待降節第1主日B                                         23-12-3

イザヤ6316-1719b642b-7 Ⅰコリント13-9 マルコ1333-37

 今日から待降節が始まります。 神様であるイエス様がお生まれになる。イエス様がわたしたちと共に生活なされる。その日が来る。その日を待ちます。心して待ちます。イエス様にお会いできますように。 今日読まれる聖書によって、ますます心が清められ、主に向かって開くことが出来ますように。

 

イザヤ書は言います。 主よ、あなたはわたしたちの父です。あなたによって命が与えられた。わたしたちはあなたに支えられ生きている。あなたを呼び求める心を呼び覚ましてください。

こんな詩編があります。「神は来られる。天と地を呼び寄せ。民を裁かれる。」(詩編5034

神様が来られると聞くと、今迄、これは終末の時の出来事だなと思っていました。すべての人たちが神様の前に呼び集められる。裁きの時です。神様が来られる、この日、わたしたちは自分のこの目で神様の姿を見る。この耳で神様のみ言葉を聞くのです。

また、神様は言われます。わたしはわたしの子をあなたたちに送る。その子はわたしの姿。わたしの言葉を語る。わたしの業を行う。その子と出会いなさい。わたしと出会いなさい。

その日、天と地を呼び寄せる―天に大きな星を現された。その星は世界の変化を告げる星。そしわたしに言われます。神様の言葉であるこれを信じるか。イエスの行いは神様の行いか、これを信じるか。

 

イエスはわたしたちキリストに従う者に言われます。「いつでも、どんな所にいても目を覚ましていなさい。」 例えば、外に出て行く。今日どんな人と出会うか分からない。出会うその人の心がどのようなものか、何を求めて生活しているのか、何を幸いとしているか、分からない。だから、目を覚まして人と出会いなさい。その人をそのまま受け入れることが出来ますように。 自分を見つめる。あなたが今何を求めているか、どのような道を歩いているか。ふと、だらしなくなっていないか。 

主人が突然帰ってきて、あなたが眠っているのを見かけるかも知れない。

 

目を覚ましていなさいとは人を受け入れることではないでしょうか。人の言葉をそのまま受け入れる。人の悪をも受け入れる。―出会った人の悪も受け入れるのですか。いや、悪をも受け入れる大きな心を持てばいい。悪を認め、悪を受け入れるのではなく、悪を持った人を受け入れるのです。会話したらいい。心がつながれたらいい。 得をしようと思わない。損をする準備をするのです。その時、苦しんでいる人たちが見える。悲しんでいる人たちが見える。 おっとりとおおらかに過ごすのです。主と見つめていることです。

 

神様、救い主を待ち望む心を呼び覚ましてください。目を覚ます力を与えてください。 

わたしたちの「いのち」は何ですか。 出会うとは何ですか、別れとは何ですか。 

愛されたい。愛は、どのようなことがあっても、心と心は深く結ばれている。 

隣人を愛したい。自分の全部をもって愛したい。

目には見えない。つながりを深く感じる。出来事を見ている。いや、出来事が見えてくる。

自分が無くなった時に目が見るようになる。自我が亡くなった時にあなたの中に神様が生きる。

 

こんな話を見つけました。

子孫のために木を植える。

モンスーン期に入ろうかというころ、年老いた男が自宅の庭にあちこち穴を掘っていた。

隣家の者が聞いた。「何をしているのかね。」

 

「マンゴの木を植えるのさ」と答えた。

先祖返還者を現し愛華あらだよ。」

「この若木がつけるマンゴの実を食べようと期待しておいでなのかね。」

 

「いやそうじゃない。わしの寿命ではとても間に合わん。だが他の者たちがマンゴの実を楽しむことが出来るだろう。わしが今日までおいしく食べたマンゴは先祖が植え育てたものだと先日、思いいたったのだ。こうしてマンゴの木を植えるのは先祖への感謝を表したいからだよ。」 

「蛙の祈りA・デメロ神父著」