• 年間第14主日A ゼカリア9・9-10 ローマ8・9,11-13 マタイ11・25-30   23-7-9

     神様に従うとは律法に従うことですか? それなら、律法を全く知らない幼子は苦しくて仕方ありません。幼子とは難しいことを知らない民衆の事のようです。しかし、神様のみ心は知恵ある者や賢い者より幼子の心によく響きます。イエス様は言われます。律法とは文字による規則ではない、神様のみ心がまことの律法です。律法は命への道です。愛の道です。

    これらのことを知恵ある者や賢い者は隠して、幼子のような者にお示しになりました。

    これらのこととは何ですか。神様の出来事ではないでしょうか、神様からのすべての出来事だと思うのです。例えば、自然の有様です。幼子は自然にいつも発見があります。あそこに滝があるよ。水がどんどん流れ落ちてくる。虹が浮かんでいる。その光景が、その音が心に響くよ。夕方になれば、赤とんぼが仲間と一緒に飛んでくる。夕焼けが見事だ。ザリガニが家の前の「どぶ」で取れるよ。 幼子、民衆は自然の姿に心をときめかすのです。知恵ある者は賢い者は自然に出会おうとしないのではないでしょうか。知恵ある者や賢い者は見て感動するよりも耳で聞いて驚く。見に行かない、遠いところで自然の変化を考えるのです。そして、自然の変化を見た時、人にどのように影響を与えるかを考えるのです。

    民衆は心で感動するもの、知恵ある者、賢い者は家の中で、実物を読む、考える者なのです。

    生活の中で、あの人にこんな苦しいことが起こった。あんな悲しいことが起こった。あんな理不尽を怒っている。疲れるほど働かされ賃金をくれない。すぐにみんなは知ってしまう。

    仲間が寄って来て、集まって来て、一緒に悲しむ、一緒に怒る、不満をぶつけるのです。知恵ある人は、賢い人は静かに前に座って、状況を調べるのです。社会の事を考え、結局何もしないのです。知恵ある人、賢い人は感情がない、出来事を心が受けとめないのですか。

    幼子は父さん、母さんの教えを心に留めます。

    貧しい人は幸いです。 自分のものを手助けのために与えているのです。自分の物が多ければ多いほどその人の必要に応じられる。手助けしようとした人たちは貧しくなってしまうのです。だから貧しい人は幸いなのです。

    疲れた人は幸いです。働き続けて疲れてしまったからです。疲れた人も手助けのために働いたのでしょう。疲れた人にご苦労さんと言ってやりたいね。

    重荷を負う人も幸いです。何の、誰の重荷でしょうか。体の不自由な人が背負っている苦労、出来ない事をその人に委ねてしまう。抑圧された人の解放のために働くことです。 

    イエスは言います。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。

    その者たちと一緒に過ごします。十分、静かな時を持ったらいい。そして、聞く者になるのです。その人の心を語らせるのです。 イエス様と語り合う者になるのです。労働を語り合ったらいい。重荷を語り合ったらいい。

    わたしの中に入り、わたしに学びなさい。

    あなたと共に、平和のために、苦しい道、悲しい道を歩むことが出来ますように。