年間第29主日A イザヤ45・1,4-6 Ⅰテサロニケ1・1-5b マタイ22・15-21 23-10-22
わたしたちは毎日、普通に生活をしています。気にも留めてないことを、厳しく問われると、ちょっと待ってくださいと言ってしまいます。 例えば、物価がこんなに上がっている。なのに、年金が下がることになる通知が来る。どうにかしてほしいと思いませんか。また、面と向かって、今の世界は平和ではない、あなたは平和のために何かしていますか。また、刑事事件を犯している人が、選挙によって国会議員になっている。おかしな民主主義ではないですか。静かに考えれば考えるほどおかしいなと思うことがたくさん出てきます。 わたしたちはおかしいこと、不思議なことを話したり、聞いたり出来る機会、場所があったらいいと思います。
イエスは預言者。預言者は人を導く方。人々は預言者に問います。安心して生きたい。この苦しみから逃れたい。この悲しみから救われたい。神様のみ言葉を聞かせてほしい。イエスの周りにいつも人々が集っている。 ある時、ファリサイ派の人々、ヘロデ派の人たちがイエスに問います。
「イエス様、あなたは真実な方です。真理に基づいて神様の道を教えておられる。誰もはばかることのない方です。一つ聞きたいのですが、皇帝に税金を支払うことは律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。律法のうちに、律法に忠実に生きることを神様は求めておられると思います。」 イエスは言われます。「あなた方の質問は人を惑わせる。」
内情を語りますと、ファリサイ派は納税に反対していました。しかし、現実路線を考えよう。納税は神様から課せられた試練、重荷だとして支払っていたのです。ヘロデ派はローマ帝国の支持によりヘロデ家の再興を期待する人たちです。ヘロデ派の人たちは支払っていました。
イエスは言われます。「税金に納めるお金を見せなさい。」 デナリオン銀貨を持ってきます。
「これは誰の肖像と銘か。」「皇帝のものです。」
「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
イエスも言われるのです。律法は大切です。しかし、律法は人のための行いではないのです。人のために律法を行っている、それは律法ではなく、法律ではないですか。律法は人のためを超えて、「神様の思いを行う」のです。
まず、正直でありなさいと言われているように思います。あなたの思うとおりにしたらいい。ほかの何かを考えずに、今、あなたの自然に従ったらいい。余計なことを考えずに本当にしたいことをする。正直に感謝する、正直に言う。でも、正直に言ったら叱られた。正直に欲しい、これもあれも欲しい。
でも、友だちのことを思って、正直にしたら損をした。 正直は我儘の世界ではないですか。自分が良ければいい。家庭のみんながうまく生きればいい。知り合いがうまく生きればいい。仲間がうまく生きればいい。正直は自分や自分の仲間が良く生きればいいという世界ではないでしょうか。
善い事は自分が良く生きることではないですよと言われます。自分が得をする世界ではない。友だちの事を思って損をした、それは、友が良くなればいいと思ったのです。
正直とは:みんなが善く生きればいいと思う心です。どれだけみんなのために努力したかということではないでしょうか。自分の欲しいものは自分の楽しみのためではなく、人の助けとなる物です。これも欲しい、あれも欲しい、それらは、それが助けを求める人たちの助けとなるからです。
わたしたちは神様から命をいただき、生きるものとなった。
生きる喜びを神様に返してゆきたいと思います。