王であるキリストA 23-11-26
エゼキエル34・11-2,15-17 Ⅰコリント15・20-26,28 マタイ25・31-46
人の子が栄光に輝いて、その栄光の座に着く。すべての国の民がその前に集められる。
神様の決定的な裁きの日が来たのです。イエスはその日の出来事を語ります。
人々を右と左に分けられました。右側にいる人たちに言われます。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、あなたたちのために用意されている国を受け継ぎなさい。喜びの国、神のみ心の国です。あなたたちはわたしのために善い事をしてくれました。」「わたしたちはあなたのためには何もしていません。」「はっきり言っておく。あなたたちは飢えている人、喉が渇いている人に食べ物、飲み物を差し上げた。病人を訪問してくれた、苦しんでいる人をいたわってくれた。悲しみに嘆いている人に慰めを与えてくれた。ありがとう。あなたたちがこの最も小さい者の一人にしてくれたことはわたしにしてくれたことなのです。」 左側にいる人たちに言う。「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある火に入れ。お前たちは、わたしが求めてもわたしに何もしてくれなかった。」「いえ、主よ。わたしたちはあなたが病気の時には直ぐ、お見舞い行きました。食物が必要な時には、すぐ用意しました。必要と言ってくれれば、何でもする用意があります。」「お前たちは苦しんでいる人たちが見えていない。飢えている人たち、飲み物を求めている人たちが見えない。病人には見向きもしない、牢獄に入っている人たちのことなど思ってもみない。この小さい者にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」
教会に、時には、食べていない人が来ます。この教会には来ませんが、お昼に来たときは、ご飯を用意しました。インスタントの味噌汁や、インスタントのカレーもあります。お金は上げてはいけないと言われています。お金はすぐ自動販売機でお酒に代わるからです。母が死んだ、でも帰る金がない。助けてくれないかと言われたことがあります。ごまかされてはいけないと注意しながら、だったら駅に行こうと誘いました。車で駅に行きました。広島まで新幹線と乗車券を買いました。切符をわたし、弁当を買って駅に入って行きました。外に出て、駅を見ています。払い戻しをしたら叱ってやろう。車の中でじっと、5分ぐらい待ちました。やっぱり出てきました。車を降りて駅まで行きましたが、間に合わなかった。そんな出来事を思い出しました。
以前、横浜教区の浜尾司教さんが話しておられました。司教が病気だというと、病室が花でいっぱいになる。次々と訪問者がいる。でも、付き合いのないおじさんが病気でも、誰も来てくれない。病人のお見舞いとは何なのですか。
神父さんが入院した時の病室は教えないそうです。人気のある神父さんのところは、こんな事を言ってはいけないのでしょうが、訪問者が多くてゆっくり出来ないのだそうです。
貧しい人―今、わたしたちがいるところには、貧しい人に出会うことはあまりないと思います。知らない人が入って、来て食べ物をくださいということはない。その人が平安を乱すと注意を受けてしまう。今いる所から、出て行かなけれなければ貧し人に会えないと思います。ユニセフが、今、テレビ宣伝していますが、食べ物がない子供がいる。病院に薬がない。これが現実です。
お父さん、お母さんと一緒にご飯を食べたい。貧しくても、誰も助けてくれない。ゴミ山に入って売れるものを探す。たくさん撮れればいい。それを売ってお金にする。何かおなかに入ればいい。
その社会があります。今そのような生活の人がいます。わたしたちが何か役に立てばいいと思うのです。 与える者になりなさい。損をする者になりなさい。 あなたの隣人は誰ですか。