四旬節第2主日A 創世記12・1-4a Ⅱテモテ1・8b-10 マタイ17・1-9 23-3-5
今日、創世記12章が読まれました。神様はアブラムに声をかけられました。この部分は洗礼入門講座でいつも話します。 ここ創世記12章1節からイスラエルの出来事になって行くのです。1章から11章は、地球の上にこのような出来事が起こった、世界にこのような出来事が起こったという、神様の業が書き記されているのです。そして、神様は全てのものをご覧になり、み心を行うためにアブラムを選らばれたのです。
アブラム、あなたはわたしが示す地に行きなさい。すべての民の祝福の源となるのです。
アブラム一族はカナンに向かって歩み始めます。祝福された道、いや、かえってむしろ数多くの困難な事にぶち当たりますが、神様の思いの通りに歩みたい、歩みます。そして、祝福の源となる。 これがアブラハムの出発です。神様の新しい出発だと思います。
入門講座で言います。 アブラムが神様の思いの通り、父の家から離れて神様の道を歩みました。アブラハムに新しい世界が始まりました。洗礼は新しい世界に向かって歩むことです。洗礼はキリストと出会う、もっと近くに出会うことです。キリストは全てのものの祝福の源、命の喜びです。キリストが語られた世界に入るのです。キリストの道を歩む、キリストの中に入って行くのです。 洗礼を受けます。自分が出発するのです。
困難の事がたくさんあります。
①自分に問います、毎日の生活を楽しんでいるだろうか。目的をもって生きる。
②いやな事をされても、穏やかに、そのまま受けえ取ることが出来ますか。
③人が助けを求めている。助けてほしいと聞いた時、すぐに手を差し伸べられますか。
④助けを求めている人に出会う。人と出会いなさい。語り合えればいい。隣人に出会った。隣人のために手助け出来ますか。
そして言われます。⑤自分を見つめる時間を作りなさい。⑥神様を思う時間を作りなさい。
洗礼の道を歩みます。わたしもイエスの弟子になります。
イエスは弟子たちに打ち明け始められました。
わたしは必ずエルサレムに行って長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている。そして、はっきりと言われました。自分の心の考えで、人の集まりの中に入るのではない。自分の考えで人の手助けをするのではない。神様の事を思い、神様のことばに従いなさい。 弟子たちはよく理解できない。イエスに従いたい、しかし、イエスは殺されるのですか。 また、イエスは静かに、重々しく言われるのです。 わたしに従いたい者は自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい。
6日の後、イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登られた。頂上に着いた。イエスは静かに頭を上に向けられる。弟子たちはイエスを見つめる。イエスの姿が変わった。顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。モーセとエリヤが現れ、イエスと語っている。弟子たちはただその中に、その空気に巻き込まれている。ペトロは思わず、イエスに向かって叫ぶ。「お望みでしたら、わたしはここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、もう一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
その時、光り輝く雲が彼らを覆った。雲の中から声が聞こえた。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの。これに聞け。」 弟子たちは顔を伏せたままです。イエスは三人の弟子に手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」顔をあげると、イエスのほかには誰もいなかった。
一同が山を下りる時、イエスは言われた。「人の子が復活するまで、今見たことを誰にも話してはならない。」
ペトロ、ヤコブ、ヨハネは6日前のイエスの言葉がまだ分からない。エルサレムに行くのは凱旋の証し。イエスが王としてエルサレムに君臨する。神様の栄光を現す姿だと思っていたのです。しかし、イエスの言葉は違った。わたしはエルサレムで殺される。
イエスはこのご変容によって、この三人にこの世を超える姿を見せたのでしょうか。
わたしはこの世の命を超える命のうちにいる。モーセ地語り合う、エリヤと語り合う。
ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、わたしの姿を見たか。
イエスは言われます。この出来事は人の子が復活するまで誰にも言ってはいけない。
この世の命を超える命がある、それを信じるか。
この世の命を超える命がある、それは語っても聞く人の心に入らない。
ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、お前たちはわたしの復活の姿を見たのです。
その日、あなたがたはエルサレムでわたしの殺される姿を見る。
しかし、殺される苦しみを超える命があることを知ってほしい。
四旬節に思います。苦しみを考えます。
自分が与える者になるような出来事に出会い、犠牲を払う者となりますように。