• キリストの聖体A                             23-6-11

          [申命記8・2-3,14b-16a Ⅰコリント10・16-17 ヨハネ6・51-58]

     今日は特にイエス様の御体を思い、深く心に留めたいと思います。

    イエス様はヨハネから洗礼を受けました。喜びの洗礼の後、イエス様は悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれました。 

     

    なぜ、神様はイエス様を荒れ野に導かれたのですか。

    「イエス、お前は人の世界に生きるのです。人を十分知りなさい。」

    「わたしは人として生きてきました。人を良く知っています。」

    「イエス、お前は人の良いところ、悪いところをよく知っている。お前は人のよき友として生きることが出来る。しかし、お前は人を知らない。お前はその人を知識によって、自分の経験によって知っている。しかし、お前はその人の苦しみを知らない。お金がないから食事が出来ない、その人の空腹のつらさがある。修業の断食ではない、食べたいのに食べられない。それも、2日、3日にわたるその苦しみを知らない。お前はお前の体によって人を知るのです。」

    「イエス、お前は恐怖を知らない。お前は命の恐怖にさらされることがなかった。身近に迫る死の恐ろしさがどれ程のものか、人は恐怖におびえる。お前は味わったことがない。お前は体で恐怖を知るのです。」

    「お前は欲求の強さが人をどれほど動かすかを知らない。欲求が人を動かす。全世界が自分のものになる、国々の繁栄さえも全部自分のものになると言われたら、本当にその出来事が実現すればと思うと、強い欲求が起きてくる。人は何を抑えても、善悪の掟を知っていても、欲求に従ってしまう。人はそれに負けてしまう。その弱さを知りなさい。」

    「イエス、お前は人を全く知らない。荒れ野で命とは何かを自分の身に受けとりなさい。人を襲う悪の力をあなた自身の身で受けとめなさい。身体の苦しさを味わいなさい。」

    「イエス、あなたは人から来る悪とあなたの体で戦いなさい。悪の中に入って行きなさい。あなたは人。あなたは善のため、悪のために人の中に入って行くのです。」

    深夜、イエス様はゲッセマネで祈っています。天の父はイエス様に呼び掛ける。「わたしの与えるこの杯を飲みなさい。」「この杯は何ですか。」「すべての人々の罪の飲み物です。それを飲み干してほしい。」「わたしにはその杯は重すぎます。その杯を取り除けてください。」「あなたはわたしの子。父さんに従順になってほしい。」「はい。」

    お前はユダヤの王か。反乱の首謀者か。ピラトはイエス様を鞭打ってから十字架につけるため引き渡したのです。イエス様は総督官邸に引いて行かれ、紫の衣を着せられ、茨の冠をかぶせられました。何度も葦の棒で頭を叩き唾を吐きかけられました。それから、十字架を担がされて、ゴルゴタへ向かいました。道中、三度倒れました。そして、ついに、十字架につけられたのです。

    イエス様はその一つ一つの行いを受けとめました。イエス様はこのように人と戦ったのです。

    神様は、イエス様はわたしたちに向かって言われます。わたしに向かって来なさい。わたしに不満がある。不満を堂々と語りなさい。遠慮しないで立ち向かって来なさい。イエス様と相撲をする、イエス様と柔道をする、剣道をする、まことの勝負をするのです。心と心をぶつけ合う。体と体をぶつけ合って、汗を流し、耐えて、涙を流して、キリストを知るのです。キリストが自分の中にいる事を知るのです。キリストは静かに自分の心の中におられるのですか、そうではない。一緒に戦って、苦しんで、悲しんで、一緒になるのです。

    わたしを食べなさい、わたしを飲みなさいとはそう言う事ではないかと思うのです。

    今日、わたしたちはキリストの体をいただきます。新しい命に生きておられるイエス様は、自分の体をご自分のパンとされたのです。

    一緒に歩きましょう。一緒に食事をしましょう。一緒に戦いましょう。一緒に手伝います。一緒に祈ります。イエス様と一緒にイエス様の道を歩みます。

    今日からご聖体を受けるベネディクト飯塚祐斗(いいづか ひろと)君、

    初聖体おめでとうございます。

    今日から毎日曜日ご聖体を受けます。ご聖体が、キリストが祐斗君の体の中に入ります。

    キリストに教えられ、善いことが出来ますように!