復活節第5主日C 22-5-15
使徒言行録14・21b-27 黙示録21・1-5a ヨハネ13・31-33a, 34-35
「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない。」
神様の大きな恵みは、わたしたちが「今、神の国にいる」ということではないでしゅか。神の国でまことの平安を喜び、まことの命を味わう、それが神様の恵みではないかと思うのです。 しかし、神様の恵みは苦しみを受け取ることですよと言われているのです。恵みとは喜びではありませんか。悲しみから解放されることではありませんか。
わたしたちは苦しみや悲しみに無縁ではないように思います。生活に苦しみ、悲しみがある。
しかし、神様は苦しみ、悲しみを受け取って、苦しみ、悲しみを超えなさいと言われているように思うのです。苦しみを知らなかったり、悲しんだことがなかったら、苦しんでいる人とつながる事は出来ない、悲しみにつながる事は出来ないと思うのです。
隣人と仲間とつながり合いながら、神の国に向かって歩んで行きたいと思うのです。
晩餐の時です。イエスは言われます。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」皆は驚いた。俺たちは皆一緒に生活している。そんな奴がいるのか。「誰だ。」 イエスがパン切れをぶどう酒に浸して取り、ユダにお与えになった。サタンがユダの中に入った。イエスはユダに言った。「しようとしていることを、今すぐ、しなさい。」ユダはパン切れを受け取るとすぐ出て行った。
イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光を受けた。」
この言葉がよく分かりませんでした。ユダは選ばれた人だったと思います。使徒として選ばれたユダがサタンの思いに従ってしまった。ユダがイエスを裏切った。
ユダによってエルサレムでまことの神の姿が現される。エルサレムの人々は、皆、まことの神のまことの苦しみを見ます。そんなことがあろうか、神の挫折を見るのです。
イエスは鞭で打たれ、血を流しながら、十字架を担いで歩かされる。 茨の冠をかぶせられ、唾を吐きかけられ、石を投げつけられる。人々は罵声を叫ぶのです。
ついには、十字架の上で命を奪われます。
これが神の栄光ですか。
栄光とは「輝かしい誉」。「幸いな光」。
そうだ、栄光は苦しみを背負うこと。キリストのこの苦しみが神様の大きな光への出発です。
イエスは心に沁みる言葉を語った。癒しの業を行った。悪霊を追い出した。死者に命を与えた。イエスはご自分の言葉、行いによって、社会の指導者から苦しみを受けているのです。命を奪われたのです。この苦しみを与えたのは誰ですか。
イエスは言われます。「わたしはあなたによって十字架にかけられたのです。」
人は、自分の欲求によって生きるのではありません。自分の安心を作るために生きるのではありません。社会の人たちが、支え合いながら生きるのです。一人一人が支えられている、一人一人が支えている。一人一人が与える者になるのです。
イエスは言われます。わたしが生きた社会は強い者のための社会です。弱い者は生活できない。貧しさに、苦しさに泣いている。
神様のみ心はいのちのうちに生きること。
律法を守れない。自分を見つめて、もう一度神様に顔を向けなさい。
律法を破った。神様にごめんなさいといったらいい。心を改めて、神様の心の内に入りなさい。 苦しんでいる人に声をかけなさい。食べ物を分かち合いなさい。
荒れた社会に神様は力を注がれたのです。その方は恵みの言葉を語られた。恵みの業を行われた。その方は人々に厳しい優しさを語られた。人々はその方に大きい安心を求めた。
社会を支配する人たちはその方を嫌い、ついにはその方の命を奪った。
その方の栄光は神様への従順、死に至るまでの。命を懸けてまでの人々への愛。
それが苦しみとなった。
「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない。」
互いに愛し合いなさい。
愛は苦しむことです。愛するからどんなに苦しんでも、辛抱できるよ。
キリストの道を歩みます。
愛する者、与える者になって行きたいと思います。