待降節第2主日B                                        2312-10 

[イザヤ401-59-11]

 苦しむ人たちに慰めの言葉をかけなさい。神様は言われているのです。祈りましょう。苦しみを深く受け入れ、苦しみを知り、苦しみから出発しよう。苦しみを見つめている者に聞きます。希望が見えますか。その時、主は言われます。咎は償われた。主に向かって出発するのです。

呼びかける声が聞こえる。主の道を歩みなさい。荒れ野を歩む、谷を歩む、険しい、狭い道を歩み続けるとき、主の栄光を見る。主は羊飼いとしてわたしたちを養われます。

苦しんでいる人は幸い。その人は今の社会の力を感じている。人々に、社会の求めている道を求めているのです。欲求のうちに歩みなさい。力のある者が欲求を満足させる事が出来る。力のないものも欲求の世界に入るのですか。社会に自分が造られるのではない。いのちのうちに生きる。いのちのうちに生きる力が社会を作っているのではないですか。自分を見つめる。主を見つめる。

 

[Ⅱペトロ38-14

 主の日が来る。主は盗人のように来ます。その日、天は激しい音を立てながら消え失せます。地は暴かれてしまいます。すべての物は滅びるのです。わたしたちは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。わたしたちは義の宿る新しい天と新しい地とを、神様の約束に従って待ち望んでいるのです。

 わたしたちに何が必要か考えるのです。目で見えるものは全て壊れる。見えるものを造られる方に出会うのです。自分の悪い心が燃えます。傷のない平和を歩いていると神様に認めていただけるように励むのです。

 

[マルコ11-8

 イエス・キリストはわたしたちにとって何ですか。イエスはまことの人、そして、まことの神です。

いや、あなたにとって、あなたの心にとってイエスは何ですか。マルコ福音書は、「イエスは福音の方だ」とおっしゃっているのだと思います。福音、いのちの喜びの実現です。いのちは神様から注がれた。イエスの姿は神様のいのちです。いのちは神様のみ心です。神様のみ言葉です。いのち、神様のみ心であると同時に神様のみ業です。

 

洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。

イエス、あなたをこの世に遣わす。あなたより先に使者を遣わしあなたの道を準備させよう。

 

ヨハネの宣教はユダヤ全土とエルサレムの人々の心に響いたのです。人々にとってヨハネの姿は大預言者エリヤ(BC859845)の姿だったのです。しかし、ヨハネは言われます。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

 

荒れ野にヨハネの言葉が響いている。イスラエルにとってこの時代は激動の時代です。人々は皆平安を求めている。会堂の集まりに神様の響きがない。今わたしたちの生きているこの時はまさしく荒れ野です。神様に向かって歩きましょう。あなた方が苦しい時にいるのではない。あなたがたは神様を求めていますか。神様の心を見つめていますか。律法を思い起こしなさい。律法のうちに神様と出会いなさい。心を清めるのです。悔い改めなさい。その心で人と問交わアりなさい。自然を見つめなさい。荒れ野に水が湧き上がってくる。いのちの水に生かされる。

ヨハネの言葉はイスラエルを越えユダヤ人全部に広がったのです。しかし、ヨハネは言う。わたしの後からわたしより優れた方がお見えになる。その方は誰ですか。

わたしたちもその方を待ちます。ヨハネは悔い改めによって洗礼が生きる。律法によって神様の道を歩むと言われる。その方の洗礼は聖霊によるとおっしゃる。

 

そうです。ヨハネによって、荒れ野に響く言葉、力強い言葉が語られた。イエスの言葉は、心の荒れ野に響く言葉です。あなたの心は、自然の荒れ野に飲み込まれてはいけない。あなたの心をいのちの水で満たしなさい。言葉はいのち。神様の言葉で満たしなさい。言葉は行い。心を行いなさい。そのように思うのです。

 

イエスの誕生を待ちます。もうちょっとずつ清くなりながらイエスを待ちます。