年間第2主日A イザヤ4935-6 コリント1・1-3 ヨハネ29-34 23-1-15

  イエスがヨハネの前に集まった人の中にいた。イエスがヨハネの前に来た。ヨハネはイエスを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ。」イエスは神の子羊である。

過越しの「いけにえ」は神様の怒りを贖うもの、小羊が「いけにえ」となった。小羊の血によって、エジプトからの脱出を成し遂げたのです。

イエスは神の小羊、この小羊は世の罪を取り除くための「いけにえ」。イエスは世から脱出するための小羊となるのです、なったのです。イエスによって、神の小羊の血によってこの世から神の国へ旅立つのです。 ヨハネは言います。わたしの後から一人の人が来られる。その方のためにわたしは働いている。わたしは水で洗礼を授けているが、その方は聖霊によって洗礼をお授けになる。聖霊の洗礼とは、聖霊の中に浸す、沈めるのです。

わたしは水であなたを清める。命の水の中で、今までのあなたは死ぬのです。あなたの中に命の水が入ります。あなたの中の今までの生活はすべて消え去ります。今までのあなたは死んだ。そして、全く新しい命に生きるのです。あなたを囲むすべてが今までと違う自然が生きている、出会う人の心が見えます。

 

しかし、ヨハネは言います。わたしはこの方に聖霊の力を見た。聖霊を送られた方が「霊が降ってある人にとどまるのを見たら、その方が聖霊によって洗礼を授ける人である」とわたしに言われたのです。

 

ヨハネは何ですか。イスラエルの伝統のうちに、神様のみ言葉と律法を見たのです。神様は人に、わたしにみ言葉を語られました。それが律法である、聖書である。聖書のうちに、律法のうちに正義がある、まことがある。律法に忠実にありなさい。そこに神様への道がある。自分の欲求から解放されなさい。欲求は悪への道です。自分の得のための悪への道です。

 

ヨハネは神様への道を説いたのです。イエスは何を説いたのですか。聖霊の洗礼は何ですか。霊によって生きるものとなるということです。あなたの目はあなたのものではない、あなたの手足はあなたのものではない、あなたの体はあなたのものではない事を知るのです。あなたの「いのち」は今感じている、今まで感じていた体のものではない、霊に支配される体になるのです。

イエスの言葉が霊となって、あなたの心、体に入ってくる。聖霊によって洗礼を受けるとは、霊によって心と体がきれいにされるのです。何も見えなくなる。何も聞こえなくなる。欲求が抑えられる。今のあなたの苦しみが出て来る、憐みが出て来るのです。

 

水で洗礼を受ける、聖霊によって洗礼を受ける、これには何の問題があるのですか。

3歳から18歳まで、父さん、母さんと一緒に生活出来ない子供たちがいます。ある修道院が施設の家を用意しています。父さん、母さんによって子供たちが連れて来られます。ここで生活するんだよ。ここしかいられない。はじめは緊張のうちに過ごす。合宿のように思っていた。しかし、生活全部をここで過ごす。父さん、母さんは始めの頃はよく会いに来てくれた。でも、それもなくなった。母さんの家に泊まりに行ったことがある。母さんと一緒にいる。しかし、落ち着かなくなっている。もう甘える事は出来ない。家にいる時は、家にふさわしく、そのように生活するのです。そして外に出る時は心の武装をするのです。自分にはそんな負い目がないように振舞うのです。

ある仲間のものは、感じています、本当にゆったりと出来ない。周りの力を感じ取り、それに合わせるように自分を作って行く。

神様は俺たちだけに苦しみを与えている。しかし、生きる、就職してゆく。うまく生きる。上手に生きるのです。世間の常識のうちに生きるのがよい。対立を避けるのがよい。それが身についてくるのです。

 

この施設は修道院が用意している。

この家にいる仲間たちがイエスに出会ったらいいと思うのです。イエスに出会うその準備が出来ればいいと思うのです。その少年少女たちが生活のうちにイエスと出会う準備を作って行ければいいと思うのです。

 

律法のうちに生きるのではない。表面、正しい道を歩むのではない。心を開く、場があったらいいのです。馬鹿野郎と言える場所があったらいいのです。

背入れによって洗礼を授けられるとはそういうことではないかと思うのです。