復活節第3主日A                                                        23-4-23(使徒言行録21422-33 ペトロ117-21 ルカ2413-35

 二人の弟子がエルサレムからエマオという村へ向かって歩いて行きます。エルサレムの

出来事を話し合っている。話に夢中である。時に、その話が議論になる。力ある預言者イエスの話です。 イエスはヨシュア。彼こそ新しい力あるヨシュア、イスラエルを導く王となる方だと思っていた。イエスが罪を問われ、死刑を宣告されたのです。イエスの罪は何なのか。イスラエルの裁判ではなく、ローマの裁判によって十字架の刑を言い渡されたのです。イエスはイスラエルの預言者。イスラエルはイエスを守らなければいけないのではないか。イスラエルの指導者たちがローマに協力したのではないか。いや、イスラエルがローマの力を借りてイエスを死刑にしたのではないか。今のイスラエルは神様の道を歩んでいない。我々は皆、イエスによるイスラエル統治を望んでいるのに、神様はイエスを守る力を与えていない。むしろ、イエスの苦しみ姿を見ておられたのではないか。イエスは木にかかって殺された。木にかけられて殺された者は呪われている律法にそう書かれている。神様はイエスがそのようなことになることを許したのか。 俺たちにとってイエスは何だったのか。

弟子の二人はイエスに期待していたのです。あの方こそイスラエルを解放してくださる。

 

ある男がその議論を聞きながら、一緒に歩き始めました。「何の話をしているのですか。」

「あなたはこの23日エルサレムで起こった出来事を知らないのですか。あなたはあんな大事件に無関心なのですか。」 弟子の2人は熱中している議論に我を忘れた。この男によって出来事を整理したのです。

男は言います。「あなたはイエスに出会ったのか。イエスの心を知ったのか。イエスを苦しめたのはローマではない。あなたたち自身だ。それを思い知りなさい。メシアはこういう苦しめを受けて栄光に入るはずではなかったか。預言者が語る救い、聖書全体の救いとは何かが示されている。救い主メシアは何かが示されている。 あなたたち、自分たちの思いを捨てなさい。あなたたちの思いがメシアを苦しめている。イエスが王となる。その通り。しかし、その王は人々を救うために、自らの体を使って働くのです。人々が悪ければ悪いほど、王が人々のために働くのです。体がボロボロになるまで働くのです。この王はあなた方が求めている王ではありません。あなたがたは自分の自由を求めている。自分の信仰の自由を求めている。信仰、自分のために祈るのではありません。隣人のために祈るのです。

 

二人はその男の人の話に聞き入ってしまう。一緒に夕食を取りましょう。その人はパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。そのとき2人の目が開き、その人がイエスだと分かった。

わたしは食べられるパンになった。

あなたも食べられるものになりなさい。人のための物となる。人のために自分を渡す。人のために働くのです。 イエスがわたしたちと共に歩かれたと知ったのです。

あなたの信仰はイエスを見つめていますか。