四旬節第5主日A エゼキエル37・12-14 ローマ8・8-11 ヨハネ1-45 23-3-26
イエスのところに、ラザロの姉妹から連絡が入った。「あなたの愛しておられる者が病気で苦しんでいます。」イエスは言われた。「その病気は死で終わるものではない。」
イエスは天の父の思いを感じ取っていたのだと思います。ラザロは死にます。しかし、イエスは、天の父、あなたによってラザロは「まことの命に出会う時」とするのです。
そして、その出来事によって神の子が栄光を受ける時と思うのです。
イエスは、ラザロの苦しい病気を知りながら、なお二日間同じところに滞在されました。
「わたしの友ラザロが眠っている。わたしは彼を起こしに行く。」 「主よ、眠っているのであれば助かるでしょう。」 「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのはあなた方にとって良かった。」
イエスがマルタ、マリアのところに来た。しかし、ラザロは墓に葬られて既に4日も経っていた。 マルタはイエスと会い、言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。」 イエスは言う。「あなたの兄弟は復活する。わたしは復活であり、命です。わたしを信じる者は死んでも生きる。このことを信じるか。」
マルタは言う。「はい、信じます。」
マルタの妹マリアはイエスと出会う。マリアはイエスを見るなり足元にひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、兄弟ラザロは死ななかったでしょう。」
マリアは泣いた。一緒にいたユダヤ人たちも泣いた。 皆の涙を見て、イエスは涙を流された。 イエスの心は騒いだ。 墓に行く。 イエスはラザロを思い起こし、イエスの心はまた、騒いだのです。 墓は洞穴にある。 石を取り除きなさい。 イエスは天を仰いで祈られた。 そして大声で叫ばれた。「ラザロ、出てきなさい。」 ラザロは全身を布で巻かれたまま出てきた。「ほどいてやって行かせなさい。」
天の父は言われたのだと思います。
イエス、わが子よ。あなたは人の心から離れてしまっていた。ラザロの死の時、皆と一緒にいなかったことを「良かった」と話した。そして、二日間も同じところに滞在した。
マルタと会った。マルタは言う。「もし、その時ここにいてくださっていたら…。」
イエスは言う。「死は悲しい別れではない。あなたの兄弟は復活する。死んでも生きる命を信じなさい。」 マルタは言います。「復活は信じます。あなたが神の子であると信じます。しかし、今、わたしたちはラザロを失ってしまったのです。」
あなたは、その時、マルタの心が分からない。マルタの心が響かない。
マルタを受けとめなさい。
マリアと会った。マリアはイエスの足元にひれ伏し、「主よ、もし、あなたがいてくださいましたら…。」と泣いた。一緒にいたユダヤ人たちも泣いた。
ラザロを思う人たちが激しく悲しんでいる。何を求めているのか。ラザロを失ったことを心と体で悲しんでいるのです。 イエスよ、あなたはその心を受け取った。
可愛がっている一人息子が20歳そこそこで、これから、イギリスの田舎の大学に留学したい、その準備をしているを聞いた母親は、心配と一緒に離れてしまう悲しさを思わないだろうか。留学に行ってしまう、行ったっきり、何も連絡も来ない、手紙も来ない事情を心配する、母親の心を思わないだろうか。
お嫁に行く娘が父さん、母さんに改まって挨拶に来る。父さんは喜びと同時に涙を流すのです。
「ラザロ、出てきなさい。」
一緒にいたい。一緒に歩きたい。つながって生きる命を味わう、味わいたいのです。
復活は神学ではない。一緒につながって生きることです。