復活節第2主日A 使徒言行録2・42-47 Ⅰペトロ1・3-9 ヨハネ20・19-31 23-4-16
イエス様が十字架につけられ、殺されてしまった。大っぴらに集まれない。仲間同士でひっそりと集まる。弟子たちはユダヤ人を恐れ、自分たちが集まっている家に鍵をかけるのです。語り合いたい。まこと、命、道を探し求める。イエスを冷静に求めたいのです。そして、世の支配する力を知ったのです。 イエスが来て真ん中に立ちました。そして言います。「シャローム、あなたがたに平和があるように。」平和:一人一人が自分の意見を言う。一人一人の意見を皆は聞くのです。俺も文句を言う。そいつの意見を聞いてやろう。意見とは文句、不平、不満です。不平、不満を言ことができる。それが平和です。何でも言えて、何でも聞く。平和の社会を作って行こう。この家にキリストが来た。皆キリストを見た。キリストの声を聞いた。皆はキリストを見て喜んだ。キリストはこの家を教会としたのです。家の中の者、皆がキリストに心を開く。キリストの言葉を聞く。「ここから、今から出発して新しい社会を作って行くのです。この家から外に出て行く、この家から出発しなさい。わたしの父がわたしをこの世に遣わしたように、平和を作って行くために、わたしはあなた方を遣わす。社会の中に出て行くのです。」
トマスはそこにいなかった。ほかの者がわたしたちはイエスを見た、イエスと出会ったと言ってもトマスは信じない。わたしは自分の目で見なければ信じない。死んだはずの人と出会うなんて信じない。その人を見て、触れなければ信じない。8日の後、弟子たちはまた、家に鍵のかかった家の中にいた。トマスもいた。イエスが来られた。イエスは言う。「あなたがたに平和があるように。」トマスに言う。「あなたはわたしが見えますか。あなたの指で、あなたの手でわたしに触れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答える。「わたしの主、わたしの神よ。」「見ないで信じる者は幸い。」
トマスは不信人だと教えられていました。でもわたしは言います。トマスは正直者です。
皆が言っているから信じるという。いや、それを信じるためには、納得できるものが欲しい。信じさせる物が欲しい。信じないから「つながりはない」のではないのです。
イエスは言われる。あなたはわたしと一緒に生活していたとき、わたしの何を見ていたのですか。わたしの言葉に何を感じていたのですか。わたしの語った命、善と悪、隣人、愛をどのように受け取ったのですか。わたしの語った言葉は消えることはありません。永遠に生きます。それを信じなさい。その時のあなたとわたしの関係は心のつながりです。命のつながりです。わたしが死を超えて生きているとは、わたしとのつながりの事ではないですか。わたしの言葉がわたしの死によって消えてしまったのはないですか。
トマスは自分の感覚を大事にしていたのだと思います。自分がそれを信じる。イエスは言われたのです。死を超える私を信じるとは、あなたの感覚を捨てえることです。あなたの感覚ではわたしを捉えることはできない。トマスはそれを知ったのだと思います。
「わが主、わが神。」わたしを捨てます。神様が、み言葉がわたしの中に入って来ました。
イエスはあなたにとって何ですか。イエスとあなたはどんな風につながっているのですか。真剣に、向かい合いなさいと言われたように思いました。