年間第15主日A イザヤ35・10-11 ローマ8・18-23 マタイ13・1-23 23―7-16
イエスは湖のほとりに立っていた。大勢の群衆がイエスを見つけそばに集まってきた。イエスは舟に乗って群衆を見た。湖は社会です。イエスのもとに集まった民衆はわたしたちです。イエスの話を聞きたい。イエスと知り合いになりたい。病を持っているものは、特に、イエスによって癒されたい。イエスはみんなを見つめ、舟の中から話をされるのです。舟は教会です。「種を蒔くが種蒔きに出て行った。神様から種をもらっている。善いことをする力だ。手助けする力だ。種を蒔く、人と出会うために旅に出る。ある時は道端で語った。無駄話をするおじさんが来て、無駄話になってしまった。ある時は、石だらけで土地が少ないところで語った。屁理屈屋さんが話に入ってきた。心が全くつながらなかった。理屈じゃない。損得じゃない。善いことって心が動くことなんだ。理屈言ったら心がどこかに行ってしまう。また学問が盛んなところで話した。学術的に問われてわたしの心をふさいでしまった。よい絵を見たら感動して善いことを行えばいいのに。良い文学的な小説を読んだら、善いことを心に留めて善いことを行えばいいのに。善いことが違うのかなと思ってしまった。わたしの話を聞いてくれる人たちがいた。喜んで聞いてくれる。わたしの話が心にしみると言ってくれる。わたしの善いことがその人たちに響いている。貧しさを語った。苦しみを語った。手助けする心を語った。損することを語った。体の不自由な人とつながりを持つことを語った。一緒に生きるって苦しいことばかりかも知れないけど、その人と一緒にいて、その人が喜びを見つけたら、嬉しい。誰にも話せない人が心をちょっと開いて、話せるようになったらすごく嬉しい。人と出会いに行く。人と出会う。何よりも大切なのは、聞く人になることだ。つい話してしまう。知ってるつもりで話してしまう。イエス様は言われていた。教師になってはいけない。教師になったら、友達になれない。兄弟のつながりが持てない。わたしの心が皆の中に入っていった。良い土地に蒔かれた種が芽を出し、成長して、善い実を結んだらその喜びは何にも増してうれしい。
武器を持たない王様。
何も教えない教師。
一人で深く深く祈る神父。
宣教師になりましょう、種まく人になりましょうと呼びかけられています。