復活節第6主日A 23-5-14
使徒言行録8・5-8,14-17 Ⅰペトロ3・15-18 ヨハネ14・15-21
ある人が語ります。こんな欠点のある、いや、欠点ばかりが目立つわたしは誰に愛されているのでしょうか。欠点があるから、欠点を見せないようにしている。みんなと同じように、引けを取らないように振舞っている。小学校の時の事を思い起こします。かけっこは速い方ではない。だから徒競走の時は全力で走った。ある時、他校との合同運動会がありました。4,5校の小学校が集まったのです。徒競走の最後にリレーがあります。リレーの選手を選ぶために体育の授業で徒競走をします。その人は必死に走りました。一等になりました。その人はリレー選手になりました。運動会でリレーの前に100mの徒競走があります。その人は3着でした。運動会、最後の競争リレーが始まります。選手が呼ばれます。行こうとすると、先生に呼ばれました。「君は出なくていい。」
何も出来ない。しかし、愛されたい。小学生、中学生、高校で先生に気に入られる生徒になるのです。勉強をきちんとする。良い成績をとる。きちんと制服を着る。おとなしくしている。 大人になったら、酒を飲まされる。飲めない体質かも知れない。飲まされていつも戻してしまう。それでも飲んだ。しかし、会社の中でお愛想が言えない。かえって、あいつは固い奴といわれる。
考えると、その人の人生は人を気にしながら生きている。人に合わせて生きる、無理に合わせて生きる。なかなかうまく行かない。ついにはお金が安心です。ひそかにお金を貯めるのです。お金が心の安心となります。少しぐらい評判が悪くても安心の振る舞いが出来る。
ふと思う。自分は愛されていない。愛そうと思っていない。自分は自分しか見ていない。
キリスト教に出会っています。キリスト教は貧しくなる宗教だと聞きました。
体も強くない。知識の能力がない。お金もない時、自分の何を誇るのですか。何を自慢できるのですか。 一番の宝物は知識ではない。体力でもない。機転が利くことでもない。最も大切なのは命です。自分の中に働いている命を愛するのです。命を感謝するのです。
わたしたちは命によって生きている。命は動いていなければ、命は働いていなければ生きていません。自然と、人とつながっていなければ命は動きません。 そして、命を授けてくださった神様に感謝するのです。 命が働くとは、目を開けると見える。自然が見える。人が見える。それが喜びです。耳を開く。聞こえる。周りの音が聞こえる。心静かにすると、細い音が、緩やかな音が聞こえる。口を開く。語りかけることが出来る。今この時を味わう。この時は命が溢れている。自然がある、人がいる、そしてわたしがいる。そのすべてが命の働きです。命の働きは動物、植物だけではありません。動けないもの、語らない者、そこにあるものも命を持っている。そこに、その形をもって「ある」、その姿が命です。時間と場所を持つ、それが命です。
自分が自分を受けとめたらいい。馬鹿にされていると思ったら、その苦しさを正直に受け止める。あん畜生と思い、悲しみがあればそれも受けとめたらいい。そしてその苦しみに、悲しみに立ち向かったらいい。そしてその相手を受けとめることが出来るようになったらいい。受けとめたくないは自分を守るためのものになっている。 自分の何を守る。 まだ自分を偉い者のように作って行きたいのか。
一緒に歩きましょう。その人は言われた。今はもう、自分の見栄のために苦しむ、悲しむのではなく、人の苦しみ、悲しみを背負って歩けたらいい。その人の手助けとなったらいい。その人と一緒にいると心が揺らぐ。わたしたちに反対する人たちの迫害があっても、それを受けとめる。そして、その人たちの心も受けとめるのです。
イエスは言われます。 わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。
掟とは命令ですか。わたしの掟とはわたしの「心立て」です。「心配り」です。公にしたいわたしの取りきめです。わたしの心の取りきめがあなたの中に入り、決まりとなったらいい。
あなたがたは一人で歩くのではありません。わたしといつも一緒に歩くのです。
わたしはいなくなる。世の人はわたしを見ない。しかし、あなたがたはわたしを見る。
なぜなら、父は聖霊を送ってくださるからです。聖霊は真理の命、命の力の霊です。聖霊によってあなたがたはわたしを見ることが出来るのです。それ以上にあなたがたのうちに聖霊が入り、わたしも聖霊の中にいるのです。いや、天の父も聖霊の中にいます。だから、聖霊の中にいるあなたがたはわたしと結ばれています。そして、わたしを見つめるとわたしの中に父を見るのです。父とわたしは一つです。
わたしを愛する人はわたしの掟を守る。
わたしを愛する人は父に愛される。
そして、わたしはわたしを愛する人にわたし自身を現す。