年間第19主日A 列王記上19・9a、11-13a ローマ9・1—5 マタイ14・22—33 23—8—13
イエスはヨハネの殉教を知った。ヘロデ王によって牢で首を切られたのです。ヨハネの殉教を聞いて、イエスは人里離れたところに退かれました。それでも、群衆はイエスを探し、求め、後を追います。イエスは大勢の群衆を見て憐れまれ、病人を癒されます。夕方になりました。弟子たちが言います。「群衆を解散させてください。そうすれば、群衆の皆が、一人一人食べ物を買いに行くでしょう。」「行かせることはない。あなた方が食べる物を与えなさい。」「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」「それをここに持ってきなさい。」そして、群衆を草の上に座らせるようにお命じになった。
イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを群衆に配った。群衆はそれを食べ満腹した。
それから、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せられ、言われます。「この舟に乗って、向こう岸に行きなさい。」 舟は教会です。そして、湖は社会。社会の波を受けながら、向こう岸に渡るのです。向こう岸はわたしたちの求める世界です。 弟子たちはイエスに従い、舟に乗り、静かに出発する。 イエスは一人、祈るために、山に登られた。 夜遅くなっている今。湖に、風が強くなり、舟が大きく揺れ始めている。弟子たちは緊張して、舟にしがみついている。 イエスが湖を見る、舟を見る。イエスは静かに、山から降り、強い風の中を、舟に向かって、湖の上を歩いて行く。弟子たちは揺れる舟につかまりながら、こちらに向かって歩いて来る、月に光る影を見て、「幽霊だ。」とおびえた。イエスは直ぐに彼らに声をかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
しかし、イエスの心にヨハネの殉教の姿があった。強く、厳しくイエスの心を打ったのです。よく言われてきました。預言者は迫害にあって苦しむ。時に、牢に入れられる。追放される。そして、命を奪われる。今、親しい、幼馴染の、信仰の友であったヨハネがヘロデ王に首を討たれた。
舟に乗せる弟子たちに言います。修道生活のような毎日を送っているあなたたちも今は、社会にいること、社会で生活していることを忘れてはいけない。舟に乗って、向こう岸に行きなさい。湖、この社会を渡り、厳しさを味わいなさい。
イエスは弟子たちを舟に乗せ、そして、その時に、群衆を解散させたのです。
群衆に問います。パンを十分食べた、満腹したあなた方、どんなパンを食べたのですか。空腹だったから食べた、体の飢えですか、心の飢えですか。あなた方が、イエスから与えられて食べたパンをしっかりと味わってほしいのです。
「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
飢えている。食べ物が欲しい。ここには食べ物はありません。わたしの食べ物を与えよう。イエスから与えられた食べ物は何ですか。
列王記は述べます。あなたの洞窟から出なさい。あなたの閉じた世界を解放しなさい。食べ物は外に出て行く力ではないでしょうか。あなたの世界は、あなたの知識、あなたの経験、あなたの深い祈り、あなたの深い聖書の読解力によって出来ている。それは閉じられた世界ではないでしょうか。外に出て、他を知る、自然を知る、人を知るのです。いや、他とつながる、自然とつながる、人とつながるのではないでしょうか。 水の中で呼びける言葉=「わたしだ。」 この言葉は神様が相手に呼びかける言葉なのです。:(神様)あなたの道は海の中にあり、あなたの通られる道は大水の中にある。(詩編77・20) そして、「わたしだ。」は自らを神としてあらわす言葉なのです。(出エジプト3・14)
真っ暗な夜の海に取り残されている。強風に、荒れている波に揺れている舟。その中にいる恐怖。幽霊に出会った不安。自分たちのいるところには安心がない、死と隣り合わせである。
「わたしだ。」=神様のうちにあるわたしだ。「安心しなさい。恐れることはない。」
イエスが群衆に与えられたパンは「わたしの心」です。イエスの憐みの心。持っていない者に与えられる励ましであり、温かさです。そのパンは体の力、心の力となるのです。
舟の中の弟子たちに与えられたイエスの言葉はこれぞ「いのちのパン」ではないでしょうか。
いのちの励ましとなる力、死を超える励ましの力です。夜の光です。冷えた心への温かさです。
「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
神に感謝。