復活節第4主日A 23-4-30
使徒言行録 2・14a、36-41 Ⅰペトロ2・20b-25 ヨハネ10・1・10
今日は「世界召命祈願の日」です。
召命とは人は人のために働きなさいということです。
人の心の中に「聖なる心」がある、その心を忘れてはならない。
人を手助けするために働く、それは、人のために損をすることです。
ある人が神父になった話をしたいと思います。
人が成人し、社会人なる。社会人とは自分が収入を得て生活することです。ある青年が高校を卒業し、就職しました。給料をもらう。毎日残業の生活が始まりました。日本の給料は残業代が20時間30時間入った金額なのです。そして、その会社の仕事のやり方に慣れて行くのです。3,4年この会社のサラリーマンの生活を送っている。ふと思う、一生この会社にいるのか。この会社の人間関係の中で一生を終わって行くのか。その青年はその会社を辞めました。 自分はどこに行っても組織の中にいる。家族の中、学校の中、そして会社の中、その組織の中にいる。自分の考えはいつも閉じ込められていると思ったのです。自由になりたい。静かな家庭の一員であったり、学校の優等生となる、きちんとしたサラリーマンを辞めよう。一人になりたい。生活を変えよう。家族を離れて一人で生活することにしたのです。
東京を離れて、地方都市に就職したのです。会社を辞めた時、技術者になりたいと思った。会社を辞めて技術の勉強をした。技術者として地方都市に就職したのです。仕事をする。収入を得る。技術者、機械製図の図面屋になったのです。
一人で仕事を受ける。難しい。だから、設計事務所に籍を置いた。設計事務所を通して、仕事をもらったのです。
自分を守るものはなくなった。サラリーマンの生活ではなくなった。自由になった。
収入が自由になった。しかし、社会の景気がよい時には収入は多い。不景気な時にはやっとの収入になる。そうすると、これからの生活はどうなるのか。やはり収入が問題なのです。収入の金額によって自分が閉じ込められるのです。
人間はお金によって生活するのか。人生はお金の道か。お金が生活を決めるのです。住む家を決める。家の設備が決まってくる。食べ物も決まるのです。
お金は越える生活をしたい。あぁそうか…、修道者の生活があると思ったのです。
その青年の所属している主任神父さんに言いました。お金のない生活に入りたい。修道院に入れるでしょうか。 その当時、青年は修道院とは何かを知らなかったのです。修道者はお金のない生活を送っていると思っていました。
神父さんは言います。今、社会に必要なのは、社会を動かしてゆく力ではないか。お金のために働く社会から、人のために働く社会を目指すのです。
教会は「人が生きる社会」を作って行くのです。修道会はそのための集まりです。
修道会は必要です。しかし、今、必要なのは大司教さんの下で働く司祭です。司祭になってみませんか。 何も知らないその青年は神父になる目的を持ったのです。