年間第16主日A 知恵12・13,16‐19 ローマ8・26-27 マタイ13・24-30 23-7-23
イエス様は天の国のたとえを話されます。ルカによる福音書にこうあります。『イエス様は目を上げ弟子たちを見上げて言われた。貧しい人々は幸いである。神の国(天の国)はあなた方のものである。』(ルカ6・29) 天の国:天の国には何があるのですか。どのような恵みのところですか。
天の国は命を本当に喜ぶところです。生き生きと生きる、生きる喜びである。そして、つながる喜びです。神様とつながっている喜び。人々とつながりあっている喜び。人の我儘のないところです。
天の国は神様のみ心の国。生きる喜びの国、生き生きと生きる命の喜びの国です。神様とつながっている安心。人とつながりあっている喜び、出会うすべての出来事の喜びです。天の国で出会った人の新しい発見。
あなた方は今、天の国のすばらしさを味わいながら、天の国に向かって歩いていますかとイエス様に問われているようです。人は皆、生まれながらに、天の国を求める心が与えられている。善いものを求める力が与えられているのです。自分一人だけでなく、一緒に喜ぼうという心を持っているのです。 今日イエス様は新しい天の国の話をなさいます。天の国は次のようにたとえられる。
ある人が善い種を蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いていった。芽が出て、実ってみると、毒麦が現れた。「善い麦を蒔いたのに毒麦が育っている。これはどういうことですか。」 「敵の仕業だ。」 「では行って、抜き集めておきましょうか。」 「両方とも育つままにしておきなさい。まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい。」
わたしたちは善いことを行った。善いことを語った。わたしたちは善い麦の種しか蒔かなかった。しかし、畑を見ると、毒麦が育っている。何故ですか。 種:善いことのつまった種。大地に蒔かれる。大地は栄養を与えて種を育てる。色々な栄養がある。優しさ、強さ、喜び、苦しみに耐える力、出会うことを喜ぶ心、好き嫌いをはっきりしたい心、嫌いだけれど、その人と一緒にいたい心。色々な栄養はその人を造ります。その人の心を造ってゆきます。堅物ではなく、余裕をもって心を作ってゆくのです。「選ぶ自由」の力を与えるのです。善いは善い事ばかりしか認めない。ちょっと悪いことで遊んでみたい。そんな自由な力を持ったのです。そんな力が成長して麦に育ってきた。悪いことを求める悪い麦だ。毒麦だ。今抜き取ろう。 しかし、主人は言われる。十分に育ってから抜き取りなさい。 悪い麦は何を求めているか。悪いその麦、悪いその人と出会ったらいい。その人の心を受け取ったらいい。その人のそばに行けたらいい。挨拶が出来ればいい。語り合えたらいい。心が結ばれたらいい。悪がある、その悪が消えたらいい。
種は自由を選んで育つのです。善い麦は自分と、周りと、戦って成長して行くのではないでしょうか。
善い麦は畑の中で、純粋に育つのではない、自分流の善い芽生えを作るのです。
善い麦が芽生え、成長して行く。自由のうちに。文字にあらわされた律法を守ることが善ではない。善を行いたい心のうちに、悪を超えるおおらかさのうちに、憐みのうちに、愛のうちに、善い麦となるのです。 1~2ミリの小さい種は何もできないと思ってしまっていた。その種は自由のうちに育った。善いものを求めた。天の国は善いものに力を与える。
自由は何のためですか。善い事のためではないですか。 刈り入れの時、激しい炎が迫ってくる。悪が焼かれます。正しい人々は父の国で、天の国で太陽のように輝きます。