年間第6主日A シラ15・15-20 Ⅰコリント2・6-10 マタイ5・17-37 23-2-12
ギリシャの大王アレキサンダーは言いました。ギリシャは小さい国だ。世界を支配する事は出来ない。しかし、だから、ギリシャ文化によって世界を支配する。ユダヤにギリシャ文化、ギリシャ哲学の大きな波が押し寄せてきた。ユダヤの信仰がこの時代に力によって変わって来てしまうのか。新しい考えを取り入れたらいいという意見が強くなる。保守的な立場の人たちは言います。神様への道は一つだ、伝統的な教えを固く守って行こう。シラはシラ書を表しました。BC200年ごろです。進歩的な立場の書として「知恵の書」があげられます。
どのような誘いがあっても、お前が主の掟を守ろうとすればよい。お前にとって主の掟は何なのか。主はお前の前に火と水を置かれる。お前は欲しい物に手を伸ばせ。どちらを選ぶかはお前の心ひとつだ。人の前には生と死が置かれている。その人は選ぶ。選んだ道が与えられる。神様は人の思い、行いをすべて見ておられる。
掟を守るとは自分の安心を守ることではない、自分とかかわっている人の命の尊さを大切にすることではないでしょうか。掟とは命を大切にすること、隣人を愛すること。神様のみ心を守り、行うことではないでしょうか。
イエスは弟子たちに言われました。わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。今、あなたがたの知っている律法を越え、まことの律法を示すために来たのです。あなたがたの知っている律法、あなたがたを支配する律法をなくすために来たのです。
律法は神様のみ心です。だから、人が神様のみ心である律法を使って人を裁いてはいけない。
①信仰の芯は義である。義とは全くの従順である。神様との命のつながり。神様とのつながりに自分の思いがあってはならない。自分をなくす、いや、自分を捨てるのです。神様の思いのうちに神様の道を歩む、義のうちに歩むのです。イエス様のゲッセマネでの出来事、自分を捨て、父の思いのうちに杯を受け取ったように。
義の道を歩むというあなたは、人に、あいつはあんな馬鹿な奴だと思ったことはありませんか。兄弟に、仕様のない兄弟を持ったものだと思ったことはありませんか。馬鹿な奴と一緒にいたくない、あんな兄弟と一緒にいたくない、それはその人たちを自分の世界から放り出しているのです。目の前からいなくなれ、その人たちを殺しているのです。
義のうちに歩む、信仰の厳しさを歩む者の振舞ですか。
②信仰は自分の中に起こる欲求をうまく節制することです。
右の目が誘惑に負けたなら、その右の目をえぐり出しなさい。右の手が悪いことを求めるなら切り取って捨ててしまいなさい。あなたにそんな度胸がありますか。
③一切誓いを立ててはいけない。
偽りの誓いを立てるな。あなたは神様に誓うようなそんな大きな、驚くような事をするのですか。自分の命をかける、世界を驚かす何が出来るというのですか。
むしろ、静かに、着実に自分の力を成果に導いたらいい。神様を利用してはいけない。
自分を知ったらいい。
自分を包む大きな力に、律法に「然り、然り、否、否」と言いなさい。
律法はあなたを包む大きな力です。律法はあなたを包んでいる。
律法は神様の温かい心、力づける息吹、励ましです。
イエス様は父のみ心、まことの律法です。まことの道です。
イエス様は人々を包む力です。人々を力づける、一緒に働く励ましです。
律法は道、道に苦しみがあります。悲しみがあります。そして、道に光があります。
まことの律法のうちに生きなさい。
イエス様にまことの律法を見なさい。
神様を見つめて歩いて行きたいと思います。