年間第25主日A イザヤ556-9 フィリピ1・20-2427a マタイ20116         3-9-24

  イエス様はいつも言われます。天の国は次のようにたとえられる。天の国はいつもこの世の出来事に例えられるのです。そうか、天の国はこの世を覆っている、見えない、慈しみの国ではないかと思うのです。天の国はどこにあるのですか、と問われたら、今、あなたの目の前にあり、あなたの歩むずーと先にあると言えるのではないかと思うのです。

 

天の国は、ある家の主人が自分の思いのうちに建てたぶどう園の出来事です言われます。労働者を雇います。夜明けに労働者を雇うために出かけます。労働者に一日につき一デナリオン支払います。そう約束します。また、9時ごろ行く。広場に立っている人々がいる。「ぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を支払おう。」12時ごろ、3時ごろ、また 出て行きます。 5時ごろにも、また出て行って見ると、立っている人がいた。「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのですか。」「誰も雇ってくれないのです。」「あなたもぶどう園に行きなさい。」 

夕方になった。6時に仕事が終わります。「最後に来た者から始めて、最後に来た者まで賃金を支払ってやりなさい。」 5時ごろから来て働いた者が1デナリオン受け取った。最初に来た者たちが来て、もっと多くもらえるものだといたが、彼らも1デナリオンずつだった。受け取ると、主人に不平を言った。「この連中は1時間しか働きませんでした。わたしたちは、まる一日、暑い中を辛い思いをして働いたのです。何故、同じ扱いにするのですか。」「友よ、わたしは不当なことはしていない。あなたはわたしと一日1デナリオンの約束をしたではないか。わたしは最後の者にもあなたと同じように払ってやりたいのだ。自分のものを自分の思うとおりにしてはいけないか。」

  ずっと前ですが、ある教会の聖書勉強会でこの箇所を読んだのです。5,6人いたと思うのですが、その中にサラリーマンのお父さんが3人ほどいたと思います。彼らは言います。こんな主張は通りませんよ。1時間しか働かない人と、早朝から丸一日働いた人と同じ賃金である、そんなことは誰がみてもおかしい。こんなことがあったら、仕事をする人はいなくなってしまう。

 

仕事は何ですか。仕事は自分のお金を得るためにしている、自分の生活のためにしているのですか。自分の力は仕事をするためですか。自分の命は自分が生きるためのものなのですか。

 

天の国を作ってゆこう。 イエスと歩いて行こう。イエスは言われています。命の喜びは生活の喜びです。いのちは、生活は支えられている、支えているつながり、喜びです。仕事は生活、つながりです。仕事は支えている力です。 人のために働ければいい 昼になっても仕事がない、夕方になっても仕事がない。 5時にやっと仕事が見つかった。お父ちゃん、仕事があってよかったね。そんなにもらえたの。今日も夕食が食べられるね。雇い主の方が心をかけてくれたんだ。嬉しいね。

 

よけい働いた。あいつよりもうまく働けるように、要領よくなっている。ありがとう、働いてくれて感謝。みんなのために働いてくれた。遅く来た、働けた、一生懸命働いた。働いてくれて感謝。喜んで働いてくれて感謝。みんなに感謝。このぶどう園は善いものを、精一杯働いて作ってゆく。

 

与える者になってゆく。悪いことをやる者がいる。その人のために祈ろう。体が不自由な人がいるその人のために働こう。支えてくれてありがとう。支える者になりますように。