年間第31主日A 23-11-5
マラキ1・14b-2・2b、8-10 Ⅰテサロニケ2・7b-9,13 マタイ23・1-12
イエスは言われます。律法学者やファリサイ派の人たちはモーセの座についている。 イエスは律法学者やファリサイ派の人たちの信仰を変わってほしいと思っていました。律法学者、ファリサイ派の人たちは聖書をよく知っている、律法を十分知っている、その知識のうちに人々に教えている。しかし、まことの信仰は、聖書に向き合うのではない、律法の世界に入るのではない、神様のみ心のうちに入るのだと言いたいのです。 しかし、言われます。彼らはモーセの座についている、彼らの言うことはすべて受け入れなさい。その忠告は守りなさい。しかし、彼らの行いは見倣ってはいけない。いうだけで実行しないからである。
神様は人を創造された。神様はわたしたちに命を注ぎ、我々は生きるものとなった。我々は神様の命を受け、この世に生まれ、成長してゆきました。そして、今、わたしたちは神様を知り、会堂を作り、祈りを知っています。会堂で祈りの場を持ち、心を清め、道を歩み続けます。律法学者やファリサイ派の人たちは神様のみ言葉を大切に、修道者のように生活しています。彼らはモーセの座についています。だから、律法学者やファリサイ派の人たちの言葉を素直に受け取り、行いなさい。しかし、彼らの行いは見倣ってはならない。彼らはモーセのように尊敬されたい。聖書を知っている、深く祈っている。その姿に重さがある。しかし、彼らは人々に重い言葉を言うが、それだけである。彼らは行うために指一本動かそうともしない。この社会やこの世界でなすべきことはたくさんある。それを、そのなすべきたくさんの事を、あなた方が行うのですと説教するのです。しかし、自分はそのために何一つしようとしない。「何故、しないのですか。」「わたしたちはあなた方の心となっているのです。働くのはあなたたちです。」「わたしたちは指導者として、全体を把握する。師は行わないのです。」「信仰とは祈りです、祈りながら行うのではありませんか。」
イエスはわたしたち言われます。「あなた方は先生になってはいけません。」祈りだけの人になってはいけない。教えるだけの人になってはいけない。「誰をも父と呼んではいけない。あなた方は教師と呼ばれてもいけない。父は天におられる方お一人、教師はキリスト一人だけである。 働きなさい。働いて祈りの力を知るのです。人と出会いなさい。自分の世界から出かけ、人と出会い、共に働いたらいい。み言葉のうちに働く者となった者は幸い。
律法学者、ファリサイ派の人たちはみ言葉のうちにあるという。聖書はみ言葉の書です。すべての出来事が示されている。聖書は聖霊の力で書かれている。律法学者、ファリサイ派の人たち、どんなにすばらしい事が書かれていても、それを食べ、それを飲んで腹を満たすことはできないのです。