年間第3主日A イザヤ8・23b-9・3 Ⅰコリント1‐10‐13 マタイ4・12-23 23-1-22
「イエスはヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。」
この社会を作っているのはわたしたちです。今の社会はだらしなさのうちにあると思ってしまいます。希望がない。厳しさを放棄している、節制がない。おおらかさがない。わたしたちで言えば、祈りを捨ててしまったのではないか
ヨハネがヨルダン川で叫び続けている。「悔い改めよ。」あなたがたの生活に、今、光がない。希望がない。生活の喜び、生きている喜びがない。わたしたちの「いのち」は神様から注がれたもの。わたしたちは神様から愛されて、この世に生まれた。神様に支えられて今生きている。この命、生きているこの生活は神様への愛の応えではないですか。
あなたがたは神様からいただいた道を歩いていますか。それ以上に、神様からの恵みを感謝していますか。もう一度言う。「悔い改めよ。」 ヨハネは預言者として宣教師となって活動しています。修道者のグループを作って活動しています。しかし、ヨハネは捕らえられた。
イエスはヨハネが捕らえられたと聞き、預言者の弱さを知り、定めを思い知ったのです。
預言者は社会に力を持つ者たちに迫害される。苦しめられ、牢に入れられる。または、国から追い出される、殺される。それ以前に、一緒に住んでいる人々からも嫌われるのです。
イエスはガリラヤに退かれました。そして、語り始めました。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」 ガリラヤの湖の畔を歩きます。ガリラヤ湖のほとりは自然の豊かなところです。波が波打っている。木々が茂っている。花が咲いている。2人の兄弟が湖で網を打っているのを見た。2人に言う。「わたしについて来なさい。人間を取る漁師にしよう。」人間を取る
また、舟の中で網の手入れをしている兄弟ヤコブとヨハネに出会った。イエスは2人を呼ばれました。 イエスに釣り上げられ、人を釣るものになる。イエスに呼ばれ、自分も人を呼ぶ者となる。出会う人と心を結ぶ者となる。イエスに語りかけられ、人と語り合う者となる。自分の心がイエスに結ばれた。そのように、出会った人と語り合い、その人の心が自分の心に結ばれたらいい。 イエスと一緒に歩いて、人の心を受け取る者になる。人の命を受け取る者になれたらいい。
出会いがあります。幼児洗礼があります。(今日も幼児洗礼を行います。お母さんが洗礼を受けている。その宗教は何を求めていますか。それを考えたらいい。幼児の時出会った。むしろ幸い。命を大切にする心、力と出会ったのです。)
父さん、母さんがキリストの道を歩いている。父さん、母さんの目指している世界がある。そこに、まことの命がある。生き生きと生きある命がある。まことの喜びがある。一緒に喜びをかち合う、一緒に苦労し合う、支え合う世界があるのです。
成人洗礼:今の社会はおかしい。一人一人に考えがない、社会に力に押し流されている。
お金に左右され過ぎている。多数に押し流されている。静かに、ゆっくりと考えたい。自分の生活は何かを考えたい。命とは何かを考えられたらいい。成人洗礼は今の生活を見つめることです。 小説を読んでみようかなと思う人がいたらいい。絵を描きたいなと思う人がいたらいい。旅をしてみたい、ゆっくり黙想をしてみたいという人がいたらいい。
自分は何かを、静かに、ゆっくり考える時間が欲しいのです。自分がなければ、人の話は入って来ないのではなでしょうか。人と出会う事は出来ない。神様と出会う事は出来ないと思います。
「天の国は近づいた。」
神様は問われます。あなたは天の国に何を求めていますか。
天の国に入ったら、自分の思い、行いがすべて、人の助けとなったらいい。
人のために苦労することが出来たらいい
毎日感謝の心で過ごせればいい。
人のために祈り続けることが出来たらいい。
あっ、何よりも素晴らし事。
神様のうちに、全身全霊が入ることが出来たらいい。
天の国で神様に出会うことが出来たらいい。
イエス様の道を歩んでゆきたいと思います。