年間第7主日A レビ19・1-2,17-18 Ⅰコリント3・16-23 マタイ5・38-48 23-2-19
わたしはもっと純粋な生活をしたいと思っていました。サラリーマンをやめて個人で機械の図面を引く仕事をしました。友達関係を探り、仕事を取っていました。なかなかうまく行かず、設計事務所に席を置いて、仕事をもらいました。設計事務所から大きな会社に出向へ行くときに履歴書を作ります、まず年をごまかせ、子供は何人いることにしろ、この仕事に10年いたことにしろといろいろ作るのです。その事務所にいる時も、あなたの時間給はいくら、これは個人ごとの約束、一緒に働いている他の人に言ってはいけません。ほかの事柄でも、何しろすべてお金の世界です。これが今から40年ぐらいのわたしの生活です。
お金にこだわらない、純粋な生活がしたい。社会で生活するならお金が必要だ、それは当たり前です。修道院に入りたいと思ったのです。主任神父さんは、ならば教区の神父になれ。そうですか。神学生の生活を終え、神父になりました。しかし、まだ、まだ純粋さに憧れる。自分の有様に汚れがある。その汚さがひどいのが分かってくる。ここも汚れている、あそこも汚れている。いや、心が汚れているのだ。祈ろう。冬の寒い時に上掛け布団を少なくしたり、睡眠時間を短くしたりしました。その頃、お酒を飲んでいました。教会の近くに女将さんのいる飲み屋がありました。休みの日はつい、飲んでしまいました。
ある時尊敬する神父さんに聞きました。砂漠に行ったことがありますか。その神父さんは、以前にシャルル・ド・フーコー神父の本を翻訳していたのです。
シャルル・ド・フーコーは小さい兄弟会という修道会を作られた神父さんです。(2022年に列聖されました。)砂漠の中に住んだ。その土地はイスラム社会の場。福音は兄弟のつながりです。宣教のもとはつながりです。フーコー神父はしかし訪ねてくれる人に心からもてなしをする。58歳の時暗殺されますが、生きるはつながる喜び、神様につながる喜び、人とつながる喜びです。
わたしの尊敬する神父さんは言いました。「少し砂漠にいたよ。砂の中に生活する。それだけだ。」そして言います。「ここが砂漠だと思えばいい。」わたしは「あっ」と思いました。わたしは純粋な生活を求める。純粋になる、純粋にしてくれるものを外に求めている。そうではないのだ。この生活の中で静けさの中に入るのです。この生活の中に神様の息吹を知るのです。今ある生活の中で大きな力とつながりを作って行くのではないでしょうか。
完全な者になる。
完全とは、そのものの精一杯の姿です。人の完全な姿とはどのようなものでしょうか。天の父のように、すべてを知り、すべての命をその手に納め、善悪を超える力を持つことですか。神様は言われました。わたしはあなたを小さく、弱い者として造りました。しかし、心を与えました。それは感謝する心、自然のため、人のために働く心、命を喜ぶ心です。あなたは支えられて生きている。それを知らなければいけません。そして、自然のため、人のために働くのです。人のために祈りなさい。出来事に感謝しなさい。
小さい自分が、弱い自分が大きくなってゆく、強くなってゆく、その歩みを続けて行く姿が「完全な者」です。「完全な者」になるために歩き続けて行きます。