年間第27主日A イザヤ51-7 フィリピ46-9 マタイ2133-43            23-10-8

  神様は人に言われます。この大地で送っている生活を喜びなさい。この大地に動物が生活している。木々が茂っているではないか。すべての物が命を与えられ、生き生きと生きている。健やか日々が訪れている。人の住む世界は神様が造られた恵みの世界。憐み豊かな、慈しみの世界。

 

主人は肥沃な丘にぶどう園を作った。よく耕して石を除いた。酒舟を掘った。主人はぶどう園を農 

夫に貸して旅に出た。農夫たちはぶどう園の管理人となった。ぶどう園は労働者が集まり大いに仕事をする。 収穫の時が来た。主人は収穫を得るために、農夫たちのところへ僕たちを送った。

農夫たちは思います。ぶどう園の収穫は働いた者のものではないか。ぶどう園の収穫が主人のものというのか。そんなことはない、直接、働いている農夫のものではないか。収穫はわたしたちのものだ。 農夫たちは送られた僕たちを捕まえ、袋叩きし、一人を殺し、一人を石で撃ち殺した。主人はまた僕たちを送った。収穫を収めなさい。僕たちを前よりも多く送ったが同じ目に遭わせた。

 

主人は思います。農夫たちはわたしの造ったぶどう園が何であるか分かっていない。

わたしの求める労働とは何かが分かっていない。 お前たちのぶどう園は何のため、お前たちの収穫は何のためですか。 よく働く労働力は、よい収穫はあなたたちの生活のため、あなたたち農夫の収益のためではないですか。 わたしが言う、よく働くとは、善いものを、安く、皆に提供できるからではないですか。

 

「最後にわたしの息子を送ろう。わたしの息子とよく語りあってくれ。」農夫たちは主人の言葉を聞こうとしない。「息子が来た。あれは跡取りだ。捕まえて、ぶどう園の外に放り出して殺してしまえ。」

 

この農夫たちを主人はどうするでしょうか。 イエスは言われた。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。 これは、主のなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』

 

神様はわたしたちに驚くべきことを言われているのです。 働く、喜んで働きなさい。自分の生活のための働いているのですか。自分の生活、家庭のために、精一杯働いています。人の手助けのために働いたらいい。たくさん働いた。能率的に働いた。十分な時間働けた。 これはたくさん賃金をもらうためではなく、人の手助けとなるために働くことが出来たことを喜んでいるのです。

農夫は管理者の心を持っている。だから、労働の苦しさがよく分からない。一緒に働く喜びが分からない。管理の心を持ってしまう律法学者やファリサイ派の人、祭司になってはいけないと言われているようです。

 

もう一つ:「思い煩うのはやめなさい。」 思い煩っている。何を捨てたくないのですか。自分の思いでそれを求めているのですか、そのためにあるものを捨てたくない。本当に必要なものは何ですか。本当に必要なものだと知りながら、あるものを捨てたくないのですか。そして、祈ったらいいのです。心を動かすほど祈る、いや、自分の欲求を越すほど祈るのです。自分を捨てほど祈るのです。

こんなに損をしても、その人のためにそれを求めます。

 

自分を捨てたとき、平安を知るのだと思います。