• 四旬節第3主日A                           23—3-12

      出エジプト17・3-7 ローマ5・1-2,5-8 ヨハネ4・5-15,19b-26,39a、40-42

     イエスはサマリアのシカルに来られた。そこにヤコブの井戸がある、イエスは旅に疲れてそこに腰をおろされました。サマリアの女の人が水を汲みに来た。イエスはその女の人に言われた「水を飲ませてください。」サマリアの女の人は言う。何故ユダヤ人のあなたがサマリアの女に水を飲ませてほしいと頼むのですか。ユダヤ人とサマリア人はお付き合いをしてはいけないのではないですか。 

    水は体を癒す飲み物。わたしたち動物、植物の体の70~80%は水で出来ている。水は神様からの大事な贈り物ではないか。水によってつながっている、それは命のつながりではないか。水によってつながる、水を飲ませてくださいと言ったのが誰か、なにゆえの呼びかけかを考えたらいい。水によってつながる、その人が誰であるかを知ったら、あなたからその人に頼み、水のつながりに導いてくださいと言ったでしょう。そして、その人はあなたに生きた水を与えたでしょう。

    井戸の水を飲む者は必ず渇く。しかし、わたしの与える水を飲む者は決して渇かない。わたしの与える水はその人の中で泉となり、永遠の命に達する水が湧き出る。

    「その水をください。」

    あなたとつながりがあったらいい。あなたと心のつながりがあれば、その水はあなたのものになる。そして、わたしの言葉を心で聞き、心で受け取ってください。

    水はわたしの言葉。水はわたしの体です。水を飲むとはわたしを飲むことです。

    今日省略して読まなかったところに、こんな場面があります。 

    弟子たちが町に行って食べ物を買ってきました。イエスに言う。どうぞ、食事です。

    イエスは言われます。わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある。わたしの食べ物とはわたしをお遣わしになった方のみ心を行い,その業を成し遂げる。

    もし、わたしの食べ物をあなたが下さいと言って、わたしがそれを渡しても、その物は普通のものと何ら変わらない。わたしはこの食べ物に霊の力を与えるのです。だから、わたしの心のうちにこの食べ物を食べるのです。

    ふと、思いつきました。主の祈りに次のようなところがあります。

    「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちも人を赦します。」

    わたしたちの多くの人は今日も十分食べている。「日ごとの糧をお与えください」を日ごと食べているわたしたちが、食べられない人たちに奉仕できますようにと読み、祈りたいのです。

    サマリアの人たちはイエスのところに来た。イエスに出会った。イエスと時を過ごした。

    サマリアの人たちはイエスの姿に命を感じた。イエスの言葉に命に力を感じた。

    彼らは言う。イエスの噂でイエスをどんな人か知ったと言ってはならない。

    わたしたちがイエスを知ったのはイエスと出会って、姿を見て、イエスと語ったからである。