年間第17主日A 23-7-30
列王記上3・5,7-12 ローマ8・28-30 マタイ13・44-52
イエスは天の国のたとえを話されます。天の国は想像の世界ではありません。神様がわたしたちに用意されておられる国です。この世界、この世を超える世界、この世を包む世界です。 この世は人の思い、欲求、情けに包まれているのではないでしょうか。人の世になっている。力の世界、欲の世界、強い者の世界になっている。だから、人の思いから離れなければ、人の欲求が十分に節制されなければ天の国は見えない。人の情の膜をどけなければ、神様のまことに出会えない。
畑に宝が隠されている。その畑と宝物を見つけた人は、そのまま隠しておき、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。 面白い「たとえ」だと思います。畑をいつも見ています。こんなものを収穫している。今時、収穫があるんだ。弟子たち、漁師たちがそんな事を思いつくのです。畑を知っている人たちは良い畑を知っています。畑の土地の豊かさ、陽射しの良さ、水はけの具合がいい。ある時、ある人は今見ている畑のすばらしさを知ったのです。この畑はもっとよい物が得られる。そして、その畑に宝が隠されていることを知ったのです。畑を見ていた。耕されている。見ていただけではただ理屈を言うだけの人。その畑を買う。その畑の生活をするのです。 イエス様と出会った。イエス様の話を聞いた。心が高鳴った。畑に宝ものを見つけた。それなら自分を売りなさい。自分の持っているものをすべて売りなさい。それが出発です。(自分の話をしてしまいますが、神学校に入る時、持っている物を全部処分しました。本がたくさんあった。苦労して、古本屋にもっていった。すると、こんなものはただでも受け取れないねと言われたのを覚えています。) 畑で働く。思う通り働くのです。宝物:太陽の陽射し、水の豊かさ、土地の地質、この畑は宝、光っているのです。そして、自分が光る者となった。
天の国は次のようにたとえられる。商人が善い真珠を探している。ずっと探している。なかなか見つからない。あった。善い真珠に出会った。これこそわたしが求めていたものだ。昔の人は言いました。「これこそ俺の命だ。」これを見つめていると、この物の持っている力がわたしの中に入ってくる。真珠は何千、何万のミクロの層によって出来ているそうです。その一つ一つの層は命の層だと聞きます。何千何万の層に巻かれて光る。太陽の光が真珠に当たり、真珠が輝き始める。真珠の光がその人の心の中に入って行く。その響きがその人の命を動かすのです。その人が真珠の光の心で人と語られたらいい。
イエスの言葉に真珠の響きを聞く。光の力がその人を動かすのではないでしょうか。
天の国。この世から旅立ちなさい、天の国の始まりはこの世の終わりですと言ってしまいます。今、天国に向かって歩くときです。天の国を思う時、子供たちが歌いながら、喜んで走り回る。体の不自由な人たちが笑顔で歌う。苦しみや、悲しみが喜びに代わる。おおらかさ、微笑みが浮かんできます。
この世は、湖の世界ですよ。網が湖に投げ降ろされると、魚がいっぱいになる。魚が岸に、引き揚げられ良い魚、悪い魚と選別される。イエス様は言われます。「分かりましたか。」
「はい、天の国に向かって歩み続けます。」