四旬節第1主日A 創世記2・7-9,3・1-7 ローマ5・12-19 マタイ4・1-11 23-2-26
今日、創世記が読まれました。 『神様は人を造られた。土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れた。こうして人は生きるものとなった。』 四旬節、自分の小ささを、自分の弱さを見つめなさい。神様のみ心を深く見つめなさい。創世記、人間の出発を見つめ思い起こすのです。 『人は生きるものとなりました。神様は東の方にエデンの園を設、人をそこに置かれました。』 神様、何故、人のために特別なところを定められたのですか。 神様が造られたものは全てよいもの。大地は命を育てる土地、草木が茂り、動物が住むところではないですか。
神様は言われると思います。 アダム、エバ、ここはあなたたちの住む場所です。あなたたちがここで生きるのです。アダムとエバは自分の場所を持ったのです。与えられた世界を喜びなさい。木々が茂る。花が咲く、果実が実る、野菜が取れる、良いもので満たされている。エデンがあなたのいるところですよ。
よく引越しをする人がいます。会社をすぐにやめる人がいます。そこに落ち着かないのでしょうか。居心地が悪いのでしょうか。そこに自分の場所がないのでしょうか。
自分のいる場所を、家庭を、仲間を大切にしたいと思います。
神様は蛇を造られました。蛇は野の生きるもののうちで一番賢いもの。蛇は知識にあふれている。しかし、人間は小さい者、弱い者として造られました。
神様、何故、このような蛇を造られたのですか。知識の集積である蛇が何も知らない女に迫ります。「園のどの木から食べてはいけないなどと言われたのですか。」「わたしたちは園の木の果実は食べてもよいのです。園の中央に生えている木の果実だけは食べてはいけない。触れてもいけない、死んではいけないからと神様はおっしゃいました。」「決して死ぬことはない。それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者になることを神はご存じなのだ。」
園の中央に命の木、善悪の木を置かれた。
何故、神様は園の中央に命の木、善悪の木を置いたのですか。
命の木を置いた。命は神様の神秘のうちにある。神様からの神秘の現象。神秘の働き。
木を置かれたのはそれを示しているのではないでしょうか。命の木を食べると、聖霊が注がれ食べた者の命が震える。神様からの命の本質触れるのではないでしょうか。
生きる命の喜びがその中に動いている。その世界はどこまでも広い。命の木を置いたのは命
は神様のうちにあるということを木によって示したのではないかと思います。
善悪の木を置いた。善悪の知識、いや、善悪の知恵は神様のもとにあるということを示しているのではないでしょうか。善悪の木を食べたら、善悪を知る者になるのか。知る者?
善悪の判断は善悪の心を持っていなければ出来ないと思います。善悪の知識を持っていても、善悪の心を持つことが出来ない。善悪は神様のみ心です。善悪の木を食べたい、それは善悪を知っているという評価。権威の力です。その人が善悪を判断するのです。律法を知っているという評価です。善悪は神様のみ心のうちにあるのです。
女は命の木の実を食べた。一緒にいた男にも渡した。二人は食べた。その時、二人の目は開き自分たちが裸であることを知った。恥ずかしくなったのです。
この時から、自分たちの行い、人の行いを善悪の目で見てしまうようになったのです。
良い悪い、能力があるか、ないか、豊かか、貧しいか―それが本当の善悪ですか。
今日は創世記に心が留まってしまいました。
イエス様の荒れ野の試練は次の機会に話したいと思います。
神様のみ心を心に留めて、神様への道を歩んでゆきたいと思います。