主の降誕(日中のミサ)イザヤ52・7-10 ヘブライ1・1-6 ヨハネ1・1-5,9-14 22-12-25
朝まだ暗い。東の方に赤みがかった空が見える。夜が明ける。イエス様の誕生の日が始まる。イエス様の誕生、それはわたしたちの出発だと思うのです。人として生きる。イエス様の道を歩くのです。今日、また、新たな心を持って神様を思いめぐらしたいと思います。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。万物は言によって成った。」造られたものは体を持っている。体とは見えるものです。神様は見えるものを造られた。見えるものは心を持っている。心とは何のために造られたかを知っているということです。その物は目的を持っている。その物は造られた時がある、造られた場所がある。
例えば、ある湖がある、あそこに、あのような大きさをもって、その湖にはいろいろな動物が生きている。 人が生まれる。どこに、いつ。両親がいる。親戚がある。物はいつも造られるのです。 物は自分の場所と時間を持っている。それを「生きている」と言いたいのです。すべてのものは生きている。すべてのものは「言によって」生きているのです。
言のうちに命がある。言の造った物のうちに命がある。 言は神と共にあった。
言のうちに命がある。命は光。物は命を持っている。命は、物は光を持っている。
物に光がある。そんな思いで周りを見渡したらいいと思うのです。すべのものとかかわりを持って生きている。
今日、イエス様の誕生日。神様がわたしたちの世界に来られた。イエス様は人の生きている姿を見たのです。人々は信仰生活を生きているという。信仰生活とは父のみ心を行うこと、人のために働くことではないでしょうか。それは、人々の思いの通り歩くこととはちょっと違います。人は信仰生活を自分の思いのうちに変えてしまっているように思うのです。
イエス様と出会いなさい。イエスの心を感じなさい。自分の思い、欲求を見る以上にイエスの思いを大切にしたいのです。
今、生きている。すべてのものに包まれて生きている。命に生きている。
おせっかいのない命、おせっかいをしてはいけない命。
関わりたくない関係がある。関わりたくなくても、関わっている。
それは、そのまま心にとどめているのです。
イエス様は言われています。
命を大切にしなさい。どんな欲求があっても、命を大切いすることを忘れてはならない。
この世は神様が造られた世界です。イエスを受け入れる世界にしたいのです。
「神様が肉となった方」が喜ぶ世界になったらいい。
イエス様がわたしたちの社会に来られた。
イエス様の生活を思い、その煩いがわたしたちの煩いであることを知り、それをうまく解消できたらいいのです。苦しいを受け入れる、悲しみを受け入れる、損をする、手助けする、その思いを忘れない生活をしてゆくのです。
イエス様の姿を見つめながら歩いて行きたいと思います。