年間第20主日A 3-8-20
イザヤ56・1,6—7 ローマ11・13-15,29-32 マタイ15・21-28
どのような生活を送りたいですか。ある若者たちは言います。野球が好きだ。野球をやって過ごせたらいい。野球の選手になりたい。水泳が好きだ、テニス、バスケット、そんなスポーツが好きだからスポーツマンになりたい。スポーツマンになってオリンピックに出られればいい。或いは歌手に
なりたい、映画俳優になりたい。ある若者は、学校の指導について行ける。だから、会社に入って普通に生活できればいいに。いい待遇のサラリーマンになって生活出来ればいい。
考えてくれ。大人になった生活は社会人の生活ではないか。自分の好きな事が出来る、自分の充実した世界、自分の満足する世界とは違った目を持ってほしいのだ。普通の生活を送る。えっ、何をするサラリーマンになるのですか。
ふと静かに思ってほしい。わたしたちは生きている。大人になって、社会の中で人生の旅をしているのではないですか。食べる、飲む、家を持つ。家庭を作る。子を持つ。その生活を送る。若者たち、その生活は、今の生活は父さんたち、母さんたちが作った生活の上に、そのまま乗っているのです。自分の知らない父さんたち、母さんたちが作った社会に住んでいるのです。あなたに本当に実力がなければ、あなたの存在は無視される社会です。プロのスポーツ選手になりたい、歌手になりたい、 映画俳優になりたい、自分の表現ではないですか。
人のために働きたい。自分が金持ちにならなくても、働いていてよかったと思える仕事を行ってゆきたい。そんな言葉が聞けたらいいと思うのです。社会を作っているのは出会ったことのない人たちなのです。
ある神父さんからこんな話を聞きました。洗礼を受ける子に星野富弘という人はの本を送っている。読んでみたらいい。その本は「かぎりなくやさしい花々」という本だ。その本をもらってさっそく読みました。 星野富弘さんは中学校の体育の先生でした。大学を卒業して中学校の先生になった。先生になって2か月後、放課後生徒と一緒に体育館で助走をつけて空中ジャンプ、空中回転をしていた時、そのままマットに落ちたのです。病院に入院し、首から下は動けなくなったのです。全部、手伝ってもらわなければ、何も出来ないのです。
星野富弘さんは9年間その病院で病床生活を送ったのです。その中でだんだん良くなってきた。入院して何年か後、口で筆をくわえ絵を描き、絵に詩を書くことが出来たのです。
星野富弘さんは自分の苦しみ、支えてもらっている喜び、気が付いていなかったふとした人からの思いやり、自分のわがままを十分に受け止めているのです。病院でふとしたことからプロテスタントの洗礼をうけました。 わたしが心に沁みた詩を1つ紹介したい。
「神様がたった一度だけ、この腕を動かしてくださるとしたら、母の肩をたたかせてもらおう。」
このような大病のうちにいる星野富弘さんが、キリストに出会わなかったら、自分を見ることが出来なかった。キリストを知って星野富弘さんは思ったのです。人の命は何ですか。人は何のために生きているのですか。幸せとは何ですか。
カナンの女はイエスに出会い、叫んだ。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています。」この女の娘は悪霊に苦しめられている。手を尽くしたけれど、一向に良くならない。イエスの名を聞いた。イエスには不思議な力があるという。イエスはイスラエルの預言者と聞いている。その人に頼もう。断られても、断られても、何度も頼もう。女の人はイエスに叫び続けながらついて来る。イエスは何もおっしゃらない。イエスはその女の人を見た。その女の人は自分の娘のことだけ心配している。ただ自分の願いが叶えられればいい。その女の人はわたしを利用しているだけである。「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない。」女は言う。「どうかお助けください。」
「子供たちのパンをとって子犬にやってはいけない。」
「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパンはいただきます。」
あなたはそれが分かったか。
人が癒しを求める。何のために癒しを求めるのか。自分の健康を保つためか。何ための体か。
この体は自分のために働く体ではない。わたしたちの体は神様から戴いたものです。
自然のために働きなさい。人のために働きなさい。
仲間の手助けをする体、仲間と一緒に生きるために働くのです。
パンに支えられる。パンを食べて仲間として生きる。
あなたはパンの尊さ、パンのありがたさが分かったか。
わたしの与えるこのパンを食べ、あなたも、あなたの子も隣人のために働くものとなるのです。
「主よ、どうかお助けください、」 「わたしの与えるパンをべなさい。」