四旬節第4主日A                            23-3-19

サムエル上161b6-710-13a エフェソ58-14 ヨハネ916-613-1734-38 

 イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけた。弟子たちがイエスに尋ねます。「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親が罪を犯したからですか。」イエスは答えられます。

「神の業がこの人に現れるためである。わたしたちはわたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。わたしは、世にいる間、世の光である。」こう言ってから目の不自由な人に言われた。「シロアム(遣わされた者)の池に行き、水で洗ってもらいなさい。」

 

シロアムとは遣わされた者―イエスではないでしょうか。イエスこそ命の水の池です。イエスのもとに行き、出会う。そして、イエスの心の中に入りなさい、み言葉を受けとめ、業を受けとめ、そして、豊かな命の水で洗ってもらうのです。清められます。

 

その人はその通り行った。目が見えるようになった。その人は喜んだ、本当にうれしい出来事。見ていた人々も喜んだ。それ以上に、驚いた。神様のみ業が行われたと。

 

一方、ユダヤ人たちは目の見えない人が見えるようになったことを信じなかった。

「わたしはその方と出会いました。その方の心がわたしの中に入り、わたしは癒されたのです。」「その者は律法を守らないから、神のもとから来た者ではない。」「どうして罪ある人がこんなしるしを行うことが出来るのですか。あの方が罪人かどうかわたしには分かりません。ただ目が全く見えなかったわたしが、今、見えるようになったのです。あの方が神様のもとから来られたのでなければ、何も出来なかったはずです。」

「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか。」

 

ユダヤ人たちは彼を外に追い出した。

イエスは彼に出会うと「あなたは人の子を信じるか」と言われた。「律法を超えなければ、あなたにはその方は見えない。律法を超える、社会の律法の中にいてはその方は見えない。」

「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」「あなたはもうその方を見ている。」

 

律法の文字のうちに働く、神様の力によって、神様のみ心に出会える。また、歴史を通して働く律法の力の重さの中で、あなたはメシアが見えると言っている。だから、律法を十分守れば、それが神様への道、み心への道となるというのです。

しかし、あなたはわたしが全く見えていない。見えていないのに、見えていると言っている。だから、あなたたちの罪は残る。

 

イスラエルの王を選ぶ。

神様は言われた。エッサイの息子たちの中から、王となるべきものを見出した。エッサイは息子たちに預言者サムエルの前を通らせた。7人の兄弟は皆、容姿、背の高さ、そして教養は申し分がない。しかし、神様はこの中の誰をも選ばない。他に兄弟はいないのですか。末っ子が残っています。羊の番をしています。末っ子は外されていたのです。余計な者とされていた。イスラエルの王として選ぶとき、王は外されていた末っ子、余計な者、羊の世話をする者が選ばれた。その名はダビデです。神様、何故弱い、小さい者を王として選ばれたのですか。

 

目の見えない人に癒しを与える。暗闇に光を与える。

体の不自由な人が生まれる。体が不自由になってしまう。なぜ、このようなことが起こるのですか。これらはすべて、神の業が行われるためです。神の業が光となって喜びになるためです。体の不自由な人に光が与えられる。体の不自由な人、もっともっと神様を呼び求めたいと思います。