主の公現 イザヤ60・1-6 エフェソ3・2,3b、5-6 マタイ2・1‐12 23-1-8
「起きよ、光を放て。」
新しい年を迎えた。これまでの2,3年はつらい日々であった。わたしたちはその日々を耐えることが出来たか。今までの生活は、耐えることは力。待てることは力だと思います。
今、新年、出発の時である。そんな朝を迎えました。
主は言われます。起きなさい。起き上がる時です。歩き始める。人と出会う。
わたしは思います。神様はわたしの苦しみに光が注がれた。わたしの見せたくないところ、指摘されたくないところ。神様はわたしの欠点に光を注がれた。わたしはその光に神様の栄光を見たのです。見せたくないところを見せる。自信のないところ、恥ずかしがりやなところ、決断力のないところに神様は光を当てられたのです。
自分の部屋から出なさい。自分の心から出なさい。信念のうちに、人とつながる喜びのために、自分から出なさい。自分の恥を目の前に見て、生きなさい。
「起きよ、光を放て。」
今、わたしに言われているのです。教会を忘れていませんか。祈りを忘れていませんか。
人と出会う、聞く者になる。その人とつながって行くのです。
教会から出てゆくのです。一歩ずつ、しっかりと与えられた道を歩むのです。
福音書を読みます。
占星術の学者たちがエルサレムに来て言います。
「ユダヤの王としてお生まれになった方はどこにおられますか。」
王は祭司長、律法学者たちを呼び集めて問いただした。
「メシアはどこに生まれることになっているのか。」
「ユダヤのベツレヘムです。」
学者たちは星の導き示す家に着いた。家に入って見ると、幼な子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼な子を拝み、黄金、乳香、没薬を贈として、献げた。
「起きよ、光を放て。」
大きな恵みが与えられた。主ご自身が与えられたのです。
主の公現―わたしたちは主を見ることが出来るということではないでしょうか。
主はどんなお方ですか、どんな姿ですか、どのようなことを話されますか。どんな目付きをしていらっしゃるかも知りたい。主に会える。そんな喜びが与えられた。
しかし、与えられた恵は幼な子であった。主は幼な子であった。苦しい生活が続いて寝てばかりいた者、わたしたちが起き上がる。主に従って歩く。その時には力を振るい起こす。歩き始める。光を放つ。
しかし、幼な子を育てることが主な仕事になる。
幼な子、主が育つのに十分な生活が出来る社会を作る。それがわたしたちの仕事ではないでしょうか。
生きるとは何ですか、命とは何ですか。支えるとは何ですか。愛とは何ですか。
悪い事とは、悪から逃れるとは何ですか。
好きでもないのに、一緒に暮らすとは何ですか。
人は何のために働くのですか。
それを整理する。心に準備する。行ってゆく。主の公現の準備は大変です。
光を放て、主の光が消えないように、幼な子の光が消えないようにわたしたちが社会を作って行くのです。
主の公現―主と共に豊かに生きることが出来ますように。