている。あなたには神様がついておられる。
ダビデは思います。わたしはイスラエルのために戦って来た。大きな勝利を得た。わたしの力は神様からの力。わたしの力によって神様のすばらしさが示されている。わたしに従うなら、同じように、いや、それ以上に神様の従ってほしい。
イスラエルの人々は、ダビデが思うほど、ダビデの力に神様の力を見ているでしょうか。
人々は十字架につけられているイエスを見ている。民衆はただイエスを見ている。
兵士たち、議員たちは嘲笑いながらイエスに言う。「お前が神からのメシアか。」「お前がユダヤの王か。」「神様からのメシアなら、まず、自分を救ってみろ。」「ユダヤの王なら、王の力で自分を救
って見ろ。」 民衆も、兵士も、議員も、イエスを真剣に見ていた。しかし、民衆も、兵士たちも、議員たちもイエスが全く見えなかった。 ただ一人、十字架のイエスの隣にいたやはり十字架の
男の人がイエスの心を見たのです。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」
イエスは言われる。「はっきり言っておくが、あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる。」
*わたしは奇跡という短い文章を思い出しました。読んで見ます。
『わたしたちは、神様が造られた奇跡の世界に住んでいる。どんなに小さいものにも、どんなに大きいものにも、見えるものにも、見えないものにも、一つ一つに神様の心がある。わたしたちを囲んでいるものは、すべて神様の心だ。わたしたちは、神様の豊かな心の中で生きている…。
そうかな…。わたしたちの生活は、豊かさを求めて、毎日戦っているんじゃないかな。本当は、わたしたちには今、奇跡が見えない。神様の豊かさが見えないのだと思う。
ところで、「挫折」という言葉に出会った。挫折を思いながら、イエスを見た。イエスの最後を思った。弟子たちはイエスを捨てて逃げた。イエスは鞭で打たれ、殴られ、唾を吐きかけられた。重い十字架を背負って歩き、何度も倒れた。そして釘で打たれ、十字架につけられた。弟子たち、人々は、十字架で死んだイエスに挫折を見た。本当の神様、本物の奇跡は挫折だった。
今、イエスは聞く。お前たちはわたしを見たか。わたしたちは答える。わたしたちは挫折の中にあなたのすべてを見た、知った。あなたの奇跡が分かった。
わたしたちにとって、挫折とは何だろうか。人の挫折の中に、生きようとしている力を見ているだろうか。わたしたちは挫折したことがあるか。いや、挫折しなかったら、自分が分からない。見せてもいいものばかり集めていたら、そんなのは自分ではない。見せたくない自分が、神様の心に会いに行く。挫折の時、神様がいる。奇跡の中にいる自分を見つける。挫折の時、豊かさが分かる。喜びが分かる。
挫折、失敗は宝物。嬉しいね。わたしたちはやっぱり奇跡の世界に住んでいる。』
イエスと出会う。道に迷った自分が、イエスに会いに行く。イエスは笑って声をかけてくれる。
イエスは王様。嬉しいね。イエスは泥まみれのわたしに、気軽に声をかけてくださる王様です。
がるの声をかけてくださる。